第8話 聖女様、その寝癖は触ってはいけません
進化ゲージが五十%を超えた。
その瞬間から、俺の生活は少しだけ変わった。
いや、正確には。
俺の頭が変わった。
朝には「硬い寝癖」くらいだったものが、昼前には明らかに存在感を増していた。
ふわふわの白い毛の間から、ちょこんと何かが出ている。
小さい。
まだ小さい。
小さいのだが、確実に硬い。
そして、毛ではない。
俺はリリアの部屋に置かれた小さな鏡の前に座っていた。
リリアが、俺のために鏡を床に置いてくれたのだ。
「ノア、自分のお顔が分かりますか?」
「きゅ」
分かります。
というか、見たくありませんでした。
鏡の中に映っているのは、白くて丸い小動物だった。
大きな耳。
ふわふわの毛。
丸い目。
短い前足。
昨日より少し大きくなった体。
そして、頭の上にある小さな硬質突起。
どう見ても、角の芽だった。
芽という表現が正しいのかは分からない。
だが、俺の中ではそれが一番しっくり来た。
角の赤ちゃん。
角の予告編。
角、近日公開。
嫌だ。
何一つ公開したくない。
ステータス画面が開く。
---
進化ゲージ:50%
第一進化の予兆:進行中
身体変化:頭部硬質突起
備考:まだ小さいので、言い訳は可能です。
---
備考。
お前、俺の味方なのか?
確かにまだ小さい。
言い訳は可能かもしれない。
ただし、リリア以外には厳しい。
リリアなら、たぶん俺の背中から翼が生えても「寝返りが上手になりましたね」と言いかねない。
しかしアリアは違う。
アリアは見逃さない。
俺が少し大きくなった時も気づいた。
頭の硬質突起にも気づいた。
俺が言葉を理解していることにも、ほぼ気づいている。
あの人の前で「寝癖です」は通用しない。
いや、リリアが全力で通そうとしているだけで、もともと通ってはいない。
「ノア、鏡をじっと見ていますね」
リリアが嬉しそうに言った。
「賢いです」
「きゅ」
ありがとうございます。
今、自分の進化予兆に絶望していました。
リリアは俺の頭を見つめる。
そして、にこりと笑った。
「寝癖、少し立派になりましたね」
「きゅ……」
やっぱりその認識ですか。
リリアは俺の頭に手を伸ばしかけた。
その瞬間、扉の近くにいたアリアが素早く言った。
「聖女様、触らないでください」
リリアの手が止まる。
「なぜですか?」
「正体不明の突起です。刺激してよいものか分かりません」
「ノア、痛いですか?」
「きゅ」
痛くはないです。
でも触られるのは少し怖いです。
リリアは俺の顔を見て、真剣に頷いた。
「痛くはなさそうですが、怖そうですね」
お。
今回はかなり正解に近い。
「では、撫でる時は頭を避けましょう」
助かる。
かなり助かる。
リリアは頭ではなく、俺の背中をそっと撫でた。
ちり、と聖属性が流れ込む。
---
聖属性微量接触を確認しました。
進化ゲージ:50% → 51%
---
頭を避けても増える。
まあ、そうだろうとは思っていた。
アリアは俺のステータス画面が見えるわけではない。
だが、俺が一瞬びくっとしたのは見逃さなかった。
「聖女様。今も反応しました」
「背中がくすぐったかったのですね」
「聖女様」
「ふわふわなので、くすぐったさも伝わりやすいのかもしれません」
「それは今、考える必要がありますか」
「ノアのことですから」
「……ありますね」
アリアが少しだけ負けた。
リリアの全肯定は、時々アリアの論理すら曲げる。
怖い。
でも助かる。
◇
問題は、俺の頭の突起を見たのがリリアとアリアだけではないことだった。
昼前、リリアの部屋に侍女がやってきた。
清潔な布と、俺用のミルクを運んできた若い侍女だ。
彼女は俺を見るなり、目を瞬かせた。
「あら、ノア様」
様はまだ続いている。
やめてほしい。
「頭に何か……」
来た。
俺は反射的に丸くなった。
丸くなれば見えにくい。
たぶん。
いや、頭にあるので、丸くなっても上から見えそうだ。
リリアがすぐに言った。
「寝癖です」
即答だった。
早い。
迷いがない。
アリアが横で小さく息を吐いた。
侍女は一瞬だけ戸惑った。
「寝癖、ですか?」
「はい。とても個性的な寝癖です」
「まあ……」
侍女は俺の頭を見た。
俺は全力で寝癖の顔をした。
寝癖の顔とは何だ。
分からない。
だが、とにかく無害そうな顔をする。
「きゅ」
侍女は口元を緩めた。
「かわいらしい寝癖ですね」
通った。
通ってしまった。
リリアが自信満々に頷く。
「でしょう?」
アリアが低く呟く。
「この神殿は大丈夫なのでしょうか」
アリアさん。
その不安は正しい。
ただし今は黙っていてください。
侍女はミルクの皿を置き、俺を微笑ましそうに見ていた。
「ノア様は昨日より少し大きくなりましたね」
「よく食べて、よく眠りましたから」
リリアが言う。
「そうですね。毛並みもさらに良くなっています」
「お風呂に入りましたから」
「ふわふわですね」
「はい。ふわふわです」
会話が平和すぎる。
俺は角が生え始めている魔物だ。
だが、目の前では「よく食べて大きくなり、お風呂でふわふわになり、寝癖がかわいい珍生物」という話になっている。
なんだこれ。
俺の正体がどんどん遠ざかっていく。
侍女が部屋を出た後、アリアが静かに言った。
「聖女様」
「はい」
「寝癖という説明を続けるのは無理があります」
「でも、怖がらせてしまうよりいいかと」
リリアの声は柔らかかった。
俺は耳を動かした。
怖がらせるよりいい。
リリアは、本当にただ鈍感なだけではないのかもしれない。
いや、かなり鈍感ではある。
でも、全部を考えていないわけではない。
周囲が俺を怖がらないように。
俺が怖がられないように。
そのために、明るい言葉を選んでいる部分もあるのかもしれない。
アリアもそれを感じたのか、少しだけ黙った。
「……聖女様は、その突起が危険なものだとは思わないのですか」
リリアは俺を見た。
青い瞳が、まっすぐ俺を映す。
「分かりません」
意外な答えだった。
「分からないので、怖がるのではなく、見守りたいです」
「危険だった場合は?」
「その時は、ノアが痛くない方法を考えます」
「聖女様ご自身が危険にさらされる可能性もあります」
「その時は、アリアが助けてくれます」
「……」
アリアは言葉に詰まった。
信頼されている。
全力で信頼されている。
これは反論しにくい。
俺も少し分かってきた。
リリアのポジティブさは、無責任とは少し違う。
怖がる前に助ける。
疑う前に見守る。
危険なら、危険じゃなくする方法を探す。
たぶん、そういう思考なのだ。
だから聖女なのかもしれない。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
リリアは俺の背中を撫でる。
「大丈夫ですよ、ノア。急に変わっても、私はびっくりしませんから」
それは嘘だ。
いや、本当にびっくりしないかもしれない。
この人なら。
「きゅ」
俺は鳴いた。
できれば少しはびっくりしてください。
その方が正常です。
◇
昼過ぎ。
司祭長から呼び出しがあった。
昨日の地下倉庫と孤児院の床下について、追加の報告があるらしい。
俺は行きたくなかった。
しかし、リリアは行く。
アリアも行く。
そして俺は、なぜかリリアの腕の中にいる。
司祭長の条件では、ノアの変化があれば報告することになっている。
つまり、俺の頭の突起は報告対象。
俺は本日二度目の司祭長面会へ向かっていた。
嫌だ。
高濃度聖属性の老人は怖い。
俺の危険察知も、司祭長の部屋に近づくとじわじわ反応する。
---
危険察知:微反応
対象:高位聖職者の聖力
危険度:低〜中
推奨:長時間接触を避けてください。
---
分かってます。
長時間どころか、できれば短時間も避けたいです。
司祭長の執務室に入ると、彼は机の上に古い図面を広げていた。
神殿の見取り図らしい。
さらに、孤児院周辺の簡単な地図もある。
「来ましたか、リリア様」
「はい」
「ノアも」
「きゅ……」
また来ました。
できれば来たくありませんでした。
司祭長は俺の頭を見た。
そして少しだけ目を細めた。
「朝より、少し立派になりましたな」
立派。
やめて。
角っぽいものに対して立派と言わないで。
リリアは嬉しそうに言った。
「寝癖が育っています」
「寝癖が育つ、とは珍しい」
「はい。ノアは珍しい子ですから」
司祭長は一瞬だけ沈黙した。
アリアも沈黙した。
俺も沈黙した。
リリアだけが微笑んでいる。
司祭長は穏やかに笑った。
「そうですな。珍しい子です」
大人だ。
この人、大人の対応をした。
司祭長は図面を指した。
「さて、昨夜の件ですが、排水路の浄化印が三か所、傷つけられていました」
三か所。
空気が変わった。
リリアの表情も真面目になる。
「三か所も?」
「はい。地下倉庫に続く古い排水路、孤児院の床下付近、そして神殿東側の物資搬入口付近です」
物資搬入口。
つまり、物を運び入れる場所か。
そこから鼠が入り込んだ?
「自然に削れた可能性は低いのでしょうか」
リリアが尋ねる。
司祭長はゆっくり頷いた。
「浄化印は、通常の風化ではあのような傷み方はしません。刃物か、硬い道具で削られた跡です」
刃物。
道具。
つまり、誰かがやった。
俺はリリアの腕の中で、少し体を硬くした。
神殿の中に、魔性生物を入れた誰かがいる。
何のために?
リリアを狙ったのか。
孤児院を狙ったのか。
神殿を混乱させるためか。
どれにしても、俺みたいな珍生物が関わっていい話ではない。
でも、もう関わっている。
嫌だ。
しかし逃げられない。
「犯人に心当たりは?」
アリアが問う。
司祭長は首を横に振った。
「まだありません。ただ、最近、神殿の方針に不満を持つ者が増えているのは確かです」
「方針、ですか」
「リリア様が孤児院や貧民区への施療に力を入れていることを、快く思わない者もおります」
リリアは少しだけ目を伏せた。
アリアの表情が険しくなる。
「聖女様の善行を不満に思うのですか」
「善行にも費用がかかります。薬、食料、人手、護衛。神殿の資源は無限ではありません」
司祭長の声は静かだった。
でも、その中には少し苦さがあった。
「もちろん、それで孤児を放っておいてよい理由にはなりませんが」
リリアはまっすぐ顔を上げた。
「私は、助けられる人を助けたいです」
「分かっております」
司祭長は優しく頷いた。
「だからこそ、あなたの周囲には注意が必要なのです」
リリアの周囲。
つまり、リリアの部屋。
孤児院。
リリアが関わる場所。
そこに魔性生物が出た。
偶然ではないのかもしれない。
俺の危険察知が、かすかに震えた。
今すぐの危険ではない。
でも、リリアに関わる危険。
そういう反応だった。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
リリアが俺を見る。
「ノア?」
アリアも俺を見る。
「何か感じましたか」
俺は司祭長の机の図面を見た。
神殿東側の物資搬入口。
地下倉庫。
孤児院。
三つの場所。
線で結ぶと、神殿の外側を囲うように並んでいる。
俺は図面を見つめる。
危険察知が、ほんの少し強くなる。
---
危険察知:微反応
対象:神殿東側
危険度:低
備考:痕跡あり。現在の危険は不明。
---
神殿東側。
物資搬入口。
そこに何かある。
俺はリリアの腕の中から身を乗り出した。
前足を伸ばす。
届かない。
リリアが気づいて、俺を机に近づける。
「ノア、これが気になるのですか?」
「きゅ」
たぶん。
俺は前足で図面の東側をぽんと叩いた。
アリアの目が鋭くなる。
「物資搬入口です」
司祭長も俺を見る。
「ふむ」
また、ふむ。
怖い。
司祭長は図面の東側に指を置いた。
「そこは今朝、すでに確認を始めています。ですが、まだ詳細な報告は来ていません」
その時だった。
扉の外から慌ただしい足音が聞こえた。
危険察知がぴりっと反応する。
強くはない。
だが、嫌な感じだ。
扉が叩かれる。
「司祭長!」
「入りなさい」
若い神官が駆け込んできた。
顔色が悪い。
「東側の物資搬入口で、浄化印の破片が見つかりました」
「破片?」
「はい。それと……」
神官は一瞬、リリアを見た。
それから、言いにくそうに続ける。
「黒牙鼠の死骸が複数。さらに、搬入口の外に、何者かの足跡が」
アリアが即座に反応した。
「人の足跡か?」
「おそらく。靴跡です」
空気がさらに重くなる。
人の足跡。
つまり、魔性生物が勝手に入ったのではない。
誰かがそこにいた。
誰かが浄化印を壊し、魔性生物を入れた。
その可能性が、一気に現実味を帯びた。
リリアの表情が曇る。
「孤児院にも、同じ人が?」
「まだ分かりません」
アリアが低く言った。
「ですが、調べる必要があります」
俺はリリアの腕の中で、尻尾を丸めた。
事件だ。
完全に事件になった。
珍生物の日常ほのぼの生活はどこへ行った。
俺はまだ低級魔物だぞ。
体当たりしても棚が揺れないレベルだぞ。
なのに、神殿内の陰謀みたいなものに巻き込まれている。
早い。
展開が早い。
読者的にはいいかもしれないが、当事者としては最悪だ。
司祭長は静かに神官へ指示を出した。
「東側の搬入口を封鎖しなさい。外部から来た者の記録を確認。孤児院にも追加の護衛を」
「はい」
「それから、この件は不用意に広めぬように」
「承知しました」
神官が去る。
部屋には、重い沈黙が残った。
リリアは俺を抱く腕に、少しだけ力を込めた。
「司祭長」
「はい」
「もし、誰かが孤児院に魔性生物を入れたのなら……子どもたちを狙ったのでしょうか」
司祭長はすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えのようにも思えた。
「まだ断定はできません」
司祭長は慎重に言った。
「ですが、リリア様。あなたが大切にしている場所が狙われた可能性はあります」
リリアの瞳が揺れた。
俺は初めて、リリアの中にある怒りのようなものを見た気がした。
激しく燃える怒りではない。
静かで、深くて、悲しみに近い怒り。
「……子どもたちを巻き込むのは、許せません」
その声は柔らかかった。
だが、芯があった。
アリアが一歩前に出る。
「聖女様。調査は私たちにお任せください」
「私も何かできますか」
「今は、安全を確保することが先です」
「分かりました」
リリアは頷いた。
ただの突撃型ではない。
ちゃんと今やるべきことを聞ける。
そこは安心した。
その時、司祭長が俺を見た。
「ノア」
「きゅ?」
「あなたには、危険なものを感じる力があるようですな」
ぎくり。
言われた。
かなり直接言われた。
俺は視線を逸らす。
「きゅう?」
何のことでしょう。
珍しい小動物なので分かりません。
アリアが冷静に言う。
「司祭長、おそらくあります。昨日からの反応を見る限り、ノアは魔性生物や危険な場所に反応しています」
アリアさん。
容赦なくバラさないでください。
リリアは目を輝かせた。
「ノアはみんなを守る力があるのですね」
なぜそうなる。
いや、間違ってはいない。
でも、もう少し慎重に。
司祭長は穏やかに言った。
「大きな力ではありません。しかし、今は貴重です」
小さな力。
貴重。
その評価は、少しだけ落ち着く。
俺は最強ではない。
強くもない。
ただ、危険に少し気づけるだけ。
でも、それがリリアの周りでは役に立つ。
そういうことらしい。
「ただし、ノアに無理はさせません」
リリアがきっぱり言った。
俺は耳を立てた。
「この子はまだ小さいです。怖い思いもたくさんしています。力があるからといって、危ない場所へ連れていくのは違います」
リリア。
それです。
それを待っていました。
俺は感動した。
聖女様、今すごくまともです。
アリアも少しだけ驚いたようにリリアを見る。
司祭長は微笑んだ。
「ええ。その通りです」
よかった。
俺は今後、危険探索レーダーとして酷使されずに済むかもしれない。
そう思った瞬間、リリアは俺を見て優しく言った。
「ノアが自分から教えてくれた時だけ、お願いしますね」
「きゅ……」
結局、俺の意思次第になった。
それはそれで重い。
でも、無理やりよりはずっといい。
俺は小さく頷いた。
アリアに見られた。
「今、頷きましたね」
「きゅう」
偶然です。
たぶん。
◇
司祭長の部屋を出た後、リリアはその日の予定を一部変更することになった。
孤児院への追加訪問は中止。
外部者との面会も一部延期。
代わりに、神殿内での治癒と祈祷に集中するらしい。
俺はリリアの部屋へ戻された。
アリアも一緒だ。
部屋の中は静かだった。
昨日より少しだけ、外の気配が騒がしい。
神官たちが調査に走っているのだろう。
俺はかごの中で丸くなり、自分の頭の突起を気にしていた。
こつん。
毛布に当たる。
存在感がある。
嫌だ。
かなり嫌だ。
リリアはかごの前にしゃがみ込んだ。
「ノア」
「きゅ」
「今日は、怖い話をたくさん聞かせてしまいましたね」
「きゅ……」
怖かったです。
主に俺の生活が。
「でも、ノアがいてくれて助かっています」
リリアは優しく微笑んだ。
「ありがとう」
俺は返事に困った。
俺は助けるために転生したわけではない。
そもそも魔物だ。
自分が生き延びるだけで精一杯だった。
なのに、リリアにありがとうと言われると、少しだけ動けなくなる。
悪い気はしない。
むしろ、温かい。
だから困る。
「きゅ」
俺は小さく鳴いた。
どういたしまして。
たぶん。
リリアは俺の頭の突起には触れず、背中をそっと撫でた。
---
聖属性微量接触を確認しました。
進化ゲージ:51% → 52%
---
また増えた。
進化の予兆は止まらない。
俺の頭の突起も、たぶんこれから少しずつ伸びる。
リリアはそれを寝癖と呼ぶ。
アリアは異常と見る。
司祭長は珍しい獣として観察する。
俺だけが、それが進化だと知っている。
その時、扉の向こうから侍女の声がした。
「聖女様。お茶をお持ちしました」
「ありがとうございます」
侍女が入ってくる。
そして、また俺の頭を見る。
「あら、ノア様の寝癖、朝より少し……」
俺は固まった。
リリアはにこりと笑う。
「育っています」
認め方。
それでいいのか。
侍女は少し戸惑ったあと、微笑んだ。
「成長期、でしょうか」
アリアが遠い目をした。
「この神殿は、聖女様に染まり始めていますね」
俺もそう思う。
リリアのポジティブ解釈が、周囲へじわじわ伝染している。
怖い。
でも助かる。
侍女はお茶を置くと、俺用の小さな皿にミルクも用意してくれた。
「ノア様もどうぞ」
「きゅ」
ありがとうございます。
俺は皿に近づき、ミルクを飲む。
ぺろ。
うまい。
この世界に来て、ミルクだけはかなり信頼できる。
そう思った瞬間、危険察知が小さく震えた。
ぴり。
俺の耳が立つ。
アリアがすぐに気づく。
「ノア?」
俺は皿から顔を上げた。
部屋ではない。
廊下でもない。
神殿東側でもない。
もっと近い。
この部屋の中。
俺は周囲を見る。
リリア。
アリア。
侍女。
お茶。
ミルク。
小さな皿。
危険察知は、皿ではなく、侍女の持ってきた茶器の方に微かに反応していた。
---
危険察知:微反応
対象:茶器周辺
危険度:低
備考:異物の可能性があります。
---
異物。
茶器。
俺は固まった。
リリアが今から飲もうとしているお茶。
そこに、何かある?
俺は反射的に動いた。
かごから飛び出し、机の上へ向かう。
「ノア?」
リリアが驚く。
アリアの手が剣に伸びる。
俺は机の上によじ登れない。
足が短い。
届かない。
だから椅子に飛び乗り、そこから机へ向かって必死に前足を伸ばした。
「きゅっ、きゅっ!」
飲むな。
それ、飲まないでください。
伝われ。
頼む。
アリアの目が鋭くなる。
「聖女様、お茶から離れてください」
通じた。
リリアはすぐに手を止めた。
侍女が青ざめる。
「え……?」
アリアは茶器を確認する。
俺は机の端に前足をかけたまま、ぷるぷる震えていた。
登れない。
情けない。
でも今はそれどころではない。
アリアが茶器の中を覗き、匂いを確認する。
「……見た目には分かりません」
司祭長を呼ぶべきか。
そう言いかけた時、危険察知がもう一度震えた。
俺は茶器ではなく、茶托の下を見た。
小さな黒い粒。
茶托の陰に、何かが挟まっている。
「きゅ!」
俺は必死にそちらを見る。
アリアが気づき、茶托を持ち上げた。
そこには、米粒ほどの黒い欠片があった。
アリアの表情が変わる。
「これは……腐食鼠の体毛?」
侍女が息を呑む。
「そんな、私は何も……!」
リリアは落ち着いた声で言った。
「大丈夫です。まず確認しましょう」
俺は椅子の上で固まっていた。
危険察知。
また反応した。
しかも今度は、リリアが口にするものの近く。
背筋が冷たくなる。
誰かが、直接リリアの近くに危険を置いた。
偶然か。
茶器に紛れただけか。
それとも。
アリアの声が低く響く。
「聖女様。この件、すぐに司祭長へ」
「はい」
リリアは俺を見た。
俺は椅子の上で、前足を机にかけたまま、ぷるぷるしている。
リリアはこんな状況なのに、少しだけ微笑んだ。
「ノア、教えてくれてありがとう」
「きゅ……」
どういたしまして。
ただ、降ろしてください。
足が限界です。
アリアが俺をそっと持ち上げて、床へ下ろした。
その手つきは、以前より少しだけ優しかった。
「また助けられましたね」
「きゅ」
たぶん。
でも、もう本当に嫌な予感しかしない。
黒牙鼠。
腐食鼠。
壊された浄化印。
物資搬入口の足跡。
そして、リリアの茶器の近くにあった腐食鼠の体毛。
神殿の中の誰かが、リリアの近くまで危険を運んでいる。
そう考えるのが自然だった。
俺は小さく息を吐いた。
第一進化まで、まだ半分近く残っている。
なのに事件は、俺の進化を待ってくれそうになかった。
リリアは俺を抱き上げる。
その腕は温かい。
でも、少しだけ力が入っていた。
アリアは扉の前に立ち、低く告げる。
「聖女様、今後は口にするものもすべて私が確認します」
「分かりました」
「ノアも、何か感じたらすぐ反応してください」
「きゅ……」
また仕事が増えた。
珍生物から、探偵、見回り要員、危険物検知係へ。
俺の肩書きがどんどん物騒になっていく。
リリアは俺を撫でようとして、頭の突起を避け、背中を優しく撫でた。
---
聖属性微量接触を確認しました。
進化ゲージ:52% → 53%
---
進化ゲージは上がる。
危険も増える。
俺の頭の突起も伸びる。
そしてリリアは、相変わらず優しい。
「ノア、大丈夫ですよ」
リリアは静かに言った。
「怖いことがあっても、一緒に考えましょう」
俺は彼女を見上げた。
この子は本当に、怖いものから目を逸らさない。
ただ、怖がり方が少し変なのだ。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
分かりました。
俺も、できる範囲で頑張ります。
たぶん。
その時、危険察知がもう一度、遠くで小さく震えた。
神殿の東側。
物資搬入口の方角。
そこに、まだ何かが残っている。
俺はリリアの腕の中で、静かに耳を立てた。
聖女様。
どうやらこの神殿、思ったより安全ではないみたいです。




