第5話 聖女様、珍生物を孤児院に連れていく
午後の予定がひと通り終わり、神殿の窓から差し込む光が少し赤くなり始めた頃。
俺はリリアの部屋のかごの中で、できるだけ動かないようにしていた。
理由は簡単だ。
午前中に働きすぎたからである。
神殿の部屋に入り込んだ黒牙鼠という小型魔物を相手に、俺は転がり、跳ね、噛まれかけ、丸くなり、最終的にアリアが仕留めるための隙を作った。
戦闘と言っていいのかは分からない。
どちらかというと、事故現場に近かった。
だが、ステータス画面はそれをしっかり評価していた。
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進化ゲージ:31%
スキル候補:危険察知
解放条件:同種行動をあと二回成功させる
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危険察知。
欲しい。
ものすごく欲しい。
この世界に来てから、俺の周囲は危険だらけだ。
森には黒狼。
神殿には聖属性。
リリアの治癒は回復薬と猛毒の同時摂取。
司祭長の指先はほぼ聖なる刃物。
お風呂は命がけ。
さらに部屋には黒牙鼠が入り込む。
危険察知というスキル名は、今の俺にとって保険証より大事に見えた。
ただし、解放条件が「同種行動をあと二回成功させる」なのが怖い。
同種行動。
つまりまた危険を察知して、何かしろということだろう。
嫌だ。
危険は察知したい。
でも、危険に関わりたくはない。
この矛盾、どうにかならないだろうか。
俺はかごの中で深く息を吐いた。
「きゅ……」
白い毛がふわりと揺れる。
昨日の風呂のせいで、毛並みはかなり良くなっている。
ステータス画面の備考にも「ふわふわ度が上昇しました」と書かれていた。
俺は魔物だ。
低級魔物だ。
だが、今の俺は神殿内で「毛並みのいい珍しい小動物」として扱われている。
魔物としての尊厳は低い。
だが、生存率は上がった。
尊厳と生存率。
どちらを取るべきか。
今は迷わず生存率である。
俺がかごの中で丸くなっていると、部屋の扉が開いた。
リリアが戻ってきた。
白いローブ姿。
淡い金髪。
今日も穏やかな笑顔。
午前の祈祷と施療、その後の神官長との面会を終えたらしい。
少し疲れているように見えるが、それでも俺を見るとぱっと表情が明るくなる。
「ノア、起きていますか?」
「きゅ」
起きています。
むしろ、危険が多すぎてぐっすり眠れません。
リリアはかごの前にしゃがむと、俺の頭をそっと撫でた。
ちり、と微かな聖属性の刺激。
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聖属性微量接触を確認しました。
進化ゲージ:31% → 32%
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また増えた。
撫でられるだけで増える。
このまま一日中撫でられていれば進化できるのではないか。
いや、たぶん途中で消える。
リリアの撫では、回復薬入りの毒霧みたいなものだ。
少量なら成長。
浴びすぎると死。
加減が難しすぎる。
「午前中は大変でしたね」
リリアが優しく言う。
「鼠さんが入ってきたと聞きました」
「きゅ」
鼠さん。
いや、あれは黒牙鼠とかいう小型魔物でした。
噛むと痛いやつです。
「怖かったでしょう?」
「きゅ……」
怖かったです。
でも、ただ怖がって転がっていたわけではありません。
少しは戦いました。
たぶん。
リリアは俺を両手でそっと抱き上げた。
「でも、ノアは転がるのが上手ですからね」
そこを褒めるのか。
いや、実際に転がって避けたので間違いではない。
ただ、守ったというより転がったことが印象に残っているのは少し悲しい。
アリアが部屋の入口に立っている。
午前の一件以来、俺を見る目が少し変わった。
相変わらず警戒はしている。
だが、ほんの少しだけ柔らかい。
たぶん。
いや、気のせいかもしれない。
アリアはリリアに言った。
「聖女様、夕方の孤児院訪問ですが」
「はい」
「予定通り向かわれますか?」
「もちろんです。昨日から約束していましたから」
孤児院。
そういえば、予定確認で出ていた。
リリアは夕方に孤児院へ行くらしい。
聖女として、子どもたちの様子を見たり、治癒をしたりするのだろう。
いいことだ。
非常にいいことだ。
俺は留守番しているので、どうぞ行ってきてください。
そう思って、俺はリリアの腕の中でおとなしく丸まった。
アリアが言う。
「ノアは部屋に残しますか?」
よし。
その流れだ。
俺は心の中でアリアを応援した。
アリアさん、いけ。
そのまま押し切ってくれ。
俺は今日は部屋で休みたい。
午前中に黒牙鼠と戦った珍生物には休暇が必要だ。
だが、リリアは俺を見下ろした。
「ノア、どうしますか?」
「きゅ」
留守番します。
安全第一です。
「一緒に行きたいのですね」
違います。
どうしてそうなる。
リリアはにこりと笑った。
「孤児院の子どもたちも、ノアを見たらきっと喜びます」
子どもたち。
珍しい小動物。
ふわふわ。
完全に触られる流れだ。
俺は尻尾を丸めた。
危険だ。
子どもは悪くない。
だが、小動物にとって子どもは加減が読めない存在でもある。
抱っこ。
なでなで。
尻尾。
耳。
肉球。
俺の尊厳と安全がまとめて危ない。
アリアが少し眉を寄せる。
「聖女様、孤児院は人の出入りも多く、子どもたちもいます。ノアには負担が大きいかもしれません」
その通りです。
さすがアリアさん。
「では、少しだけにしましょう」
リリアは明るく言った。
「子どもたちに挨拶して、疲れたらすぐ帰ります」
「……聖女様」
「アリアも一緒ですし、大丈夫です」
アリアは一瞬、言葉に詰まった。
俺も詰まった。
リリアの信頼は強い。
アリアがいるから大丈夫。
これはアリア本人からすると、反論しにくい。
アリアは深く息を吐いた。
「分かりました。ただし、私が危険と判断したらすぐに戻ります」
「はい」
決まってしまった。
俺は孤児院へ行くことになった。
転生してから、まだ丸一日も経っていない。
それなのに俺は、すでに聖女の珍生物として孤児院デビューすることになった。
ステータス画面が開いた。
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外出イベントが発生しました。
同行者:リリア・セレスティア/アリア
目的地:神殿付属孤児院
注意:多数の接触が予想されます。
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多数の接触。
やめて。
その一文が一番怖い。
◇
孤児院へ向かう道には、夕方の淡い光が落ちていた。
神殿の白い壁が赤く染まり、昼間よりも少しだけ柔らかく見える。
坂を下りると、神殿の敷地に隣接した孤児院が見えてきた。
白い石造りの神殿とは違い、木と石を組み合わせた温かみのある建物だ。
庭には小さな畑があり、洗濯物が風に揺れている。
子どもたちの声が聞こえた。
笑い声。
走る足音。
木の棒で何かを叩く音。
元気だ。
かなり元気だ。
俺はリリアの腕の中で、すでに少し身構えていた。
リリアは俺を抱いて歩いている。
アリアはすぐ隣。
後ろには侍女が一人。
孤児院の前に着くと、扉が開き、年配の女性が出迎えた。
「聖女様、本日はありがとうございます」
「こちらこそ、皆さんに会えるのを楽しみにしていました」
リリアは柔らかく微笑む。
その笑顔だけで、場の空気が少し明るくなる。
本当に聖女なのだと思った。
ただ優しいだけではない。
人を安心させる何かがある。
俺には命がけの聖属性でも、人間にとっては救いなのだろう。
年配の女性はリリアの腕の中の俺に気づいた。
「あら、その子は?」
「ノアです」
リリアが嬉しそうに言う。
「森で拾った、少し個性的な鳴き声の猫です」
その紹介、続投なのか。
俺は観念して鳴いた。
「きゅ」
年配の女性は少し目を丸くした。
「まあ、本当に個性的ですね」
受け入れられた。
さすが孤児院の人。
器が広い。
いや、リリアの紹介が堂々としすぎていて、否定しにくいのかもしれない。
「珍しい子ですね」
「はい。珍しいです」
リリアは嬉しそうに頷いた。
珍しい。
また万能単語が出た。
俺は今日も珍しいで命をつないでいる。
すると、建物の奥から子どもたちが駆けてきた。
「聖女様だ!」
「リリア様!」
「来た!」
子どもたちの目が一斉に輝く。
そして、リリアの腕の中の俺に気づいた。
空気が変わった。
「あっ!」
「白い!」
「なにそれ!」
「猫?」
「うさぎ?」
「犬?」
「もち?」
最後の子、もちって言ったか?
俺は動物分類を超えて食べ物にされた。
リリアは嬉しそうに俺を少し持ち上げた。
「この子はノアです。少し個性的な鳴き声の猫です」
「鳴いて!」
「鳴いて鳴いて!」
「白い子、鳴いて!」
圧がすごい。
子どもたちの期待がすごい。
俺はアリアを見た。
アリアは腕を組んでいる。
助けてくれる気配はない。
いや、警戒はしている。
でも、鳴くくらいなら問題ないと判断したのだろう。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
子どもたちが一斉に歓声を上げた。
「きゅって言った!」
「猫じゃない!」
「かわいい!」
「もう一回!」
猫じゃないって言われた。
子どもは正直である。
リリアはにこにこしている。
「個性的でしょう?」
「うん!」
「個性的!」
「きゅーちゃん!」
名前が変わった。
ノアです。
ノアでお願いします。
俺はリリアの腕の中で小さく丸まる。
子どもたちは興味津々で近づいてくる。
手が伸びる。
リリアは優しく言った。
「一人ずつ、そっと撫でてあげてくださいね。ノアがびっくりしないように」
「はーい!」
子どもたちは意外と素直だった。
一人ずつ並び、俺の背中をそっと撫でる。
小さな手。
温かい。
聖属性はない。
普通の人間の手だ。
俺は少しだけ安心した。
子どもが一人、俺の毛を撫でて目を輝かせる。
「ふわふわ!」
別の子が言う。
「雲みたい!」
「白パンみたい!」
「おもちみたい!」
また食べ物に寄った。
俺の外見評価、かなり食欲を刺激するらしい。
リリアは嬉しそうに笑う。
「ノア、人気者ですね」
「きゅ……」
人気者というか、触れる珍生物です。
アリアは子どもたちの手の動きをずっと見ている。
尻尾を引っ張りそうな子がいれば、すぐに止める。
耳を掴みそうな子にも、先に注意する。
「優しくです」
「はーい」
「強く握らない」
「はーい」
「尻尾は触らない」
「えー」
「触らない」
「はーい」
アリアさん。
今、本当に頼もしい。
俺は心の中で深く頭を下げた。
すると、子どもの一人が俺を見て言った。
「この子、聖女様の猫なの?」
リリアは少し考えた。
「そうですね。私の大切な子です」
大切な子。
その言葉に、俺は少しだけ動きを止めた。
拾われてから、まだ丸一日も経っていない。
俺は猫でもない。
本当は魔物だ。
それでもリリアは、当たり前みたいに「大切な子」と言った。
この聖女は、たぶんそういう人なのだ。
助けた命を、簡単に手放さない。
疑われても、変でも、普通でなくても。
自分が大切だと思ったら、大切にする。
危なっかしい。
でも、温かい。
「きゅ……」
俺は小さく鳴いた。
リリアはそれを見て、優しく微笑んだ。
「はい。ノアもそう言っています」
何を?
まあいい。
今は否定しないでおこう。
◇
孤児院でのリリアは、本当に忙しかった。
怪我をした子の手当てをする。
咳をしている子に治癒をかける。
小さな子の話を聞く。
院長と食料の相談をする。
子どもたちはリリアが大好きらしく、ずっと周りをついて回っていた。
その間、俺は基本的にリリアの腕の中か、椅子の上に敷かれた布の上にいた。
アリアが俺のそばに立っている。
完全に監視兼護衛である。
子どもたちが入れ替わり立ち替わり俺を見に来る。
「ノア、寝てる?」
「起きてる?」
「きゅって言って」
「転がって」
転がって、はやめてほしい。
それは俺の生命維持スキルであり、芸ではない。
だが、子どもたちに見つめられると、何となく断りづらい。
俺は小さく横にころんと転がった。
「きゅ」
子どもたちが歓声を上げる。
「転がった!」
「かわいい!」
「もう一回!」
しまった。
芸として認識された。
アリアがすぐに割って入る。
「ノアは疲れています。何度もさせてはいけません」
「はーい」
ありがとう、アリアさん。
あなたがいなかったら、俺は今日一日中転がらされていたかもしれない。
リリアは少し離れた場所で、膝を擦りむいた男の子に治癒をかけていた。
白い光。
柔らかな聖属性。
男の子の傷がみるみる癒えていく。
俺はその光を遠くから見ているだけで、毛の奥がちりちりした。
近くにいたら、またゲージが上がるだろう。
同時に消えかけるだろう。
危険だ。
だが、子どもの傷が治って笑顔になるのを見ると、リリアの力が本来どういうものなのか分かる。
人を救う力。
苦しみを和らげる力。
俺には危険でも、この場所では間違いなく救いだった。
俺は少しだけ、リリアを見直した。
いや、元々いい子だとは思っていた。
ただ、俺にとっては命がけの相手でもあるので、評価が複雑だったのだ。
その時だった。
鼻先に、変な匂いが届いた。
湿った土。
古い木。
そして、微かな魔性の匂い。
俺は耳を立てた。
これは、午前に黒牙鼠が来た時と似ている。
だが、少し違う。
もっと薄い。
もっと奥にある。
俺は周囲を見回した。
子どもたち。
リリア。
アリア。
院長。
誰も気づいていない。
匂いは、孤児院の奥の方から漂っていた。
物置か。
あるいは床下か。
ステータス画面が、薄く開く。
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微弱な魔性反応を確認しました。
危険度:低
位置:建物奥/床下付近
備考:まだ小さい。放置すると増えるかもしれません。
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増える。
嫌な言葉だ。
黒牙鼠のようなものがまたいるのか。
それとも別の何かか。
今すぐ危険というわけではなさそうだ。
だが、ここは孤児院。
子どもが多い。
もし魔性反応の原因が何かの魔物だったら。
もし、夜になってから出てきたら。
俺はアリアを見た。
アリアは俺の異変に気づいたらしい。
すぐに目を細める。
「ノア?」
「きゅ」
俺は椅子から降りた。
床に着地する。
そして、匂いのする方へ歩き出した。
「ノア、どこへ行くのですか?」
リリアが気づいて声をかける。
子どもたちも俺を見る。
「ノア歩いてる」
「どこ行くの?」
「探検?」
違う。
たぶん危険確認です。
アリアが俺の前に立った。
「そちらに何かあるのですか」
俺はアリアを見上げた。
そして、奥の廊下の方を見る。
もう一度アリアを見る。
「きゅ」
伝われ。
頼む。
言葉は話せない。
でも、伝われ。
アリアは少しだけ黙った。
それから、低い声で言った。
「聖女様、少し確認します」
「何かありましたか?」
「分かりません。ですが、ノアが何かに反応しています」
リリアはすぐに俺を見た。
「ノア?」
「きゅ」
俺は奥を向いた。
リリアの表情が、ほんの少し真面目になる。
「アリア、私も行きます」
「聖女様はここに」
「子どもたちのいる場所です。何かあるなら確認しなければ」
アリアは一瞬だけ迷った。
だが、リリアの目を見て諦めたように息を吐く。
「分かりました。ただし、私より前には出ないでください」
「はい」
こうして、俺たちは孤児院の奥へ向かうことになった。
俺。
聖女リリア。
護衛騎士アリア。
そして、なぜか数人の子どもたちもついてこようとした。
アリアが振り返る。
「あなたたちはここで待っていなさい」
「えー」
「ノアの探検見たい」
「危険かもしれません」
その一言で、子どもたちは少しだけ静かになった。
リリアが優しく言う。
「みんなは院長先生と待っていてください。すぐ戻ります」
「はーい」
子どもたちは渋々引き下がった。
よかった。
巻き込まないで済む。
俺は廊下を進んだ。
奥へ行くほど、匂いが濃くなる。
床下。
たぶん、この下だ。
物置の扉の前で、俺は足を止めた。
「ここですか?」
リリアが小声で言う。
「きゅ」
アリアが扉に手をかける。
ゆっくり開ける。
中は薄暗かった。
掃除道具。
古い布。
使っていない木箱。
乾いた草の束。
俺の鼻が、床の隅を捉える。
そこに、小さな穴があった。
床板の隙間。
黒い毛のようなものが、少しだけ見えている。
アリアがしゃがみ込む。
「……黒牙鼠の毛ですね」
やっぱり。
午前に出たやつと同じかもしれない。
「神殿だけでなく、孤児院にも?」
アリアの声が低くなる。
リリアも表情を曇らせた。
「子どもたちに被害が出る前でよかったです」
アリアは俺を見る。
「ノアが気づいたのですか」
「きゅ」
たぶん。
俺もよく分かっていません。
ステータス画面が教えてくれました。
アリアは少し考え込んだ。
「聖女様。これは念のため、神殿の者に調査させるべきです。黒牙鼠が複数いる可能性があります」
「分かりました」
リリアは俺を見下ろし、優しく言った。
「ノア、教えてくれてありがとう」
「きゅ……」
感謝された。
少し照れる。
いや、照れている場合ではない。
ステータス画面が開いた。
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危険反応の発見に成功しました。
スキル候補:危険察知
解放条件:同種行動をあと一回成功させる
進化ゲージ:32% → 36%
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あと一回。
危険察知まで、あと一回。
進化ゲージも増えた。
だが、それ以上に気になることがある。
黒牙鼠が神殿と孤児院の両方に出た。
偶然なのか。
それとも、何か理由があるのか。
俺は床の穴をじっと見つめた。
その奥から、かすかに嫌な匂いがした。
黒牙鼠だけではない。
もっと奥に、何かある。
そんな気がした。
アリアもそれを感じたのか、剣の柄に手を置いた。
「聖女様。今日は孤児院の訪問を切り上げましょう」
「でも、子どもたちが」
「安全確認が先です」
リリアは少しだけ迷った。
しかし、すぐに頷いた。
「分かりました」
その判断に、俺は少し安心した。
リリアは優しい。
困っている人がいれば放っておけない。
でも、危険を無視して突っ込むだけではないらしい。
ちゃんと子どもたちの安全を考えている。
アリアは俺を見た。
「ノア」
「きゅ?」
「また、あなたに助けられましたね」
また。
その言葉が少し不思議だった。
午前の黒牙鼠。
夕方の魔性反応。
どちらも、俺が偶然気づいただけだ。
だがアリアの中では、俺は少しずつ「ただ怪しいだけの存在」ではなくなっているのかもしれない。
リリアは俺を抱き上げ、ふわりと笑った。
「ノアは頼もしいですね」
「きゅ……」
頼もしい。
そう言われると、少し困る。
俺はまだ小さい。
弱い。
転がることと丸くなることくらいしかできない。
でも、危険に気づけるなら。
リリアや子どもたちを守る役には立てるかもしれない。
そんなことを考えた瞬間、リリアが俺の頭を撫でた。
微かな聖属性が流れ込む。
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聖属性微量接触を確認しました。
進化ゲージ:36% → 37%
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また増えた。
俺は小さく息を吐いた。
危険を見つける。
リリアに撫でられる。
消えかけながら進化する。
どうやらこの世界での俺の成長方法は、かなり心臓に悪いらしい。
物置を出ると、子どもたちが不安そうに待っていた。
「聖女様、何かあったの?」
リリアはしゃがんで、優しく言った。
「少しだけ、床下に悪い鼠さんの気配がありました。今日はみんな、建物の奥には近づかないでくださいね」
「悪い鼠?」
「ノアが見つけたの?」
子どもたちの視線が俺に集まる。
俺はリリアの腕の中で固まった。
まずい。
また変な注目を浴びる。
リリアは誇らしそうに言った。
「はい。ノアが教えてくれました」
「すごい!」
「ノアすごい!」
「きゅーちゃん、探偵だ!」
探偵になった。
珍生物から探偵へ。
俺の肩書きがどんどん増える。
アリアが小さく呟いた。
「珍しいだけでは説明がつかなくなってきましたね」
やめてください。
そこは説明をつけないでください。
リリアはにこにこと笑う。
「ノアは賢い子ですから」
「聖女様、それを認めると別の問題が出ます」
「賢いのは良いことです」
「程度によります」
俺はリリアの腕の中で、小さく鳴いた。
「きゅ……」
その日、俺は孤児院で子どもたちに撫でられ、転がらされかけ、悪い鼠の気配を見つけ、探偵扱いされた。
そして神殿に戻る頃には、進化ゲージは三十七%になっていた。
第一進化まで、あと六十三%。
まだ遠い。
けれど、昨日よりも、午前よりも、確実に近づいている。
ただ一つ問題がある。
俺が進化に近づくたび、俺はどんどん普通の珍生物から遠ざかっている気がする。
リリアは気にしないだろう。
きっと、体が倍になっても笑う。
アリアは気にするだろう。
確実に、めちゃくちゃ気にする。
そして俺は、その間で必死に鳴くしかない。
「きゅ」
猫ではない。
魔物である。
だが今日も俺は、少し個性的な鳴き声の珍しい小動物として、生き延びた。




