第18話 聖女様、珍生物を事情聴取に参加させないでください
リーネは捕らえられた。
黒い布を外され、両手を拘束され、祈祷室の床に座らされている。
右手には古い火傷の跡。
指には、施療記録係が持つ銀の指輪。
顔は青ざめている。
だが、怯えているというより、悔しさに歪んでいた。
アリアが剣を抜いたまま、彼女のすぐそばに立っている。
司祭長は杖を構え、床に残った魔性の術式を封じていた。
神官兵たちは祈祷室の入口と窓を固めている。
そして俺は、リリアの腕の中にいた。
動けない。
いや、正確には動きたくない。
動いたら体がどうなるか分からない。
進化ゲージは百%。
条件は未達。
臨界安定。
リリアとの接触で、かろうじて保っている状態だ。
しかも、今さっき強制変質しかけた。
俺の今日の業務内容は明らかに小動物の範囲を超えている。
危険察知。
結界補助。
術式遮断。
床下の魔性陣破壊。
犯人捕縛のきっかけ作り。
おかしい。
俺は転生したばかりの低級魔物である。
職務経歴書に書けることが増えすぎている。
ステータス画面が浮かんだ。
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進化ゲージ:100%
第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する
条件達成まで:未達
現在状態:臨界安定
安定条件:保護対象との接触を維持
備考:安静を推奨します。
---
安静。
ようやくまともなことを言った。
そうだ。
俺には安静が必要だ。
今すぐ毛布に包まれて、ミルクでも飲んで、何も考えずにぼんやりしたい。
だが、周囲は完全に事件現場である。
安静にできる空気ではない。
リリアは俺を抱えたまま、リーネを見つめていた。
その表情は悲しそうだった。
怒っていないわけではないと思う。
ただ、その怒りよりも先に、どうして、という気持ちがあるのだろう。
「リーネ」
リリアが静かに呼んだ。
リーネは顔を上げる。
その目に、露骨な憎しみが浮かんだ。
「……その声で呼ばないでください」
低い声だった。
リリアの腕がわずかに強張る。
俺の前足に、彼女の指先が触れていた。
その震えが伝わってくる。
「私は、あなたに何かしましたか」
リリアが尋ねた。
責める声ではない。
本当に分からない、という声だった。
リーネは唇を歪めた。
「何もしていない?」
笑う。
乾いた笑いだった。
「そうでしょうね。聖女様は、何もしていない。何もしていないのに、全部持っている」
空気が重くなる。
アリアが眉を寄せた。
「質問に答えなさい。なぜ聖女様を狙った」
「狙った?」
リーネはアリアを見る。
「違います。私は、正しい形に戻そうとしただけです」
正しい形。
嫌な言葉だ。
こういう時に出てくる「正しい」は、だいたい本人にとって都合がいいだけのやつである。
俺はリリアの腕の中で耳を伏せた。
「神殿は、聖女様ひとりのものではありません」
リーネは言った。
「孤児院、貧民区、無償施療、食料配布。あなたがひとつ善行を増やすたびに、誰かの仕事が増える。誰かの予算が削られる。誰かが責任を背負う」
リリアは黙って聞いていた。
リーネの声は少しずつ熱を帯びていく。
「それでも皆、あなたには何も言わない。聖女様は優しいから。聖女様は正しいから。聖女様は人々に愛されているから」
リーネの視線が鋭くなる。
「でも、その正しさの裏で疲れている人間には、誰も気づかない」
俺は少しだけ耳を動かした。
この言葉には、完全な嘘だけではないものが混ざっている気がした。
リリアの善行。
それに伴う負担。
神殿の人手や予算の問題。
司祭長も前に言っていた。
善行にも費用がかかる、と。
つまり、リーネの不満には根がある。
だが、だからといって魔性具を使っていい理由にはならない。
孤児院を危険に晒していい理由にもならない。
リリアを狙っていい理由にもならない。
まして俺を媒介扱いしていい理由にはならない。
「だから、魔性具を使ったのですか」
リリアが言った。
「孤児院に危険を呼び込んで、神官長やエルドを陥れて、ミラを巻き込んで」
リーネは一瞬、目を伏せた。
だがすぐに顔を上げた。
「必要でした」
「必要?」
「あなたの正しさを止めるには、その正しさがどれほど危ういかを見せる必要があった」
アリアの声が冷たくなる。
「子どもたちを危険に晒して?」
「死なせるつもりはありませんでした!」
リーネが叫んだ。
礼拝堂の空気が震える。
「黒牙鼠も、腐食鼠も、影尾鼠も、調整していました! 直接殺すほどの力はないように!」
調整。
俺はぞっとした。
こいつ、本気で言っている。
殺すほどではないからいい。
直接死なせるつもりはなかったからいい。
そう思っている。
最悪だ。
自分の中で線を引いて、その線の内側なら許されると思っている。
「それでも、怪我をする人はいました」
リリアの声は静かだった。
「怖い思いをした人もいます」
「そうしなければ、誰も止まらなかった!」
リーネは食いしばるように言う。
「あなたも、司祭長も、神官長も、みんな言葉では分かったふりをするだけ。負担を減らすと言いながら、結局あなたが望めば動く。あなたが悲しそうな顔をすれば、誰かが無理をする」
リリアの顔がわずかに曇った。
俺はリリアの指先に前足を押しつけた。
違う。
全部が違うとは言わない。
リリアの善意が周囲に負担を生んでいる部分は、たぶんある。
でも、それを正す方法は他にあったはずだ。
魔性具ではなく。
罠ではなく。
誰かを犯人に仕立てることでもなく。
リリアは俺の前足に触れたまま、小さく息を吸った。
「リーネ。あなたが不満を持っていたことには、気づけませんでした」
リーネの表情が動く。
「気づけなかったことは、私の悪いところです」
「聖女様」
アリアが制止するように言う。
だがリリアは続けた。
「でも、あなたがしたことは間違っています」
その声は柔らかい。
しかし、はっきりしていた。
「孤児院の子どもたちを危険に晒したこと。神官長を陥れようとしたこと。エルド神官やミラを巻き込んだこと。ノアを道具のように扱おうとしたこと」
リリアの目がリーネをまっすぐ見る。
「それは、許してはいけないことです」
リーネが唇を震わせた。
「……結局、あなたはそうやって正しい側に立つ」
「はい」
リリアは頷いた。
逃げなかった。
「私は、正しい側に立ちたいです。でも、その正しさで誰かを押しつぶしていたなら、そこは変えます」
リーネが目を見開く。
「変える……?」
「はい。神殿の施療体制も、孤児院支援の負担も、ちゃんと見直します。あなたが言ったことの中に、必要な指摘があるなら、それは聞きます」
リリアの声が少しだけ低くなる。
「でも、それと罪は別です」
空気が静まり返った。
俺はリリアを見上げた。
この子は甘い。
でも、甘いだけじゃない。
相手の言い分を聞く。
自分の落ち度も認める。
その上で、罪は罪だと言う。
ふわふわしているようで、芯がある。
俺の角を個性と呼びながら、こういうところは真っ直ぐだ。
アリアも、少しだけリリアを見る目を変えた気がした。
司祭長は静かに頷いている。
リーネはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……あなたが嫌いだった」
その声は、さっきまでよりずっと小さかった。
「みんながあなたを見ていた。あなたのために動いていた。あなたの失敗さえ、優しさとして受け取った」
リーネの顔が歪む。
「私は、何度も警告した。予算が足りない、人手が足りない、記録が追いつかない。けれど、誰も本気で聞かなかった。あなたが『お願いします』と言えば、全部通った」
「……ごめんなさい」
「謝らないで!」
リーネが叫ぶ。
「そういうところが嫌だった! 謝れば、またあなたが優しい人になる!」
リリアは口を閉じた。
俺も少し胸が痛くなった。
これは、リリアの優しさそのものを憎んでいる。
たぶん、リーネ自身もそれが理不尽だと分かっている。
でも、止められなかった。
不満。
嫉妬。
疲労。
正義感。
被害者意識。
いろんなものが混ざって、魔性具に手を伸ばした。
俺はリーネを見た。
危険察知は、もう強くは鳴っていない。
彼女は捕らえられている。
だが、嫌な気配はまだ少し残っている。
リーネ本人からではなく、彼女の胸元。
ローブの内側。
俺は耳を立てた。
「きゅ……」
アリアが即座に反応する。
「ノア?」
俺はリーネの胸元を見る。
アリアの目が鋭くなった。
「動くな」
リーネの表情が一瞬だけ変わる。
しまった、という顔。
アリアが素早く彼女のローブを確認した。
胸元に、小さな黒い石が縫い込まれていた。
司祭長の顔が険しくなる。
「まだ持っていたか」
リーネは歯を食いしばる。
「返して……!」
「これは何です」
アリアが問う。
リーネは答えない。
しかし、俺の危険察知が震えた。
---
危険察知:中反応
対象:黒い石
危険度:中
備考:通信術式の残滓があります。
---
通信術式。
つまり、誰かと繋がっていた?
リーネ一人ではない?
俺はリリアの腕の中で体を硬くした。
やっぱり終わっていない。
リーネは犯人だ。
少なくとも実行犯だ。
だが、魔性具の入手元がいる。
通信していた相手がいる。
封印箱の声。
聖女は、まだ。
あれも、もしかすると別の誰かの意思かもしれない。
司祭長が黒い石を慎重に聖布で包む。
「これは詳しく調べる必要があります」
リーネは俯いた。
もう叫ばない。
ただ、肩を震わせている。
リリアは静かに言った。
「リーネ。誰に渡されたのですか」
リーネは答えない。
「魔性具を作った人がいるのですね」
答えない。
だが沈黙が、答えのようだった。
アリアが低く言う。
「背後に協力者がいる可能性が高いです」
「ええ」
司祭長は頷いた。
「少なくとも、リーネ一人でこれだけの魔性具を用意するのは難しい」
やっぱり。
この事件は、リーネ捕縛で終わりではない。
第一幕が終わっただけだ。
俺は小さく鳴いた。
「きゅう……」
心底疲れた声だった。
リリアが俺を見下ろす。
「ノア、本当にごめんなさい。まだ終わりではないみたいです」
「きゅ……」
知ってました。
そんな気はしていました。
でも、できれば言わないでほしかったです。
◇
リーネは神官兵に連れて行かれた。
ただし、地下牢ではなく、封印処置ができる監視室へ移されるらしい。
魔性具の残滓があるため、普通の拘束だけでは危険だからだ。
リーネは最後までリリアを見なかった。
ただ一度だけ、俺を見た。
その目にあったのは怒りか、悔しさか、それとも羨望か。
俺には分からない。
だが、その視線はひどく重かった。
珍生物に向ける視線ではない。
完全に厄介な存在として見られている。
俺は思った。
目立ちすぎた。
本当に目立ちすぎた。
最初は猫っぽい珍生物だったはずなのに、今では実行犯にまで警戒されている。
生存戦略として失敗している気がする。
リリアの部屋へ戻ると、今度こそ厳重な結界が張られた。
ただし、俺への負担を考えて、リリアの周囲だけは低出力に調整されている。
司祭長が何度も確認し、アリアが部屋の四隅を点検し、侍女長が寝具や机や壁の隙間まで調べた。
俺はリリアの腕の中で、それをぼんやり見ていた。
眠ってはいない。
意識はある。
ただ、かなりぼんやりしている。
体は重い。
頭の角は熱い。
銀紋はまだうっすら光っている。
ステータス画面も、薄く揺れていた。
---
現在状態:臨界安定
安定条件:保護対象との接触を維持
負荷:高
推奨:刺激を避け、安定した環境で経過を待ってください。
---
経過を待つ。
つまり、三日間生存条件が満たされるのを待てということだろう。
問題は、あとどれくらいなのか。
リリアと出会ってから、まだ二日も経っていない。
正確には、一日とかなり経ったくらい。
でも三日には届かない。
あと一日以上、この臨界安定でいろということか?
無理では?
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
リリアが椅子に座ったまま、俺を支え直す。
「つらいですか?」
「きゅ」
はい。
わりと。
リリアの顔が苦しそうになる。
「司祭長、ノアはいつまでこのままなのでしょうか」
司祭長は俺の様子を観察しながら答えた。
「分かりません。ただ、変化が完全に終わっていないのは確かです。今は何かの条件を待っているように見えます」
鋭い。
いつもながら怖い。
「条件……」
リリアが呟く。
俺は目をそらした。
聖女のそばで三日間生存する。
それが条件です。
とは言えない。
鳴いても伝わらない。
いや、最近のリリアなら半分くらい察しそうで怖い。
アリアが言った。
「ノアは聖女様のそばにいると安定する。ですが、近すぎる聖力は負担になる。一定の距離と接触が必要ということでしょうか」
「ええ」
司祭長は頷く。
「おそらく、リリア様の聖力に慣れる過程なのだと思います」
「慣れる……」
リリアは俺を見る。
「ノアは、私のそばにいるために変わろうとしているのですか?」
俺は固まった。
それは。
たぶん、かなり近い。
進化条件がそう言っている。
聖女のそばで三日間生存する。
つまり俺の第一進化は、リリアのそばで生きるための進化なのだ。
聖属性に耐え、魔性に飲まれず、リリアの聖力と共存する。
そういう方向へ変わろうとしている。
「きゅ……」
俺は曖昧に鳴いた。
リリアは少し目を伏せた。
「それなら、私が怖いものになってしまっているのですね」
違う。
いや、半分はそう。
リリアの聖力は怖い。
消えかけたこともある。
近すぎると危険だ。
でも、リリア本人が怖いわけではない。
俺は前足を少し動かし、リリアの手に触れた。
ちり、と刺激。
でも、今はその刺激が安定にもなる。
「きゅ」
違います。
と言いたかった。
リリアは俺の目を見た。
「……怖いけれど、嫌ではない?」
惜しい。
いや、かなり正解。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
リリアは泣きそうに笑った。
「ノアは本当に、優しいですね」
優しいのだろうか。
自分ではよく分からない。
でも、リリアがそう思うなら、今はそれでいい。
アリアはその様子を見て、少しだけ目を伏せた。
「聖女様。ノアを休ませるためにも、話し合いは短くしましょう」
アリアさん。
今日一番ありがたい言葉です。
しかし、司祭長は申し訳なさそうに言った。
「その前に一つだけ確認しなければなりません」
ほら。
終わらない。
俺の休みはいつも一つだけの確認に潰される。
司祭長は聖布に包んだ黒い石を机の上へ置いた。
リーネの胸元に縫い込まれていた通信術式の石だ。
もちろん何重にも封印されている。
それでも、俺の危険察知は微かに反応した。
「この石に残った術式から、外部との接触痕を探ります」
アリアが眉を寄せる。
「今ここで?」
「強い術式は使いません。ノアに負担をかけないよう、封印状態のまま確認します」
リリアがすぐに言った。
「ノアを刺激しない範囲でお願いします」
「もちろんです」
司祭長は杖を軽く掲げた。
黒い石の周囲に、薄い白い光が浮かぶ。
俺は少し体を硬くした。
でも、さっきまでのような強い刺激ではない。
低出力。
リリアも俺の前足に指を添えたまま、俺の様子を見ている。
石の表面に、黒い線が一瞬だけ浮かんだ。
それは文字ではなく、紋様だった。
司祭長の顔が険しくなる。
「……やはり、外部接続があります」
「誰に繋がっていたのですか」
アリアが問う。
「名前までは分かりません。ただし、神殿内の術式ではない」
「外部の者?」
「ええ。しかも、かなり古い魔性術式です」
古い魔性術式。
また嫌な単語だ。
司祭長は続ける。
「リーネは、この術式を自力で扱っていたのではない。誰かに与えられ、誘導された可能性が高い」
リリアの顔が曇る。
「リーネも、利用されていたのですか」
「おそらく」
リリアは目を伏せた。
俺は思った。
それでも、リーネの罪が消えるわけではない。
でも、彼女だけで終わらせてはいけない。
黒幕がいる。
たぶん、かなり厄介なやつが。
その時、黒い石が小さく震えた。
こつん。
封印布の内側で、何かが鳴る。
危険察知が鋭く反応する。
---
危険察知:中反応
対象:通信術式の残滓
危険度:中
警告:残留音声が再生されます。
---
残留音声。
また声か。
もう嫌だ。
だが、止める前に、黒い石からかすれた声が漏れた。
『……聖女は、まだ器に届かぬ』
全員が固まった。
今度は、前よりはっきり聞こえた。
聖女は、まだ器に届かぬ。
器。
俺は嫌な予感がした。
さっきリーネも、俺を器のように扱おうとしていた。
黒衣の人物は言った。
聖女ではなく、器を先に壊す。
つまり、器とは俺のことか。
いや、違う可能性もある。
でも、危険察知は俺の体の奥で小さく震えている。
リリアが俺を抱える手に力を込めかけ、慌てて緩めた。
「器……?」
司祭長の表情が厳しくなる。
「この声、リーネではありません」
アリアが頷く。
「男の声に聞こえました」
「ええ」
司祭長は黒い石をさらに封じながら言った。
「外部の協力者。おそらく、この魔性具をリーネに与えた者です」
黒い石はもう声を発しない。
だが、言葉だけが残った。
聖女は、まだ器に届かぬ。
意味は分からない。
でも、俺とリリアが関係している気がする。
リリアの聖力。
俺の浄化適性。
聖属性と魔性を変換する体。
もし黒幕がそれを知っていたなら。
リリアは静かに言った。
「ノアを、何かに使うつもりなのですね」
アリアの声が冷える。
「その可能性があります」
リリアは俺を見下ろした。
その目は、怖がっている。
でも、それ以上に決意している。
「渡しません」
短い言葉だった。
「ノアは、誰にも渡しません」
俺は何も言えなかった。
鳴き声すら出なかった。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
同時に、怖くもなる。
俺は誰かに狙われている。
リリアも狙われている。
そして、リリアは俺を守ると言っている。
それは嬉しい。
でも、彼女をさらに危険に巻き込むことでもある。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
リリアは優しく答えた。
「大丈夫です。ノアだけに守らせません」
アリアが静かに言う。
「もちろんです。聖女様も、ノアも、私が守ります」
司祭長も頷いた。
「神殿としても、全力で対処します」
心強い。
かなり心強い。
だが、俺の脳裏には黒い声が残っていた。
聖女は、まだ器に届かぬ。
まだ。
ということは、いずれ届くと思っているのか。
俺が進化した時か。
聖女のそばで三日間生存した時か。
条件達成の時が、黒幕の狙う瞬間でもあるのかもしれない。
俺はステータス画面を見た。
---
第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する
条件達成まで:未達
現在状態:臨界安定
備考:条件達成時、安定進化が可能です。
---
安定進化。
それは俺にとって助かることのはずだ。
だが、黒幕にとっても何か意味があるなら。
進化は安全なゴールではない。
次の事件の入口かもしれない。
俺はリリアの腕の中で、そっと尻尾を丸めた。
今日だけで、いくつ危険を越えたのだろう。
でも、どうやら本当に危険なのは、この先にあるらしい。
◇
リリアの部屋は、さらに警備が増えた。
窓は封じられ、隣の祈祷室には神官兵が常駐することになった。
リーネ、エルド、ミラ、神官長。
関係者はそれぞれ保護と監視の下に置かれている。
少なくとも、今この瞬間に部屋へ飛び込んでくる敵はいない。
たぶん。
たぶん、である。
俺はもう、この神殿の安全を素直に信じられない。
リリアは椅子に座り、俺を膝ではなく腕と小さな台の間で支える形にしていた。
完全に抱え続けるとリリアの負担が大きい。
完全に離すと俺が不安定になる。
そこで、俺の体は柔らかい布を敷いた台に預け、リリアは俺の前足に指を添える。
この姿勢が一番安定するらしい。
見た目は、聖女が珍生物と握手したまま会議しているような絵面だ。
かなり変だ。
でも、もう誰も突っ込まない。
慣れとは怖い。
アリアが部屋の入口に立ち、司祭長が最後の確認を終えた。
「今は大きな魔性反応はありません」
今は。
その言い方が嫌だ。
「リリア様、ノア。しばらくこの状態を維持してください」
「はい」
「きゅ……」
しばらく。
どれくらいですか。
できれば具体的にお願いします。
司祭長は俺を見て、少しだけ表情を和らげた。
「つらいでしょうが、安定しています。少なくとも、先ほどよりは良い」
先ほどが悪すぎた。
比較対象が地獄だ。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
リリアが微笑む。
「ノア、文句を言っていますか?」
「きゅ」
はい。
かなり。
アリアが小さく息を吐く。
「私にもそう聞こえました」
おっと。
最近、本当に伝わりすぎている。
リリアは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、部屋の空気がわずかに緩む。
よかった。
リリアが笑った。
今日はずっと、彼女の顔が強張っていた。
だから、それだけで少し安心した。
だが、その安心は長く続かなかった。
俺のステータス画面が、何の前触れもなく開いた。
---
経過時間を確認しています。
第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する
条件達成まで:残り一日以上
現在状態:臨界安定
注意:長期維持は困難です。
---
残り一日以上。
長期維持は困難。
でしょうね。
俺もそう思っていました。
この状態であと一日以上?
無理では?
俺は思わず、リリアの指先を前足で軽く叩いた。
「きゅう……」
リリアが心配そうに覗き込む。
「ノア?」
どう説明すればいい。
あと一日以上このままです。
臨界安定は長く持ちません。
たぶん途中でまた何か起きます。
言えない。
鳴き声では無理だ。
俺は小さく震えた。
リリアはその震えに気づく。
「司祭長。ノアの様子が」
司祭長が近づきすぎない距離で俺を見る。
「また変化が?」
違う。
いや、変化の問題でもある。
俺はステータス画面を睨む。
残り一日以上。
ここが問題だ。
伝える方法。
時間。
三日。
俺は机の上に置かれた紙を見た。
神殿図ではない。
予定表。
日付と時間らしきものが書かれている。
俺はそちらを見る。
リリアが気づいた。
「予定表?」
「きゅ」
俺は鳴いた。
司祭長が予定表を持ってきてくれる。
リリアは俺の前足に触れたまま、紙を近づけた。
俺は前足を動かそうとする。
リリアが支えてくれる。
肉球が紙の上に置かれる。
ぽふ。
俺が押したのは、今日の日付。
次に、前足をずらそうとする。
リリアが慎重に支えてくれる。
ぽふ。
翌日。
さらに動かそうとして、体が少しざわつく。
「きゅっ」
リリアが慌てる。
「ごめんなさい」
でも、もう一度。
俺は前足を動かす。
ぽふ。
さらに次の日。
つまり三日目。
俺はそこで鳴いた。
「きゅ」
リリアが予定表を見る。
「今日、明日、その次……?」
司祭長の目が細くなる。
「三日、という意味ですかな」
伝わった。
さすが司祭長。
怖いくらい伝わる。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
リリアが息を呑む。
「ノアは、三日必要なのですか?」
「きゅ……」
たぶん。
聖女のそばで三日間生存する必要があります。
司祭長は顎に手を当てた。
「なるほど。ノアの変化は、リリア様のそばで一定期間生存することが条件になっている……?」
ほぼ正解。
この人、やっぱり怖い。
アリアが言う。
「では、あとどのくらいですか」
それが問題です。
俺は今日の日付と、リリアと出会った時間を伝えたい。
無理だ。
複雑すぎる。
俺は前足で今日と次の日の間を押した。
その次の日には届かない。
まだ遠い。
そんなイメージ。
リリアがじっと見て、呟いた。
「まだ、明日を越えなければならない……?」
近い。
かなり近い。
俺は鳴いた。
「きゅ」
リリアの表情が曇る。
「この状態で、そんなに……」
そうです。
俺も無理だと思います。
司祭長の顔も厳しくなる。
「長期維持が必要なら、安定した環境を作らねばなりません。リリア様の負担も考える必要があります」
アリアが即座に言った。
「交代はできませんか」
「おそらくできません」
司祭長は俺を見る。
「ノアが反応しているのは、リリア様の聖力です。他の者では代替にならない」
ですよね。
知ってました。
リリアは俺の前足に触れたまま、静かに言った。
「私は大丈夫です」
「聖女様」
アリアが厳しい声を出す。
「また大丈夫ではないものを大丈夫と言っています」
「でも、ノアが」
「ノアを支えるためにも、聖女様が倒れてはいけません」
その通り。
アリアさん、もっと言ってください。
リリアは少しだけ黙った。
そして頷く。
「……はい。では、倒れない方法を考えましょう」
えらい。
ちゃんと聞いた。
リリアは自分の無理を止める方向へ少しずつ成長している。
俺は少し安心した。
司祭長が提案する。
「まず、ノアを安定させる専用の結界台を作ります。リリア様は常に触れ続けるのではなく、一定の接触を保てる姿勢にする。食事や休憩の際も、指先か聖力糸でつながりを維持できるか試しましょう」
聖力糸。
何それ。
便利そうだけど怖い。
リリアが首を傾げる。
「聖力糸ですか?」
「直接触れるより細く聖力を伸ばし、対象に添わせる技術です。治療中の幼児や小動物に使うことがあります」
小動物。
俺は小動物枠で正しいのか。
今の姿で?
角と銀紋があるけど?
まあいい。
使えるなら試してほしい。
リリアは真剣に頷いた。
「やってみます。ただし、ノアに負担がないように」
「もちろんです」
こうして、俺を一日以上保たせるための準備が始まった。
俺は思った。
まさか異世界で、延命措置みたいな準備をされることになるとは。
しかも理由が、進化条件の時間待ち。
人生、何があるか分からない。
いや、魔物生か。
どちらにしても分からない。
◇
しばらくして、部屋の中央に新しい台が用意された。
丸い木の台に、柔らかい布。
その下には聖印ではなく、緩衝用の中立紋というものが刻まれているらしい。
強すぎる聖属性を和らげ、魔性の侵入を防ぐ。
俺にとってはありがたい仕様だ。
神殿にも、探せば優しい設備があるらしい。
もっと早く出してほしかった。
俺はその上にそっと移された。
リリアの指は、俺の前足に触れたまま。
接触を切らないように、アリアと司祭長が慎重に動かす。
まるで爆弾処理である。
いや、今の俺は本当に臨界状態なので、あながち間違っていない。
台に移されると、体の負担が少しだけ軽くなった。
---
中立紋による安定補助を確認しました。
臨界安定:維持
負荷:高 → 中高
---
中高。
まだ高いけど、少し下がった。
ありがたい。
リリアがほっと息をつく。
「少し楽そうです」
「きゅ」
楽です。
少し。
司祭長が頷く。
「次に聖力糸を試します。リリア様、指先から細く、ノアの前足へ添わせるように」
「はい」
リリアが目を閉じる。
指先に白い光が集まる。
細い糸のような光。
それが、俺の前足にそっと触れた。
直接の接触よりも薄い。
ちりちりする刺激も少ない。
でも、リリアの気配は伝わる。
---
保護対象との聖力接続を確認しました。
接触代替:有効
臨界安定:維持
---
有効。
よし。
これならリリアがずっと俺を抱えていなくても済む。
リリアも少し安心したようだった。
「ノア、痛くありませんか?」
「きゅ」
大丈夫です。
これはかなり良いです。
リリアは微笑んだ。
「よかった」
アリアも表情を緩める。
「これなら、聖女様も少しは休めます」
「はい」
リリアは頷いた。
だが、すぐに俺を見る。
「でも、ノアから離れすぎません」
「それは当然です」
アリアもそこは否定しなかった。
俺は新しい台の上で、ようやく少しだけ体を伸ばした。
角が布に当たらない。
尻尾も楽だ。
中立紋のおかげで、聖属性の圧も少し和らいでいる。
やっと。
やっと、少し休めるかもしれない。
そう思った。
その時、部屋の外から控えめな声がした。
「司祭長。リーネが話すと言っています」
全員の空気がまた変わる。
俺は台の上で目を細めた。
またか。
俺の休息は、いつも扉の向こうから邪魔される。
司祭長が扉の方を見る。
「内容は?」
「魔性具を渡した者について。ただし……」
「ただし?」
「聖女様とノアにだけ伝える、と」
部屋が静まり返った。
俺は固まった。
いやいやいや。
俺も?
なぜ俺も?
事情聴取に珍生物を参加させないでほしい。
リリアの顔が険しくなる。
「ノアに負担がかかるなら、聞きません」
即答だった。
ありがたい。
しかし、伝令の神官は困ったように続ける。
「リーネは、黒い石の声が『器』と呼んだものについて話す、と言っています」
器。
俺のことかもしれない言葉。
聞く必要はある。
できれば聞きたくない。
非常に聞きたくない。
だが、これを聞かないと、次に何が起きるか分からない。
リリアは俺を見た。
「ノア……」
無理しなくていい。
その目がそう言っていた。
俺は台の上で、深く息を吐いた。
「きゅ……」
聞きます。
聞くだけなら。
動かないなら。
たぶん。
リリアの聖力糸が、俺の前足に優しく触れている。
俺はそのつながりを感じながら、もう一度鳴いた。
「きゅ」
リリアは苦しそうに微笑んだ。
「分かりました。でも、少しでもつらそうならすぐに止めます」
アリアが低く言う。
「私も同席します」
「もちろんです」
司祭長も頷いた。
「リーネをこの部屋には入れません。隣の監視室と聖話管でつなぎましょう。声だけを通す古い道具です」
聖話管。
また便利そうなものが出た。
声だけなら少しは安全か。
いや、魔性具が声に残っていた前例がある。
油断はできない。
司祭長はそのあたりも分かっているのか、聖話管にも封印を重ねるよう指示した。
しばらくして、机の上に銀色の細い管が置かれた。
片側がこの部屋。
もう片側が監視室につながっているらしい。
司祭長が確認する。
「リーネ。聞こえますか」
少し間があった。
そして、管の向こうからリーネの声がした。
『……聞こえています』
疲れた声だった。
先ほどまでの怒りは薄い。
しかし、まだ硬さは残っている。
リリアが静かに言った。
「リーネ。話してください」
沈黙。
それから、リーネが小さく笑った。
『あの獣も、そこに?』
俺は耳を伏せた。
また獣。
もう訂正する気力もない。
リリアが答える。
「ノアはここにいます。でも、無理はさせません」
『……本当に大事なのですね』
「はい」
リリアは迷わず答えた。
管の向こうで、リーネが息を呑んだ気配がした。
『なら、気をつけてください』
「何に?」
『その子は、ただの珍しい獣ではありません』
知ってます。
たぶん全員、もう知ってます。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
リーネは続ける。
『私に魔性具を渡した人は、その子のことを最初から探していました』
空気が凍った。
最初から?
俺を?
リリアの聖力糸がわずかに震える。
『白い獣。聖女の聖力で消えず、魔性も受け止める器。そう言っていました』
俺は動けなくなった。
白い獣。
聖女の聖力で消えない。
魔性も受け止める器。
それは完全に俺だ。
『聖女様を狙えば、その子は必ず動く。そうすれば、器は育つ、と』
器は育つ。
嫌な言葉だった。
黒狼。
黒牙鼠。
腐食鼠。
影尾鼠。
封虫。
魔性具。
もしかして。
俺の進化ゲージが上がるように、仕向けられていた?
リリアを危険に晒せば、俺が動く。
俺が動けば、聖属性と魔性に触れる。
触れれば、俺は変質する。
育つ。
黒幕は、それを狙っていたのか。
俺はステータス画面を見た。
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外部意図による成長誘導の可能性を確認しました。
警告:進化条件達成後の干渉に注意してください。
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最悪だ。
やっぱり進化がゴールじゃない。
進化した瞬間を、誰かが狙っている。
リリアが震える声で言った。
「ノアを育てるために、私たちを危険に晒したのですか」
リーネの声は小さかった。
『私は、最初は知りませんでした。ただ、聖女様の行動を止めるためだと……でも途中で、あの人はその獣ばかり見ていると分かりました』
「その人は誰ですか」
リリアが問う。
管の向こうで、リーネは少し黙った。
そして言った。
『名前は知りません。ただ、片目に黒い硝子の義眼を入れた男です』
片目に黒い硝子の義眼。
新しい手がかり。
司祭長の顔色が変わった。
アリアもそれに気づく。
「司祭長?」
司祭長は、低く呟いた。
「まさか……」
リリアが尋ねる。
「知っているのですか?」
司祭長は少しだけ沈黙した。
そして重く答えた。
「二十年前、神殿を追放された魔性研究者がいました」
魔性研究者。
嫌な響きだ。
「名は、ガルディアス」
司祭長の声がさらに低くなる。
「片目に黒い硝子の義眼を持つ男です」
部屋の空気が完全に冷えた。
ガルディアス。
黒幕の名前らしきものが、ついに出た。
俺は台の上で、小さく鳴いた。
「きゅ……」
聖女様。
どうやら俺は、思ったよりずっと面倒なものに目をつけられていたみたいです。




