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第8話 聖女様、その寝癖は触ってはいけません

 進化ゲージが五十%を超えた。


 その瞬間から、俺の生活は少しだけ変わった。


 いや、正確には。


 俺の頭が変わった。


 朝には「硬い寝癖」くらいだったものが、昼前には明らかに存在感を増していた。


 ふわふわの白い毛の間から、ちょこんと何かが出ている。


 小さい。


 まだ小さい。


 小さいのだが、確実に硬い。


 そして、毛ではない。


 俺はリリアの部屋に置かれた小さな鏡の前に座っていた。


 リリアが、俺のために鏡を床に置いてくれたのだ。


「ノア、自分のお顔が分かりますか?」


「きゅ」


 分かります。


 というか、見たくありませんでした。


 鏡の中に映っているのは、白くて丸い小動物だった。


 大きな耳。


 ふわふわの毛。


 丸い目。


 短い前足。


 昨日より少し大きくなった体。


 そして、頭の上にある小さな硬質突起。


 どう見ても、角の芽だった。


 芽という表現が正しいのかは分からない。


 だが、俺の中ではそれが一番しっくり来た。


 角の赤ちゃん。


 角の予告編。


 角、近日公開。


 嫌だ。


 何一つ公開したくない。


 ステータス画面が開く。


---


進化ゲージ:50%


第一進化の予兆:進行中


身体変化:頭部硬質突起


備考:まだ小さいので、言い訳は可能です。


---


 備考。


 お前、俺の味方なのか?


 確かにまだ小さい。


 言い訳は可能かもしれない。


 ただし、リリア以外には厳しい。


 リリアなら、たぶん俺の背中から翼が生えても「寝返りが上手になりましたね」と言いかねない。


 しかしアリアは違う。


 アリアは見逃さない。


 俺が少し大きくなった時も気づいた。


 頭の硬質突起にも気づいた。


 俺が言葉を理解していることにも、ほぼ気づいている。


 あの人の前で「寝癖です」は通用しない。


 いや、リリアが全力で通そうとしているだけで、もともと通ってはいない。


「ノア、鏡をじっと見ていますね」


 リリアが嬉しそうに言った。


「賢いです」


「きゅ」


 ありがとうございます。


 今、自分の進化予兆に絶望していました。


 リリアは俺の頭を見つめる。


 そして、にこりと笑った。


「寝癖、少し立派になりましたね」


「きゅ……」


 やっぱりその認識ですか。


 リリアは俺の頭に手を伸ばしかけた。


 その瞬間、扉の近くにいたアリアが素早く言った。


「聖女様、触らないでください」


 リリアの手が止まる。


「なぜですか?」


「正体不明の突起です。刺激してよいものか分かりません」


「ノア、痛いですか?」


「きゅ」


 痛くはないです。


 でも触られるのは少し怖いです。


 リリアは俺の顔を見て、真剣に頷いた。


「痛くはなさそうですが、怖そうですね」


 お。


 今回はかなり正解に近い。


「では、撫でる時は頭を避けましょう」


 助かる。


 かなり助かる。


 リリアは頭ではなく、俺の背中をそっと撫でた。


 ちり、と聖属性が流れ込む。


---


聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:50% → 51%


---


 頭を避けても増える。


 まあ、そうだろうとは思っていた。


 アリアは俺のステータス画面が見えるわけではない。


 だが、俺が一瞬びくっとしたのは見逃さなかった。


「聖女様。今も反応しました」


「背中がくすぐったかったのですね」


「聖女様」


「ふわふわなので、くすぐったさも伝わりやすいのかもしれません」


「それは今、考える必要がありますか」


「ノアのことですから」


「……ありますね」


 アリアが少しだけ負けた。


 リリアの全肯定は、時々アリアの論理すら曲げる。


 怖い。


 でも助かる。


     ◇


 問題は、俺の頭の突起を見たのがリリアとアリアだけではないことだった。


 昼前、リリアの部屋に侍女がやってきた。


 清潔な布と、俺用のミルクを運んできた若い侍女だ。


 彼女は俺を見るなり、目を瞬かせた。


「あら、ノア様」


 様はまだ続いている。


 やめてほしい。


「頭に何か……」


 来た。


 俺は反射的に丸くなった。


 丸くなれば見えにくい。


 たぶん。


 いや、頭にあるので、丸くなっても上から見えそうだ。


 リリアがすぐに言った。


「寝癖です」


 即答だった。


 早い。


 迷いがない。


 アリアが横で小さく息を吐いた。


 侍女は一瞬だけ戸惑った。


「寝癖、ですか?」


「はい。とても個性的な寝癖です」


「まあ……」


 侍女は俺の頭を見た。


 俺は全力で寝癖の顔をした。


 寝癖の顔とは何だ。


 分からない。


 だが、とにかく無害そうな顔をする。


「きゅ」


 侍女は口元を緩めた。


「かわいらしい寝癖ですね」


 通った。


 通ってしまった。


 リリアが自信満々に頷く。


「でしょう?」


 アリアが低く呟く。


「この神殿は大丈夫なのでしょうか」


 アリアさん。


 その不安は正しい。


 ただし今は黙っていてください。


 侍女はミルクの皿を置き、俺を微笑ましそうに見ていた。


「ノア様は昨日より少し大きくなりましたね」


「よく食べて、よく眠りましたから」


 リリアが言う。


「そうですね。毛並みもさらに良くなっています」


「お風呂に入りましたから」


「ふわふわですね」


「はい。ふわふわです」


 会話が平和すぎる。


 俺は角が生え始めている魔物だ。


 だが、目の前では「よく食べて大きくなり、お風呂でふわふわになり、寝癖がかわいい珍生物」という話になっている。


 なんだこれ。


 俺の正体がどんどん遠ざかっていく。


 侍女が部屋を出た後、アリアが静かに言った。


「聖女様」


「はい」


「寝癖という説明を続けるのは無理があります」


「でも、怖がらせてしまうよりいいかと」


 リリアの声は柔らかかった。


 俺は耳を動かした。


 怖がらせるよりいい。


 リリアは、本当にただ鈍感なだけではないのかもしれない。


 いや、かなり鈍感ではある。


 でも、全部を考えていないわけではない。


 周囲が俺を怖がらないように。


 俺が怖がられないように。


 そのために、明るい言葉を選んでいる部分もあるのかもしれない。


 アリアもそれを感じたのか、少しだけ黙った。


「……聖女様は、その突起が危険なものだとは思わないのですか」


 リリアは俺を見た。


 青い瞳が、まっすぐ俺を映す。


「分かりません」


 意外な答えだった。


「分からないので、怖がるのではなく、見守りたいです」


「危険だった場合は?」


「その時は、ノアが痛くない方法を考えます」


「聖女様ご自身が危険にさらされる可能性もあります」


「その時は、アリアが助けてくれます」


「……」


 アリアは言葉に詰まった。


 信頼されている。


 全力で信頼されている。


 これは反論しにくい。


 俺も少し分かってきた。


 リリアのポジティブさは、無責任とは少し違う。


 怖がる前に助ける。


 疑う前に見守る。


 危険なら、危険じゃなくする方法を探す。


 たぶん、そういう思考なのだ。


 だから聖女なのかもしれない。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアは俺の背中を撫でる。


「大丈夫ですよ、ノア。急に変わっても、私はびっくりしませんから」


 それは嘘だ。


 いや、本当にびっくりしないかもしれない。


 この人なら。


「きゅ」


 俺は鳴いた。


 できれば少しはびっくりしてください。


 その方が正常です。


     ◇


 昼過ぎ。


 司祭長から呼び出しがあった。


 昨日の地下倉庫と孤児院の床下について、追加の報告があるらしい。


 俺は行きたくなかった。


 しかし、リリアは行く。


 アリアも行く。


 そして俺は、なぜかリリアの腕の中にいる。


 司祭長の条件では、ノアの変化があれば報告することになっている。


 つまり、俺の頭の突起は報告対象。


 俺は本日二度目の司祭長面会へ向かっていた。


 嫌だ。


 高濃度聖属性の老人は怖い。


 俺の危険察知も、司祭長の部屋に近づくとじわじわ反応する。


---


危険察知:微反応


対象:高位聖職者の聖力


危険度:低〜中


推奨:長時間接触を避けてください。


---


 分かってます。


 長時間どころか、できれば短時間も避けたいです。


 司祭長の執務室に入ると、彼は机の上に古い図面を広げていた。


 神殿の見取り図らしい。


 さらに、孤児院周辺の簡単な地図もある。


「来ましたか、リリア様」


「はい」


「ノアも」


「きゅ……」


 また来ました。


 できれば来たくありませんでした。


 司祭長は俺の頭を見た。


 そして少しだけ目を細めた。


「朝より、少し立派になりましたな」


 立派。


 やめて。


 角っぽいものに対して立派と言わないで。


 リリアは嬉しそうに言った。


「寝癖が育っています」


「寝癖が育つ、とは珍しい」


「はい。ノアは珍しい子ですから」


 司祭長は一瞬だけ沈黙した。


 アリアも沈黙した。


 俺も沈黙した。


 リリアだけが微笑んでいる。


 司祭長は穏やかに笑った。


「そうですな。珍しい子です」


 大人だ。


 この人、大人の対応をした。


 司祭長は図面を指した。


「さて、昨夜の件ですが、排水路の浄化印が三か所、傷つけられていました」


 三か所。


 空気が変わった。


 リリアの表情も真面目になる。


「三か所も?」


「はい。地下倉庫に続く古い排水路、孤児院の床下付近、そして神殿東側の物資搬入口付近です」


 物資搬入口。


 つまり、物を運び入れる場所か。


 そこから鼠が入り込んだ?


「自然に削れた可能性は低いのでしょうか」


 リリアが尋ねる。


 司祭長はゆっくり頷いた。


「浄化印は、通常の風化ではあのような傷み方はしません。刃物か、硬い道具で削られた跡です」


 刃物。


 道具。


 つまり、誰かがやった。


 俺はリリアの腕の中で、少し体を硬くした。


 神殿の中に、魔性生物を入れた誰かがいる。


 何のために?


 リリアを狙ったのか。


 孤児院を狙ったのか。


 神殿を混乱させるためか。


 どれにしても、俺みたいな珍生物が関わっていい話ではない。


 でも、もう関わっている。


 嫌だ。


 しかし逃げられない。


「犯人に心当たりは?」


 アリアが問う。


 司祭長は首を横に振った。


「まだありません。ただ、最近、神殿の方針に不満を持つ者が増えているのは確かです」


「方針、ですか」


「リリア様が孤児院や貧民区への施療に力を入れていることを、快く思わない者もおります」


 リリアは少しだけ目を伏せた。


 アリアの表情が険しくなる。


「聖女様の善行を不満に思うのですか」


「善行にも費用がかかります。薬、食料、人手、護衛。神殿の資源は無限ではありません」


 司祭長の声は静かだった。


 でも、その中には少し苦さがあった。


「もちろん、それで孤児を放っておいてよい理由にはなりませんが」


 リリアはまっすぐ顔を上げた。


「私は、助けられる人を助けたいです」


「分かっております」


 司祭長は優しく頷いた。


「だからこそ、あなたの周囲には注意が必要なのです」


 リリアの周囲。


 つまり、リリアの部屋。


 孤児院。


 リリアが関わる場所。


 そこに魔性生物が出た。


 偶然ではないのかもしれない。


 俺の危険察知が、かすかに震えた。


 今すぐの危険ではない。


 でも、リリアに関わる危険。


 そういう反応だった。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアが俺を見る。


「ノア?」


 アリアも俺を見る。


「何か感じましたか」


 俺は司祭長の机の図面を見た。


 神殿東側の物資搬入口。


 地下倉庫。


 孤児院。


 三つの場所。


 線で結ぶと、神殿の外側を囲うように並んでいる。


 俺は図面を見つめる。


 危険察知が、ほんの少し強くなる。


---


危険察知:微反応


対象:神殿東側


危険度:低


備考:痕跡あり。現在の危険は不明。


---


 神殿東側。


 物資搬入口。


 そこに何かある。


 俺はリリアの腕の中から身を乗り出した。


 前足を伸ばす。


 届かない。


 リリアが気づいて、俺を机に近づける。


「ノア、これが気になるのですか?」


「きゅ」


 たぶん。


 俺は前足で図面の東側をぽんと叩いた。


 アリアの目が鋭くなる。


「物資搬入口です」


 司祭長も俺を見る。


「ふむ」


 また、ふむ。


 怖い。


 司祭長は図面の東側に指を置いた。


「そこは今朝、すでに確認を始めています。ですが、まだ詳細な報告は来ていません」


 その時だった。


 扉の外から慌ただしい足音が聞こえた。


 危険察知がぴりっと反応する。


 強くはない。


 だが、嫌な感じだ。


 扉が叩かれる。


「司祭長!」


「入りなさい」


 若い神官が駆け込んできた。


 顔色が悪い。


「東側の物資搬入口で、浄化印の破片が見つかりました」


「破片?」


「はい。それと……」


 神官は一瞬、リリアを見た。


 それから、言いにくそうに続ける。


「黒牙鼠の死骸が複数。さらに、搬入口の外に、何者かの足跡が」


 アリアが即座に反応した。


「人の足跡か?」


「おそらく。靴跡です」


 空気がさらに重くなる。


 人の足跡。


 つまり、魔性生物が勝手に入ったのではない。


 誰かがそこにいた。


 誰かが浄化印を壊し、魔性生物を入れた。


 その可能性が、一気に現実味を帯びた。


 リリアの表情が曇る。


「孤児院にも、同じ人が?」


「まだ分かりません」


 アリアが低く言った。


「ですが、調べる必要があります」


 俺はリリアの腕の中で、尻尾を丸めた。


 事件だ。


 完全に事件になった。


 珍生物の日常ほのぼの生活はどこへ行った。


 俺はまだ低級魔物だぞ。


 体当たりしても棚が揺れないレベルだぞ。


 なのに、神殿内の陰謀みたいなものに巻き込まれている。


 早い。


 展開が早い。


 読者的にはいいかもしれないが、当事者としては最悪だ。


 司祭長は静かに神官へ指示を出した。


「東側の搬入口を封鎖しなさい。外部から来た者の記録を確認。孤児院にも追加の護衛を」


「はい」


「それから、この件は不用意に広めぬように」


「承知しました」


 神官が去る。


 部屋には、重い沈黙が残った。


 リリアは俺を抱く腕に、少しだけ力を込めた。


「司祭長」


「はい」


「もし、誰かが孤児院に魔性生物を入れたのなら……子どもたちを狙ったのでしょうか」


 司祭長はすぐには答えなかった。


 その沈黙が、答えのようにも思えた。


「まだ断定はできません」


 司祭長は慎重に言った。


「ですが、リリア様。あなたが大切にしている場所が狙われた可能性はあります」


 リリアの瞳が揺れた。


 俺は初めて、リリアの中にある怒りのようなものを見た気がした。


 激しく燃える怒りではない。


 静かで、深くて、悲しみに近い怒り。


「……子どもたちを巻き込むのは、許せません」


 その声は柔らかかった。


 だが、芯があった。


 アリアが一歩前に出る。


「聖女様。調査は私たちにお任せください」


「私も何かできますか」


「今は、安全を確保することが先です」


「分かりました」


 リリアは頷いた。


 ただの突撃型ではない。


 ちゃんと今やるべきことを聞ける。


 そこは安心した。


 その時、司祭長が俺を見た。


「ノア」


「きゅ?」


「あなたには、危険なものを感じる力があるようですな」


 ぎくり。


 言われた。


 かなり直接言われた。


 俺は視線を逸らす。


「きゅう?」


 何のことでしょう。


 珍しい小動物なので分かりません。


 アリアが冷静に言う。


「司祭長、おそらくあります。昨日からの反応を見る限り、ノアは魔性生物や危険な場所に反応しています」


 アリアさん。


 容赦なくバラさないでください。


 リリアは目を輝かせた。


「ノアはみんなを守る力があるのですね」


 なぜそうなる。


 いや、間違ってはいない。


 でも、もう少し慎重に。


 司祭長は穏やかに言った。


「大きな力ではありません。しかし、今は貴重です」


 小さな力。


 貴重。


 その評価は、少しだけ落ち着く。


 俺は最強ではない。


 強くもない。


 ただ、危険に少し気づけるだけ。


 でも、それがリリアの周りでは役に立つ。


 そういうことらしい。


「ただし、ノアに無理はさせません」


 リリアがきっぱり言った。


 俺は耳を立てた。


「この子はまだ小さいです。怖い思いもたくさんしています。力があるからといって、危ない場所へ連れていくのは違います」


 リリア。


 それです。


 それを待っていました。


 俺は感動した。


 聖女様、今すごくまともです。


 アリアも少しだけ驚いたようにリリアを見る。


 司祭長は微笑んだ。


「ええ。その通りです」


 よかった。


 俺は今後、危険探索レーダーとして酷使されずに済むかもしれない。


 そう思った瞬間、リリアは俺を見て優しく言った。


「ノアが自分から教えてくれた時だけ、お願いしますね」


「きゅ……」


 結局、俺の意思次第になった。


 それはそれで重い。


 でも、無理やりよりはずっといい。


 俺は小さく頷いた。


 アリアに見られた。


「今、頷きましたね」


「きゅう」


 偶然です。


 たぶん。


     ◇


 司祭長の部屋を出た後、リリアはその日の予定を一部変更することになった。


 孤児院への追加訪問は中止。


 外部者との面会も一部延期。


 代わりに、神殿内での治癒と祈祷に集中するらしい。


 俺はリリアの部屋へ戻された。


 アリアも一緒だ。


 部屋の中は静かだった。


 昨日より少しだけ、外の気配が騒がしい。


 神官たちが調査に走っているのだろう。


 俺はかごの中で丸くなり、自分の頭の突起を気にしていた。


 こつん。


 毛布に当たる。


 存在感がある。


 嫌だ。


 かなり嫌だ。


 リリアはかごの前にしゃがみ込んだ。


「ノア」


「きゅ」


「今日は、怖い話をたくさん聞かせてしまいましたね」


「きゅ……」


 怖かったです。


 主に俺の生活が。


「でも、ノアがいてくれて助かっています」


 リリアは優しく微笑んだ。


「ありがとう」


 俺は返事に困った。


 俺は助けるために転生したわけではない。


 そもそも魔物だ。


 自分が生き延びるだけで精一杯だった。


 なのに、リリアにありがとうと言われると、少しだけ動けなくなる。


 悪い気はしない。


 むしろ、温かい。


 だから困る。


「きゅ」


 俺は小さく鳴いた。


 どういたしまして。


 たぶん。


 リリアは俺の頭の突起には触れず、背中をそっと撫でた。


---


聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:51% → 52%


---


 また増えた。


 進化の予兆は止まらない。


 俺の頭の突起も、たぶんこれから少しずつ伸びる。


 リリアはそれを寝癖と呼ぶ。


 アリアは異常と見る。


 司祭長は珍しい獣として観察する。


 俺だけが、それが進化だと知っている。


 その時、扉の向こうから侍女の声がした。


「聖女様。お茶をお持ちしました」


「ありがとうございます」


 侍女が入ってくる。


 そして、また俺の頭を見る。


「あら、ノア様の寝癖、朝より少し……」


 俺は固まった。


 リリアはにこりと笑う。


「育っています」


 認め方。


 それでいいのか。


 侍女は少し戸惑ったあと、微笑んだ。


「成長期、でしょうか」


 アリアが遠い目をした。


「この神殿は、聖女様に染まり始めていますね」


 俺もそう思う。


 リリアのポジティブ解釈が、周囲へじわじわ伝染している。


 怖い。


 でも助かる。


 侍女はお茶を置くと、俺用の小さな皿にミルクも用意してくれた。


「ノア様もどうぞ」


「きゅ」


 ありがとうございます。


 俺は皿に近づき、ミルクを飲む。


 ぺろ。


 うまい。


 この世界に来て、ミルクだけはかなり信頼できる。


 そう思った瞬間、危険察知が小さく震えた。


 ぴり。


 俺の耳が立つ。


 アリアがすぐに気づく。


「ノア?」


 俺は皿から顔を上げた。


 部屋ではない。


 廊下でもない。


 神殿東側でもない。


 もっと近い。


 この部屋の中。


 俺は周囲を見る。


 リリア。


 アリア。


 侍女。


 お茶。


 ミルク。


 小さな皿。


 危険察知は、皿ではなく、侍女の持ってきた茶器の方に微かに反応していた。


---


危険察知:微反応


対象:茶器周辺


危険度:低


備考:異物の可能性があります。


---


 異物。


 茶器。


 俺は固まった。


 リリアが今から飲もうとしているお茶。


 そこに、何かある?


 俺は反射的に動いた。


 かごから飛び出し、机の上へ向かう。


「ノア?」


 リリアが驚く。


 アリアの手が剣に伸びる。


 俺は机の上によじ登れない。


 足が短い。


 届かない。


 だから椅子に飛び乗り、そこから机へ向かって必死に前足を伸ばした。


「きゅっ、きゅっ!」


 飲むな。


 それ、飲まないでください。


 伝われ。


 頼む。


 アリアの目が鋭くなる。


「聖女様、お茶から離れてください」


 通じた。


 リリアはすぐに手を止めた。


 侍女が青ざめる。


「え……?」


 アリアは茶器を確認する。


 俺は机の端に前足をかけたまま、ぷるぷる震えていた。


 登れない。


 情けない。


 でも今はそれどころではない。


 アリアが茶器の中を覗き、匂いを確認する。


「……見た目には分かりません」


 司祭長を呼ぶべきか。


 そう言いかけた時、危険察知がもう一度震えた。


 俺は茶器ではなく、茶托の下を見た。


 小さな黒い粒。


 茶托の陰に、何かが挟まっている。


「きゅ!」


 俺は必死にそちらを見る。


 アリアが気づき、茶托を持ち上げた。


 そこには、米粒ほどの黒い欠片があった。


 アリアの表情が変わる。


「これは……腐食鼠の体毛?」


 侍女が息を呑む。


「そんな、私は何も……!」


 リリアは落ち着いた声で言った。


「大丈夫です。まず確認しましょう」


 俺は椅子の上で固まっていた。


 危険察知。


 また反応した。


 しかも今度は、リリアが口にするものの近く。


 背筋が冷たくなる。


 誰かが、直接リリアの近くに危険を置いた。


 偶然か。


 茶器に紛れただけか。


 それとも。


 アリアの声が低く響く。


「聖女様。この件、すぐに司祭長へ」


「はい」


 リリアは俺を見た。


 俺は椅子の上で、前足を机にかけたまま、ぷるぷるしている。


 リリアはこんな状況なのに、少しだけ微笑んだ。


「ノア、教えてくれてありがとう」


「きゅ……」


 どういたしまして。


 ただ、降ろしてください。


 足が限界です。


 アリアが俺をそっと持ち上げて、床へ下ろした。


 その手つきは、以前より少しだけ優しかった。


「また助けられましたね」


「きゅ」


 たぶん。


 でも、もう本当に嫌な予感しかしない。


 黒牙鼠。


 腐食鼠。


 壊された浄化印。


 物資搬入口の足跡。


 そして、リリアの茶器の近くにあった腐食鼠の体毛。


 神殿の中の誰かが、リリアの近くまで危険を運んでいる。


 そう考えるのが自然だった。


 俺は小さく息を吐いた。


 第一進化まで、まだ半分近く残っている。


 なのに事件は、俺の進化を待ってくれそうになかった。


 リリアは俺を抱き上げる。


 その腕は温かい。


 でも、少しだけ力が入っていた。


 アリアは扉の前に立ち、低く告げる。


「聖女様、今後は口にするものもすべて私が確認します」


「分かりました」


「ノアも、何か感じたらすぐ反応してください」


「きゅ……」


 また仕事が増えた。


 珍生物から、探偵、見回り要員、危険物検知係へ。


 俺の肩書きがどんどん物騒になっていく。


 リリアは俺を撫でようとして、頭の突起を避け、背中を優しく撫でた。


---


聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:52% → 53%


---


 進化ゲージは上がる。


 危険も増える。


 俺の頭の突起も伸びる。


 そしてリリアは、相変わらず優しい。


「ノア、大丈夫ですよ」


 リリアは静かに言った。


「怖いことがあっても、一緒に考えましょう」


 俺は彼女を見上げた。


 この子は本当に、怖いものから目を逸らさない。


 ただ、怖がり方が少し変なのだ。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 分かりました。


 俺も、できる範囲で頑張ります。


 たぶん。


 その時、危険察知がもう一度、遠くで小さく震えた。


 神殿の東側。


 物資搬入口の方角。


 そこに、まだ何かが残っている。


 俺はリリアの腕の中で、静かに耳を立てた。


 聖女様。


 どうやらこの神殿、思ったより安全ではないみたいです。

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