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第21話 聖女様、珍生物のカウントダウンが減りません

 条件達成まで、まだ二十三時間以上。


 その数字は、俺の頭の奥に張りついていた。


 見ようと思えば見える。


 見たくなくても、なんとなく分かる。


 今までは違った。


 進化ゲージが百%になるまでは、時間の感覚なんて曖昧だった。


 三日間生存。


 条件未達。


 その程度の表示しかなかった。


 だが今は、秒まで分かる。


 一秒減るたびに、俺の体の奥で何かが小さく動く。


 進化は止まっている。


 でも、進化に向かう道だけは、確実に短くなっている。


 それが分かる。


 分かってしまう。


 便利だ。


 だが、精神には悪い。


 残り時間が見えるということは、その時間が減らない苦しさも見えるということだった。


---


条件達成まで:23時間17分08秒


---


 減っている。


 確かに減っている。


 だが、ほとんど減っていないように感じる。


 一秒ずつ。


 一秒ずつ。


 それが、こんなに遅いとは思わなかった。


 俺は結界台の上で、小さく鳴いた。


「きゅう……」


 リリアがすぐにこちらを見る。


「ノア、苦しいですか?」


「きゅ」


 苦しいというか。


 長いです。


 とても長いです。


 リリアの指先から伸びる聖力糸が、俺の前足にそっと触れている。


 細く、柔らかく、温かい光。


 直接触れられるより刺激が少なく、けれどリリアの気配はちゃんとある。


 この糸がなければ、俺は臨界安定を保てない。


 だから、リリアはずっと糸を維持している。


 食事の時も。


 水を飲む時も。


 司祭長と話す時も。


 呼吸を整える時も。


 俺のために、ずっと。


 そのことがありがたい。


 そして、少しだけ申し訳ない。


「ノア」


 リリアが穏やかに言った。


「私は大丈夫です」


 俺は目を細めた。


「きゅ」


 大丈夫ですは禁止です。


 そう鳴いたつもりだった。


 リリアが一瞬止まる。


「……大丈夫です、は禁止でしたね」


 伝わった。


 すごい。


 そして、ちゃんと覚えている。


 アリアが扉のそばから振り返った。


「聖女様、今のはノアの指摘が正しいです」


「はい。言い直します」


 リリアは少しだけ背筋を伸ばした。


「私は、まだ続けられます。でも、無理だと思ったらすぐに言います」


「きゅ」


 よし。


 それならいいです。


 アリアが満足そうに頷く。


「その方が正確です」


 リリアは小さく笑った。


 その笑い方が、少しだけ疲れている。


 けれど、折れてはいない。


 俺はリリアを見上げながら思う。


 この子は強い。


 ふわふわしていて、ズレていて、角を個性と言い張る変な聖女だけど。


 やっぱり強い。


 俺が今ここにいられるのは、リリアが聖力糸を維持してくれているからだ。


 リリアが俺をノアとして扱ってくれているからだ。


 ガルディアスが俺を器と呼んでも。


 リーネが俺を獣と呼んでも。


 リリアだけは、俺をノアと呼んでくれる。


 それが、俺の臨界安定を支えている気がした。


     ◇


 部屋の警戒は続いていた。


 窓際の白い鈴は静かだ。


 扉の外からは、神官兵の足音が規則正しく聞こえる。


 隣の祈祷室には、二人の神官が交代で詰めている。


 床下と天井裏の感知聖印も、今のところ反応はないらしい。


 外から見れば、完全防備。


 だが、誰も安心してはいなかった。


 ガルディアスは結界術と聖具に詳しい。


 普通の守りは、逆に使われるかもしれない。


 閉じた箱は、内側から歪められると逃げ場がない。


 司祭長はそう言った。


 だからこの部屋の結界は、ただ強く閉じるものではない。


 感知。


 遅延。


 隔離。


 侵入した術式を鈍らせ、分離し、封じる。


 俺には細かい理屈は分からない。


 だが、部屋全体に張り巡らされた光は、確かに前より柔らかかった。


 白く光っているのに、刺すような痛みは少ない。


 リリアの聖力糸も、安定している。


 今の俺にとっては、かなりましな環境だった。


---


臨界安定:維持


負荷:中低


安定補助:有効


---


 負荷は中低。


 さっきよりかなりいい。


 だが、それは「楽」ではない。


 あくまで、さっきまでがひどすぎただけだ。


 体の奥には、ずっと熱がある。


 角の根元が脈打っている。


 尻尾の銀紋も、薄く光ったままだ。


 体が変わりたがっている。


 でも変われない。


 進化ゲージは百%。


 条件達成まで、まだ二十三時間以上。


 俺はまた小さく息を吐いた。


「きゅ……」


 アリアがこちらを見る。


「また時間ですか」


 鋭い。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


「どのくらいです」


 どのくらいと言われても。


 鳴き声で説明するには細かすぎる。


 二十三時間十六分くらいです。


 秒まで見えています。


 そんなこと、どう伝えればいい。


 俺が困っていると、リリアが予定表をそっと近づけてくれた。


「ノア、指せそうですか?」


「きゅ」


 やってみます。


 リリアの聖力糸を切らないように、俺の前足を支える。


 肉球が紙に置かれる。


 今日。


 そして、明日の同じくらいの時間より少し前。


 さっきより、ほんの少しだけ手前。


 ぽふ。


 俺は前足を置いた。


 リリアが目を凝らす。


「さっきより、少しだけ進みました?」


「きゅ」


 はい。


 少しだけ。


 アリアが真面目な顔で言う。


「かなり正確に把握しているようですね」


 司祭長も頷いた。


「おそらく、ノアの中で変化までの感覚がはっきりしてきているのでしょう」


「変化までの感覚……?」


 リリアが聞き返す。


「ええ。先ほどまでは日付を示すような仕草でした。しかし今は、より細かな時間を気にしているように見える。ノア自身には、私たちより正確に分かっているのかもしれません」


 俺は内心で頷いた。


 そうだ。


 今なら分かる。


 残り時間が、頭の奥に張りついている。


 進化ゲージが百%になったからなのか、臨界安定のせいなのかは分からない。


 だが、条件達成までの時間だけは、前よりずっとはっきり見えるようになっていた。


「つまり、ノア自身が一番正確に分かっているのですね」


 リリアが言った。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 たぶん。


 ただ、分かるから楽というわけではありません。


 むしろ、しんどいです。


 アリアが俺を見て言う。


「不満そうです」


「時間が分かるのに、すぐには進まないからでしょうか」


 リリアが本気で考えている。


 正解です。


 ほぼ正解です。


「では、ノアの感覚を頼りにしましょう」


 リリアが言った。


「きゅ」


 それならいいです。


 司祭長が微かに笑った。


「ノアは表情豊かですな」


「はい。とても分かりやすいです」


 リリアが嬉しそうに言う。


 俺は少し複雑だった。


 魔物としては、分かりやすいのは危険なのではないか。


 だが、今はそれで助かっている面もある。


 俺が苦しいと、リリアが気づく。


 俺が危険を感じると、アリアが動く。


 俺が時間を示すと、司祭長が判断する。


 言葉がなくても、少しずつ伝わる。


 それは、不思議な安心感があった。


     ◇


 外の警備から報告が入った。


「北門外、異常ありません」


「旧施療小屋、遠巻きに確認。明かりなし。人影なし」


「庭の外周、魔性反応なし」


 アリアが一つずつ頷く。


「引き続き監視。むやみに近づくな。反応がなくても、罠の可能性を捨てるな」


「はっ」


 神官兵が下がる。


 俺はその報告を聞きながら、耳を伏せた。


 異常なし。


 それはいいことのはずだ。


 だが、ガルディアスが近くにいると分かっているせいで、逆に不気味だった。


 異常がないのではない。


 見せていないだけ。


 そんな気がする。


「ノア」


 リリアが小声で呼ぶ。


「怖くなりましたか?」


「きゅ」


 はい。


 かなり。


「私もです」


 リリアはそう言って、少しだけ息を吐いた。


「何も起きないのも、怖いですね」


 分かる。


 すごく分かる。


 黒牙鼠が出るなら見える。


 封虫がいるなら反応できる。


 魔性具が動くなら危険察知が鳴る。


 だが、何も起きない時間は、何を警戒すればいいのか分からない。


 見えない敵を待つのは、かなり精神に悪い。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアは俺の声を聞いて、静かに微笑んだ。


「では、怖い時間を減らしましょう」


 え。


 どうやって?


 リリアは机の上にあった小さな布を手に取った。


 それは、俺の結界台に敷かれている布と同じ素材の余りらしい。


 柔らかく、白く、少しだけ中立紋が縫い込まれている。


「ノアの毛布を作ります」


 はい?


 俺は目を瞬かせた。


 この状況で?


 ガルディアスが近くにいるかもしれないのに?


 進化までカウントダウン中なのに?


 毛布?


 アリアも同じことを思ったのか、眉を寄せた。


「聖女様。今ですか」


「はい。今だからです」


 リリアは真面目な顔で言った。


「安心できる状態を保つことが大事なのですよね」


「それはそうですが」


「なら、ノアが少しでも落ち着けるものを作ります」


 アリアは何か言いかけて、やめた。


 司祭長も少し考えてから頷く。


「悪くありません。単純な作業は、聖力糸の維持にも良い影響があるかもしれません」


「本当ですか?」


「ええ。緊張しすぎるより、穏やかに集中している方が聖力は安定します」


 なるほど。


 つまり、毛布作りはリリアの安定にもなる。


 俺の安心にもなる。


 理屈としては成立している。


 だが、絵面がすごい。


 厳戒態勢の聖女の部屋。


 外には神官兵。


 敵は魔性研究者。


 進化まで二十三時間以上。


 その中で、聖女が珍生物用の毛布を縫う。


 温度差がすごい。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアが目を輝かせる。


「嬉しいですか?」


 困惑しています。


 でも、少し嬉しいです。


 アリアが俺を見て言う。


「嫌ではなさそうです」


「よかった」


 リリアは布を膝の上に置き、聖力糸を維持したまま、片手でゆっくり布を折った。


 器用だ。


 糸は乱れない。


 布の端を合わせ、小さく縫い留める。


 侍女長が針と糸を用意し、必要なところだけ手伝った。


 リリアは大きな作業はしない。


 聖力糸を乱さない範囲で、ゆっくり。


 それでも、彼女の表情は少し柔らかくなった。


 部屋の空気も、わずかに緩む。


 俺は結界台の上で、その様子を見ていた。


 ガルディアス。


 器。


 進化。


 外部干渉。


 怖い言葉ばかりが頭にあった。


 だが、目の前ではリリアが俺の毛布を作っている。


 そのちぐはぐさが、妙にリリアらしい。


 俺は少しだけ力を抜いた。


---


精神状態の安定を確認しました。


臨界安定:維持


負荷:中低 → 低寄り


---


 低寄り。


 初めて見た。


 完全に低ではない。


 だが、かなり楽になっている。


 毛布、効果あるのか。


 いや、毛布そのものではなく、リリアが落ち着いていること。


 俺もそれを見て落ち着いたこと。


 それが大きいのだろう。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 リリアが顔を上げる。


「少し楽になりましたか?」


「きゅ」


 はい。


 少し。


 リリアは嬉しそうに笑った。


「よかったです」


 その笑顔を見た瞬間、窓際の鈴が揺れた。


 ちりん。


 部屋の空気が一気に変わる。


 リリアの手が止まる。


 アリアが剣に手を伸ばす。


 司祭長が杖を構える。


 俺の危険察知が開いた。


---


危険察知:微反応


対象:窓外


危険度:低


備考:監視視線を確認。


---


 まただ。


 監視視線。


 攻撃ではない。


 でも、見ている。


 ガルディアスか。


 それとも、彼の使い魔か、魔性具か。


 俺は窓を見る。


 窓は封じられている。


 外には警備もいる。


 それでも、遠くから黒い視線を感じる。


 庭の向こう。


 外壁のさらに先。


 闇の中に、こちらを覗く気配があった。


 リリアが静かに俺の名を呼ぶ。


「ノア」


「きゅ……」


 怖い。


 でも、大丈夫。


 今は、攻撃ではない。


 俺はそう伝えるように、小さく鳴いた。


 アリアがすぐに判断する。


「攻撃反応ではないようです。ですが、外の警備を動かします」


 司祭長が頷く。


「深追いは禁物です」


 神官兵に合図が飛ぶ。


 庭の警備が動いた。


 外壁近くにも人が走る。


 だが、視線はすぐに消えた。


 残ったのは、夜の静けさだけだった。


 アリアが低く言う。


「こちらの様子を見に来たのでしょう」


 司祭長も険しい顔で頷く。


「偵察ですな」


 リリアは俺を見る。


「ガルディアスは、もう近くにいるのでしょうか」


「その可能性が高いでしょう」


 司祭長が答える。


「ただし、本人が近くにいるとは限りません。視線だけを飛ばす術式、使い魔、あるいは魔性具の一部という可能性もあります」


 ややこしい。


 本人じゃないかもしれない。


 でも、見られている。


 敵は近い。


 それだけは確かだ。


 俺は尻尾を丸めた。


---


条件達成まで:23時間08分31秒


---


 進んでいる。


 たった十数分。


 でも進んでいる。


 その時間の中で、毛布を作り、少し安心し、また偵察された。


 この調子で二十三時間。


 長すぎる。


 本当に長すぎる。


 リリアは俺の聖力糸を乱さないようにしながら、静かに言った。


「見ているなら、見せましょう」


 アリアが振り返る。


「聖女様?」


「私たちは、ノアを守る準備をしています。ガルディアスが見ているなら、それを見せます」


 リリアの声は穏やかだった。


 だが、弱くはなかった。


「ノアは道具ではありません。器でもありません。私たちが守る子です」


 俺はリリアを見る。


 この聖女様は、たまにとんでもなく強い。


 怖いはずだ。


 狙われているのは彼女自身でもある。


 それでも、逃げるのではなく、守る姿勢を見せると言う。


 アリアは少しだけ口元を緩めた。


「ならば、護衛として恥ずかしくない布陣にします」


 司祭長も頷く。


「神殿としても、同じです」


 俺は台の上で、小さく鳴いた。


「きゅ」


 俺も。


 俺も、できるだけ頑張ります。


 ただし、できれば台の上で。


 もう走り回るのは本当に限界です。


 リリアはくすりと笑った。


「はい。ノアはここにいてください」


 その言葉に、俺は少しだけ安心した。


 窓の外には、もう視線はない。


 だが、夜は深くなっていく。


 ガルディアスは近くにいる。


 俺の進化は、一秒ずつ近づいている。


 リリアの聖力糸は、今も俺の前足に優しく触れている。


 作りかけの小さな毛布が、リリアの膝の上にある。


 俺はその光景を見ながら、小さく息を吐いた。


 聖女様。


 どうやら三日目まで、ただ待つだけでも命がけみたいです。


 でも、その待ち時間に毛布を作る聖女様は、たぶんこの世界であなたくらいです。

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