第2話 聖女様、その猫は猫でもなさそうです
馬車が揺れている。
がたん、ごとん。
木製の車輪が石を踏むたび、俺の小さな体もぽふぽふと揺れた。
俺は今、聖女リリアの膝の上にいる。
白いローブの布は柔らかく、ほんのり花の香りがした。
普通なら安心する状況なのかもしれない。
優しい少女に抱かれ、暖かな馬車の中で、外敵から守られている。
ただし、俺は魔物である。
そして、俺を抱いている相手は聖女である。
猛毒と回復薬を同時に飲んでいるようなものだった。
癒やされているのに、同時に死に近づいている。
「ノア、揺れますね」
「きゅ」
揺れますね。
あと、あなたから出ている聖属性も地味に怖いですね。
リリアが俺の頭を撫でる。
指先が毛並みに触れるたび、ちり、と小さな刺激が走った。
痛いほどではない。
でも、俺の中の魔物としての本能が「この人から離れろ」と叫んでいる。
同時に、ステータス画面の進化ゲージは少しずつ反応していた。
⸻
聖属性微量接触を確認しました。
進化ゲージ:14% → 15%
⸻
増えた。
撫でられただけで増えた。
つまりこの人、俺にとっては歩く経験値みたいな存在なのかもしれない。
いや、違う。
経験値と言うには危険すぎる。
触れるだけで強くなるかもしれないが、うっかり浴びすぎると消滅する。
回復スポットに見せかけた即死トラップ。
それが聖女リリアだった。
「ノア?」
リリアが首を傾げる。
「どうしました? 寒いですか?」
「きゅ」
違います。
聖属性で毛穴がざわついているだけです。
「丸くなっていいですよ」
リリアはそう言って、俺を膝の上で少し抱え直した。
俺は言われた通り、できるだけ小さく丸まった。
これは猫としての甘えではない。
防御姿勢だ。
接触面積を減らしているだけだ。
決して、リリアの膝の上が思ったより居心地いいとか、そういうことではない。
ないはずだ。
「まあ、丸くなりました」
リリアが嬉しそうに言う。
「アリア、見てください。ノアが丸くなりました」
馬車の向かいに座っていた女性騎士、アリアが冷静な目でこちらを見る。
「猫はよく丸くなります」
そうです。
猫です。
俺は今、全力で猫です。
種族欄は白毛の幼魔獣だけど、社会的には猫です。
「かわいいですね」
「聖女様」
「はい」
「かわいいかどうかと、安全かどうかは別問題です」
アリアの視線が鋭い。
俺は全力で無害な顔をした。
きゅ、と小さく鳴く。
「きゅ」
リリアは胸元で手を合わせた。
「かわいいです」
「今の鳴き声も、やはり猫ではありません」
「少し個性的な鳴き声の猫です」
「個性で済む範囲でしょうか」
「個性は大切です」
「そういう話ではありません」
アリアは疲れたように眉間を押さえた。
この二人の会話を聞いていると、リリアの強さが少しわかってきた。
彼女は相手の言うことを聞かないわけではない。
むしろ、ちゃんと聞いている。
ただ、結論が全部ふわっと明るい方向へ飛ぶ。
危険かもしれない。
リリアの答え。
なら、見守りましょう。
普通ではない。
リリアの答え。
個性的ですね。
猫ではない。
リリアの答え。
少し個性的な猫ですね。
無敵だ。
論破できないタイプの無敵だ。
アリアが俺を見る。
「ノア」
呼ばれた。
俺はびくっとした。
「きゅ?」
「こちらを見なさい」
命令された。
俺はおそるおそる顔を上げる。
アリアは俺の目をじっと見た。
灰色の瞳。
鋭く、冷静で、何かを見抜こうとしている。
まずい。
この人、本当にまずい。
リリアのポジティブ解釈に守られているとはいえ、アリアは完全に常識側の人間だ。
猫ではない。
普通ではない。
正体不明。
その全部を、ちゃんと疑っている。
俺は猫っぽく首を傾げた。
猫が首を傾げるかは知らない。
でも小動物ならたぶん許されるはずだ。
「きゅう?」
アリアは無言で俺を見つめた。
長い。
視線が長い。
俺の中の元会社員部分が、上司にミスを見つけられた時の感覚を思い出していた。
やめてほしい。
俺は今、無職どころか無種族保証の魔物だ。
詰められたら終わる。
「……知性があるように見えます」
アリアがぽつりと言った。
ぎくり。
「まあ、賢い子なのですね」
リリアが嬉しそうに俺を抱きしめた。
近い。
聖属性が近い。
でも今は抱きしめてくれて助かった。
俺はリリアの腕の中で、きゅ、と鳴いた。
「きゅ」
賢くありません。
ただの猫です。
猫はステータス画面を読んだりしません。
だから俺も読んでません。
見えてますけど。
「聖女様。賢いというより、人間の言葉を理解しているような反応です」
「長く一緒にいれば、もっと分かり合えるかもしれませんね」
「今、会ったばかりです」
「では、これからですね」
「……」
アリアが黙った。
勝った。
いや、俺が勝ったわけではない。
リリアのポジティブ思考が、また常識を押し流した。
俺はひそかに息をついた。
しかし、安心するのは早かった。
馬車の窓の外に、白い建物が見えてきた。
森を抜けた先、なだらかな丘の上。
青空を背にして、尖塔のある大きな建物が建っている。
白い石造り。
高い壁。
門の上には、太陽と翼を組み合わせたような紋章。
見るからに神聖な場所だった。
俺は本能的に体を硬くした。
あれはまずい。
ものすごくまずい。
魔物が行く場所ではない。
紙が火の中に放り込まれるようなものだ。
「神殿が見えてきましたね」
リリアが穏やかに言った。
神殿。
やっぱり神殿。
俺は心の中で頭を抱えた。
低級魔物の俺が、聖女に抱かれて神殿入り。
この時点で、生存ルートとしてはかなり狂っている。
ステータス画面が開いた。
⸻
警告:高濃度聖域が接近しています。
通常魔物であれば行動不能、または消滅する可能性があります。
固有特性:浄化適性により、一定時間の耐性判定が発生します。
⸻
警告が出た。
やめてくれ。
このタイミングで警告を出されても、俺にできることは何もない。
馬車から飛び降りる?
無理だ。
外に出たら野生で三日以内に死ぬ。
リリアに「行きたくない」と伝える?
鳴き声しか出ない。
アリアに助けを求める?
助けてくれるどころか、正体を疑っている。
詰んでいる。
だが、リリアはのんきに俺の耳のあたりを撫でていた。
「ノア、神殿ですよ。私のお家です」
「きゅ……」
お家ですか。
俺にとっては処刑場かもしれません。
馬車が神殿の門をくぐる。
その瞬間、俺の体にぞわりとした感覚が走った。
空気が違う。
森や街道とは明らかに違う。
空間そのものに、細かい光の粒が混ざっているような感覚。
息を吸うだけで、内側から薄く焼かれるような感じがする。
「きゅっ……」
思わず声が漏れた。
リリアが心配そうに俺を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「きゅ、きゅう……」
大丈夫ではない。
神殿の空気が俺に刺さってます。
アリアがすぐに反応した。
「聖女様。やはり様子がおかしいです」
「初めての場所で緊張しているのかもしれません」
「神殿に入った瞬間からです」
「神聖な空気に驚いたのですね」
「普通の猫は神聖な空気で震えません」
「感受性が豊かなのですね」
リリアが俺を優しく抱き直す。
「怖くありませんよ、ノア。ここはみんなを癒す場所です」
怖い。
魔物にとってはかなり怖い。
でも、リリアの声だけは柔らかかった。
俺はリリアの腕の中で、できるだけ小さく丸まった。
聖属性が近い。
だけど、神殿全体の圧よりは、リリアの腕の中の方がまだ安心できた。
不思議だ。
この人の力は俺を消しかける。
でも同時に、この人の腕の中が一番安全に思える。
矛盾している。
異世界の生存環境、難しすぎる。
◇
神殿の中庭に馬車が止まった。
リリアが降りると、すぐに数人の神官や侍女らしき人たちが駆け寄ってくる。
「聖女様、お帰りなさいませ」
「お怪我はありませんか?」
「森の方まで行かれたと聞いて心配いたしました」
みんなリリアを大切にしているらしい。
その視線が、当然のように俺へ集まった。
俺は固まった。
やばい。
見られている。
たくさんの人間に見られている。
しかもここは神殿。
全員、魔物に対して優しいとは限らない。
リリアはにこやかに俺を抱き上げた。
「この子を拾いました」
軽い。
紹介が軽い。
拾いました、の一言で通していい存在ではないと思う。
侍女の一人が目を丸くする。
「まあ、白い猫ですか?」
そうです。
猫です。
今だけは猫です。
俺は全力で猫らしく鳴いた。
「きゅ」
場が静まった。
あれ。
失敗したか。
やっぱり猫は「きゅ」とは鳴かないか。
若い神官が首を傾げる。
「……猫、でしょうか?」
アリアがすぐに言った。
「私も疑問に思っています」
余計なことを言わないでください。
リリアは穏やかに微笑む。
「少し個性的な鳴き声の猫です」
「少し個性的な鳴き声の猫……」
侍女が繰り返す。
やめて。
そんな正式名称みたいに繰り返さないで。
「名前はノアです」
「ノア様ですか」
様?
いや、様はいらない。
俺はペット枠では?
リリアの持ち物だから敬称がついたのか。
聖女の猫待遇、意外と高い。
別の神官が俺を見つめる。
「聖女様、その子は森で?」
「はい。黒狼に襲われていたところを助けました」
「黒狼に……それは危ないところでしたね」
「怪我をしていたので治癒しました」
治癒、という言葉に何人かが反応した。
神官の一人が少し眉をひそめる。
「聖女様の治癒を受けたのですか?」
「はい」
「その子が?」
「はい。少し驚いて跳ねましたが、傷はきれいに治りました」
神官たちが顔を見合わせた。
「……ならば、魔物ではありませんね」
その一言に、俺は思わず耳を立てた。
魔物ではない。
いや、違う。
俺は魔物だ。
ステータスにも、はっきり低級魔物と出ている。
だが、この世界の常識では、魔物は聖女の治癒に含まれる聖力に耐えられないらしい。
つまり、俺が消えなかったという事実は、周囲にとっては「魔物ではない証明」になる。
ありがたい。
ものすごくありがたい。
ただし、それは誤診です。
「そうですね。ノアは魔物ではありません」
リリアが嬉しそうに言った。
「少し個性的な猫です」
「聖女様、猫かどうかはまだ……」
アリアが口を挟む。
「では、少し個性的な白い子です」
「範囲が広がりましたね」
「ノアです」
「名前の話ではありません」
若い侍女が俺を見て、少し笑った。
「森にはまだ知られていない小さな獣もいますから。珍しい子なのかもしれませんね」
珍しい子。
それだ。
いい。
非常にいい。
魔物ではなく、聖獣でもなく、珍しい子。
大ごとにならず、処分もされにくい、絶妙な位置だ。
俺は全力で珍しい子の顔をした。
「きゅ」
「まあ、返事をしました」
侍女が目を輝かせる。
「賢いですね」
やめて。
賢さは疑惑につながる。
俺は慌てて、何もわかっていない顔で首を傾げた。
「きゅう?」
「かわいいです」
リリアが即座に言った。
よし。
かわいいで処理された。
この神殿、リリアがいる限り俺にとって意外と抜け道が多い。
アリアだけは納得していなさそうだった。
「魔物ではないとしても、正体不明の獣です。聖女様のお部屋に入れるのは危険です」
正しい。
正しすぎる。
だから怖い。
リリアは俺を抱いたまま、少し考えた。
「でも、怪我をしていました」
「治りました」
「では、元気になるまで見守ります」
「もう元気です」
「もっと元気になるかもしれません」
「聖女様、元気の上限を理由にしないでください」
アリアが頭を押さえた。
リリアは本気だった。
本気で、俺がもっと元気になると思っている。
実際、進化ゲージは上がっているので、ある意味では正しい。
でもその正しさは、かなり危ない方向から来ている。
「お部屋に連れて行っても?」
リリアが尋ねる。
侍女が少し困った顔をする。
「動物を聖女様のお部屋に、ですか?」
「はい」
「ですが、神殿の規則では」
まずい。
規則。
その言葉は強い。
俺の前世でも、規則はだいたい人の希望を折るために存在していた。
リリアは穏やかな顔で言った。
「では、怪我をした小さな命を一時保護している、ということでお願いします」
侍女が言葉に詰まる。
「一時保護……」
「はい。元気になるまでです」
「もう元気では……」
アリアが小さく言う。
リリアは俺を見下ろした。
「ノア、まだ元気になりますか?」
「きゅ」
なります。
というか、たぶん進化します。
リリアはぱっと笑った。
「まだ元気になるそうです」
「今ので分かったのですか?」
「なんとなく」
「聖女様……」
アリアは渋い顔をしていたが、やがて言った。
「私の監視下に置きます。聖女様のお部屋から出さないこと。神殿内を勝手に歩かせないこと。何かあればすぐに私が対応します」
「それなら……」
侍女が頷く。
通った。
通ってしまった。
低級魔物、聖女の部屋に入室決定。
この世界のセキュリティは大丈夫なのか。
いや、俺が言えたことではない。
しかも今回は、周囲から魔物扱いはされていない。
珍しい小動物扱いだ。
助かった。
どうやらこの世界では、聖女の治癒を受けて消えなかったという事実が、俺にとって身分証明の代わりになるらしい。
ただし残念なことに、俺は本当に魔物だった。
◇
リリアの部屋は、神殿の二階にあった。
白い壁。
大きな窓。
淡い色のカーテン。
本棚と机。
花が飾られた小さな丸テーブル。
清潔で、静かで、リリアらしい柔らかな部屋だった。
ただし、部屋の隅には小さな聖印が飾られている。
壁にも聖句らしき文字。
ベッドの横には銀の鈴。
部屋全体が、ほんのり神聖な空気をまとっていた。
俺にとっては、ふわふわした牢屋である。
リリアは俺をベッドの上にそっと下ろした。
柔らかい。
ものすごく柔らかい。
俺は思わず前足で布団を踏んだ。
ふみ。
ふみ。
ふみ。
やばい。
この体、布団を踏むのが少し気持ちいい。
リリアが目を輝かせた。
「アリア、見てください。ノアがふみふみしています」
アリアは扉の近くで腕を組んでいる。
「警戒行動かもしれません」
「かわいい行動です」
「聖女様」
「かわいい警戒行動です」
「混ぜないでください」
俺は慌てて布団から前足を離した。
危ない。
肉体に精神が引っ張られる。
元人間としての尊厳が、ふみふみで削られかけた。
リリアは椅子に座り、俺を優しく見守る。
「お腹は空いていませんか?」
「きゅ?」
そう言われると、空いている。
転生してから何も食べていない。
黒狼に追われ、治癒で消えかけ、神殿に連れてこられた。
胃があるのかはわからないが、空腹感はある。
リリアは侍女を呼び、何か食べられそうなものを頼んだ。
しばらくして、小さな皿に乗ったミルクと、柔らかく煮た肉の欠片のようなものが運ばれてきた。
ミルク。
猫扱いだ。
いや、今は猫扱いが正解だ。
俺は皿に近づいた。
匂いを嗅ぐ。
悪くない。
むしろ、かなりいい匂いがする。
俺はおそるおそる舌を出した。
ぺろ。
うまい。
体が全力で喜んでいる。
俺はしばらく理性と戦った。
元人間として、皿に顔を突っ込んでミルクを飲むのはどうなのか。
しかし、今の俺は前足しかない。
スプーンも持てない。
選択肢はない。
俺は覚悟を決めてミルクを飲んだ。
ぺろぺろぺろ。
うまい。
悔しいが、うまい。
「よく飲んでいますね」
リリアが嬉しそうに言う。
「お腹が空いていたんですね」
アリアがじっと俺を見る。
「食べ方は普通の獣のようです」
よし。
食べ方で信頼を得た。
元人間としては複雑だが、今は生存が優先だ。
俺は肉の欠片も食べた。
柔らかい。
味は薄いが、体に染みる。
食べ終えると、ステータス画面が開いた。
⸻
栄養摂取を確認しました。
体力が回復しました。
進化ゲージ:15% → 16%
⸻
食事でも少し増えた。
進化ゲージ、意外と上がる。
ただし、聖属性ほどではない。
つまり、この先俺が進化するには、リリアのそばにいることが重要になる。
危険だが、離れられない。
なんとも厄介な仕様だ。
リリアは俺の口元を布でそっと拭いた。
「きれいになりました」
「きゅ」
ありがとうございます。
なんだろう。
完全に世話されている。
三十二歳元会社員としての尊厳は、今日だけでかなり削れている。
だが、世話されるのは悪くない。
いや、悪くないと思ってしまうのがまずい。
俺は魔物だ。
猫ではない。
この生活に慣れすぎると、何か大事なものを失いそうだ。
その時、部屋の外から控えめなノックが聞こえた。
「聖女様、司祭長がお戻りになりました」
侍女の声だった。
アリアの表情が引き締まる。
リリアは穏やかに頷いた。
「わかりました。すぐ伺います」
司祭長。
その響きだけで嫌な予感がする。
おそらく、神殿の偉い人だ。
偉い人はだいたい目が鋭い。
そして規則に厳しい。
俺のような正体不明の生き物に優しいとは思えない。
いや、今の俺は魔物ではないことになっている。
ただの珍しい小動物。
珍しい、少し個性的な鳴き声の猫。
……自分で思っていて不安になってきた。
リリアは立ち上がると、俺を抱き上げようとした。
アリアが即座に止める。
「聖女様」
「はい」
「まさか、その子を連れて行くおつもりですか?」
「はい。ノアを一人にしたら寂しいでしょうから」
「寂しい以前に、司祭長に見られます」
「紹介します」
「紹介しないでください」
俺も同意見です。
紹介されるのはまずい。
俺は布団の上で全力で丸くなった。
見てください。
俺はここに残りたいです。
大丈夫です。
一人でも寂しくありません。
むしろ偉い人に会う方が寂しい結果になります。
リリアは俺を見て、微笑んだ。
「まあ、ノアも丸くなって行く気満々ですね」
違う。
逆です。
アリアが頭を抱える。
「聖女様、丸くなるのは拒否の可能性もあります」
「緊張しているのですね」
「それも違う可能性があります」
「では、私が抱っこします」
「そういう話ではありません」
アリアの声がだんだん疲れている。
わかる。
この聖女、善意が強すぎて止まらない。
リリアは俺をそっと抱き上げた。
俺は抵抗しなかった。
いや、できなかった。
小さな前足で抵抗しても、たぶん「元気ですね」と解釈されるだけだ。
詰んでいる。
「大丈夫ですよ、ノア。司祭長はとても立派な方です」
「きゅ……」
立派な方。
それはつまり、俺のような正体不明の珍生物をちゃんと調べようとする方ということでは?
部屋を出る前に、ステータス画面がふわりと開いた。
⸻
警告:高位聖職者との接触可能性。
正体露見時の生存率:低
推奨行動:猫のふりをしてください。
⸻
わかってる。
わかってるよ。
俺は今、人生で一番本気で猫のふりをしている。
いや、人生ではない。
魔物生である。
リリアに抱かれながら、俺は廊下へ出た。
白い神殿の廊下。
行き交う神官たち。
壁に飾られた聖印。
空気そのものが、俺にとっては地雷原のようだった。
そして、その先に。
長い白髭をたくわえた老人が立っていた。
白と金の祭服。
手には聖印の杖。
穏やかな笑みを浮かべているが、その目は深く、静かで、底が見えない。
この人が、司祭長。
たぶん、リリアよりずっと経験がある。
アリアよりも、人を見る目がある。
俺は全身の毛が逆立ちそうになった。
リリアは嬉しそうに歩み寄る。
「司祭長、お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました、リリア様」
司祭長の視線が、ゆっくり俺に落ちる。
終わった。
見られた。
俺は全力で猫の顔をした。
「きゅ」
司祭長は一瞬だけ目を細めた。
ほんの一瞬。
だが、確かに何かを見たような顔だった。
「……ほう」
司祭長が静かに呟く。
「珍しいお連れ様ですな」
珍しい。
それは正しい。
正しいのだけれど、あまり掘り下げないでほしい。
リリアはまったく気づかず、にこにこと俺を抱き直した。
「森で拾ったんです。名前はノアです」
「ノア」
司祭長が俺の名前を繰り返す。
そして、穏やかに微笑んだ。
「聖女様に拾われるとは、運の良い子です」
「はい。とてもかわいいんです」
「きゅ……」
かわいいで押し切れる相手なのか。
いや、難しい気がする。
司祭長は俺をしばらく見つめた。
「ふむ。確かに猫とは少し違うようですな」
やめてください。
そこは流してください。
アリアが小さく頷く。
「私もそう思います」
乗らないでください。
リリアだけが不思議そうに首を傾げた。
「そうでしょうか。少し個性的な鳴き声の猫です」
「リリア様、この子はあなたの治癒を受けたのでしたな」
「はい。傷もきれいに治りました」
「ならば、魔物ではありますまい」
司祭長は穏やかに言った。
「森には、人に知られていない小さな獣もおります。しばらく保護するのは構わないでしょう」
助かった。
世界の常識に救われた。
俺は本当は魔物だったが、聖女の治癒で消えなかったせいで、逆に魔物疑惑から外れたらしい。
ただし、アリアはまだ俺を見ていた。
「魔物でないことと、安全であることは別です」
正しい。
正しすぎる。
だからこそ、この人が一番怖い。
司祭長は静かに頷いた。
「その通りです。アリア、あなたがよく見ておきなさい」
「承知しました」
監視が強化された。
助かったのか、詰んだのか、どちらだろう。
リリアは嬉しそうに俺を撫でる。
「よかったですね、ノア。神殿にいていいそうです」
「きゅ」
よかったです。
でも監視付きです。
司祭長は俺に手を伸ばした。
白く細い指先。
そこには、リリアとは違う、静かで深い聖属性が宿っている。
これはまずい。
リリアの治癒は柔らかい火だった。
だがこの人の聖力は、研ぎ澄まされた刃物のような気配がする。
触られたら、今度こそ終わるかもしれない。
俺は本能的に震えた。
リリアが優しく言う。
「ノア、大丈夫ですよ。司祭長は怖くありません」
怖いです。
ものすごく怖いです。
司祭長の指先が、俺の額に触れようとした。
その瞬間、ステータス画面が赤く光る。
⸻
警告:高濃度聖属性接触が予測されます。
消滅判定の発生確率:高
⸻
やばい。
やばいやばいやばい。
俺は反射的に、リリアの腕の中で丸くなった。
全力で。
これでもかというほど。
丸くなる。
能力欄に書かれていた、唯一まともに使えそうなスキル。
小さく鳴く。
丸くなる。
よく転がる。
そのうちの一つ。
丸くなる。
次の瞬間、司祭長の指先が俺の額に触れた。
白い光が走る。
「きゅっ……!」
⸻
能力:丸くなる が発動しました。
防御姿勢により、聖属性接触面積が低下しました。
消滅判定……回避。
変質判定……微成功。
進化ゲージ:16% → 19%
⸻
助かった。
丸くなる、強い。
いや、強いと言っていいのかはわからない。
だが今、俺の命を救ったのは間違いなく「丸くなる」だった。
司祭長は俺の額に触れたまま、少し驚いたように眉を上げる。
「これは……」
まずい。
何か気づかれたか。
リリアが嬉しそうに言う。
「丸くなるのが上手でしょう?」
司祭長は数秒黙った。
それから、静かに笑った。
「ええ。実に見事に丸くなりますな」
そこ?
そこに着地した?
俺は丸くなったまま、内心で全力で息を吐いた。
司祭長は手を引いた。
「リリア様。その子はしばらく、あなたのそばに置いておくとよいでしょう」
「ありがとうございます」
「ただし、神殿内を自由に歩かせぬように。珍しい小さな獣であれば、環境に慣れるまでは刺激も多いでしょうからな」
「はい。大切にします」
珍しい小さな獣。
よし。
その認識でお願いします。
魔物でもない。
聖獣でもない。
ただの珍しい小さな獣。
俺の今後の生存戦略は、この一点にかかっている。
アリアだけは、最後まで俺から目を離さなかった。
「ノア」
司祭長が静かに名前を呼ぶ。
「きゅ……」
「リリア様にご迷惑をかけぬようにな」
これは、ただ猫に話しかけている言葉ではない。
俺はそう感じた。
この人、何か少し気づいているのかもしれない。
でも少なくとも、今すぐ俺をどうこうするつもりはないらしい。
ありがたい。
心臓には悪い。
ステータス画面が、静かに開く。
⸻
神殿内での一時滞在が許可されました。
周囲の認識:珍しい小動物
条件:聖女リリアの管理下に置かれること。
注意:正体露見時の危険は継続中です。
進化条件:聖女のそばで三日間生存する。
残り時間:二日と二十三時間。
⸻
長い。
三日が長すぎる。
まだ一時間も経っていないのに、俺はすでに何度も死にかけている。
リリアは俺を抱きしめ、ほんわかと笑った。
「ノア、これから一緒に暮らしましょうね」
「きゅ」
はい。
よろしくお願いします。
ただし俺は、猫ではありません。
珍しい小動物でもありません。
魔物です。
そしてあなたのそばにいるだけで、わりと命がけです。
こうして俺は、聖女リリアに拾われた白い珍生物として、神殿で暮らすことを許された。
魔物ではないと判断された。
猫かどうかは怪しまれた。
アリアには監視されることになった。
司祭長には、たぶん少しだけ気にされている。
神殿の空気は俺に刺さる。
聖属性に触れるたび、進化ゲージは少しずつ上がる。
そしてリリアだけが、何の疑いもなく俺を撫でている。
「ノアは本当にふわふわですね」
俺は丸くなったまま、小さく鳴いた。
「きゅ……」
異世界転生初日。
俺は早くも理解し始めていた。
この聖女の膝の上は、世界で一番安全で。
同時に、世界で一番危険な場所かもしれない。




