第1話 猫じゃないけど、猫として拾われました
目を覚ますと、俺は草むらの中にいた。
湿った土の匂い。
頬に触れる冷たい草。
遠くで鳴く鳥の声。
そして、頭上いっぱいに広がる、見覚えのない森。
「……どこだ、ここ」
そう言ったつもりだった。
だが、俺の口から出たのは声ではなかった。
「きゅ」
……きゅ?
俺は固まった。
今のは何だ。
俺の声か?
「きゅ、きゅう?」
もう一度出してみる。
やはり、出てきたのは情けない小動物みたいな鳴き声だった。
いやいやいや。
おかしい。
俺は三十二歳の男だ。
前世では普通の会社員だった。
朝起きて、満員電車に乗って、職場でほどほどに働いて、帰りにコンビニで飯を買って、家に帰って寝る。
そんな、どこにでもいる人間だった。
少なくとも、鳴き声が「きゅ」になる人生は送っていない。
俺は慌てて自分の体を見下ろした。
そこにあったのは、人間の手ではなかった。
白くて丸い前足。
短い爪。
ふわふわした毛。
足も短い。
腹も丸い。
尻尾もある。
俺は立ち上がろうとした。
だが、体が軽すぎてバランスが取れない。
前足が草に引っかかり、そのままころんと横に転がった。
「きゅうっ!?」
情けない。
あまりにも情けない。
俺は草の上でじたばたしながら、ようやく理解した。
俺は人間ではない。
小さい。
丸い。
白い。
ふわふわ。
鳴き声は「きゅ」。
どう考えても、強そうな存在ではなかった。
俺は必死に記憶を探った。
たしか、俺は死んだはずだ。
会社帰りだった。
駅前の横断歩道。
スマホを見ながら飛び出した子どもがいて、俺は反射的に体を動かした。
子どもは助かった。
俺は車に跳ねられた。
覚えているのは、そこまでだ。
女神に会った記憶はない。
チートスキルを選ばされた記憶もない。
異世界で第二の人生をどうこう、みたいな説明もない。
気づいたら森。
気づいたら毛玉。
異世界転生にしては、あまりにも案内が雑すぎる。
「きゅ……」
落ち着け。
まずは状況確認だ。
そう思った瞬間、目の前に半透明の板が浮かび上がった。
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個体名:未設定
種族:白毛の幼魔獣
分類:低級魔物
危険度:最低
能力:小さく鳴く/丸くなる/よく転がる
備考:野生ではだいたい三日以内に死ぬ。
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「きゅううううううっ!?」
俺は絶叫した。
いや、絶叫したつもりだった。
実際に出たのは、やっぱり高めの「きゅう」だった。
白毛の幼魔獣。
低級魔物。
危険度最低。
野生ではだいたい三日以内に死ぬ。
備考が怖すぎる。
もっとこう、初心者向けとか、癒やし系とか、かわいいとか、書き方があるだろう。
なぜいきなり死期を告げてくる。
しかも能力欄もひどい。
小さく鳴く。
丸くなる。
よく転がる。
戦闘に使えそうな要素が一つもない。
鳴いて、丸まって、転がって、三日以内に死ぬ。
生存戦略として終わっている。
俺は震える前足でステータス画面を見上げた。
すると、さらに下に別の項目があった。
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固有特性:浄化適性
説明:聖属性の力を受けることで、消滅判定と変質判定が同時に発生する。
変質判定に成功した場合、進化ゲージが上昇する。
注意:通常、魔物は聖属性を受けると消滅します。
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どっちだよ。
進化できるのか。
消滅するのか。
説明がギャンブルすぎる。
つまり俺は、天敵である聖属性を浴びると、死ぬかもしれないけど進化するかもしれない魔物ということらしい。
怖い。
初期設定が怖い。
しかも俺は今、森の中に一匹。
人間ですらない。
戦える能力もない。
備考によれば、三日以内に死ぬ可能性が高い。
異世界転生のスタート地点としては、底辺どころか地面に埋まっている。
その時だった。
草むらの向こうで、何かが動いた。
ガサッ。
俺の耳がぴくりと立つ。
重い足音。
獣の匂い。
低い唸り声。
「グルルルル……」
草むらの奥から、黒い狼が現れた。
俺の何倍もある体。
赤く光る目。
鋭い牙。
どう見ても捕食者だった。
そして俺は、食われる側だった。
「きゅ……」
終わった。
転生して十分も経たずに終わった。
いくらなんでも早すぎる。
異世界転生最短記録を狙っているわけじゃない。
俺は反射的に逃げ出した。
短い足で、必死に草むらを走る。
「きゅっ、きゅっ、きゅっ!」
鳴き声だけは忙しい。
しかし、全然進まない。
小さな体には草が深すぎる。
根に足を取られ、枝に毛を引っかけ、何度も転びそうになる。
黒狼は余裕で距離を詰めてくる。
当然だ。
向こうは狼。
こっちは、丸くなるのが得意な毛玉。
勝負になるわけがない。
背後で地面を蹴る音がした。
黒狼が跳んだ。
大きな影が俺を覆う。
ああ、終わった。
そう思った瞬間。
「離れてください!」
凛とした声が響いた。
次の瞬間、森の奥から白い光が走った。
黒狼の体が光に弾かれ、地面を転がる。
俺も驚いて、その場にころんと転がった。
「きゅうっ!?」
今日、転がってばかりだ。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
俺は震えながら顔を上げた。
そこに、一人の少女が立っていた。
白いローブ。
淡い金色の髪。
透き通るような青い瞳。
年齢は十六か十七くらいだろうか。
彼女の手には、銀色の杖が握られている。
杖の先から、柔らかな白い光が漂っていた。
綺麗だった。
森の暗がりに差し込む朝日のように、清らかで、温かくて。
そして魔物である俺にとっては、本能的に怖い光だった。
聖属性。
たぶん、それだ。
黒狼は唸り声を上げたが、少女がもう一度杖を向けると、すぐに森の奥へ逃げていった。
「よかった……間に合いました」
少女がほっとしたように息を吐く。
それから、草むらに転がっている俺を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「まあ……」
少女は俺の前に膝をついた。
「白い子猫ちゃん?」
違う。
違うんです。
子猫じゃないんです。
ステータスに低級魔物って出てるんです。
だが、今の俺には説明する手段がなかった。
「きゅ」
猫ではない鳴き声が出た。
少女はなぜか嬉しそうに微笑んだ。
「かわいい鳴き声ですね」
いや、猫としてはだいぶ異常な鳴き声だと思う。
しかし、この少女は違和感をまったく抱いていないらしい。
少女は俺の背中をそっと撫でた。
その瞬間、杖から漂う白い光が近づき、俺の全身がびりっと震えた。
やばい。
この光、やっぱりまずい。
魔物の本能が全力で警告している。
しかし少女は、俺が震えた理由を完全に別方向へ受け取った。
「怖かったのですね。もう大丈夫ですよ」
違う。
あなたの光が怖いんです。
黒狼も怖かったけど、今はあなたの指先から漂う聖属性が怖いんです。
俺は逃げようとした。
だが、黒狼に追われたせいで体に力が入らない。
前足も少し擦りむいている。
少女はそれに気づいたらしく、眉を下げた。
「怪我をしていますね。すぐ治します」
治す。
聖女っぽい少女が、白い光で治す。
それは普通の動物ならありがたい話だろう。
だが俺は魔物だ。
しかもステータスには、聖属性で消滅判定が出ると書いてあった。
待って。
待ってください。
それは俺にとって、治療という名のロシアンルーレットです。
「きゅ、きゅう!」
俺は必死に鳴いた。
少女は優しく頷いた。
「少ししみるかもしれませんが、我慢してくださいね」
しみるどころではない。
消えるかもしれない。
次の瞬間、少女の手から柔らかな光が流れ込んできた。
熱い。
痛い。
いや、痛いというより、全身が内側から白い火で洗われるような感覚。
「きゅうううううううっ!?」
俺は草の上で跳ねた。
普通の猫なら間違いなくおかしい反応だ。
だが少女は、真剣な顔で俺を撫で続けた。
「大丈夫です。傷が治る時は、少しびっくりしますよね」
びっくりの範囲を超えている。
今、魂が一回外に出かけた。
目の前にステータス画面が開く。
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聖属性接触を確認しました。
通常魔物であれば浄化対象です。
固有特性:浄化適性が発動します。
消滅判定……失敗。
変質判定……成功。
進化ゲージ:14%
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消滅判定失敗。
失敗してくれてありがとう。
今日一番嬉しい失敗だ。
白い光が収まると、擦りむいていた前足の傷は消えていた。
体も少し軽い。
だが精神的にはだいぶ削られた。
少女は俺の前足を見て、満足そうに微笑んだ。
「よかった。ちゃんと治りましたね」
「きゅ……」
治りました。
ついでに進化ゲージも上がりました。
そして俺は一瞬消えかけました。
少女は俺を両手でそっと抱き上げた。
俺の体は、彼女の白いローブに包まれる。
ふわりと花のような香りがした。
温かい。
柔らかい。
だが近い。
聖属性が近い。
命の危険と安心感が同じ距離にある。
非常に複雑な抱っこだった。
「あなた、ふわふわですね」
「きゅ」
ありがとうございます。
元三十二歳の男としては複雑ですが。
少女は俺の顔を覗き込んだ。
「私はリリア。リリア・セレスティアです」
リリア。
綺麗な名前だ。
彼女は俺の頭を撫でながら、にこにこと笑う。
「あなたにも名前が必要ですね」
名前。
確かに今の俺には名前がない。
前世の名前はある。
でも、伝えられない。
俺が鳴けるのは「きゅ」だけだ。
リリアは少し考えた。
「白くて、ふわふわで、小さくて……」
嫌な予感がした。
この流れは、だいぶ危険だ。
俺は元男だ。
できれば格好いい名前がいい。
せめて、シロウとか。
ルークとか。
ノアとか。
何かこう、物語に出てきても違和感のない名前がいい。
リリアは嬉しそうに俺を抱きしめた。
「あなたの名前は、ノアにしましょう」
「きゅ?」
意外とまともだった。
いや、失礼か。
かなりいい名前だ。
リリアは優しく微笑む。
「小さな命を運ぶ方舟みたいで、素敵でしょう?」
「きゅ」
素敵です。
少なくとも、モフとかじゃなくて本当によかった。
こうして俺は、白毛の幼魔獣でありながら、リリアにノアと名付けられた。
猫ではない。
だが、猫として扱われている。
この誤解は、今のところ俺の命綱だった。
リリアは俺を抱いたまま、森の奥へ向かって歩き出した。
少し進むと、小さな馬車が見えてきた。
馬車のそばには、女性騎士が立っている。
年齢は二十代前半くらいだろうか。
短く整えられた青みがかった黒髪。
鋭い灰色の瞳。
軽鎧を身につけ、腰には剣。
見るからに真面目で、隙がない。
彼女はリリアを見るなり、表情を険しくした。
「聖女様! お一人で森へ入られては困ります!」
聖女様。
俺の耳がぴくりと動いた。
今、聖女様って言ったか?
リリアは少し困ったように笑った。
「ごめんなさい、アリア。森の中で、この子が黒狼に襲われていたんです」
「この子?」
アリアと呼ばれた騎士の視線が、リリアの腕の中の俺に向いた。
その目が、わずかに細くなる。
俺は全力で猫の顔をした。
猫の顔が何なのかはわからない。
だが、とりあえず丸くなって、目を細める。
「きゅ」
よし。
かわいい。
たぶん。
アリアは眉を寄せた。
「……猫、ですか?」
「はい。白くて、とてもふわふわです」
違う。
猫ではない。
だが今はその認識でお願いします。
アリアは俺をじっと見た。
かなり鋭い目だ。
まずい。
この人、リリアより明らかに疑い深い。
「普通の猫とは、少し違うように見えますが」
「そうですね。普通の猫より、ふわふわです」
「いえ、そういう意味ではなく」
「鳴き声もかわいいんですよ。ノア、鳴けますか?」
無茶振りが来た。
俺は少し迷ったあと、小さく鳴いた。
「きゅ」
アリアの目がさらに細くなる。
「猫はそのように鳴きません」
正論だ。
だがリリアは微笑んだ。
「個性的ですね」
個性的で済ませた。
この聖女、かなり強い。
アリアは深く息を吐く。
「聖女様、森の獣を拾うのは危険です。病や呪いを持っている可能性があります」
「先ほど治癒しました。傷はもう大丈夫です」
「治癒を?」
「はい」
アリアの表情がわずかに変わった。
「聖女様の治癒を受けて、何も異常は?」
「少し驚いて跳ねました」
少しではない。
俺は魂ごと跳ねた。
「おそらく、傷がしみたのでしょう」
リリアはほんわかと言った。
アリアは納得していない顔だった。
「治癒で跳ねる猫……」
「元気な証拠ですね」
「聖女様」
「はい」
「それは元気な証拠ではなく、何らかの異常反応ではありませんか?」
「まあ」
リリアは俺を見下ろした。
俺は再び、全力で猫の顔をした。
「きゅ」
リリアは満面の笑みになった。
「かわいいので大丈夫です」
「判断基準が危険です」
アリアさん、その通りです。
俺もそう思います。
だが今は、その危険な判断基準に命を救われている。
だから俺は何も言わない。
言えない。
鳴くことしかできない。
リリアは俺を大事そうに抱えたまま言った。
「この子、連れて帰ります」
「なりません」
アリアは即答した。
頼もしい。
そして怖い。
「聖女様のお立場をお考えください。神殿へ戻れば、多くの者があなたを見ています。そのような正体不明の獣を連れて帰れば、何を言われるか」
「猫を拾ったと言います」
「猫かどうか疑わしいです」
「では、猫に似た子です」
「なぜ危険性ではなく、かわいさの方へ寄せるのですか」
アリアは頭を押さえた。
どうやらこのやり取りは、普段からあるらしい。
リリアは鈍感というより、異常を全部ポジティブな方向へ解釈するタイプのようだ。
かなり危うい。
だが、今の俺にとっては女神のような存在だった。
いや、聖女だった。
「アリア」
リリアは静かに言った。
「この子は、黒狼に襲われていました。怪我もしていました。森に置いていけば、きっとまた襲われます」
「それは……」
「私は聖女です。助けられる命を見捨てて神殿へ帰る方が、きっと良くありません」
リリアの声は柔らかかった。
だが、その言葉には不思議な強さがあった。
ふわふわしているのに、芯は曲がらない。
アリアはしばらく黙った。
それから、諦めたように息を吐く。
「……神殿に戻るまでです」
「アリア」
「神殿で司祭様に確認していただきます。それまでは、私の監視下に置きます」
監視。
怖い単語だ。
だが、処分よりはいい。
リリアは嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いです。少しでも危険な兆候があれば、離していただきます」
「ノアはそんなことしません」
「聖女様は、出会って数分の獣を信じすぎです」
「でも、目が優しいです」
アリアの視線が俺に刺さる。
俺は全力で優しい目をした。
「きゅ」
いける。
たぶん、いける。
アリアは納得していない顔で言った。
「……妙に人間くさい目をしていますね」
鋭い。
この騎士、危険だ。
リリアはにこにこと笑う。
「賢い子なのですね」
「聖女様、今のは褒め言葉ではありません」
「では、褒め言葉にしましょう」
「できません」
リリアは俺を膝に乗せて、馬車へ乗り込んだ。
アリアは最後まで俺を警戒していたが、剣を抜くことはなかった。
馬車の中は、柔らかな布と花の香りで満たされていた。
リリアは俺の頭を撫でる。
そのたびに、微かな聖属性が毛先をちりちり刺激する。
怖い。
でも、嫌ではなかった。
目の前にステータス画面が開く。
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新たな保護者を確認しました。
対象:リリア・セレスティア
属性:聖女
認識:白い子猫のような生き物
進化条件が追加されました。
条件:聖女のそばで三日間生存する。
報酬:第一進化先の開放
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聖女のそばで三日間生存。
それは簡単なのか。
難しいのか。
普通の魔物なら、聖女のそばにいるだけで死にそうだ。
でも俺は、彼女の力で進化できるかもしれない。
ただし、正体がバレれば終わり。
神殿に連れて行かれれば、さらに危険。
護衛騎士アリアにはすでに疑われている。
そしてリリアは、俺を完全に猫だと思っている。
いや、猫に似た何か、くらいかもしれない。
どちらにせよ、低級魔物だとは思っていない。
俺はリリアの膝の上で丸くなった。
今の俺が生き残るために必要なことは三つ。
猫のふりをすること。
聖属性で消滅しないこと。
そして、神殿の人間に正体を見抜かれないこと。
難易度が高すぎる。
リリアが俺を撫でながら、柔らかく言った。
「大丈夫ですよ、ノア。今日からあなたは私の子です」
子。
いや、俺は三十二歳の元会社員だ。
そして猫でもない。
魔物だ。
だが、否定する手段はない。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
こうして俺は、白毛の低級魔物でありながら、敵国の聖女に猫として拾われることになった。
この時の俺はまだ知らない。
聖女リリアの治癒を受けるたび、俺の中の進化ゲージが少しずつ満たされていくことを。
そして、彼女が俺の角を見ても、翼を見ても、体が何倍に大きくなっても。
「大きくなりましたね」
と、ほんわか笑って済ませるような、とんでもない聖女だということを。




