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第20話 聖女様、珍生物の進化待ちは厳戒態勢です

 三日目。


 俺が進化する時。


 ガルディアスが来る。


 その情報が出たことで、リリアの部屋は完全に別物になった。


 もともと警備は厳しかった。


 リーネ事件のあと、窓も封じられたし、隣の祈祷室にも神官兵が置かれた。


 床下も、天井裏も、壁の聖印も調べられた。


 それだけでも十分すぎると思っていた。


 だが、今はさらに上である。


 部屋の外には神官兵。


 廊下の角にも神官兵。


 窓の外の庭にも神官兵。


 隣の祈祷室には司祭長の直属の神官。


 床下には小型の感知聖印。


 天井裏には封印札。


 部屋の四隅には、魔性反応を検知する白い鈴が吊るされた。


 鈴。


 見た目はかわいい。


 だが、鳴ったら危険。


 つまり今の俺は、かわいい鈴に囲まれた危険物である。


 扱いが重い。


 かなり重い。


 ステータス画面が薄く浮かぶ。


---


進化ゲージ:100%


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:未達


現在状態:臨界安定


安定補助:中立紋/聖力糸


注意:条件達成時、外部干渉に警戒してください。


---


 外部干渉。


 分かっている。


 ガルディアスが狙っている。


 黒い硝子の義眼を持つ、二十年前に追放された魔性研究者。


 俺を「器」と呼び、リリアを危険に晒し、俺が育つように仕向けていた男。


 最悪だ。


 俺はただ、転生して生き延びたいだけだった。


 森で黒狼に追われて、リリアに拾われて、珍しい小動物として神殿に入った。


 最初の目標は、処分されないこと。


 次の目標は、浄化されないこと。


 その次は、風呂で溶けないこと。


 ずいぶん低い目標だったはずだ。


 それなのに今では、神殿追放済みの危険研究者に狙われている。


 成長した。


 いや、巻き込まれた。


 俺は結界台の上で、力なく鳴いた。


「きゅ……」


 疲れた声だった。


 リリアが俺のそばに座っている。


 彼女の指先から伸びた聖力糸が、俺の前足にそっと触れていた。


 直接触れるより刺激は少ない。


 だが、リリアの気配はちゃんと伝わる。


 おかげで俺は臨界安定を保っている。


 便利だ。


 ただし、これを維持しているリリアにも負担がかかる。


「ノア、大丈夫ですか?」


「きゅ」


 大丈夫ではないです。


 でも、さっきよりはましです。


 リリアは俺の鳴き声を聞いて、少しだけ眉を下げた。


「さっきよりは、ましそうですね」


 伝わりすぎである。


 最近、リリアのノア語理解力が上がりすぎている。


 俺は低級魔物なのに、意思疎通が成立し始めている。


 これは良いことなのか。


 悪いことなのか。


 両方だ。


 アリアは部屋の入口で警備配置の確認をしていた。


 普段から隙のない人だが、今はいつも以上に鋭い。


 誰かが扉に近づくだけで、目がそちらへ向く。


 剣の柄から手を離さない。


 完全に戦闘態勢である。


 司祭長は机で神殿図と警備表を確認していた。


 こちらも疲れているはずなのに、表情は険しいままだ。


 二十年前のガルディアスを知っているからだろう。


 古い傷。


 司祭長はそう言った。


 その傷が、今になってリリアと俺の前に現れた。


「司祭長」


 リリアが声をかける。


「はい」


「ガルディアスは、本当にここへ来るのでしょうか」


「来るでしょう」


 司祭長は迷わず答えた。


「彼がノアを器と呼び、三日目を待っているのであれば、条件達成の瞬間を見逃すとは思えません」


 やっぱり来るのか。


 できれば来ないでほしい。


 でも、来るのだろう。


 こういうタイプは来る。


 俺の少ない異世界経験でも分かる。


 ガルディアスは、自分の研究結果を見たいはずだ。


 俺がどう変わるのか。


 リリアの聖力と、俺の進化が重なる時に何が起きるのか。


 それを確認しに来る。


 嫌すぎる。


 俺は見世物ではない。


 珍生物ではあるが、見世物ではない。


 アリアが言った。


「なら、こちらも罠を張るべきです」


「ええ」


 司祭長は頷く。


「ただし、ガルディアスは結界術と聖具に精通しています。普通の封印や警備では、逆に利用される恐れがある」


「つまり、過剰な結界は危険ですか」


「そうです。強すぎる聖印は、彼にとって流路に使える材料になるかもしれない」


 俺は耳を立てた。


 さっきまで結界を増やしていたが、増やしすぎても危険らしい。


 聖属性が強ければ安全というわけではない。


 ガルディアスはそれを歪めて使う。


 リリアの聖力も、神殿の聖具も、壊れた聖印も。


 全部、道具にしてしまう。


 厄介すぎる。


「では、どう守るのですか」


 リリアが問う。


 司祭長は俺を見た。


「強い守りではなく、乱されにくい守りを使います」


「乱されにくい守り……」


「ええ。リリア様の聖力を中心に置きすぎないこと。ノアの変化を無理に抑えつけないこと。外からの魔性反応を弾くだけでなく、流れを逃がすこと」


 司祭長は図面の上に指を置く。


「この部屋を閉じた箱にしてはいけません。閉じた箱は、内側から歪められると逃げ場がない」


 俺は思った。


 封印箱もそうだった。


 黒い石から声が聞こえた。


 閉じ込めるだけでは、危険は消えない。


「だから、部屋の結界は三層にします」


 司祭長は説明を続けた。


「一層目は感知。二層目は遅延。三層目は隔離。完全に弾くのではなく、侵入した術式を鈍らせ、分離し、封じる」


 難しい。


 でも、なんとなく分かる。


 相手の攻撃を全部跳ね返すのではなく、勢いを削って、分けて、捕まえる。


 アリアが頷く。


「時間を稼げれば、私が斬れます」


「ええ」


 司祭長は静かに言う。


「そして最後の守りは、リリア様とノアの安定です」


 俺?


 また俺が入っている。


 もう慣れてきたが、慣れたくない。


「ノアの進化は、外部から無理に押さえてはいけません。ガルディアスが狙うのは、おそらくその変化に外から干渉することです」


「なら、ノア自身の変化を安定させることが、防御になるのですね」


 リリアが言った。


「そうです」


 司祭長は頷いた。


「ノアがノアのまま変われること。それが、ガルディアスへの最も大きな対抗策になるでしょう」


 ノアがノアのまま変わる。


 昨日、リリアが言った言葉だ。


 それが作戦になるとは思わなかった。


 俺は結界台の上で、聖力糸に触れている前足を少し動かした。


 リリアが気づく。


「ノア?」


「きゅ」


 分かりました。


 たぶん。


 俺は俺のまま変わる。


 それができるかは分からない。


 だが、やるしかない。


 ガルディアスの器としてではなく。


 リリアが呼んでくれるノアとして。


     ◇


 準備は進んだ。


 まず、俺の結界台が改良された。


 中立紋の外側に、さらに小さな緩衝布が敷かれる。


 その布は、古い聖具を砕いて粉にしたものと、魔性反応を吸着する薬草を合わせて作られたらしい。


 聞いた瞬間、俺は嫌な顔をした。


 魔性反応を吸着する薬草。


 大丈夫なのか。


 それは俺にも効くのでは?


 だが、司祭長曰く、直接魔性を吸うのではなく、外から来た魔性の揺らぎを鈍らせるものらしい。


 難しい。


 でも、ステータス画面はこう表示した。


---


安定補助環境が強化されました。


臨界安定:維持


負荷:中高 → 中


---


 中。


 だいぶましになった。


 すばらしい。


 もっと早くやってほしかった。


 俺は台の上で、少しだけ体を伸ばす。


 角が布に当たらないよう、専用のくぼみまで作られていた。


 角用のくぼみ。


 俺はもう、角がある前提の寝床を与えられている。


 珍生物生活の後戻りができなくなっている気がする。


 リリアがそれを見て、嬉しそうに言った。


「ノア、楽そうですね」


「きゅ」


 楽です。


 角用のくぼみは少し複雑ですが。


 アリアが横から言う。


「聖女様。角という認識でよろしいですね」


「大切な個性用のくぼみです」


「言い換えが苦しくなっています」


「でも、ノアが楽なら良いです」


 リリアはにこりと微笑む。


 アリアは一度だけ俺を見てから、諦めたように息を吐いた。


「……それは同意します」


 同意するのか。


 アリアさんも少しずつ柔らかくなっている。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 ありがとうございます。


 アリアは俺を見る。


「今のは礼を言ったように見えました」


「ノアは礼儀正しいですから」


 リリアが言う。


「珍しい獣にしては、ですが」


 アリアが付け足す。


 いいです。


 もう珍しい獣でいいです。


 魔物と言われるよりはずっといい。


 次に、リリアの負担を減らすための姿勢が決められた。


 リリアは俺の横に椅子を置き、片手で聖力糸を維持する。


 もう片方の手は自由にする。


 食事や水を取る時、書類を見る時、最低限の祈りを行う時も、聖力糸を切らないようにする。


 大変そうだ。


 俺は何度も「無理では?」と思った。


 だが、リリアは本当に器用だった。


 糸は細い。


 光も弱い。


 しかし、安定している。


 さすが聖女。


 普段は少しズレているが、力の制御はやはり一流らしい。


「聖女様、少し水を」


 アリアが杯を差し出す。


 もちろん確認済み。


 毒も魔性反応もなし。


 リリアは聖力糸を維持したまま、水を飲んだ。


 俺はじっと見ていた。


 糸は切れない。


 揺れも少ない。


 すごい。


 俺なら絶対にできない。


 いや、俺にはそもそも手がない。


 前足はあるけど。


「ノア、心配してくれているのですか?」


「きゅ」


 はい。


 かなり。


「大丈夫です。これなら続けられます」


 リリアはそう言った。


 だが、アリアがすぐに割り込む。


「休憩の交代はできませんが、周囲の作業はすべてこちらで行います。聖女様は聖力糸の維持だけに集中してください」


「はい」


「それと、無理を感じたらすぐ言うこと」


「はい」


「大丈夫です、は禁止です」


「……はい」


 リリアが少しだけしゅんとした。


 俺は内心で拍手した。


 アリアさん、強い。


 とても頼もしい。


 リリアは大丈夫と言いがちだ。


 そしてだいたい大丈夫ではない。


 それを止められる人がいるのはありがたい。


 司祭長も頷いた。


「ノアも、異変があれば鳴いて知らせてください」


「きゅ」


 了解です。


 たぶん。


 俺は鳴くことしかできない。


 でも、最近はそれでもかなり通じる。


 この部屋の人間たちのノア語理解力が上がりすぎている。


 いつか辞書ができそうだ。


     ◇


 部屋の外では、ガルディアス対策の準備が進んでいた。


 北門外の旧施療小屋には、直接踏み込まない。


 その代わり、遠巻きに監視を置く。


 神殿内の魔性具の残骸はすべて封印箱へ。


 リーネ、エルド、ミラ、神官長の証言は別々にまとめられる。


 リーネが協力する姿勢を見せたことで、魔性具の配置場所や通信石の使い方も少し分かってきたらしい。


 とはいえ、ガルディアス本人の居場所は不明。


 彼はまだ外にいる。


 あるいは、神殿の近くに潜んでいる。


 それだけで、部屋の空気は緩まない。


 俺は結界台の上で、ぼんやりとその報告を聞いていた。


 安定補助で負荷は下がった。


 だが、疲れが消えたわけではない。


 体の奥には、ずっと重い熱がある。


 進化ゲージ百%。


 条件未達。


 臨界安定。


 この三つが体の中にずっと表示されているようだった。


 変わりたい。


 いや、変わりたくない。


 変わらないと苦しい。


 でも、変わるのが怖い。


 どちらでもない中途半端な状態が続く。


 俺は小さく唸った。


「きゅう……」


 リリアがすぐに反応する。


「ノア、苦しいですか?」


「きゅ」


 少し。


 いや、結構。


 でも我慢できる範囲です。


 リリアは眉を下げる。


「司祭長」


「状態に大きな乱れはありません。ですが、やはり長く続くほど負担は蓄積します」


「何かできることは?」


「刺激を増やさず、安心できる状態を保つことです」


 安心。


 この状況で?


 ガルディアスが来ると分かっていて、神殿中が警戒態勢で、俺は臨界状態。


 安心とは。


 かなり難しい注文だ。


 リリアは少し考えた。


 そして、俺のそばに身を寄せすぎない距離で椅子を近づけた。


 聖力糸はそのまま。


 彼女は静かに、俺の目線に合わせて少し屈んだ。


「ノア」


「きゅ」


「怖いですか?」


「きゅ」


 はい。


 即答だった。


 リリアは少しだけ笑った。


「私も怖いです」


 俺はリリアを見た。


 彼女は正直に言った。


「ガルディアスが来ることも、ノアが苦しそうなことも、私の力がまた利用されるかもしれないことも、怖いです」


 リリアの声は静かだった。


「でも、怖いからこそ、一人ではないことを忘れないようにしたいです」


 彼女の指先から伸びる聖力糸が、少しだけ温かくなる。


 強くはない。


 優しい。


 俺を包むほどではなく、ただそばにある光。


「ノアは一人ではありません」


 リリアは言った。


「私も一人ではありません」


 その言葉が、俺の中にゆっくり入ってくる。


 俺は転生してすぐ、森で一人だった。


 黒狼に追われて、何も分からず、ただ死にたくなくて逃げていた。


 そこにリリアが来た。


 俺を拾った。


 ノアと名付けた。


 珍しい小動物として。


 今思えば、かなり無理のある扱いだ。


 でも、その無理のおかげで俺はここにいる。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 ありがとうございます。


 リリアは微笑む。


「こちらこそ」


 アリアが少し離れた場所で、小さく息を吐いた。


「聖女様。今の会話、ほぼ成立していませんか」


「ノアは賢いですから」


「賢いで済ませる段階は過ぎています」


「とても賢いです」


「大きくすればよいわけではありません」


 いつものやりとり。


 それを聞いて、俺は少しだけ力が抜けた。


 安心とは、こういうことかもしれない。


 何かすごい結界や魔法ではなく。


 いつもの会話。


 いつものツッコミ。


 リリアの少しズレた優しさ。


 アリアの冷静な突っ込み。


 司祭長の怖いくらい鋭い観察。


 それらがあること。


 俺は目を細めた。


 眠るわけではない。


 まだ完全に気を抜くわけにもいかない。


 ただ、少しだけ体の力を緩めた。


---


精神状態の安定を確認しました。


臨界安定:維持


負荷:中 → 中低


---


 中低。


 さらに下がった。


 なるほど。


 安心できる状態というのは、本当に効果があるらしい。


 ステータス画面は淡々としているが、少しだけありがたかった。


     ◇


 その後、リリアは俺のそばで簡単な食事を取った。


 もちろん、検査済みである。


 アリアが確認。


 司祭長が確認。


 最後に俺も見た。


 危険反応なし。


 俺は危険物検査係を卒業したかったが、結局目視だけは求められた。


 いや、今回は見るだけだ。


 匂いを嗅がされなかっただけましである。


 リリアの食事は、パンとスープと果物。


 かなり軽い。


 彼女は聖力糸を維持したまま、ゆっくり食べている。


 俺の前にも、小さな皿が置かれた。


 白いミルクのようなもの。


 ただし、今回は中立紋の台の上に置かれ、聖属性が強すぎないよう調整されている。


 俺は皿を見た。


 飲めるのか。


 体は重いが、腹は少し減っている。


 というか、今日は動きすぎた。


 黒牙鼠どころではない。


 事件の連続だった。


 エネルギーが足りない。


「ノア、飲めそうですか?」


「きゅ」


 たぶん。


 俺は皿に顔を近づけた。


 匂いは大丈夫。


 聖属性の刺激も少ない。


 舌をつける。


 温かい。


 甘い。


 飲める。


「きゅ……」


 うまい。


 思わず声が漏れた。


 リリアの顔がぱっと明るくなる。


「おいしそうです」


 アリアも少し表情を緩めた。


「食欲があるなら、少し安心ですね」


 司祭長も頷く。


「ええ。臨界状態でも、生命活動は安定しているようです」


 生命活動。


 急に研究っぽく言わないでほしい。


 でもまあ、生きているならいい。


 俺はミルクを少しずつ飲んだ。


 飲むたびに、体に少し力が戻る気がする。


---


栄養補給を確認しました。


臨界安定:維持


体力がわずかに回復しました。


---


 よし。


 食事は大事。


 異世界でもそれは同じらしい。


 リリアは俺が飲むのを見守っていた。


 自分の食事より、俺の方を見ている。


 アリアがすぐ言った。


「聖女様、ご自身の食事も」


「あ、はい」


 リリアは慌ててスープを口に運ぶ。


 危なっかしい。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 ちゃんと食べてください。


 リリアが俺を見る。


「ノアに注意されました」


「当然です」


 アリアが即答した。


「聖女様が倒れれば、ノアも危険です」


「はい……」


 リリアは今度こそ、ちゃんと食べ始めた。


 俺は少し安心する。


 こういう時間が、ずっと続けばいいのに。


 もちろん、続かないのは分かっている。


 ガルディアスが来る。


 三日目を狙っている。


 だが、今この瞬間だけは、ミルクを飲む珍生物と、食事をする聖女と、それを見張る護衛と司祭長がいるだけだった。


 少し変だが、悪くない時間だった。


     ◇


 食事のあと、リリアは聖力糸を保ったまま、祈りではなく呼吸を整える訓練をした。


 司祭長の指示だ。


 強い祈りは聖力を高めすぎる。


 今必要なのは、低く安定した聖力の維持。


 つまり、リリア自身が落ち着いていることが大事らしい。


 俺もそれに合わせて、台の上でじっとする。


 聖力糸が安定していると、俺の体も楽だ。


 まるで、リリアの呼吸に合わせて体の内側のざわつきが鎮まっていくようだった。


 司祭長は満足そうに頷く。


「良い状態です」


 アリアも少しだけ肩の力を抜いた。


 部屋の外の警備は相変わらず厳重だが、内側は少しだけ落ち着いていた。


 俺は目を閉じかけた。


 眠るわけではない。


 ただ、目を休めるだけ。


 そう思った瞬間、ステータス画面が開いた。


---


経過時間を確認しています。


第一進化条件:聖女のそばで三日間生存する


条件達成まで:23時間59分19秒


現在状態:臨界安定


注意:長時間維持は困難です。


---


 秒まで出た。


 急に細かい。


 今までは「未達」とか「残り時間不明」とか、かなり雑だったのに。


 どうやら、進化ゲージが百%に到達したことで、条件達成までの時間を正確に認識できるようになったらしい。


 残り、二十三時間五十九分十九秒。


 ほぼ一日。


 普通なら、少し待てば終わる時間だ。


 だが、今の俺は進化ゲージ百%のまま、臨界安定という危なっかしい状態で止まっている。


 この状態で、ほぼ一日。


 短いようで、今の俺には長すぎた。


「きゅう……」


 俺は思わず、リリアの指先に触れている前足を軽く動かした。


 リリアが心配そうに覗き込む。


「ノア?」


 どう説明すればいい。


 あと二十三時間五十九分十九秒です。


 しかも一秒ずつ減っているのが分かります。


 でも、この状態でそれを耐えるのはかなりきついです。


 さらに、ガルディアスはたぶん、その時を狙っています。


 鳴き声では無理だ。


 情報量が多すぎる。


 俺は小さく震えた。


 リリアはその震えに気づく。


「司祭長。ノアの様子が」


 司祭長が近づきすぎない距離で俺を見る。


「また変化が?」


 違う。


 いや、変化の問題でもある。


 俺はステータス画面を睨む。


 残り二十三時間五十九分十九秒。


 ここが問題だ。


 今なら分かる。


 前よりずっとはっきり分かる。


 進化が近づいている。


 でも、まだ届かない。


 残り時間が秒まで見えるようになったせいで、逆にその遠さがはっきりした。


 時間が減っている。


 確実に進んでいる。


 それは希望のはずなのに。


 一秒ずつしか進まない表示を見ていると、ほぼ一日という時間が、とんでもなく長く感じられた。


 俺は机の上に置かれた予定表を見た。


 リリアが気づく。


「予定表?」


「きゅ」


 俺は鳴いた。


 司祭長が予定表を持ってきてくれる。


 リリアは俺の前足に聖力糸を添えたまま、紙を近づけた。


 俺は前足を動かそうとする。


 リリアが支えてくれる。


 肉球が紙の上に置かれる。


 ぽふ。


 俺が押したのは、今日の日付。


 次に、リリアに支えられながら、翌日の同じくらいの時間より少し前を押した。


 ぽふ。


 つまり、明日のこの時間まではいかない。


 でも、そこにかなり近い。


 俺はそこで鳴いた。


「きゅ」


 リリアが予定表を見る。


「今日から……明日のこの時間より少し前?」


 司祭長の目が細くなる。


「残り一日を切った、という意味ですかな」


 伝わった。


 さすが司祭長。


 怖いくらい伝わる。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 リリアが息を呑む。


「ノアは、あと一日近くこのまま耐えなければならないのですか?」


「きゅ……」


 そうです。


 正確には、もう二十三時間五十九分を切っています。


 でも、今の俺には十分長い。


 司祭長は顎に手を当てた。


「なるほど。ノア自身が、条件達成までの時間をかなり正確に感じ取れるようになっている……」


 俺は内心で頷いた。


 そうだ。


 今なら分かる。


 残り時間が、頭の奥に張りついている。


 進化は止まっている。


 でも、条件達成までのカウントだけは、確実に進んでいる。


 アリアが低く言う。


「残り一日未満。ですが、今のノアには長い」


「ええ」


 司祭長は頷いた。


「長時間維持が必要なら、安定した環境を作らねばなりません。リリア様の負担も考える必要があります」


「交代はできませんか」


 アリアが問う。


「おそらくできません」


 司祭長は俺を見る。


「ノアが反応しているのは、リリア様の聖力です。他の者では代替にならない」


 ですよね。


 知ってました。


 リリアは俺の前足につながる聖力糸を見つめ、静かに言った。


「私は大丈夫です」


「聖女様」


 アリアが厳しい声を出す。


「また大丈夫ではないものを大丈夫と言っています」


「でも、ノアが」


「ノアを支えるためにも、聖女様が倒れてはいけません」


 その通り。


 アリアさん、もっと言ってください。


 リリアは少しだけ黙った。


 そして頷く。


「……はい。では、倒れない方法を考えましょう」


 えらい。


 ちゃんと聞いた。


 リリアは自分の無理を止める方向へ少しずつ成長している。


 俺は少し安心した。


 司祭長が提案する。


「今の結界台と聖力糸を基準にします。リリア様は常に触れ続けるのではなく、聖力糸で一定の接続を保つ。食事や水分、短い休憩の際も、糸を切らないようにする」


「はい」


「ただし、疲労が出た場合はすぐ申告してください。聖力糸が乱れれば、ノアの状態にも影響します」


「分かりました」


 リリアは真剣に頷いた。


「ノアに負担をかけないようにします」


 いや、リリアにも負担をかけないようにしてください。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 リリアが俺を見る。


「私も無理しないように、ですね」


 伝わった。


 すごい。


 もはや俺の鳴き声は、かなりの精度で翻訳されている。


 アリアも頷いた。


「その通りです」


 こうして、俺の残り二十三時間以上を保たせるための準備が、さらに本格的に始まった。


 俺は思った。


 まさか異世界で、進化のカウントダウンを見ながら厳戒態勢で保護されることになるとは。


 人生、何があるか分からない。


 いや、魔物生か。


 どちらにしても分からない。


     ◇


 部屋の中は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。


 完全に気を抜ける空気ではない。


 だが、少なくとも今すぐ黒い光が飛び込んでくるような気配はない。


 リリアは聖力糸を維持したまま、椅子に座って呼吸を整えている。


 アリアは扉の近くで立ったまま、時折届く警備報告に短く返事をしていた。


 司祭長は机に向かい、ガルディアスに関する古い記録を確認している。


 部屋の外からは、神官兵たちの足音が一定の間隔で聞こえる。


 遠くでは、封印箱を運ぶ台車の音が一度だけ通り過ぎた。


 リーネの監視室からは、追加の報告が届かなくなった。


 何も起きていない。


 そのはずなのに、俺の中では時間だけがはっきり減っていた。


---


条件達成まで:23時間18分42秒


---


 四十分ほど減っていた。


 正確に見える。


 嫌になるくらい、正確に。


 さっきより確かに進んでいる。


 だが、それでもまだ二十三時間以上ある。


 長い。


 あまりにも長い。


 俺は結界台の上で、聖力糸に触れながらぼんやりしていた。


 体はまだ重い。


 でも、さっきよりはかなり楽だ。


 安定補助。


 精神状態の安定。


 栄養補給。


 それらが効いているのだろう。


 俺は思った。


 このまま残り時間が減ってくれればいい。


 一秒ずつでもいい。


 確実に減るなら、それでいい。


 だが、それは無理だろう。


 物語的にも。


 ガルディアス的にも。


 絶対に何か起きる。


 なら、せめて今だけは静かであってほしい。


 その時、窓際の白い鈴が、かすかに揺れた。


 ちりん。


 小さな音。


 部屋の空気が一瞬で変わる。


 アリアが剣に手をかける。


 司祭長が杖を持つ。


 リリアの聖力糸がわずかに強まる。


 俺の危険察知が開いた。


---


危険察知:微反応


対象:窓外


危険度:低


備考:監視視線を確認。


---


 監視視線。


 攻撃ではない。


 でも、誰かが見ている。


 俺は窓を見る。


 窓は封じられている。


 外には神官兵もいる。


 それでも、遠くから視線を感じる。


 庭の向こう。


 神殿の外壁のさらに先。


 夜の中に、黒い点のような気配。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアが息を呑む。


「ガルディアス……?」


 分からない。


 でも、嫌な感じがする。


 司祭長が外の神官兵に合図する。


 庭の警備が動く。


 だが、危険察知は攻撃を示さない。


 ただ、見ている。


 こちらの警備。


 リリア。


 俺。


 全部を確認しているような視線。


 ほどなくして、その気配は消えた。


 鈴の揺れも収まる。


 だが、誰もすぐには力を抜かなかった。


 司祭長が低く言う。


「偵察でしょう」


 アリアが頷く。


「こちらの布陣を見に来た」


「ええ」


 リリアは俺を見る。


「ノア、大丈夫ですか?」


「きゅ」


 大丈夫です。


 怖いけど。


 司祭長の顔が険しい。


「ガルディアスは、もう近くにいると考えた方がいいでしょう」


 やっぱり。


 来ている。


 まだ攻撃はしない。


 三日目を待っている。


 だが、その前にこちらの守りを見ている。


 俺は尻尾を丸めた。


 条件達成まで、まだ二十三時間以上。


 その時間は、ただ待つだけではない。


 ガルディアスとの睨み合いの時間になる。


 リリアが静かに言った。


「見ているなら、見せましょう」


 アリアが振り返る。


「聖女様?」


「私たちは、ノアを守る準備をしています。ガルディアスが見ているなら、それを見せます」


 リリアの声は穏やかだった。


「ノアは道具ではありません。器でもありません。私たちが守る子です」


 俺はリリアを見る。


 この聖女様は、たまにとんでもなく強い。


 怖いはずだ。


 狙われているのは彼女自身でもある。


 それでも、逃げるのではなく、守る姿勢を見せると言う。


 アリアは少しだけ口元を緩めた。


「ならば、護衛として恥ずかしくない布陣にします」


 司祭長も頷く。


「神殿としても、同じです」


 俺は台の上で、小さく鳴いた。


「きゅ」


 俺も。


 俺も、できるだけ頑張ります。


 ただし、できれば台の上で。


 もう走り回るのは本当に限界です。


 リリアはくすりと笑った。


「はい。ノアはここにいてください」


 その言葉に、俺は少しだけ安心した。


 窓の外には、もう視線はない。


 だが、夜は深くなっていく。


 ガルディアスは近くにいる。


 俺の進化は、一秒ずつ近づいている。


 リリアの聖力糸は、今も俺の前足に優しく触れている。


 俺はその光を感じながら、小さく息を吐いた。


 聖女様。


 どうやら三日目まで、ただ待つだけでも命がけみたいです。

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