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第4話 聖女様、成長期で済ませるには早すぎます

 目を覚ますと、視界が少し高かった。


 最初は、寝ぼけているのかと思った。


 柔らかい布。


 小さなかご。


 白い天井。


 窓から差し込む朝の光。


 リリアの部屋。


 昨日、神殿に連れてこられた俺の仮住まい。


 そこまでは覚えている。


 俺はかごの中で丸くなって眠り、異世界初日の疲労をようやく手放したはずだった。


 だが、起きてすぐ違和感があった。


 かごが、少し狭い。


「……きゅ?」


 俺は前足を伸ばした。


 昨日より、少し長い気がする。


 尻尾を動かす。


 やっぱり、昨日より動く範囲が広い。


 毛並みも、なんだかふわふわを通り越して、もふっとしている。


 俺は恐る恐るステータス画面を開いた。


---


種族:白毛の幼魔獣


分類:低級魔物


状態:聖域適応中


進化ゲージ:25%


体格:微成長


備考:よく眠り、よく洗われ、少し育ちました。


---


 育った。


 やっぱり育っていた。


 いや、たしかに昨日はミルクも飲んだ。


 肉も食べた。


 風呂にも入った。


 撫でられた。


 聖属性で何度も消えかけた。


 だが、一晩で目に見えて育つのはおかしい。


 普通の小動物でもおかしい。


 ましてや俺は、周囲には珍しい小動物という扱いをされている。


 珍しいにも限度がある。


 これはまずい。


 猫ではない疑惑どころか、生物としての速度がおかしい疑惑が出る。


 俺はかごの中で固まった。


 その時、ベッドの方から小さな寝息が聞こえた。


 リリアだ。


 白い寝間着に身を包み、静かに眠っている。


 朝の光に金色の髪が淡く光っていた。


 聖女という肩書きにふさわしい、穏やかな寝顔。


 昨日の騒ぎが嘘みたいに平和な光景だった。


 ただし、俺はそのベッドの横で微妙に大きくなっている。


 平和の中に異物がある。


 俺である。


 まずい。


 リリアが起きる前に、どうにかして昨日と同じサイズに見せなければ。


 俺はかごの中で体を縮めた。


 丸くなる。


 全力で丸くなる。


 能力欄にある「丸くなる」は、昨日から何度も俺の命を救ってきた。


 サイズ感をごまかすのにも使えるはずだ。


 俺は白い毛玉になるつもりで丸まった。


 その瞬間、扉が静かに開いた。


「聖女様、朝のお支度を……」


 入ってきたのはアリアだった。


 軽鎧ではなく、朝用の簡素な騎士服姿だ。


 それでも腰には剣がある。


 さすが護衛。


 そして、目が合った。


 俺と。


 アリアの灰色の瞳が、かごの中の俺を見た。


 次に、かごを見る。


 そしてもう一度、俺を見る。


 完全に何かに気づいた顔だった。


「……ノア」


「きゅ」


 おはようございます。


 何もありません。


 昨日と同じです。


 俺はただの珍しい小動物です。


 アリアは無言で近づいてきた。


 怖い。


 朝一番でこれは怖い。


 上司が出社直後に無言で机へ来るくらい怖い。


 アリアは俺の前でしゃがみ込んだ。


「昨日より、大きくありませんか」


「きゅ」


 気のせいです。


 毛です。


 ふわふわ度が上昇しただけです。


 アリアは俺をじっと見る。


「かごの布の沈み方が違います」


 見ているところが細かい。


 この人、護衛ではなく監査員の素質がある。


 俺はさらに丸くなった。


「きゅう」


「丸まってごまかそうとしていますね」


 バレている。


 完全にバレている。


 俺は視線をそらした。


 そこへ、リリアが目を覚ました。


「ん……アリア?」


 リリアはゆっくり起き上がり、眠たげな目をこする。


「おはようございます」


「おはようございます、聖女様」


 アリアは姿勢を正した。


 リリアの視線が、かごの中の俺に向く。


 俺は全力でかわいい顔をした。


「きゅ」


「ノア、おはようございます」


 リリアはぱっと微笑んだ。


 そして俺を見て、少し目を丸くした。


 きた。


 気づいた。


 さすがに気づく。


 昨日より大きいのだ。


 一晩で小さな子猫サイズから、少し大きめの子猫サイズになっているのだ。


 普通なら異常だ。


 リリアはかごの前にしゃがみ、嬉しそうに言った。


「大きくなりましたね」


 言った。


 想定通り言った。


 しかも、驚きより喜びが先だった。


 アリアが即座に口を開く。


「聖女様、一晩で大きくなる小動物はいません」


「よく眠れたのですね」


「睡眠だけで体格は変わりません」


「昨日はお風呂にも入りました」


「入浴にも成長促進効果はありません」


「ミルクも飲みました」


「栄養の吸収が早すぎます」


「では、ノアは吸収が上手なのですね」


「なぜ必ず明るい結論にするのですか」


 アリアは朝から疲れていた。


 俺も疲れている。


 リリアだけが元気だった。


 彼女は俺をそっと抱き上げた。


 昨日より少し重いはずだ。


 しかしリリアは嬉しそうに笑う。


「抱き心地もよくなりました」


「聖女様、それは成長を肯定する理由にはなりません」


「ふわふわです」


「ふわふわでも異常です」


「ふわふわな異常ですね」


「認める場所が違います」


 俺はリリアの腕の中で小さく鳴いた。


「きゅ……」


 ごめんなさい。


 俺も好きで大きくなったわけではありません。


 たぶん聖属性と進化ゲージのせいです。


 リリアは俺の頭を撫でる。


 ちり、と微かな聖属性の刺激。


---


聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:25% → 26%


---


 朝の撫ででも増えた。


 もう生活の全てがレベル上げになっている。


 リリアは俺を見つめて、幸せそうに言った。


「今日も元気そうでよかったです」


 そうです。


 元気です。


 魔物としては命がけですが。


     ◇


 朝食の時間になった。


 リリアは神殿の食堂ではなく、自室で軽い朝食を取るらしい。


 侍女が運んできたのは、白いパン、野菜のスープ、薄く切った果物、それからミルクだった。


 ミルクは俺用である。


 昨日に続き、完全に小動物待遇だ。


 俺はかごの前に置かれた小皿に近づいた。


 ミルクの匂いを嗅ぐ。


 昨日より、空腹感が強い。


 体が大きくなった分、必要な栄養も増えたのかもしれない。


 俺は皿に口をつけた。


 ぺろ。


 うまい。


 悔しいが、うまい。


 俺がミルクを飲んでいる横で、リリアは嬉しそうに見ていた。


「よく飲みますね」


「昨日より量が多いです」


 アリアが言う。


「成長しましたから」


「その成長が問題です」


「問題ではなく、喜ばしいことです」


「原因不明の成長は問題です」


「原因はきっと、愛情ですね」


「愛情で体格は変わりません」


「心は大きくなります」


「体の話です」


 この二人は朝からずっとこの調子だった。


 俺はミルクを飲みながら、少しだけ安心していた。


 アリアは疑っている。


 だが、魔物としてではなく、正体不明の珍しい小動物として疑っている。


 リリアは完全にポジティブ解釈している。


 周囲の侍女たちも、今のところは「聖女様が拾った珍しい子」という扱いだ。


 大ごとにはなっていない。


 まだ生きられる。


 たぶん。


 朝食が終わると、リリアは今日の予定を確認し始めた。


 侍女が小さな紙を読み上げる。


「午前は祈りの間で朝の祈祷、その後、施療室での治癒。午後は神官長との面会、夕方に孤児院への訪問予定です」


 忙しい。


 聖女、思ったより予定が詰まっている。


 俺の前世の会社員時代と違い、全部人を助ける予定なのがすごい。


「ノアはどうしますか?」


 リリアが俺を見る。


「一緒に行きますか?」


「きゅ!?」


 やめてください。


 祈りの間。


 施療室。


 神官長。


 どれも聖属性の匂いが強い。


 低級魔物の俺にとっては、危険地帯ツアーだ。


 アリアが即座に言った。


「聖女様、ノアは部屋で待たせるべきです」


「でも、一人では寂しいかもしれません」


「昨日から何度も言っていますが、寂しさより安全です」


「ノア、寂しいですか?」


「きゅ」


 寂しくないです。


 安全第一です。


「少し寂しそうです」


 違います。


「今のは、部屋で待つという意思表示に見えました」


 アリアが言った。


 俺はすぐに頷くように頭を上下させた。


「きゅっ」


 そうです。


 それです。


 さすがアリアさん。


 今日も常識人。


 アリアは俺を見て、少しだけ目を細めた。


「……やはり理解しているように見えます」


 しまった。


 助け舟に乗りすぎた。


 俺は慌てて、何も分かっていない顔で横にころんと転がった。


「きゅう」


「転がってごまかしましたね」


 見抜かれている。


 この人から逃げるのは難しい。


 リリアは笑った。


「ノアは転がるのも上手ですね」


 リリアさんからは簡単に逃げられる。


 むしろ優しく拾われる。


 リリアは少し考えた後、俺の頭を撫でた。


「では、午前はお部屋で休んでいてください。午後の孤児院には一緒に行きましょうか」


「きゅ?」


 午後。


 外。


 孤児院。


 神殿の外なら、聖属性の圧は弱いかもしれない。


 ただ、人が多い場所に行くのはそれはそれで危険だ。


 珍しい小動物として見られる。


 触られるかもしれない。


 子どもに抱っこされるかもしれない。


 尻尾を引っ張られるかもしれない。


 いや、孤児院の子どもに失礼か。


 だが小動物に転生してから、俺は自分の尻尾の安全を真剣に考えるようになった。


 人間だった頃にはなかった悩みだ。


「聖女様、午後に外へ連れていくかは、午前中の様子を見てから判断しましょう」


 アリアが言う。


「そうですね。ノアも初めての神殿で疲れているでしょうから」


 リリアは素直に頷いた。


 よかった。


 とりあえず午前は部屋で休める。


 俺はかごの中へ戻り、丸くなった。


 リリアは出かける前に、俺の前へしゃがみ込む。


「ノア、いい子で待っていてくださいね」


「きゅ」


 はい。


 大人しくしています。


「アリア、ノアをお願いします」


「承知しました」


 え。


 アリアは残るのか。


 俺は顔を上げた。


 アリアも俺を見る。


「聖女様の祈祷中は、別の騎士が護衛につきます。私はこの子を見ています」


 この子を。


 見ています。


 監視確定だった。


 リリアは安心したように微笑む。


「それなら安心ですね」


 安心なのはリリアだけです。


 俺にとっては取り調べ開始です。


 リリアは部屋を出ていった。


 白いローブの裾が扉の向こうへ消える。


 部屋に残されたのは、俺とアリア。


 ふかふかのかご。


 静かな朝。


 そして、真面目な女性騎士。


 空気が重い。


 アリアは扉が閉まるのを確認してから、ゆっくりこちらを向いた。


「さて」


「きゅ」


 さて、じゃない。


 怖い。


「ノア」


「きゅ?」


「あなたは、どこまでこちらの言葉を理解していますか」


 直球で来た。


 俺は固まった。


 どうする。


 鳴くか。


 転がるか。


 丸くなるか。


 選択肢が少なすぎる。


 白毛の幼魔獣、会話に不向きすぎる。


 俺はとりあえず首を傾げた。


「きゅう?」


 分かりません。


 何も分かりません。


 私は珍しい小動物です。


 アリアは俺を見つめる。


「今の質問に対して、分からないふりをしましたね」


 強い。


 この人、強い。


 俺は何もできずに固まる。


 アリアは腕を組んだ。


「あなたが魔物でないことは、ひとまず受け入れます。聖女様の治癒で消えなかった以上、通常の魔物ではないのでしょう」


 通常の、という言葉が少し怖い。


「ですが、猫ではない」


「きゅ」


 猫です。


 今だけは猫です。


「鳴き声、知性、反応、成長速度。どれも普通ではありません」


 全部正しい。


 正しいが、言わないでほしい。


「私は聖女様を守るためにいます。あなたが聖女様に害をなすなら、私は迷わず斬ります」


 静かな声だった。


 脅しではない。


 事実を確認しているだけ。


 俺は息を呑んだ。


 小さな体が、自然とこわばる。


 でも、アリアは続けた。


「逆に言えば、あなたが聖女様を害さない限り、私は乱暴に扱うつもりはありません」


 俺は顔を上げた。


 アリアの表情は厳しい。


 だが、敵意だけではなかった。


「聖女様は、あなたを助けると決めました。ならば私は、その判断を尊重します」


「きゅ……」


 アリアさん。


 めちゃくちゃ真面目だ。


 怖いけど、理不尽ではない。


 この人は、リリアを守るために俺を見ている。


 俺がリリアを傷つけなければ、敵にはならない。


 そういう線引きがある。


 俺は小さく頭を下げた。


 つい、やってしまった。


 人間だった頃の癖だ。


 謝る時、お願いする時、感謝する時。


 自然に頭を下げる。


 もちろん今の俺は小動物なので、見た目は前足をそろえてちょこんと頭を下げただけだ。


 アリアの目が細くなる。


「……やはり、理解していますね」


 しまった。


 でも、もう遅い。


 俺は頭を上げた。


 アリアはしばらく黙っていた。


 それから、小さく息を吐く。


「まあいいでしょう。今は見逃します」


「きゅ」


 ありがとうございます。


「ただし、聖女様の前で妙な行動は控えなさい。あの方は前向きに解釈しすぎます」


 それは本当にそう。


 俺は思わず深く頷きそうになった。


 危ない。


 半分だけ頷いた。


 アリアは見逃してくれなかった。


「頷きましたね」


「きゅう」


 何も分かりません。


 偶然です。


「……本当に妙な生き物です」


 アリアは呆れたように言った。


 だが、その声にわずかな柔らかさがあった気がした。


 気のせいかもしれない。


 そう思った時だった。


 部屋の外で、小さな物音がした。


 かり。


 かりかり。


 扉の下の方。


 何かが引っかくような音。


 俺の耳が勝手に立った。


 アリアもすぐに反応した。


「今の音は?」


 かり。


 かりかり。


 アリアが剣に手をかける。


 俺の鼻先に、変な匂いが届いた。


 獣。


 しかし、普通の獣ではない。


 昨日の黒狼ほど強くはない。


 だが、森の匂いと、魔力のような苦い匂いが混ざっている。


 魔物。


 たぶん、小さい魔物だ。


 俺は体を低くした。


 ステータス画面が開く。


---


周辺に小型魔性反応を確認しました。


危険度:低


対象:黒牙鼠


備考:小さいが、噛むと痛い。


---


 黒牙鼠。


 名前からして嫌だ。


 鼠。


 つまり、ネズミ系魔物だろう。


 噛むと痛い。


 備考がまた妙に生活感ある。


 アリアが扉へ近づく。


「聖女様の部屋に鼠……? いや、神殿内で?」


 かりかり。


 音は続いている。


 俺はかごから出た。


 小さな前足で床に降りる。


 アリアがこちらを見た。


「下がっていなさい」


「きゅ」


 普通ならそうしたい。


 だが、俺の鼻は確かに分かっていた。


 扉の向こうにいるのは、ただの鼠ではない。


 小さい魔物だ。


 そして、今リリアは部屋にいない。


 ここでアリアに任せればいい。


 それが一番安全だ。


 俺は戦闘力のない珍生物として、かごに戻るべきだ。


 分かっている。


 分かっているが。


 もし、これがリリアの部屋に入り込んだら。


 もし、リリアが戻ってきた時に噛まれたら。


 嫌だ。


 それは嫌だ。


 俺はゆっくり扉へ近づいた。


「ノア」


 アリアの声が低くなる。


「下がりなさい」


 俺は振り返った。


 そして、首を横に振った。


 やってしまった。


 完全に理解している動きだ。


 しかし今はそれどころではない。


 かり。


 扉の下から、小さな黒い鼻先が見えた。


 隙間から、黒い影がぬるりと入り込む。


 鼠。


 ただし、普通の鼠より大きい。


 子猫ほどはないが、俺の前足よりは明らかに大きい。


 黒い毛。


 赤い目。


 そして、口元から覗く小さな牙。


「チチッ」


 黒牙鼠が部屋に入った瞬間、俺の体が勝手に動いた。


 猫の本能か。


 魔物の本能か。


 それとも、ただの恐怖か。


 俺は床を蹴って飛び出した。


「きゅっ!」


 情けない鳴き声と共に、俺は黒牙鼠へ飛びかかる。


 黒牙鼠が反応して跳ぶ。


 俺の前足が空を切る。


 そのまま勢い余って、俺はころんと転がった。


 よく転がる。


 能力欄の通りだ。


 だが、転がったことで黒牙鼠の噛みつきは外れた。


 偶然。


 完全に偶然。


 しかしステータス画面が開く。


---


能力:よく転がる が発動しました。


回避に成功しました。


---


 これ、能力だったのか。


 転がるだけなのに。


 黒牙鼠は再び俺に向かってきた。


 速い。


 小さい。


 狙いにくい。


 俺は必死に床を蹴る。


 飛ぶ。


 滑る。


 転がる。


 またかわす。


 戦っているというより、事故っている。


 だが、黒牙鼠の注意は完全に俺に向いていた。


 アリアが剣を抜く。


「動きを止めなさい、ノア!」


 無理です。


 俺も止まり方が分かりません。


 黒牙鼠が飛びかかる。


 俺は反射的に丸くなった。


 牙が毛に触れる。


 痛い。


 だが深くは刺さらなかった。


---


能力:丸くなる が発動しました。


被害を軽減しました。


---


 丸くなる、やっぱり有能。


 俺はそのまま黒牙鼠に体当たりした。


 ぽふん。


 軽い音がした。


 黒牙鼠が少しだけよろける。


 ダメージが入ったのかは分からない。


 だが、その一瞬で十分だった。


 アリアが踏み込む。


 剣の鞘で、黒牙鼠を床に叩きつけた。


「チッ!」


 黒牙鼠は短く鳴き、そのまま動かなくなった。


 殺したのではなく、気絶させたらしい。


 アリアは素早く布で黒牙鼠を包む。


 そして、俺を見た。


 俺は床の上で息を切らしていた。


「きゅ、きゅう……」


 疲れた。


 めちゃくちゃ疲れた。


 戦闘時間はたぶん十秒もない。


 だが、俺にとっては命がけだった。


 アリアは俺の前にしゃがむ。


「……あなた」


 まずい。


 見られた。


 ただの珍しい小動物にしては、明らかに動きすぎた。


 いや、珍しい小動物だからこそ変な動きでも許されるか?


 許されないか。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 アリアはしばらく黙って俺を見つめていた。


 そして、静かに言った。


「聖女様の部屋を守ったのですか」


 俺は答えられなかった。


 ただ、床に座ってアリアを見る。


 アリアは深く息を吐いた。


「本当に、あなたは何なのですか」


「きゅ……」


 それは俺が聞きたいです。


 低級魔物です。


 でも魔物扱いはされていません。


 猫でもありません。


 珍しい小動物です。


 そして今、ネズミと戦って疲れ果てています。


 アリアは黒牙鼠を見た。


「この神殿に黒牙鼠が入り込むなど、普通ではありません。後で調べる必要があります」


 そう言うと、もう一度俺を見た。


「ノア」


「きゅ?」


「今のことは、聖女様にはそのまま伝えません」


 え?


 俺は耳を立てた。


「あなたが危険な存在だと誤解されれば、聖女様が悲しみます。ですが、あなたが異常に動けることを隠し続けるのも問題です」


 アリアは少し考えた。


「ひとまず、黒牙鼠を追い払おうとして転がった、ということにします」


 ほぼ事実だ。


 ほぼ。


「そして私は、あなたの監視を続けます」


 監視継続。


 それはまあ、仕方ない。


 アリアは俺の頭に手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 まだ撫でるほど信用していないのだろう。


 でも、さっきより目が少しだけ柔らかかった。


「……聖女様を守る意思があるのなら、その一点だけは評価します」


「きゅ」


 ありがとうございます。


 たぶん。


     ◇


 リリアが戻ってきたのは、それから少し後だった。


「ただいま戻りました、ノア」


 リリアは部屋に入るなり、俺を見て微笑んだ。


 俺はかごの中に戻されていた。


 少し疲れている。


 黒牙鼠はアリアが処理済み。


 部屋の床も整えられている。


 事件があったことは、ぱっと見では分からない。


 リリアは俺を見て首を傾げた。


「ノア、少し疲れていますか?」


「きゅ」


 疲れています。


 かなり。


 アリアが淡々と言う。


「小さな鼠が入り込みました。ノアが驚いて転がりましたが、すぐに処理しました」


「まあ、鼠が」


 リリアは俺を心配そうに抱き上げた。


「怖かったですね、ノア」


「きゅ……」


 怖かったです。


 あと戦いました。


 少しだけ。


「転がって逃げられて偉かったですね」


 違う。


 逃げたというか、戦ったというか、事故ったというか。


 リリアは俺の頭を優しく撫でた。


「ノアは転がるのが上手ですものね」


 その褒め方でいいのか。


 いや、実際に転がる能力で避けたので、完全に間違いではない。


 アリアは無言で俺を見ていた。


 その目は、昨日までより少しだけ違っていた。


 怪しい。


 それは変わらない。


 でも、ただ怪しいだけではない。


 少なくとも今の俺は、リリアの部屋を守ろうとした珍生物になったらしい。


 リリアは俺を抱いたまま言った。


「ノア、今日は午後から孤児院に行けるかと思いましたが、疲れているならお部屋で休みましょうか」


「きゅ」


 それがいいです。


 今日の俺はもう十分働きました。


「そうですね。無理はいけません」


 リリアは俺をかごへ戻し、小さな毛布をかけてくれた。


「ゆっくり休んでください」


 俺は毛布の中で丸くなった。


 暖かい。


 柔らかい。


 少しだけ安全な気がする。


 ステータス画面が開いた。


---


小型魔性反応への対処を確認しました。


行動評価:保護者の生活圏を防衛


進化ゲージ:26% → 31%


スキル候補:危険察知


解放条件:同種行動をあと二回成功させる


---


 増えた。


 一気に増えた。


 戦うことでも進化ゲージは上がるらしい。


 しかも、危険察知。


 これは欲しい。


 というか、この環境では必須だ。


 俺は毛布の中で小さく息を吐いた。


 聖女のそばで生き延びるだけではない。


 リリアを守る行動でも、俺は進化に近づくらしい。


 リリアが微笑みながら言った。


「ノア、今日は少し頼もしく見えますね」


 俺は顔だけ出して、小さく鳴いた。


「きゅ」


 頼もしくなりたいわけではなかった。


 ただ、生き延びたいだけだった。


 でも。


 リリアの部屋を荒らすものがいるなら。


 リリアを傷つけるものがいるなら。


 少しくらいは、転がってでも前に出てもいいかもしれない。


 そんなことを思った。


 そしてアリアが、俺の方を見ながら静かに呟いた。


「……珍しいだけでは、なさそうですね」


 やめてください。


 その方向で深掘りしないでください。


 俺は慌てて、ただの眠い珍生物のふりをして目を閉じた。


 魔物ではない。


 猫でもない。


 珍しい小動物。


 神殿での俺の立場は、まだぎりぎりそこにある。


 ただし、アリアの中では少しだけ変わったのだろう。


 正体不明の監視対象。


 それに加えて。


 聖女様の部屋を守った、妙な白い生き物。


 その評価が良いのか悪いのかは、まだ分からない。


 だが少なくとも、俺は今日も生き延びた。


 進化ゲージは三十一%。


 第一進化まで、あと六十九%。


 ……遠い。


 まだまだ遠い。


 けれど、昨日よりは確実に近づいていた。

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