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第19話 聖女様、珍生物の扱いが重要案件になっています

 ガルディアス。


 二十年前、神殿を追放された魔性研究者。


 片目に黒い硝子の義眼を持つ男。


 その名前が出た瞬間、部屋の空気が変わった。


 重くなった、というより。


 古い蓋を開けてしまったような感じだった。


 今まで俺たちの前に現れていたのは、リーネだった。


 神殿内の不満を抱え、リリアの善意を憎み、魔性具に手を伸ばした実行犯。


 だが、その背後にいた人物の名が出た途端、司祭長の表情から血の気が引いた。


 アリアもただ事ではないと察したのか、剣に手を添えたまま動かない。


 リリアは、俺の前足につながる聖力糸を乱さないようにしながら、静かに司祭長を見つめていた。


 俺は新しく用意された結界台の上にいる。


 柔らかい布。


 中立紋。


 リリアの聖力糸。


 この三つのおかげで、どうにか臨界安定を維持している。


 進化ゲージは百%。


 第一進化条件は未達。


 残りは一日以上。


 このまま一日以上耐えろと言われている。


 つらい。


 かなりつらい。


 なのに、今度は二十年前に追放された魔性研究者の話である。


 俺の安静はどこへ行った。


 たぶん、異世界のどこかで迷子になっている。


 聖話管の向こうでは、リーネの浅い呼吸だけが聞こえていた。


 彼女も、ガルディアスという名までは知らなかったのだろう。


 司祭長の反応に、息を呑んでいる気配がある。


 リリアが口を開いた。


「司祭長。ガルディアスとは、どのような人物なのですか」


 司祭長はすぐに答えなかった。


 白い髭に手を当て、目を伏せる。


 かなり言いづらそうだった。


「……神殿にとって、古い傷のような人物です」


「古い傷」


「ええ。かつて彼は、聖具研究を担う神官でした。非常に優秀で、結界術にも、聖力の流れにも詳しかった」


 聖具研究。


 結界術。


 聖力の流れ。


 リーネに魔性具を渡し、神殿結界を内側から歪め、リリアの聖力紋に干渉した人物。


 その経歴としては、嫌なくらい一致している。


「ですが、彼は聖力だけではなく、魔性にも強い関心を持っていました」


 司祭長の声が低くなる。


「聖力と魔性は、本当に対立するだけのものなのか。魔性を聖力で消すのではなく、別の形へ変えられないのか。彼は、そうした研究にのめり込んでいった」


 俺はぴくりと耳を動かした。


 魔性を別の形へ変える。


 それは、今の俺がやっていることに近い。


 いや、近いどころではない。


 聖魔変換膜。


 浄火の瞬き。


 魔性を受け止め、聖属性に近い形へ変える。


 ガルディアスは、まさにそれを研究していたのかもしれない。


 嫌な符合だった。


 アリアが言う。


「研究だけなら、追放にはならないはずです」


「もちろんです」


 司祭長は頷いた。


「問題は、彼が実験対象を求めたことです」


 部屋の空気が冷えた。


 リリアの聖力糸が一瞬だけ震える。


 俺の前足に、わずかな揺れが伝わった。


「実験対象……」


「最初は破損聖具や、魔性に汚染された器物でした。しかしやがて、彼は生き物で試そうとした」


 嫌な話だ。


 ものすごく嫌な話だ。


 俺は尻尾を丸めた。


 この先を聞きたくない。


 しかし、聞かないわけにもいかない。


「魔物ですか」


 アリアが問う。


 司祭長は首を横に振る。


「最初は、魔性に触れた獣や小動物だったと記録されています」


 小動物。


 やめて。


 今それを言われると、俺への直撃が強い。


「ですが、最後には聖力を持つ者にまで手を伸ばそうとした」


 リリアが息を呑んだ。


「聖力を持つ者……神官や聖女候補ですか」


「ええ」


 司祭長の表情が苦くなる。


「その企てが発覚し、彼は神殿から追放されました。研究資料の多くは封印され、魔性具の製造法も禁忌とされた」


 だからガルディアスは追放された。


 そして今、二十年後。


 彼はリーネを使い、リリアを狙い、俺を「器」と呼んだ。


 聖女の聖力で消えず、魔性も受け止める白い獣。


 それを最初から探していた。


 リリアを危険に晒せば、その獣は動く。


 そうすれば、器は育つ。


 俺は台の上で小さく震えた。


 ガルディアスは、俺を偶然見つけたわけではない。


 少なくとも、リーネの口ぶりではそうだった。


 では、いつから?


 黒狼に襲われた時から?


 森で転生した直後から?


 いや、さすがにそこまでは分からない。


 でも、考えるだけで気持ち悪い。


 俺の転生初日からの危険が、全部誰かの計画だったとしたら。


 俺はずっと、育てられていたことになる。


 敵に。


 リリアが静かに言った。


「ノアを育てるために、私が使われたのですね」


 その声に、俺は顔を上げた。


 リリアの表情は苦しそうだった。


 自分が狙われたことより、俺を危険に向かわせるための餌のように使われたことを気にしている。


 俺は慌てて鳴いた。


「きゅ」


 違います。


 リリアは餌じゃないです。


 少なくとも、俺にとっては。


 リリアが俺を見る。


「ノア……」


「きゅ、きゅう」


 伝わるか分からない。


 でも、言いたかった。


 俺がリリアを助けようとしたのは、ガルディアスの計画だからではない。


 リリアが俺を拾ってくれたからだ。


 リリアが俺をノアと呼んだからだ。


 リリアが、俺をただの道具として見なかったからだ。


 そこだけは、敵に決められたくない。


 リリアは、俺の声を聞いて少しだけ目を伏せた。


「……ありがとうございます」


 伝わったのかもしれない。


 いや、都合よく受け取ってくれただけかもしれない。


 どちらでもよかった。


     ◇


 聖話管の向こうから、リーネの声がした。


『……私は、知らなかったんです』


 小さな声だった。


『あの人が、そこまで考えていたなんて。私はただ、聖女様を止めたかった。神殿が壊れる前に、誰かに気づいてほしかった』


 アリアの目が冷たくなる。


「そのために神殿を壊しかけたのですか」


 リーネは黙った。


 何も言い返せなかったのだろう。


 リリアは静かに問う。


「ガルディアスは、あなたに何と言って近づいたのですか」


 少しの沈黙。


 そして、リーネが答える。


『神殿は、聖女様を利用していると言いました』


 リリアの表情がわずかに動く。


『あなたが優しいから、神殿はあなたに善行を背負わせる。あなたが動けば民衆は喜ぶ。神殿の名声は上がる。でも、その裏で働く者の疲弊は隠される。そう言われました』


 司祭長の顔が痛ましげに歪んだ。


 それは、完全な嘘ではないのだろう。


 リリアの活動は人々を救う。


 だが、その活動を支える者たちには負担がある。


 リーネはそこに苦しんでいた。


 ガルディアスは、その苦しみを見つけて、利用した。


『だから、聖女様の正しさを一度壊せばいいと。そうすれば、皆が考え直すと』


「それで魔性具を受け取ったのですか」


『……最初は、ただの記録妨害用だと言われました。予定表を乱し、孤児院訪問を延期させるだけだと』


 嘘だ。


 最初からそんなわけがない。


 だが、リーネは信じたのだろう。


 信じたかったのかもしれない。


『でも、だんだん道具が増えました。黒牙鼠、腐食鼠、影尾鼠、封虫。あの人は、聖女様が動くたびに、次の魔性具を渡してきた』


 俺の背筋が冷える。


 やはり、段階的に用意されていた。


『そして、そのたびに言いました。白い獣が育っている、と』


 リリアの聖力糸がまた震えた。


 俺は前足で、そっとその糸に触れる。


 大丈夫。


 いや、大丈夫ではないけど。


 でも、今はここにいます。


 リリアは俺を見て、小さく息を整えた。


 リーネは続ける。


『私は、途中で怖くなりました。けれど、もう止まれなかった。神官長様に疑いを向けたのも、エルドを巻き込んだのも、全部、あの人の指示です』


「ガルディアスはどこにいるのですか」


 アリアが問う。


『分かりません』


「本当に?」


『本当に。声と魔性具だけです。姿を見たのは二度だけ。どちらも、神殿の外でした』


「場所は」


『北門の外にある古い施療小屋です。今は使われていない場所』


 司祭長が目を細める。


「北門外の旧施療小屋……まだ残っていたのか」


 アリアが言う。


「確認部隊を出します」


「待ちなさい」


 司祭長が止めた。


「罠の可能性が高い」


 俺もそう思う。


 ここまでの流れを見る限り、ガルディアスは囮を使う。


 北側通路の魔性具もそうだった。


 旧施療小屋も、空の罠かもしれない。


 あるいは、神官兵を外へ誘導するための餌かもしれない。


 アリアも分かっているようで、表情を硬くした。


「では、どうしますか」


「外の警備を増やすだけに留めます。今夜は無理に踏み込まない」


 今夜。


 窓の外はすっかり暗くなっている。


 ただし、日付が変わったわけではない。


 まだ、同じ日の夜。


 とてつもなく長い一日だ。


 俺の体感では、もう三日くらい経っていてほしい。


 だが、進化条件は無情に言っている。


 残り一日以上。


 やめてほしい。


 本当に。


 司祭長はリーネに問う。


「ガルディアスが次に何を狙うか、聞いていますか」


 長い沈黙があった。


 そしてリーネは、低く言った。


『三日目、とだけ』


 俺の体が固まった。


 リリアも息を呑んだ。


『白い獣が、聖女のそばで三度夜を越える時。器は開く。そう言っていました』


 白い獣が。


 聖女のそばで。


 三度夜を越える時。


 器は開く。


 最悪だ。


 ガルディアスは知っている。


 俺の進化条件を、ほぼ知っている。


 正確に「三日間生存」とまでは言っていない。


 でも、かなり近い。


 聖女のそばで三度夜を越える。


 それは、俺の条件とほとんど同じ意味だ。


 ステータス画面が、嫌なタイミングで開く。


---


外部対象が進化条件に類似する情報を保持しています。


危険度:高


警告:条件達成時の干渉に注意してください。


---


 うるさい。


 分かってる。


 分かってるけど、表示されると怖い。


 俺は台の上で縮こまった。


「きゅ……」


 リリアが聖力糸を通じて、そっと俺に触れる。


「ノア」


 その声は震えていた。


 だが、リリアはすぐに言った。


「大丈夫です。開かせません」


 いや、開くのはたぶん俺の進化です。


 開かないと俺も困るかもしれません。


 でも、ガルディアスに利用される形で開くのは絶対に嫌だ。


 リリアは言い直すように続けた。


「いいえ。ノアが変わるのは、ノアのためです。誰かに利用されるためではありません」


 俺はリリアを見る。


「だから、守ります。ノアがちゃんとノアのまま変われるように」


 その言葉は、胸に刺さった。


 ノアのまま変わる。


 俺は魔物だ。


 中身は元人間だ。


 今は珍生物扱いされている。


 角が生えて、銀紋が出て、進化寸前で止まっている。


 変わるのは怖い。


 でも、ノアのまま変われるなら。


 少しだけ、怖さが和らぐ気がした。


 アリアが静かに言う。


「聖女様。三度目の夜まで、ガルディアスは必ず何かしてくると考えるべきです」


「はい」


 司祭長も頷く。


「ノアの安定と、リリア様の保護。その二つを最優先にします」


 アリアがすぐに指示を出した。


「部屋の周囲を三重警戒。窓、祈祷室、床下、天井裏、すべて確認。神官兵は二交代ではなく三交代で疲労を避ける。食事と水は聖女様、ノアともに確認済みのものだけ」


 すごい。


 護衛騎士の本気だ。


 アリアの指示が流れると、神官兵たちがすぐに動き出す。


 俺は台の上で思った。


 これはもう、珍生物一匹の保護体制ではない。


 国家重要物資か何かだ。


 いや、聖女も一緒だから当然か。


 でも俺まで含まれている。


 扱いが重い。


 重すぎる。


 リリアが俺を見て、小さく微笑んだ。


「ノア、今度こそ休めるようにしますね」


「きゅ……」


 信じたいです。


 でも、今日の流れ的にあまり信じきれません。


 アリアがこちらを見た。


「今のは疑っている声ですね」


「きゅ」


 はい。


 かなり。


 リリアが少しだけ笑う。


 その笑いで、少しだけ空気が軽くなった。


 よかった。


 笑えるなら、まだ大丈夫だ。


     ◇


 聖話管の向こうで、リーネが小さく言った。


『……聖女様』


 リリアは視線を戻した。


「はい」


『私は、許されますか』


 その問いは、あまりにも身勝手だった。


 俺は思わず耳を伏せる。


 孤児院を危険に晒し、神官長やエルドを陥れ、ミラを巻き込み、リリアを狙い、俺を器として利用しようとした。


 そのあとで、許されますか。


 虫がいいにもほどがある。


 アリアの目も冷たくなった。


 だが、リリアはすぐには答えなかった。


 しばらく沈黙してから、ゆっくり言った。


「私が、あなたを許すかどうかだけで終わる話ではありません」


 リーネは黙っている。


「孤児院の子どもたち。巻き込まれた神官長。エルド神官。ミラ。神殿の人たち。あなたが怖い思いをさせた全員がいます」


 リリアの声は優しい。


 でも、甘くはなかった。


「だから、私はここで簡単に許しますとは言いません」


 リーネが息を呑む音が聞こえた。


「でも、あなたが本当に償うつもりなら、その道は閉ざしたくありません」


 リリアは続けた。


「あなたが知っていることを話してください。ガルディアスを止めるために協力してください。あなたの罪は消えません。でも、これ以上誰かを傷つけない選択は、今からでもできます」


 静かな言葉だった。


 リーネは何も言わない。


 ただ、管の向こうで嗚咽のような音が漏れた。


 泣いているのかもしれない。


 俺は複雑な気持ちだった。


 リーネのしたことは許せない。


 でも、彼女がただの悪人だけで終わるわけではないのも分かる。


 ガルディアスに利用された。


 不満をつけ込まれた。


 それでも、選んだのはリーネだ。


 罪はある。


 けれど、ここからどうするかもある。


 リリアは、そこを見ている。


 俺にはできない。


 やっぱりこの子は聖女だ。


 かなり変な聖女だが、ちゃんと聖女だ。


 聖話管の向こうで、リーネが震える声で言った。


『……ガルディアスは、三日目に来ます』


 全員が息を詰める。


『器が開く瞬間、聖女様の聖力と、その子の変化が重なる。その時だけ、聖女様を媒介にして器へ干渉できると言っていました』


 リリアの顔が強張る。


 俺の体も硬くなった。


『だから、三日目までは殺さない。壊さない。育てる。そう言っていました』


 吐き気がするような言葉だった。


 育てる。


 壊さない。


 殺さない。


 まるで俺たちを飼育しているかのような言い方だ。


 俺は低く鳴いた。


「きゅう……」


 怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からなかった。


 リリアの聖力糸がそっと俺を包む。


 強くない。


 優しい。


 落ち着かせるような光だった。


「ノア、大丈夫です」


「きゅ……」


 大丈夫ではないです。


 でも、その声は助かります。


 リリアは静かに言った。


「ガルディアスが来るなら、迎え撃ちます」


 アリアが即座に頷く。


「必ず」


 司祭長も重々しく言う。


「二十年前の過ちを、今度こそ終わらせます」


 部屋の空気が変わった。


 怯えるだけではない。


 逃げるだけでもない。


 次に来る危険が分かっている。


 なら、備える。


 守る。


 戦う。


 そういう空気だった。


 俺は台の上で、リリアの聖力糸に触れたまま目を細めた。


 進化ゲージは百%。


 条件達成まで残り一日以上。


 ガルディアスは、その時を狙っている。


 怖い。


 かなり怖い。


 でも、俺はひとりではない。


 リリアがいる。


 アリアがいる。


 司祭長がいる。


 神殿の人たちも、今度は敵ではない。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 リリアが俺を見る。


「ノア?」


 俺はもう一度鳴いた。


「きゅ」


 怖いけど。


 逃げたいけど。


 でも。


 この場所で、ちゃんと変わりたい。


 ガルディアスの器としてではなく。


 リリアが呼んでくれる、ノアとして。


 リリアは、何かを感じ取ったように微笑んだ。


「はい。ノアはノアです」


 その言葉に、俺は少しだけ力を抜いた。


 夜はまだ始まったばかりだった。


 事件の一日は、ようやく一区切りついたにすぎない。


 だが、次の危機はもう見えている。


 三日目。


 俺が進化する時。


 ガルディアスが来る。


 なら、それまでに準備しなければならない。


 俺は台の上で、小さく尻尾を丸めた。


 聖女様。


 どうやら俺の第一進化は、ただ大きくなるだけでは済まなさそうです。

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