表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/39

第3話 聖女様、珍生物にお風呂は危険です

 神殿での生活が始まった。


 ……始まってしまった。


 俺は白い小さな魔物である。


 しかし神殿内での扱いは、今のところ魔物ではない。


 猫でもない。


 聖獣でもない。


 森で拾われた、珍しい小動物。


 かなり曖昧な立場だった。


 だが、曖昧というのは便利でもある。


 魔物なら処分。


 聖獣なら大ごと。


 猫なら鳴き声で疑われる。


 その点、珍しい小動物なら多少変でも許される。


 鳴き声が「きゅ」でも、珍しいから。


 妙に人の言葉を理解しているように見えても、珍しいから。


 聖女の膝の上で丸くなっていても、珍しいから。


 すごい。


 珍しいという言葉、万能すぎる。


 俺はリリアの部屋のベッドの上で、小さく丸まっていた。


 ふかふかの布団。


 白い壁。


 花の香り。


 窓から入る柔らかな光。


 ここだけ切り取れば、かなり平和だった。


 ただし、部屋の隅には聖印がある。


 壁には聖句。


 棚には聖水らしき瓶。


 ベッドの横には銀の鈴。


 神殿内なので、空気そのものにも聖属性が混ざっている。


 つまり俺にとっては、寝心地のいい処刑場である。


 ふかふかしている。


 でも地味に命を削ってくる。


 ステータス画面が薄く浮かんでいた。



種族:白毛の幼魔獣


分類:低級魔物


状態:聖域微接触


進化ゲージ:19%


進化条件:聖女のそばで三日間生存する


残り時間:二日と二十二時間



 残り時間が重い。


 まだ二十二時間どころか、三日近く残っている。


 俺はたった数時間で黒狼に追われ、聖女の治癒で消えかけ、神殿に入って焼かれそうになり、司祭長の指先でまた消えかけた。


 三日。


 長い。


 異世界の三日って、こんなに過酷だったか?


「ノア、眠れそうですか?」


 リリアが俺を覗き込んだ。


 淡い金髪が揺れる。


 青い瞳は、今日も曇りなく優しい。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 眠れそうです。


 というか、疲れました。


 精神がもう限界です。


「よかった。初めての場所で緊張しているかと思いました」


 緊張はしている。


 だが、この子に伝わる気はしない。


 リリアは椅子に座り、俺を眺めながらにこにこしていた。


 俺が少し動くたびに嬉しそうにする。


 前足を出す。


「かわいいです」


 耳を動かす。


「かわいいです」


 尻尾を揺らす。


「かわいいです」


 丸くなる。


「とてもかわいいです」


 評価が全部かわいいで統一されている。


 リリアの中では、俺の行動分類は「かわいい」しかないのかもしれない。


 その横で、アリアは壁際に立っていた。


 腕を組み、俺から目を離さない。


 こちらは評価が全部「怪しい」だ。


 リリアがかわいい係なら、アリアは怪しい係である。


 バランスが悪い。


「聖女様」


 アリアが口を開いた。


「その子を今夜、どこで寝かせるおつもりですか?」


「私のベッドで」


「なりません」


 即答だった。


 俺も少し安心した。


 いや、リリアのベッドが嫌というわけではない。


 ふかふかだし、たぶん暖かい。


 だが、俺は三十二歳の元男である。


 今は小動物の姿だとしても、聖女のベッドで一緒に寝るのはさすがにまずい。


 倫理的にも、読者感情的にも。


 俺は心の中でアリアに感謝した。


 ありがとう。


 常識人。


「なぜですか?」


 リリアは不思議そうに首を傾げる。


「まだ小さいですし、ひとりでは寂しいと思います」


「正体不明の獣を聖女様の寝具に入れるのは衛生面でも安全面でも問題があります」


「ノアはきれいですよ」


「先ほど森で拾ったばかりです」


「治癒しました」


「治癒は洗浄ではありません」


「では、洗えばいいのですね」


 リリアがぽんと手を打った。


 俺は固まった。


 洗う。


 今、洗うと言ったか?


 嫌な予感がした。


 非常に嫌な予感がした。


 アリアも眉を寄せる。


「聖女様、まさか」


「ノアをお風呂に入れましょう」


「きゅう!?」


 俺は思わず叫んだ。


 いや、悲鳴だ。


 お風呂。


 普通の小動物なら、まあ洗うのは分かる。


 森で拾ったのだ。


 土もついている。


 毛も乱れている。


 清潔にするのは正しい。


 だが、ここは神殿。


 聖女の部屋。


 風呂に使われる水が、ただの水とは思えない。


 アリアがすぐに言った。


「聖女様、神殿の浴室には浄化水が使われています」


 ほら。


 やっぱり。


 浄化水。


 名前からして無理だ。


 魔物の俺が入ったら、たぶん泡になって消える。


 リリアは俺を見た。


「ノア、お風呂は苦手ですか?」


「きゅ、きゅう!」


 苦手です。


 かなり苦手です。


 というか命に関わります。


「大丈夫ですよ。怖くありません」


 怖いです。


 名前がもう怖いです。


「聖女様」


 アリアが真面目な声で言う。


「普通の獣なら問題ありませんが、正体不明である以上、いきなり神殿の浄化水で洗うのは避けるべきです」


 アリアさん。


 今日一番まともなことを言ってくれている。


「では、普通のお湯にしましょう」


 リリアは素直に頷いた。


「侍女に頼んで、聖印の入っていない桶を用意してもらいます」


「それなら……まだ」


 アリアは渋々頷く。


 助かった。


 浄化水ルートは回避された。


 俺はほっと息をつく。


 だが、完全に安心はできない。


 リリア本人が聖女である。


 普通のお湯に触れるのは問題なくても、リリアが洗った瞬間、そこに聖属性が混ざる可能性がある。


 つまり俺にとっては、普通のお湯に聖女の手が入った瞬間から、普通ではなくなる。


 ただの風呂ではない。


 聖属性つき命がけ入浴である。


 俺はベッドの上で後ずさった。


「きゅ……」


 リリアが優しく微笑む。


「ノア、怖がらなくて大丈夫です。きれいになったら、もっとふわふわになりますよ」


 この聖女、完全に俺をふわふわにしたがっている。


 俺の命より毛並みを見ているのではないか。


 いや、善意なのは分かる。


 分かるけど怖い。


     ◇


 しばらくして、侍女が桶と布を持ってきた。


 木の桶。


 湯気の立つお湯。


 小さな布。


 櫛のようなもの。


 完全に小動物を洗う準備だった。


 俺はベッドの端で丸くなっている。


 今から処刑される罪人の気分だ。


 違う。


 罪魔物か。


 アリアは桶の中を確認した。


「普通のお湯です」


「ありがとうございます、アリア」


「ただし、聖女様の手から聖力が漏れないようにしてください」


「分かりました。気をつけます」


 リリアは真剣な顔で頷いた。


 その真剣さが逆に怖い。


 この子、自分の力の漏れ具合を本当に制御できるのだろうか。


 俺はステータス画面を見る。



警告:入浴イベントが発生しています。


注意:聖属性混入により、消滅判定が発生する可能性があります。


推奨行動:おとなしくしてください。



 おとなしく。


 いや、分かっている。


 暴れたら怪しまれる。


 大人しくしていれば、珍しい小動物として扱われる。


 しかし命がかかっている。


 俺はリリアにそっと抱き上げられた。


「ノア、いきますよ」


「きゅ……」


 いきたくないです。


 でも行くしかないです。


 リリアは俺を桶のそばへ連れていき、まず前足にお湯をかけた。


 温かい。


 普通のお湯だ。


 大丈夫。


 これならいける。


「大丈夫そうですね」


「きゅ」


 はい。


 今のところは。


 次にリリアは、俺の背中に少しずつお湯をかけた。


 白い毛が濡れて、ぺたんとする。


 体が急に小さくなったような感覚がした。


 リリアが目を丸くする。


「まあ……ノア、濡れると細いですね」


 やめて。


 言わないで。


 元々小さいのに、毛でかさ増ししているだけだという事実を突きつけないで。


 アリアが冷静に言う。


「毛量が多いだけのようですね」


「ふわふわですから」


「実体はかなり小さいです」


「かわいいです」


 かわいいで片付けられた。


 俺の尊厳は今日も軽い。


 リリアは布にお湯を含ませ、俺の背中をそっと拭いた。


 優しい手つきだった。


 俺は少し安心しかけた。


 その瞬間。


 ちり。


 体の奥に刺激が走った。


「きゅっ」


 来た。


 聖属性だ。


 リリアが俺に触れた場所から、微量の聖力が流れ込んでくる。


 ステータス画面が開く。



聖属性微量接触を確認しました。


消滅判定……発生せず。


変質判定……微成功。


進化ゲージ:19% → 20%



 増えた。


 風呂で増えた。


 この世界、俺をどうしたいんだ。


「ノア?」


 リリアが心配そうに覗き込む。


「痛かったですか?」


「きゅ」


 少しだけ。


 でも進化しました。


 いや、進化はしてない。


 ゲージが増えただけだ。


「きれいになる時は、少しびっくりしますよね」


 違う。


 それは治癒の時も聞いた。


 リリアの中では、俺が変な反応をすると全部「びっくり」で処理されるらしい。


 アリアがじっと見ている。


「今、少し光りませんでしたか?」


 ぎくり。


 この人、本当に見ている。


 俺は息を止めた。


 リリアは俺の濡れた背中を見た。


「白い毛がお湯で光を反射したのですね」


「室内です」


「蝋燭があります」


「今は昼です」


「では、日差しです」


「窓から離れています」


「……ノアがきれいになっている証拠です」


「結論を変えましたね」


 アリアの追及は鋭い。


 リリアの回避は雑だ。


 だが、なぜか成立している。


 リリアは俺を拭き続けた。


 お湯。


 布。


 聖女の手。


 微量の聖属性。


 そのたびに、俺の進化ゲージが少しずつ動く。



進化ゲージ:20% → 21%


進化ゲージ:21% → 22%


進化ゲージ:22% → 23%



 お風呂がレベル上げになっている。


 普通のゲームなら経験値稼ぎとしてありがたい。


 だが、現実にやられると心臓に悪い。


 俺は途中から、もう抵抗するのをやめた。


 おとなしく洗われる。


 濡らされる。


 拭かれる。


 たまに消えそうになる。


 そしてゲージが増える。


 何だこの時間。


 魔物としての尊厳も、人間としての尊厳も、まとめて洗い流されている気がする。


「ノアはおとなしいですね」


 リリアが嬉しそうに言う。


「偉いです」


「きゅ……」


 ありがとうございます。


 大人しくしていないと消えそうなので。


 アリアはまだ疑いの目を向けていた。


「聖女様、やはり普通の獣にしては反応が妙です」


「お風呂が初めてなのかもしれません」


「それはありえますが」


「なら、優しくしてあげましょう」


「……理屈としては正しいのが困ります」


 リリアは最後に、俺の顔周りを丁寧に拭いた。


 目に入らないように。


 耳の中に入らないように。


 かなり慎重だった。


 この子は本当に優しい。


 ズレている。


 かなりズレている。


 でも優しい。


 俺はその手に少しだけ身を預けた。


 聖属性は怖い。


 でも、リリア自身は怖くない。


 それがまたややこしい。


「できました」


 リリアは満足そうに言った。


「ノア、とてもきれいになりましたよ」


 そう言って、俺を乾いた布で包み込む。


 ふわふわの布に包まれた俺は、ほぼ白い団子だった。


 ステータス画面が開く。



状態:洗浄済み


毛並み:良好


進化ゲージ:24%


備考:ふわふわ度が上昇しました。



 備考。


 そこ書く必要ある?


 ふわふわ度が上昇しましたって何だ。


 ステータス画面までリリア側に寄ってきてないか?


 リリアは俺を見て、目を輝かせた。


「アリア、見てください。ノアがさらにふわふわです」


「確かに毛並みは良くなりました」


「でしょう?」


「ですが、毛並みが良いことと安全性は」


「かわいいです」


「……はい」


 アリアが折れた。


 珍しい。


 どうやら、ふわふわには常識人の心も少しだけ削る力があるらしい。


     ◇


 風呂が終わると、俺はリリアのベッドではなく、ベッドの隣に用意された小さなかごに入れられた。


 アリアが譲らなかったのだ。


「聖女様の寝具に入れるのは認められません」


「でも、ノアが寂しがるかもしれません」


「かごを近くに置けば十分です」


「ノア、寂しいですか?」


「きゅ」


 大丈夫です。


 むしろその距離でお願いします。


「少し寂しそうです」


 どこが?


 俺は今、全力で安心していますけど。


 アリアが素早く言った。


「今のは眠い声です」


「そうなのですか?」


「そうです」


 アリアさん。


 ありがとうございます。


 たぶん今、俺の命と尊厳を守ってくれました。


 リリアは少し残念そうにしながらも、かごをベッドのすぐ隣に置いた。


 中には柔らかな布が敷かれている。


 小さな毛布まである。


 悪くない。


 むしろ、かなり良い。


 俺はかごの中で丸くなった。


 ふかふか。


 暖かい。


 聖属性の圧も、リリアの膝の上よりは弱い。


 ようやく落ち着けそうだった。


「ノア、おやすみなさい」


 リリアが俺の頭をそっと撫でる。


 ちり、と微かな刺激。



聖属性微量接触を確認しました。


進化ゲージ:24% → 25%



 寝る前の撫でも経験値になるのか。


 俺はもう、何も言う気力がなかった。


「きゅ……」


 おやすみなさい。


 リリアは微笑んで、部屋の明かりを落とした。


 アリアはしばらく部屋に残っていたが、俺が動かないのを確認すると、扉の外へ出ていった。


 完全には離れない。


 おそらく、外で警護している。


 監視付きの就寝。


 落ち着かない。


 だが、それでも森で黒狼に追われていた時よりはずっといい。


 俺はかごの中で目を閉じた。


 転生初日。


 俺は魔物になった。


 黒狼に襲われた。


 聖女に拾われた。


 猫だと思われた。


 神殿に連れ込まれた。


 珍しい小動物として保護された。


 風呂に入れられた。


 そして今、聖女のベッドの横で寝ようとしている。


 情報量が多すぎる。


 前世の一週間分くらい疲れた気がする。


 まぶたが重くなる。


 体も温かい。


 お風呂のせいか、かごの中が妙に心地よい。


 俺は眠りに落ちかけた。


 その時。


 扉の外から、小さな声が聞こえた。


「……アリア様、本当にあの子を置いておいて大丈夫なのでしょうか」


 侍女の声だ。


 俺の耳がぴくりと動く。


 寝かけていた意識が、少し戻った。


 アリアの低い声が続く。


「魔物ではないでしょう。聖女様の治癒で消えなかったのですから」


 そこは助かっている。


 非常に助かっている。


「ですが、猫でもありませんよね」


「それは間違いありません」


 間違いありません、じゃない。


 もう少し迷ってほしい。


「あの子、こちらの言葉を理解しているように見えました」


「私にもそう見えた」


 やめて。


 寝たふりしているのに心臓が暴れている。


「司祭長は、何かお考えなのでしょうか」


「分からない。ただ、危険と判断していれば、その場で退けていたはずだ」


「では、安全なのでしょうか」


「安全かどうかは、これから見る」


 アリアの声は静かだった。


「私は聖女様を守る。それだけです」


 俺はかごの中で、小さく息を吐いた。


 アリアは怖い。


 正しいから怖い。


 だが、彼女が守ろうとしているのはリリアだ。


 俺がリリアを傷つけない限り、即座に敵になるわけではない。


 たぶん。


 リリアを守る。


 その一点だけは、俺も同じだった。


 いや、同じと言えるほどの覚悟はまだない。


 俺は今、生き残るだけで精一杯だ。


 でも。


 今日、リリアは俺を助けてくれた。


 黒狼から。


 森から。


 孤独から。


 そして、本人は気づいていないが、俺が魔物だとバレる危機からも。


 この子を傷つけるつもりはない。


 俺はそう思った。


 その瞬間、ステータス画面が静かに開いた。



関係性が変化しました。


対象:リリア・セレスティア


認識:保護者


追加条件が発生しました。


条件:保護者を害さない


報酬:進化安定率の上昇



 保護者。


 そうか。


 今の俺にとって、リリアは保護者なのか。


 三十二歳の元会社員としては複雑だ。


 だが、この小さな体で生きるには、その事実を認めるしかない。


 俺はかごの中で丸くなった。


 部屋の中は静かだった。


 ベッドの上では、リリアが穏やかに寝息を立てている。


 外にはアリアがいる。


 部屋には聖属性が満ちている。


 危険で。


 安全で。


 怖くて。


 少しだけ暖かい。


 俺は目を閉じる。


 その夜、俺は異世界に来て初めて眠った。


 そして眠りの底に落ちる直前、ステータス画面に最後の一文が浮かんだ。



進化ゲージ:25%


第一進化まで、あと75%



 遠い。


 めちゃくちゃ遠い。


 だが、確実に進んでいる。


 聖女のそばで生き延びる。


 ただそれだけで、俺は少しずつ変わっていくらしい。


 問題は、その変化をリリアがどう受け止めるかだ。


 いや、考えるまでもない。


 きっと彼女は、俺が少し大きくなっても、角が生えても、翼が生えても、同じように笑うのだろう。


「大きくなりましたね」


 そんな声が、今から聞こえる気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ