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第6話 聖女様、珍生物を夜の見回りに連れていく

 神殿に戻る頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。


 白い神殿の壁が夕焼けを受けて、淡い桃色に光っている。


 遠くから鐘の音が聞こえた。


 一日の終わりを告げる音らしい。


 俺はリリアの腕の中で、小さく丸まっていた。


 孤児院での出来事は、思ったより疲れた。


 子どもたちに撫でられた。


 「きゅーちゃん」と呼ばれた。


 転がらされかけた。


 白パンとかおもちとか言われた。


 そして、床下に黒牙鼠の気配を見つけた。


 結果として、俺はまた進化ゲージを上げることに成功した。


---


進化ゲージ:37%


スキル候補:危険察知


解放条件:同種行動をあと一回成功させる


---


 あと一回。


 危険察知まで、あと一回。


 この世界に来てから、俺はずっと危険に囲まれている。


 だから危険察知は欲しい。


 ものすごく欲しい。


 だが、そのためにもう一度危険を見つけなければならない。


 この仕様、なかなか性格が悪い。


 傘が欲しいのに、「あと一回ずぶ濡れになったらあげます」と言われているようなものだ。


 嫌すぎる。


「ノア、疲れましたか?」


 リリアが俺を覗き込む。


「きゅ」


 疲れました。


 かなり。


「今日はたくさん頑張りましたものね」


 そう言って、リリアは俺の頭を撫でた。


 ちり、と微かな刺激が走る。


---


聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:37% → 38%


---


 また増えた。


 撫でられるたびに増える。


 ただし同時に、毛の奥がぞわぞわする。


 成長と命の危険がセット販売。


 異世界の育成環境、だいぶ荒い。


 アリアは神殿の門をくぐりながら、険しい表情をしていた。


 孤児院で見つかった黒牙鼠の毛。


 神殿内に入り込んだ黒牙鼠。


 その二つを、彼女は偶然とは見ていないようだった。


「聖女様」


「はい」


「孤児院の床下については、すでに神官兵に調査を依頼しました。今夜は子どもたちを奥の部屋に近づけないよう、院長にも伝えてあります」


「ありがとうございます、アリア」


「ただ、神殿内にも出た以上、こちらも念のため確認が必要です」


 確認。


 嫌な言葉だ。


 だいたいこういう時の確認は、無事に終わらない。


 俺はリリアの腕の中で、寝たふりをした。


 もう今日は働けません。


 黒牙鼠も孤児院も頑張りました。


 珍生物にも休息は必要です。


 リリアは俺を見て、優しく言った。


「ノアはお部屋で休ませましょう」


 よし。


 それです。


 さすがリリア。


 今日は珍しく安全な判断をしてくれた。


 だが、アリアが俺を見た。


「それがよいとは思いますが……」


 嫌な間だ。


 続けないで。


「ノアは、黒牙鼠の気配に反応しています。もし神殿内にまだ同じ気配があるなら、この子が一番早く察知する可能性があります」


 やめてください。


 有能扱いしないでください。


 俺はただの珍しい小動物です。


 少し個性的な鳴き声の猫です。


 探偵ではありません。


 リリアが俺を見下ろす。


「ノア、どうしますか?」


「きゅ」


 寝ます。


 確実に寝ます。


 俺は全力で目を閉じた。


 眠い珍生物のふりだ。


 リリアは心配そうに微笑む。


「眠そうですね」


 そうです。


 眠そうです。


 実際に眠いです。


 このまま部屋に戻りましょう。


 しかしアリアは言った。


「聖女様、無理をさせるべきではありません。ただ、短時間だけでも、ノアに神殿内の反応を見てもらえれば助かります」


 見てもらえれば。


 俺は見回り犬か。


 いや、犬でもない。


 猫でもない。


 珍生物だ。


 職業が増えすぎている。


 森で拾われた珍しい小動物。


 聖女の白猫。


 きゅーちゃん。


 探偵。


 そして今度は見回り要員。


 どれか一つにしてほしい。


 リリアは俺を抱いたまま、真剣に考え込んだ。


「ノアに無理はさせたくありません」


 いいぞ。


「でも、もし孤児院や神殿に危ないものがいるなら、放っておけません」


 雲行きが怪しい。


「ノアが嫌なら、行きません」


 リリアは俺の目を見た。


「ノア、怖いですか?」


「きゅ……」


 怖いです。


 めちゃくちゃ怖いです。


 でも。


 孤児院で見つけたあの匂い。


 床下の奥にあった嫌な気配。


 あれが子どもたちの近くに出るかもしれない。


 神殿の中にもまだいるかもしれない。


 リリアの部屋に入ってきた黒牙鼠が、もしリリアがいる時に出ていたら。


 俺は少しだけ、かごの中で丸くなっていた時間を思い出した。


 安全な場所。


 柔らかい毛布。


 リリアの声。


 アリアの警戒。


 俺はまだ、この世界で生き延びることだけで精一杯だ。


 だが、リリアの生活圏に危険があるなら。


 気づけるのが俺だけなら。


 見ないふりは、少しだけ気持ちが悪かった。


「きゅ」


 俺は小さく鳴いて、リリアの腕の中から顔を出した。


 アリアの方を見る。


 そして、神殿の奥を見る。


 リリアが目を丸くした。


「行ってくれるのですか?」


「きゅ……」


 短時間だけです。


 本当に短時間だけでお願いします。


 リリアは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう、ノア」


 その指先が俺の頭を撫でる。


---


聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:38% → 39%


---


 もう撫でられるたびに進化ゲージが動くのにも慣れてきた。


 慣れていいのかは分からない。


 アリアは小さく頷いた。


「では、私が先導します。聖女様は後ろに。ノアは無理をしないこと」


「きゅ」


 はい。


 無理はしません。


 できれば一歩も歩きたくありません。


 そう思っていたら、リリアが俺を抱え直した。


「ノアは私が抱いていきますね」


 歩かなくてよくなった。


 助かった。


 ただし、聖女密着コースである。


 安全と危険が同時に来る。


 これが俺の日常らしい。


     ◇


 夜の神殿は、昼間とは雰囲気が違った。


 白い廊下は静まり返り、壁にかけられた灯りだけが淡く揺れている。


 昼間は神官や侍女たちが行き交っていた場所も、今は足音がよく響く。


 聖印。


 聖句。


 白い石壁。


 神聖な空気。


 俺にとっては、夜でも聖属性の圧は変わらない。


 むしろ静かな分、空気に混ざる聖力を強く感じる気がした。


 呼吸するだけで、少しずつ体がちりちりする。


---


聖域微接触を確認しました。


進化ゲージ:39% → 40%


---


 歩いているだけで増えた。


 神殿、経験値フィールドか。


 ただし魔物にはダメージ床。


 俺はリリアの腕の中で、なるべく丸くなった。


 アリアが先頭を歩く。


 剣に手を添え、周囲の音を聞き逃さないようにしている。


 その姿は頼もしい。


 怖いけど頼もしい。


 リリアは俺を抱いたまま、廊下を静かに進む。


 いつものほんわかした雰囲気はあるが、孤児院で異変を見つけてからは、少しだけ真剣だった。


 ただの天然ではない。


 子どもたちや神殿の人たちの安全が関わると、ちゃんと聖女の顔になる。


 もっとも、俺を見る時はすぐにふわっとする。


「ノア、寒くありませんか?」


「きゅ」


 寒くはありません。


 聖属性で内側が焦げそうです。


「少し震えていますね」


 リリアは俺をローブで包もうとした。


 近い。


 聖属性が近い。


 だが、廊下の聖域よりはましな気もする。


 俺はおとなしく包まれた。


 アリアが振り返る。


「聖女様、ノアの様子は?」


「少し緊張しています」


「……本当に緊張だけならよいのですが」


 この人は相変わらず鋭い。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 緊張です。


 緊張で通してください。


 俺たちはまず、昼間に黒牙鼠が出たリリアの部屋周辺を確認した。


 特に反応はない。


 次に、廊下の隅。


 食料庫の前。


 神官たちの控え室の近く。


 そのたびに、俺は鼻を動かした。


 だんだん分かってきた。


 黒牙鼠の匂いは、普通の鼠とは違う。


 土と獣の匂いに、苦い魔力のようなものが混ざっている。


 そして、孤児院で嗅いだ匂いには、それとは別の、もっと湿った嫌な匂いもあった。


 古い布が腐ったような。


 濡れた地下室のような。


 リリアが小声で言う。


「何か分かりますか?」


「きゅ……」


 まだです。


 でも、何かある気がします。


 アリアは俺の顔を見て、進む先を少し変えた。


「地下倉庫を確認しましょう」


 地下。


 嫌な響きだ。


 神殿に地下倉庫なんてあるのか。


 いや、あるか。


 大きな建物だし、食料や備品を置く場所は必要だ。


 だが、地下というだけで魔物が出そうな気配がする。


 俺はリリアの腕の中でさらに丸くなった。


「ノア、丸くなりましたね」


 リリアが小声で言う。


「怖いのですね」


 はい。


 正解です。


 今回は完全に正解です。


 アリアは階段の前で立ち止まった。


 下へ続く石段。


 壁には小さな灯り。


 下から、ひんやりとした空気が上がってくる。


 その空気に、混ざっていた。


 黒牙鼠の匂い。


 そして、孤児院で嗅いだものと同じ、湿った嫌な匂い。


 俺の耳がぴんと立った。


 ステータス画面が、静かに開く。


---


微弱な魔性反応を確認しました。


危険度:低〜中


位置:地下倉庫方面


備考:数が増えています。


---


 数が増えている。


 やっぱり嫌な言葉だ。


 俺はリリアの腕の中で、アリアを見る。


「きゅ」


 あっちです。


 たぶん、下です。


 アリアは表情を引き締めた。


「地下ですね」


 伝わった。


 最近、アリアの理解力が上がっている。


 嬉しい。


 でも、俺が普通の珍生物から遠ざかっている証拠でもある。


 複雑だ。


 リリアも階段の下を見つめた。


「行きましょう」


「聖女様、私が先に行きます。絶対に前に出ないでください」


「はい」


 アリアが剣を抜く。


 金属の音が、静かな階段に響いた。


 リリアは俺を抱いたまま、一歩ずつ階段を下りる。


 俺は内心で思った。


 やめたい。


 今すぐ帰りたい。


 かごに戻りたい。


 でも、もう戻れない。


 ステータス画面の危険表示は、階段を下りるごとに濃くなっていく。


---


魔性反応が接近しています。


危険度:中


対象候補:黒牙鼠/腐食鼠


---


 増えた。


 黒牙鼠だけじゃない。


 腐食鼠。


 名前がさらに嫌だ。


 噛まれると痛いどころではなさそうだ。


 俺は心の中で叫んだ。


 珍生物にやらせる仕事じゃない。


     ◇


 地下倉庫は、薄暗く、湿っていた。


 木箱が積まれ、布袋が並び、古い棚には薬草や油壺が置かれている。


 空気は重い。


 土と木と、古い水の匂い。


 その奥に、黒い影がいくつも動いた。


「チチッ」


「キィ……」


 小さな鳴き声。


 黒牙鼠だ。


 いや、それだけではない。


 一匹だけ、毛がぼさぼさで、背中の一部が灰色に変色した鼠がいる。


 あれが腐食鼠だろうか。


 ステータス画面が反応した。


---


対象:黒牙鼠 四体


対象:腐食鼠 一体


危険度:中


注意:腐食鼠の体液には弱い腐食性があります。


---


 体液に腐食性。


 最悪だ。


 噛むと痛いどころではない。


 俺の白い毛が溶けるかもしれない。


 いや、毛だけで済めばいい方だ。


 アリアが一歩前に出る。


「聖女様、下がってください」


 リリアは素直に下がった。


 俺を抱えたまま。


 だが、鼠たちは俺たちに気づいた。


 赤い目がこちらを見る。


 その瞬間、黒牙鼠の一匹が棚の上から飛んできた。


 速い。


 アリアが剣で弾く。


 黒牙鼠は壁にぶつかり、床を転がった。


 だが、残りの三匹が散る。


 左右から回り込む。


 腐食鼠は奥でじっとしている。


 まるで、他の鼠を使って様子を見ているようだった。


 鼠にしては、嫌に賢い。


 リリアが小さく息を呑む。


「アリア」


「問題ありません」


 アリアは冷静だった。


 剣を振り、黒牙鼠を寄せつけない。


 強い。


 さすが護衛騎士だ。


 俺とは違う。


 転がらなくても戦える。


 しかし、一匹が木箱の隙間を抜けて、リリアの足元へ向かった。


 アリアの死角。


 リリアは気づいていない。


 俺の体が先に動いた。


 リリアの腕の中から飛び出す。


「きゅっ!」


「ノア!」


 リリアの声。


 アリアの視線。


 黒牙鼠がリリアの足元へ飛びかかる。


 俺は床に着地し、そのまま横へ転がった。


 いや、転がるつもりはなかった。


 足が滑ったのだ。


 だが、結果として黒牙鼠の横腹にぶつかった。


 ぽふん。


 軽い音。


 黒牙鼠が少しよろける。


---


能力:よく転がる が発動しました。


対象の進路妨害に成功しました。


---


 進路妨害。


 俺の転がり、だんだん戦術扱いになってきた。


 黒牙鼠が牙を剥く。


 俺に向かってくる。


 怖い。


 普通に怖い。


 俺は反射的に丸くなった。


 黒牙鼠の牙が、俺の毛に触れる。


---


能力:丸くなる が発動しました。


被害を軽減しました。


---


 痛い。


 少し痛い。


 だが、深くは刺さっていない。


 俺はそのまま、黒牙鼠の顔に前足を出した。


 ぺし。


 威力はない。


 しかし黒牙鼠が一瞬ひるむ。


 その瞬間、アリアの剣の鞘が振り下ろされた。


 黒牙鼠が気絶する。


「ノア、下がりなさい!」


 アリアが叫ぶ。


 はい。


 下がります。


 全力で下がります。


 そう思ったのに、俺の鼻が別の匂いを拾った。


 腐食鼠。


 奥にいたはずの腐食鼠が、いつの間にか棚の上に移動している。


 狙いは、リリアではない。


 棚の上に置かれた、薬草袋。


 いや、その隣の小さな瓶。


 聖水か?


 腐食鼠が瓶に噛みつこうとしていた。


 その瞬間、ステータス画面が赤く光る。


---


危険反応を確認しました。


対象:聖水瓶


予測:破損時、地下倉庫内に聖属性液が飛散します。


警告:魔物個体に危険。


---


 俺に危険。


 つまり、その瓶が割れると俺が危ない。


 だが、それだけではない。


 聖水が飛び散れば、鼠たちには効くかもしれない。


 しかしリリアやアリアにも何か影響があるかもしれない。


 少なくとも混乱はする。


 俺は動いた。


 考えるより先に走った。


 棚の下へ。


 腐食鼠が瓶に牙を立てる直前、俺は棚の脚に体当たりした。


 ぽすん。


 弱い。


 あまりにも弱い。


 棚は揺れない。


 俺の体が跳ね返っただけだ。


 終わった。


 そう思った瞬間、体が勝手にころんと転がった。


 棚の脚の下に、古い布が挟まっていた。


 俺の体がそれを引っかける。


 布がずれる。


 棚が少し傾く。


 瓶がころりと動く。


 腐食鼠の牙が空を噛んだ。


 瓶は棚の奥へ転がり、落下を免れた。


---


危険反応への対処に成功しました。


スキル候補:危険察知


解放条件を達成しました。


スキル:危険察知 を獲得しました。


---


 来た。


 ついに来た。


 危険察知。


 欲しかったスキル。


 だが、喜んでいる暇はなかった。


 腐食鼠が俺を見た。


 赤い目。


 灰色の毛。


 口元から垂れる、黒っぽい液体。


 体液に腐食性。


 近づきたくない。


 絶対に近づきたくない。


 腐食鼠が棚から飛び降りる。


 俺の方へ。


 速い。


 逃げられない。


 俺は反射的に目を閉じそうになった。


 その時、リリアの声が響いた。


「ノア!」


 白い光が走る。


 リリアの治癒の光。


 いや、浄化に近い聖なる光が、俺と腐食鼠の間に割り込んだ。


 腐食鼠が悲鳴を上げて後退する。


 俺は光の余波を浴びた。


「きゅうっ!?」


 熱い。


 痛い。


 でも、同時に体の奥が満たされる。


---


聖属性接触を確認しました。


消滅判定……失敗。


変質判定……成功。


進化ゲージ:40% → 48%


---


 増えすぎ。


 今、かなり増えた。


 だが死ぬかと思った。


 リリアの光は腐食鼠を遠ざけたが、俺にとっても危険だった。


 猛毒と回復薬を同時に浴びた気分だ。


 アリアが一気に踏み込む。


 黒牙鼠を二匹まとめて弾き飛ばし、最後に腐食鼠を鞘で叩きつける。


 腐食鼠は床を転がり、動かなくなった。


 地下倉庫に静寂が戻る。


 俺は床の上でぺたりと伏せた。


「きゅ……」


 疲れた。


 心の底から疲れた。


 今日何回目だ。


 転がる。


 丸くなる。


 体当たりする。


 消えかける。


 俺は本当に低級魔物なのか。


 それとも、低級魔物とはこういう過酷な生き物なのか。


 リリアが駆け寄ってくる。


「ノア!」


 俺を抱き上げようとする。


 アリアが止めかけたが、俺に腐食液がついていないことを確認してから手を下ろした。


 リリアは俺をそっと抱き上げた。


「怪我はありませんか?」


「きゅ……」


 怪我はたぶんありません。


 精神が削れました。


「ごめんなさい。私の光、びっくりしましたよね」


 びっくりしました。


 かなり。


 でも、助かりました。


 それは本当だ。


 リリアの光がなければ、俺は腐食鼠にやられていたかもしれない。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 リリアは俺の頭を優しく撫でる。


「よかった……」


 その声に、ほんの少し震えがあった。


 いつものほんわかした聖女ではない。


 心から俺を心配している声だった。


 俺は少しだけ胸が苦しくなった。


 こんなに心配されるほどのことをしたつもりはない。


 いや、したのか。


 飛び出した。


 腐食鼠の前に。


 リリアの生活圏を守るために。


 気づけば、またそうしていた。


 ステータス画面が開く。


---


保護者の危険を防ぎました。


スキル:危険察知 を獲得しました。


進化ゲージ:48%


追加補正:保護行動により進化安定率が上昇しました。


---


 危険察知。


 やっと手に入った。


 俺はリリアの腕の中で小さく息を吐いた。


 これで少しは生きやすくなる。


 たぶん。


 アリアは倒れた鼠たちを見下ろしていた。


「黒牙鼠が四体。腐食鼠が一体。神殿の地下倉庫に入り込む数ではありません」


「どこから来たのでしょう」


 リリアの声は真剣だった。


 アリアは壁際を見た。


 そこには、小さな穴があった。


 石壁の下。


 古い排水路のような隙間。


「地下の排水路でしょう。ですが、神殿の排水路には浄化印が刻まれているはずです。普通の魔性生物は入れません」


 浄化印。


 つまり、魔物除けみたいなものか。


 それを通ってきた。


 あるいは、通れるようになっていた。


 嫌な予感がする。


 アリアはしゃがみ込み、壁の下の印を見た。


 そこには、薄く削られたような跡があった。


「……印が傷つけられています」


 リリアの表情が変わった。


「誰かが?」


「その可能性があります」


 空気が重くなった。


 黒牙鼠が偶然入り込んだわけではない。


 孤児院にもいた。


 神殿にもいた。


 そして神殿の浄化印が傷つけられていた。


 つまり、誰かが意図的に魔性生物を入り込ませた可能性がある。


 俺はリリアの腕の中で、尻尾を丸めた。


 やめてほしい。


 俺はまだ転生して丸一日も経っていない。


 小さな魔物で、猫でもなく、珍生物としてギリギリ生きているだけだ。


 陰謀っぽいものに巻き込むのは早すぎる。


 せめて第一進化してからにしてほしい。


 アリアは立ち上がった。


「聖女様。この件は司祭長に報告します。孤児院の床下も同じように浄化印が傷つけられている可能性があります」


「分かりました」


 リリアは俺を抱く腕に力を込めた。


「子どもたちに何かある前に気づけてよかったです」


「ノアのおかげです」


 アリアが言った。


 俺は耳を動かした。


 アリアが、はっきりそう言った。


 ノアのおかげ。


 この人からそう言われると、少しだけ不思議な気分になる。


「きゅ……」


 俺は小さく鳴いた。


 アリアは俺を見る。


 相変わらず鋭い目。


 だが、その奥にはもう、ただの疑いだけではないものがあった。


「あなたは本当に、よく分からない生き物ですね」


 それはそう。


 俺もそう思う。


「ですが、聖女様を守ろうとしていることは分かりました」


 俺はリリアの腕の中で固まった。


 リリアが嬉しそうに微笑む。


「ノアは優しい子ですから」


「優しいかどうかは、まだ判断できません」


 アリアは冷静に言った。


 しかし、その声は少し柔らかかった。


「ただ、役には立ちます」


 役には立ちます。


 褒め言葉か?


 微妙だ。


 でもアリアらしい評価だった。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 リリアは俺を抱きしめた。


「ノア、ありがとう」


 また聖属性が近い。


 ちりちりする。


 でも、今回は嫌ではなかった。


     ◇


 鼠たちの処理はアリアと呼ばれた神官兵たちが行った。


 俺とリリアは一度部屋に戻された。


 夜の神殿は、さっきよりも少し騒がしくなっていた。


 神官たちが地下倉庫へ向かい、排水路の確認を始めている。


 司祭長にも報告が行ったらしい。


 リリアの部屋に戻ると、アリアは扉の前に立った。


「聖女様、今夜は部屋から出ないでください」


「はい」


「ノアもです」


「きゅ」


 出ません。


 絶対に出ません。


 今日はもう十分です。


 リリアは俺をかごに下ろそうとしたが、少し迷った。


「ノア、疲れましたね」


「きゅ……」


 疲れました。


 とても。


「今日は私のベッドで……」


「なりません」


 アリアの声が即座に飛んだ。


 早い。


 さすが常識人。


 リリアは少し残念そうにした。


「でも、ノアは頑張りました」


「頑張ったことと、聖女様の寝具に入れることは別です」


「ご褒美に」


「かごに毛布を増やします」


「……では、ふかふかにしてあげましょう」


「それなら構いません」


 ふかふか交渉が成立した。


 結果、俺のかごには毛布が一枚追加された。


 かなり快適である。


 俺はかごの中で丸くなった。


 ふかふか。


 暖かい。


 安全。


 たぶん。


 リリアはかごの横にしゃがみ、俺を見つめた。


「ノア、今日は本当にありがとう」


「きゅ」


 どういたしまして。


 もう二度とやりたくありません。


「怖かったでしょう?」


「きゅ……」


 怖かったです。


 腐食鼠、めちゃくちゃ怖かったです。


「でも、ノアのおかげで、みんなを守れました」


 リリアの言葉は、真っ直ぐだった。


 俺は目をそらす。


 守れた。


 そう言われると、少しだけ胸が温かくなる。


 俺はただ生き延びたいだけだったはずだ。


 でも、リリアの部屋を守った。


 孤児院の床下に気づいた。


 地下倉庫で聖水瓶が割れるのを止めた。


 気づけば、俺はリリアの周りの危険に首を突っ込んでいる。


 珍生物の仕事量ではない。


 だが、悪い気分ではなかった。


 ステータス画面が、静かに開く。


---


スキル:危険察知


効果:周囲の危険反応を低確率で察知する。


補足:保護対象に関わる危険には反応率が上昇する。


現在の保護対象:リリア・セレスティア


---


 保護対象。


 リリアが正式にそう扱われている。


 俺は三十二歳の元会社員で、今は低級魔物で、周囲からは珍しい小動物扱いされている。


 そんな俺が、聖女を保護対象にしている。


 おかしい。


 かなりおかしい。


 でも、ステータスはそう判断したらしい。


 リリアは俺の頭をそっと撫でた。


---


聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:48% → 49%


---


 あと一%で半分。


 第一進化まで、少しずつ近づいている。


 だが、俺は同時に思った。


 このペースで進化して大丈夫なのか。


 一晩で少し大きくなっただけで、アリアに気づかれた。


 もし本当に第一進化したら、どうなる?


 猫でもない。


 珍しい小動物でもない。


 もっと明らかにおかしな姿になったら。


 リリアはきっと笑う。


 大きくなりましたね、と。


 アリアは絶対に気づく。


 これはおかしい、と。


 そして俺は、また「きゅ」と鳴くしかない。


 不安だ。


 でも、眠い。


 今日はあまりにもいろいろありすぎた。


 リリアが部屋の明かりを落とす。


「おやすみなさい、ノア」


「きゅ……」


 おやすみなさい。


 アリアは扉の前で警護に立つ。


 リリアはベッドに入り、静かな寝息を立て始めた。


 俺はかごの中で丸くなる。


 危険察知を手に入れたせいか、部屋の空気の変化に少し敏感になった気がする。


 今は危険な反応はない。


 聖属性はある。


 相変わらず地味に刺さる。


 でも、それ以外は静かだった。


 俺は目を閉じた。


 その直前、扉の外でアリアの声が小さく響いた。


「……ノア」


 俺は片目を開ける。


 アリアは俺の方を見ていた。


「聖女様を守るという一点では、少しだけ信用します」


「きゅ……」


 少しだけ。


 実にアリアらしい。


「ただし、正体不明であることに変わりはありません」


 はい。


 分かっています。


「妙なことをしたら、すぐに捕まえます」


 怖い。


 でも、その声には昨日ほどの冷たさはなかった。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 分かりました。


 たぶん。


 アリアはそれ以上何も言わなかった。


 俺も目を閉じる。


 神殿の夜は静かだった。


 だが、その静けさの下で、何かが動いている。


 黒牙鼠。


 腐食鼠。


 傷つけられた浄化印。


 神殿と孤児院。


 たぶん、これは偶然ではない。


 俺はまだ小さい。


 弱い。


 転がることと丸くなることくらいしかできない。


 それでも、危険察知という小さな力を手に入れた。


 聖女のそばで生き延びるため。


 リリアを守るため。


 俺は少しずつ、この世界に適応していく。


 進化ゲージは四十九%。


 第一進化まで、あと五十一%。


 もうすぐ半分。


 その事実に、俺は期待と不安を抱えながら眠りに落ちた。


 そしてその夜。


 俺は夢の中で、自分の頭に小さな角が生えているのを見た。

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