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第18話 聖女様、珍生物を事情聴取に参加させないでください

 リーネは捕らえられた。


 黒い布を外され、両手を拘束され、祈祷室の床に座らされている。


 右手には古い火傷の跡。


 指には、施療記録係が持つ銀の指輪。


 顔は青ざめている。


 だが、怯えているというより、悔しさに歪んでいた。


 アリアが剣を抜いたまま、彼女のすぐそばに立っている。


 司祭長は杖を構え、床に残った魔性の術式を封じていた。


 神官兵たちは祈祷室の入口と窓を固めている。


 そして俺は、リリアの腕の中にいた。


 動けない。


 いや、正確には動きたくない。


 動いたら体がどうなるか分からない。


 進化ゲージは百%。


 条件は未達。


 臨界安定。


 リリアとの接触で、かろうじて保っている状態だ。


 しかも、今さっき強制変質しかけた。


 俺の今日の業務内容は明らかに小動物の範囲を超えている。


 危険察知。


 結界補助。


 術式遮断。


 床下の魔性陣破壊。


 犯人捕縛のきっかけ作り。


 おかしい。


 俺は転生したばかりの低級魔物である。


 職務経歴書に書けることが増えすぎている。


 ステータス画面が浮かんだ。


---


進化ゲージ:100%


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:未達


現在状態:臨界安定


安定条件:保護対象との接触を維持


備考:安静を推奨します。


---


 安静。


 ようやくまともなことを言った。


 そうだ。


 俺には安静が必要だ。


 今すぐ毛布に包まれて、ミルクでも飲んで、何も考えずにぼんやりしたい。


 だが、周囲は完全に事件現場である。


 安静にできる空気ではない。


 リリアは俺を抱えたまま、リーネを見つめていた。


 その表情は悲しそうだった。


 怒っていないわけではないと思う。


 ただ、その怒りよりも先に、どうして、という気持ちがあるのだろう。


「リーネ」


 リリアが静かに呼んだ。


 リーネは顔を上げる。


 その目に、露骨な憎しみが浮かんだ。


「……その声で呼ばないでください」


 低い声だった。


 リリアの腕がわずかに強張る。


 俺の前足に、彼女の指先が触れていた。


 その震えが伝わってくる。


「私は、あなたに何かしましたか」


 リリアが尋ねた。


 責める声ではない。


 本当に分からない、という声だった。


 リーネは唇を歪めた。


「何もしていない?」


 笑う。


 乾いた笑いだった。


「そうでしょうね。聖女様は、何もしていない。何もしていないのに、全部持っている」


 空気が重くなる。


 アリアが眉を寄せた。


「質問に答えなさい。なぜ聖女様を狙った」


「狙った?」


 リーネはアリアを見る。


「違います。私は、正しい形に戻そうとしただけです」


 正しい形。


 嫌な言葉だ。


 こういう時に出てくる「正しい」は、だいたい本人にとって都合がいいだけのやつである。


 俺はリリアの腕の中で耳を伏せた。


「神殿は、聖女様ひとりのものではありません」


 リーネは言った。


「孤児院、貧民区、無償施療、食料配布。あなたがひとつ善行を増やすたびに、誰かの仕事が増える。誰かの予算が削られる。誰かが責任を背負う」


 リリアは黙って聞いていた。


 リーネの声は少しずつ熱を帯びていく。


「それでも皆、あなたには何も言わない。聖女様は優しいから。聖女様は正しいから。聖女様は人々に愛されているから」


 リーネの視線が鋭くなる。


「でも、その正しさの裏で疲れている人間には、誰も気づかない」


 俺は少しだけ耳を動かした。


 この言葉には、完全な嘘だけではないものが混ざっている気がした。


 リリアの善行。


 それに伴う負担。


 神殿の人手や予算の問題。


 司祭長も前に言っていた。


 善行にも費用がかかる、と。


 つまり、リーネの不満には根がある。


 だが、だからといって魔性具を使っていい理由にはならない。


 孤児院を危険に晒していい理由にもならない。


 リリアを狙っていい理由にもならない。


 まして俺を媒介扱いしていい理由にはならない。


「だから、魔性具を使ったのですか」


 リリアが言った。


「孤児院に危険を呼び込んで、神官長やエルドを陥れて、ミラを巻き込んで」


 リーネは一瞬、目を伏せた。


 だがすぐに顔を上げた。


「必要でした」


「必要?」


「あなたの正しさを止めるには、その正しさがどれほど危ういかを見せる必要があった」


 アリアの声が冷たくなる。


「子どもたちを危険に晒して?」


「死なせるつもりはありませんでした!」


 リーネが叫んだ。


 礼拝堂の空気が震える。


「黒牙鼠も、腐食鼠も、影尾鼠も、調整していました! 直接殺すほどの力はないように!」


 調整。


 俺はぞっとした。


 こいつ、本気で言っている。


 殺すほどではないからいい。


 直接死なせるつもりはなかったからいい。


 そう思っている。


 最悪だ。


 自分の中で線を引いて、その線の内側なら許されると思っている。


「それでも、怪我をする人はいました」


 リリアの声は静かだった。


「怖い思いをした人もいます」


「そうしなければ、誰も止まらなかった!」


 リーネは食いしばるように言う。


「あなたも、司祭長も、神官長も、みんな言葉では分かったふりをするだけ。負担を減らすと言いながら、結局あなたが望めば動く。あなたが悲しそうな顔をすれば、誰かが無理をする」


 リリアの顔がわずかに曇った。


 俺はリリアの指先に前足を押しつけた。


 違う。


 全部が違うとは言わない。


 リリアの善意が周囲に負担を生んでいる部分は、たぶんある。


 でも、それを正す方法は他にあったはずだ。


 魔性具ではなく。


 罠ではなく。


 誰かを犯人に仕立てることでもなく。


 リリアは俺の前足に触れたまま、小さく息を吸った。


「リーネ。あなたが不満を持っていたことには、気づけませんでした」


 リーネの表情が動く。


「気づけなかったことは、私の悪いところです」


「聖女様」


 アリアが制止するように言う。


 だがリリアは続けた。


「でも、あなたがしたことは間違っています」


 その声は柔らかい。


 しかし、はっきりしていた。


「孤児院の子どもたちを危険に晒したこと。神官長を陥れようとしたこと。エルド神官やミラを巻き込んだこと。ノアを道具のように扱おうとしたこと」


 リリアの目がリーネをまっすぐ見る。


「それは、許してはいけないことです」


 リーネが唇を震わせた。


「……結局、あなたはそうやって正しい側に立つ」


「はい」


 リリアは頷いた。


 逃げなかった。


「私は、正しい側に立ちたいです。でも、その正しさで誰かを押しつぶしていたなら、そこは変えます」


 リーネが目を見開く。


「変える……?」


「はい。神殿の施療体制も、孤児院支援の負担も、ちゃんと見直します。あなたが言ったことの中に、必要な指摘があるなら、それは聞きます」


 リリアの声が少しだけ低くなる。


「でも、それと罪は別です」


 空気が静まり返った。


 俺はリリアを見上げた。


 この子は甘い。


 でも、甘いだけじゃない。


 相手の言い分を聞く。


 自分の落ち度も認める。


 その上で、罪は罪だと言う。


 ふわふわしているようで、芯がある。


 俺の角を個性と呼びながら、こういうところは真っ直ぐだ。


 アリアも、少しだけリリアを見る目を変えた気がした。


 司祭長は静かに頷いている。


 リーネはしばらく黙っていた。


 そして、ぽつりと言った。


「……あなたが嫌いだった」


 その声は、さっきまでよりずっと小さかった。


「みんながあなたを見ていた。あなたのために動いていた。あなたの失敗さえ、優しさとして受け取った」


 リーネの顔が歪む。


「私は、何度も警告した。予算が足りない、人手が足りない、記録が追いつかない。けれど、誰も本気で聞かなかった。あなたが『お願いします』と言えば、全部通った」


「……ごめんなさい」


「謝らないで!」


 リーネが叫ぶ。


「そういうところが嫌だった! 謝れば、またあなたが優しい人になる!」


 リリアは口を閉じた。


 俺も少し胸が痛くなった。


 これは、リリアの優しさそのものを憎んでいる。


 たぶん、リーネ自身もそれが理不尽だと分かっている。


 でも、止められなかった。


 不満。


 嫉妬。


 疲労。


 正義感。


 被害者意識。


 いろんなものが混ざって、魔性具に手を伸ばした。


 俺はリーネを見た。


 危険察知は、もう強くは鳴っていない。


 彼女は捕らえられている。


 だが、嫌な気配はまだ少し残っている。


 リーネ本人からではなく、彼女の胸元。


 ローブの内側。


 俺は耳を立てた。


「きゅ……」


 アリアが即座に反応する。


「ノア?」


 俺はリーネの胸元を見る。


 アリアの目が鋭くなった。


「動くな」


 リーネの表情が一瞬だけ変わる。


 しまった、という顔。


 アリアが素早く彼女のローブを確認した。


 胸元に、小さな黒い石が縫い込まれていた。


 司祭長の顔が険しくなる。


「まだ持っていたか」


 リーネは歯を食いしばる。


「返して……!」


「これは何です」


 アリアが問う。


 リーネは答えない。


 しかし、俺の危険察知が震えた。


---


危険察知:中反応


対象:黒い石


危険度:中


備考:通信術式の残滓があります。


---


 通信術式。


 つまり、誰かと繋がっていた?


 リーネ一人ではない?


 俺はリリアの腕の中で体を硬くした。


 やっぱり終わっていない。


 リーネは犯人だ。


 少なくとも実行犯だ。


 だが、魔性具の入手元がいる。


 通信していた相手がいる。


 封印箱の声。


 聖女は、まだ。


 あれも、もしかすると別の誰かの意思かもしれない。


 司祭長が黒い石を慎重に聖布で包む。


「これは詳しく調べる必要があります」


 リーネは俯いた。


 もう叫ばない。


 ただ、肩を震わせている。


 リリアは静かに言った。


「リーネ。誰に渡されたのですか」


 リーネは答えない。


「魔性具を作った人がいるのですね」


 答えない。


 だが沈黙が、答えのようだった。


 アリアが低く言う。


「背後に協力者がいる可能性が高いです」


「ええ」


 司祭長は頷いた。


「少なくとも、リーネ一人でこれだけの魔性具を用意するのは難しい」


 やっぱり。


 この事件は、リーネ捕縛で終わりではない。


 第一幕が終わっただけだ。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅう……」


 心底疲れた声だった。


 リリアが俺を見下ろす。


「ノア、本当にごめんなさい。まだ終わりではないみたいです」


「きゅ……」


 知ってました。


 そんな気はしていました。


 でも、できれば言わないでほしかったです。


     ◇


 リーネは神官兵に連れて行かれた。


 ただし、地下牢ではなく、封印処置ができる監視室へ移されるらしい。


 魔性具の残滓があるため、普通の拘束だけでは危険だからだ。


 リーネは最後までリリアを見なかった。


 ただ一度だけ、俺を見た。


 その目にあったのは怒りか、悔しさか、それとも羨望か。


 俺には分からない。


 だが、その視線はひどく重かった。


 珍生物に向ける視線ではない。


 完全に厄介な存在として見られている。


 俺は思った。


 目立ちすぎた。


 本当に目立ちすぎた。


 最初は猫っぽい珍生物だったはずなのに、今では実行犯にまで警戒されている。


 生存戦略として失敗している気がする。


 リリアの部屋へ戻ると、今度こそ厳重な結界が張られた。


 ただし、俺への負担を考えて、リリアの周囲だけは低出力に調整されている。


 司祭長が何度も確認し、アリアが部屋の四隅を点検し、侍女長が寝具や机や壁の隙間まで調べた。


 俺はリリアの腕の中で、それをぼんやり見ていた。


 眠ってはいない。


 意識はある。


 ただ、かなりぼんやりしている。


 体は重い。


 頭の角は熱い。


 銀紋はまだうっすら光っている。


 ステータス画面も、薄く揺れていた。


---


現在状態:臨界安定


安定条件:保護対象との接触を維持


負荷:高


推奨:刺激を避け、安定した環境で経過を待ってください。


---


 経過を待つ。


 つまり、三日間生存条件が満たされるのを待てということだろう。


 問題は、あとどれくらいなのか。


 リリアと出会ってから、まだ二日も経っていない。


 正確には、一日とかなり経ったくらい。


 でも三日には届かない。


 あと一日以上、この臨界安定でいろということか?


 無理では?


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアが椅子に座ったまま、俺を支え直す。


「つらいですか?」


「きゅ」


 はい。


 わりと。


 リリアの顔が苦しそうになる。


「司祭長、ノアはいつまでこのままなのでしょうか」


 司祭長は俺の様子を観察しながら答えた。


「分かりません。ただ、変化が完全に終わっていないのは確かです。今は何かの条件を待っているように見えます」


 鋭い。


 いつもながら怖い。


「条件……」


 リリアが呟く。


 俺は目をそらした。


 聖女のそばで三日間生存する。


 それが条件です。


 とは言えない。


 鳴いても伝わらない。


 いや、最近のリリアなら半分くらい察しそうで怖い。


 アリアが言った。


「ノアは聖女様のそばにいると安定する。ですが、近すぎる聖力は負担になる。一定の距離と接触が必要ということでしょうか」


「ええ」


 司祭長は頷く。


「おそらく、リリア様の聖力に慣れる過程なのだと思います」


「慣れる……」


 リリアは俺を見る。


「ノアは、私のそばにいるために変わろうとしているのですか?」


 俺は固まった。


 それは。


 たぶん、かなり近い。


 進化条件がそう言っている。


 聖女のそばで三日間生存する。


 つまり俺の第一進化は、リリアのそばで生きるための進化なのだ。


 聖属性に耐え、魔性に飲まれず、リリアの聖力と共存する。


 そういう方向へ変わろうとしている。


「きゅ……」


 俺は曖昧に鳴いた。


 リリアは少し目を伏せた。


「それなら、私が怖いものになってしまっているのですね」


 違う。


 いや、半分はそう。


 リリアの聖力は怖い。


 消えかけたこともある。


 近すぎると危険だ。


 でも、リリア本人が怖いわけではない。


 俺は前足を少し動かし、リリアの手に触れた。


 ちり、と刺激。


 でも、今はその刺激が安定にもなる。


「きゅ」


 違います。


 と言いたかった。


 リリアは俺の目を見た。


「……怖いけれど、嫌ではない?」


 惜しい。


 いや、かなり正解。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 リリアは泣きそうに笑った。


「ノアは本当に、優しいですね」


 優しいのだろうか。


 自分ではよく分からない。


 でも、リリアがそう思うなら、今はそれでいい。


 アリアはその様子を見て、少しだけ目を伏せた。


「聖女様。ノアを休ませるためにも、話し合いは短くしましょう」


 アリアさん。


 今日一番ありがたい言葉です。


 しかし、司祭長は申し訳なさそうに言った。


「その前に一つだけ確認しなければなりません」


 ほら。


 終わらない。


 俺の休みはいつも一つだけの確認に潰される。


 司祭長は聖布に包んだ黒い石を机の上へ置いた。


 リーネの胸元に縫い込まれていた通信術式の石だ。


 もちろん何重にも封印されている。


 それでも、俺の危険察知は微かに反応した。


「この石に残った術式から、外部との接触痕を探ります」


 アリアが眉を寄せる。


「今ここで?」


「強い術式は使いません。ノアに負担をかけないよう、封印状態のまま確認します」


 リリアがすぐに言った。


「ノアを刺激しない範囲でお願いします」


「もちろんです」


 司祭長は杖を軽く掲げた。


 黒い石の周囲に、薄い白い光が浮かぶ。


 俺は少し体を硬くした。


 でも、さっきまでのような強い刺激ではない。


 低出力。


 リリアも俺の前足に指を添えたまま、俺の様子を見ている。


 石の表面に、黒い線が一瞬だけ浮かんだ。


 それは文字ではなく、紋様だった。


 司祭長の顔が険しくなる。


「……やはり、外部接続があります」


「誰に繋がっていたのですか」


 アリアが問う。


「名前までは分かりません。ただし、神殿内の術式ではない」


「外部の者?」


「ええ。しかも、かなり古い魔性術式です」


 古い魔性術式。


 また嫌な単語だ。


 司祭長は続ける。


「リーネは、この術式を自力で扱っていたのではない。誰かに与えられ、誘導された可能性が高い」


 リリアの顔が曇る。


「リーネも、利用されていたのですか」


「おそらく」


 リリアは目を伏せた。


 俺は思った。


 それでも、リーネの罪が消えるわけではない。


 でも、彼女だけで終わらせてはいけない。


 黒幕がいる。


 たぶん、かなり厄介なやつが。


 その時、黒い石が小さく震えた。


 こつん。


 封印布の内側で、何かが鳴る。


 危険察知が鋭く反応する。


---


危険察知:中反応


対象:通信術式の残滓


危険度:中


警告:残留音声が再生されます。


---


 残留音声。


 また声か。


 もう嫌だ。


 だが、止める前に、黒い石からかすれた声が漏れた。


『……聖女は、まだ器に届かぬ』


 全員が固まった。


 今度は、前よりはっきり聞こえた。


 聖女は、まだ器に届かぬ。


 器。


 俺は嫌な予感がした。


 さっきリーネも、俺を器のように扱おうとしていた。


 黒衣の人物は言った。


 聖女ではなく、器を先に壊す。


 つまり、器とは俺のことか。


 いや、違う可能性もある。


 でも、危険察知は俺の体の奥で小さく震えている。


 リリアが俺を抱える手に力を込めかけ、慌てて緩めた。


「器……?」


 司祭長の表情が厳しくなる。


「この声、リーネではありません」


 アリアが頷く。


「男の声に聞こえました」


「ええ」


 司祭長は黒い石をさらに封じながら言った。


「外部の協力者。おそらく、この魔性具をリーネに与えた者です」


 黒い石はもう声を発しない。


 だが、言葉だけが残った。


 聖女は、まだ器に届かぬ。


 意味は分からない。


 でも、俺とリリアが関係している気がする。


 リリアの聖力。


 俺の浄化適性。


 聖属性と魔性を変換する体。


 もし黒幕がそれを知っていたなら。


 リリアは静かに言った。


「ノアを、何かに使うつもりなのですね」


 アリアの声が冷える。


「その可能性があります」


 リリアは俺を見下ろした。


 その目は、怖がっている。


 でも、それ以上に決意している。


「渡しません」


 短い言葉だった。


「ノアは、誰にも渡しません」


 俺は何も言えなかった。


 鳴き声すら出なかった。


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。


 同時に、怖くもなる。


 俺は誰かに狙われている。


 リリアも狙われている。


 そして、リリアは俺を守ると言っている。


 それは嬉しい。


 でも、彼女をさらに危険に巻き込むことでもある。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアは優しく答えた。


「大丈夫です。ノアだけに守らせません」


 アリアが静かに言う。


「もちろんです。聖女様も、ノアも、私が守ります」


 司祭長も頷いた。


「神殿としても、全力で対処します」


 心強い。


 かなり心強い。


 だが、俺の脳裏には黒い声が残っていた。


 聖女は、まだ器に届かぬ。


 まだ。


 ということは、いずれ届くと思っているのか。


 俺が進化した時か。


 聖女のそばで三日間生存した時か。


 条件達成の時が、黒幕の狙う瞬間でもあるのかもしれない。


 俺はステータス画面を見た。


---


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:未達


現在状態:臨界安定


備考:条件達成時、安定進化が可能です。


---


 安定進化。


 それは俺にとって助かることのはずだ。


 だが、黒幕にとっても何か意味があるなら。


 進化は安全なゴールではない。


 次の事件の入口かもしれない。


 俺はリリアの腕の中で、そっと尻尾を丸めた。


 今日だけで、いくつ危険を越えたのだろう。


 でも、どうやら本当に危険なのは、この先にあるらしい。


     ◇


 リリアの部屋は、さらに警備が増えた。


 窓は封じられ、隣の祈祷室には神官兵が常駐することになった。


 リーネ、エルド、ミラ、神官長。


 関係者はそれぞれ保護と監視の下に置かれている。


 少なくとも、今この瞬間に部屋へ飛び込んでくる敵はいない。


 たぶん。


 たぶん、である。


 俺はもう、この神殿の安全を素直に信じられない。


 リリアは椅子に座り、俺を膝ではなく腕と小さな台の間で支える形にしていた。


 完全に抱え続けるとリリアの負担が大きい。


 完全に離すと俺が不安定になる。


 そこで、俺の体は柔らかい布を敷いた台に預け、リリアは俺の前足に指を添える。


 この姿勢が一番安定するらしい。


 見た目は、聖女が珍生物と握手したまま会議しているような絵面だ。


 かなり変だ。


 でも、もう誰も突っ込まない。


 慣れとは怖い。


 アリアが部屋の入口に立ち、司祭長が最後の確認を終えた。


「今は大きな魔性反応はありません」


 今は。


 その言い方が嫌だ。


「リリア様、ノア。しばらくこの状態を維持してください」


「はい」


「きゅ……」


 しばらく。


 どれくらいですか。


 できれば具体的にお願いします。


 司祭長は俺を見て、少しだけ表情を和らげた。


「つらいでしょうが、安定しています。少なくとも、先ほどよりは良い」


 先ほどが悪すぎた。


 比較対象が地獄だ。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 リリアが微笑む。


「ノア、文句を言っていますか?」


「きゅ」


 はい。


 かなり。


 アリアが小さく息を吐く。


「私にもそう聞こえました」


 おっと。


 最近、本当に伝わりすぎている。


 リリアは少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、部屋の空気がわずかに緩む。


 よかった。


 リリアが笑った。


 今日はずっと、彼女の顔が強張っていた。


 だから、それだけで少し安心した。


 だが、その安心は長く続かなかった。


 俺のステータス画面が、何の前触れもなく開いた。


---


経過時間を確認しています。


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:残り一日以上


現在状態:臨界安定


注意:長期維持は困難です。


---


 残り一日以上。


 長期維持は困難。


 でしょうね。


 俺もそう思っていました。


 この状態であと一日以上?


 無理では?


 俺は思わず、リリアの指先を前足で軽く叩いた。


「きゅう……」


 リリアが心配そうに覗き込む。


「ノア?」


 どう説明すればいい。


 あと一日以上このままです。


 臨界安定は長く持ちません。


 たぶん途中でまた何か起きます。


 言えない。


 鳴き声では無理だ。


 俺は小さく震えた。


 リリアはその震えに気づく。


「司祭長。ノアの様子が」


 司祭長が近づきすぎない距離で俺を見る。


「また変化が?」


 違う。


 いや、変化の問題でもある。


 俺はステータス画面を睨む。


 残り一日以上。


 ここが問題だ。


 伝える方法。


 時間。


 三日。


 俺は机の上に置かれた紙を見た。


 神殿図ではない。


 予定表。


 日付と時間らしきものが書かれている。


 俺はそちらを見る。


 リリアが気づいた。


「予定表?」


「きゅ」


 俺は鳴いた。


 司祭長が予定表を持ってきてくれる。


 リリアは俺の前足に触れたまま、紙を近づけた。


 俺は前足を動かそうとする。


 リリアが支えてくれる。


 肉球が紙の上に置かれる。


 ぽふ。


 俺が押したのは、今日の日付。


 次に、前足をずらそうとする。


 リリアが慎重に支えてくれる。


 ぽふ。


 翌日。


 さらに動かそうとして、体が少しざわつく。


「きゅっ」


 リリアが慌てる。


「ごめんなさい」


 でも、もう一度。


 俺は前足を動かす。


 ぽふ。


 さらに次の日。


 つまり三日目。


 俺はそこで鳴いた。


「きゅ」


 リリアが予定表を見る。


「今日、明日、その次……?」


 司祭長の目が細くなる。


「三日、という意味ですかな」


 伝わった。


 さすが司祭長。


 怖いくらい伝わる。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 リリアが息を呑む。


「ノアは、三日必要なのですか?」


「きゅ……」


 たぶん。


 聖女のそばで三日間生存する必要があります。


 司祭長は顎に手を当てた。


「なるほど。ノアの変化は、リリア様のそばで一定期間生存することが条件になっている……?」


 ほぼ正解。


 この人、やっぱり怖い。


 アリアが言う。


「では、あとどのくらいですか」


 それが問題です。


 俺は今日の日付と、リリアと出会った時間を伝えたい。


 無理だ。


 複雑すぎる。


 俺は前足で今日と次の日の間を押した。


 その次の日には届かない。


 まだ遠い。


 そんなイメージ。


 リリアがじっと見て、呟いた。


「まだ、明日を越えなければならない……?」


 近い。


 かなり近い。


 俺は鳴いた。


「きゅ」


 リリアの表情が曇る。


「この状態で、そんなに……」


 そうです。


 俺も無理だと思います。


 司祭長の顔も厳しくなる。


「長期維持が必要なら、安定した環境を作らねばなりません。リリア様の負担も考える必要があります」


 アリアが即座に言った。


「交代はできませんか」


「おそらくできません」


 司祭長は俺を見る。


「ノアが反応しているのは、リリア様の聖力です。他の者では代替にならない」


 ですよね。


 知ってました。


 リリアは俺の前足に触れたまま、静かに言った。


「私は大丈夫です」


「聖女様」


 アリアが厳しい声を出す。


「また大丈夫ではないものを大丈夫と言っています」


「でも、ノアが」


「ノアを支えるためにも、聖女様が倒れてはいけません」


 その通り。


 アリアさん、もっと言ってください。


 リリアは少しだけ黙った。


 そして頷く。


「……はい。では、倒れない方法を考えましょう」


 えらい。


 ちゃんと聞いた。


 リリアは自分の無理を止める方向へ少しずつ成長している。


 俺は少し安心した。


 司祭長が提案する。


「まず、ノアを安定させる専用の結界台を作ります。リリア様は常に触れ続けるのではなく、一定の接触を保てる姿勢にする。食事や休憩の際も、指先か聖力糸でつながりを維持できるか試しましょう」


 聖力糸。


 何それ。


 便利そうだけど怖い。


 リリアが首を傾げる。


「聖力糸ですか?」


「直接触れるより細く聖力を伸ばし、対象に添わせる技術です。治療中の幼児や小動物に使うことがあります」


 小動物。


 俺は小動物枠で正しいのか。


 今の姿で?


 角と銀紋があるけど?


 まあいい。


 使えるなら試してほしい。


 リリアは真剣に頷いた。


「やってみます。ただし、ノアに負担がないように」


「もちろんです」


 こうして、俺を一日以上保たせるための準備が始まった。


 俺は思った。


 まさか異世界で、延命措置みたいな準備をされることになるとは。


 しかも理由が、進化条件の時間待ち。


 人生、何があるか分からない。


 いや、魔物生か。


 どちらにしても分からない。


     ◇


 しばらくして、部屋の中央に新しい台が用意された。


 丸い木の台に、柔らかい布。


 その下には聖印ではなく、緩衝用の中立紋というものが刻まれているらしい。


 強すぎる聖属性を和らげ、魔性の侵入を防ぐ。


 俺にとってはありがたい仕様だ。


 神殿にも、探せば優しい設備があるらしい。


 もっと早く出してほしかった。


 俺はその上にそっと移された。


 リリアの指は、俺の前足に触れたまま。


 接触を切らないように、アリアと司祭長が慎重に動かす。


 まるで爆弾処理である。


 いや、今の俺は本当に臨界状態なので、あながち間違っていない。


 台に移されると、体の負担が少しだけ軽くなった。


---


中立紋による安定補助を確認しました。


臨界安定:維持


負荷:高 → 中高


---


 中高。


 まだ高いけど、少し下がった。


 ありがたい。


 リリアがほっと息をつく。


「少し楽そうです」


「きゅ」


 楽です。


 少し。


 司祭長が頷く。


「次に聖力糸を試します。リリア様、指先から細く、ノアの前足へ添わせるように」


「はい」


 リリアが目を閉じる。


 指先に白い光が集まる。


 細い糸のような光。


 それが、俺の前足にそっと触れた。


 直接の接触よりも薄い。


 ちりちりする刺激も少ない。


 でも、リリアの気配は伝わる。


---


保護対象との聖力接続を確認しました。


接触代替:有効


臨界安定:維持


---


 有効。


 よし。


 これならリリアがずっと俺を抱えていなくても済む。


 リリアも少し安心したようだった。


「ノア、痛くありませんか?」


「きゅ」


 大丈夫です。


 これはかなり良いです。


 リリアは微笑んだ。


「よかった」


 アリアも表情を緩める。


「これなら、聖女様も少しは休めます」


「はい」


 リリアは頷いた。


 だが、すぐに俺を見る。


「でも、ノアから離れすぎません」


「それは当然です」


 アリアもそこは否定しなかった。


 俺は新しい台の上で、ようやく少しだけ体を伸ばした。


 角が布に当たらない。


 尻尾も楽だ。


 中立紋のおかげで、聖属性の圧も少し和らいでいる。


 やっと。


 やっと、少し休めるかもしれない。


 そう思った。


 その時、部屋の外から控えめな声がした。


「司祭長。リーネが話すと言っています」


 全員の空気がまた変わる。


 俺は台の上で目を細めた。


 またか。


 俺の休息は、いつも扉の向こうから邪魔される。


 司祭長が扉の方を見る。


「内容は?」


「魔性具を渡した者について。ただし……」


「ただし?」


「聖女様とノアにだけ伝える、と」


 部屋が静まり返った。


 俺は固まった。


 いやいやいや。


 俺も?


 なぜ俺も?


 事情聴取に珍生物を参加させないでほしい。


 リリアの顔が険しくなる。


「ノアに負担がかかるなら、聞きません」


 即答だった。


 ありがたい。


 しかし、伝令の神官は困ったように続ける。


「リーネは、黒い石の声が『器』と呼んだものについて話す、と言っています」


 器。


 俺のことかもしれない言葉。


 聞く必要はある。


 できれば聞きたくない。


 非常に聞きたくない。


 だが、これを聞かないと、次に何が起きるか分からない。


 リリアは俺を見た。


「ノア……」


 無理しなくていい。


 その目がそう言っていた。


 俺は台の上で、深く息を吐いた。


「きゅ……」


 聞きます。


 聞くだけなら。


 動かないなら。


 たぶん。


 リリアの聖力糸が、俺の前足に優しく触れている。


 俺はそのつながりを感じながら、もう一度鳴いた。


「きゅ」


 リリアは苦しそうに微笑んだ。


「分かりました。でも、少しでもつらそうならすぐに止めます」


 アリアが低く言う。


「私も同席します」


「もちろんです」


 司祭長も頷いた。


「リーネをこの部屋には入れません。隣の監視室と聖話管でつなぎましょう。声だけを通す古い道具です」


 聖話管。


 また便利そうなものが出た。


 声だけなら少しは安全か。


 いや、魔性具が声に残っていた前例がある。


 油断はできない。


 司祭長はそのあたりも分かっているのか、聖話管にも封印を重ねるよう指示した。


 しばらくして、机の上に銀色の細い管が置かれた。


 片側がこの部屋。


 もう片側が監視室につながっているらしい。


 司祭長が確認する。


「リーネ。聞こえますか」


 少し間があった。


 そして、管の向こうからリーネの声がした。


『……聞こえています』


 疲れた声だった。


 先ほどまでの怒りは薄い。


 しかし、まだ硬さは残っている。


 リリアが静かに言った。


「リーネ。話してください」


 沈黙。


 それから、リーネが小さく笑った。


『あの獣も、そこに?』


 俺は耳を伏せた。


 また獣。


 もう訂正する気力もない。


 リリアが答える。


「ノアはここにいます。でも、無理はさせません」


『……本当に大事なのですね』


「はい」


 リリアは迷わず答えた。


 管の向こうで、リーネが息を呑んだ気配がした。


『なら、気をつけてください』


「何に?」


『その子は、ただの珍しい獣ではありません』


 知ってます。


 たぶん全員、もう知ってます。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リーネは続ける。


『私に魔性具を渡した人は、その子のことを最初から探していました』


 空気が凍った。


 最初から?


 俺を?


 リリアの聖力糸がわずかに震える。


『白い獣。聖女の聖力で消えず、魔性も受け止める器。そう言っていました』


 俺は動けなくなった。


 白い獣。


 聖女の聖力で消えない。


 魔性も受け止める器。


 それは完全に俺だ。


『聖女様を狙えば、その子は必ず動く。そうすれば、器は育つ、と』


 器は育つ。


 嫌な言葉だった。


 黒狼。


 黒牙鼠。


 腐食鼠。


 影尾鼠。


 封虫。


 魔性具。


 もしかして。


 俺の進化ゲージが上がるように、仕向けられていた?


 リリアを危険に晒せば、俺が動く。


 俺が動けば、聖属性と魔性に触れる。


 触れれば、俺は変質する。


 育つ。


 黒幕は、それを狙っていたのか。


 俺はステータス画面を見た。


---


外部意図による成長誘導の可能性を確認しました。


警告:進化条件達成後の干渉に注意してください。


---


 最悪だ。


 やっぱり進化がゴールじゃない。


 進化した瞬間を、誰かが狙っている。


 リリアが震える声で言った。


「ノアを育てるために、私たちを危険に晒したのですか」


 リーネの声は小さかった。


『私は、最初は知りませんでした。ただ、聖女様の行動を止めるためだと……でも途中で、あの人はその獣ばかり見ていると分かりました』


「その人は誰ですか」


 リリアが問う。


 管の向こうで、リーネは少し黙った。


 そして言った。


『名前は知りません。ただ、片目に黒い硝子の義眼を入れた男です』


 片目に黒い硝子の義眼。


 新しい手がかり。


 司祭長の顔色が変わった。


 アリアもそれに気づく。


「司祭長?」


 司祭長は、低く呟いた。


「まさか……」


 リリアが尋ねる。


「知っているのですか?」


 司祭長は少しだけ沈黙した。


 そして重く答えた。


「二十年前、神殿を追放された魔性研究者がいました」


 魔性研究者。


 嫌な響きだ。


「名は、ガルディアス」


 司祭長の声がさらに低くなる。


「片目に黒い硝子の義眼を持つ男です」


 部屋の空気が完全に冷えた。


 ガルディアス。


 黒幕の名前らしきものが、ついに出た。


 俺は台の上で、小さく鳴いた。


「きゅ……」


 聖女様。


 どうやら俺は、思ったよりずっと面倒なものに目をつけられていたみたいです。

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