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第38話 聖女様、少し個性的な猫のために料理します

 翌朝。


 俺はいつもより早く目を覚ました。


 いや、正確には、ほとんど眠れていなかった。


 原因は分かっている。


 魚スープ。


 肉の出汁。


 ミルク以外。


 その三つの単語が、毛布の中でずっと俺の頭を回っていた。


 中央神殿の聴取要請。


 ガルディアスの観測具。


 監察官エルネスト。


 問題は山ほどある。


 それは分かっている。


 分かっているのだが。


 今日、俺はミルク以外を食べる。


 それだけで、意識がそっちに持っていかれる。


 元人間としてどうなのか。


 白銀の幼聖魔獣としてどうなのか。


 少し個性的な猫としてどうなのか。


 分からない。


 だが、食欲は強い。


 かなり強い。


 俺は毛布から顔を出した。


 リリアの部屋には、朝の柔らかい光が入っている。


 窓の封印布越しの光。


 白い壁。


 中立紋入りの敷物。


 結界台。


 いつもの毛布。


 そして、隣には淡い青のお出かけ毛布が畳まれている。


 今日はこれを着て中庭へ行く予定だ。


 訓練を兼ねたピクニック。


 アリアはそう言った。


 リリアはピクニックですね、と言った。


 俺としては、どちらでもいい。


 魚スープと肉の出汁があるなら。


「きゅ……」


 楽しみです。


 かなり。


 小さく鳴いたら、リリアがすぐに顔を上げた。


 彼女はすでに起きていた。


 今日は、いつもの白い外套ではなく、少し動きやすそうな服を着ている。


 袖も、いつもより短めに留められていた。


 長い白銀の髪は、後ろで軽くまとめられている。


 ……料理をする気だ。


 完全に。


 俺は一瞬で察した。


 リリアはにこりと微笑む。


「おはようございます、ノア」


「きゅ」


 おはようございます。


 その格好は、やる気ですね。


 リリアは俺の視線に気づいたのか、少しだけ嬉しそうに袖を見た。


「今日は、ノアの食事作りを少しだけ手伝わせてもらえることになりました」


 少しだけ。


 そこを強調した。


 きっとアリアに言われている。


 俺が視線を動かすと、やはりアリアが扉のそばに立っていた。


「聖女様は、侍女長の指導のもと、成形のみ。火と刃物は扱いません。作業時間も短く区切ります」


「はい」


 リリアは素直に頷いた。


 えらい。


 とてもえらい。


 以前なら、もっと頑張ろうとしていたと思う。


 今は、止められたらちゃんと止まれる。


 リリアも成長している。


 俺は満足して鳴いた。


「きゅ」


 よし。


 いいと思います。


 アリアがこちらを見た。


「ノアも、食べる量はごく少量です。昨日も言いましたが、欲しがっても追加は司祭長の許可が出てからです」


「きゅ……」


 分かっています。


 でも、欲しがらない自信はありません。


 俺の返事に少し間が空いたせいか、アリアは軽く眉を上げた。


「……不安の残る返事ですね」


 鋭い。


 鳴き声を読んでいるというより、間を見ている。


 この人は、最近かなり俺の様子を見るのが上手くなっている。


 リリアは嬉しそうに言った。


「ノア、楽しみなのですね」


「きゅ」


 はい。


 かなり。


 隠せない。


 もう隠す気もない。


     ◇


 調理は、神殿の小さな調理室で行われることになった。


 もちろん俺は調理室へは入れない。


 火がある。


 刃物がある。


 食材がある。


 床が滑る可能性もある。


 俺が行ったら危ないらしい。


 分かっている。


 分かっているが、少し見たい。


 肉の出汁が作られるところを。


 魚スープができるところを。


 リリアが何かを成形するところを。


 だが、俺はリリアの部屋で待機である。


 代わりに、調理室から戻ってきた侍女が、準備の様子を報告してくれることになった。


 実況つき。


 なぜそこまで。


 いや、ありがたいけど。


 俺は結界台の上で、毛布に包まれたまま待った。


 落ち着かない。


 ものすごく落ち着かない。


 部屋にいるのは、アリアと俺。


 リリアは侍女長と調理室。


 司祭長も調理室に向かった。


 司祭長は安全確認の名目だったが、たぶん料理をする気だ。


 昨日の袖まくりを見た俺には分かる。


 あの人はできる。


 そして、たぶん作る。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅう……」


 アリアがこちらを見る。


「落ち着きませんか」


「きゅ」


 はい。


 かなり。


「厨房に行きたいのですか」


「きゅ……」


 少しだけ。


 アリアは首を横に振った。


「危険です」


 ですよね。


 分かっていました。


 俺は毛布に顎を乗せる。


 すると、扉の外から軽い足音がした。


 若い侍女が、小さな盆を持って入ってくる。


「失礼いたします。調理の途中報告です」


 途中報告。


 本当に来た。


 アリアが頷く。


「どうぞ」


 侍女は少し緊張しながらも、俺の方を見て微笑んだ。


「ノア、白身魚の下処理が終わりました」


「きゅ……!」


 魚。


 下処理完了。


 俺の背中がぴこっと動いた。


 侍女は一瞬驚いたあと、小さく笑った。


「楽しみなのですね」


「きゅ」


 はい。


 楽しみです。


 侍女は続ける。


「司祭長様が、魚の身を蒸す時間を細かく調整されています。柔らかく、でも水っぽくなりすぎないように、と」


 司祭長。


 やはり本気だ。


「それから、お肉の方は脂を落として、出汁だけを取っているところです。香りが強くなりすぎないよう、余計なものは使わないそうです」


 肉の出汁。


 来た。


 俺の尻尾が毛布の中で動いた。


 止められない。


 アリアが淡々と言う。


「ノア、まだ食べられません」


「きゅう……」


 分かっています。


 でも説明だけで反応してしまいます。


 仕方ないじゃないですか。


 侍女はさらに言った。


「リリア様は、魚の身を丸める練習をされています」


 丸める練習。


 少し嫌な予感がした。


 リリアは真面目だ。


 とても真面目だ。


 真面目すぎて、妙な方向へ努力する時がある。


「どのような状態ですか」


 アリアが聞く。


 侍女は少しだけ言葉を選んだ。


「とても……丸いです」


 丸い。


 それは良いことなのか。


 悪いことなのか。


 俺は不安になった。


「きゅ……?」


 侍女は困ったように笑った。


「きれいな丸です。とても」


 きれいな丸。


 白身魚の団子が、とても丸い。


 なぜだろう。


 心配になってきた。


 アリアが小さく息を吐く。


「聖女様は、何事にも真面目ですから」


 フォローになっているようで、なっていない。


 俺は毛布に少し沈んだ。


 リリア作の白身魚団子。


 丸すぎる可能性あり。


 味は未知数。


 少し怖い。


 でも楽しみだ。


     ◇


 しばらくして、調理室からリリアたちが戻ってきた。


 リリアは小さな皿を両手で持っていた。


 その後ろに侍女長。


 さらに司祭長。


 司祭長は鍋を持っていない。


 さすがに持っていない。


 だが、袖は少しだけ上がったままだった。


 料理してきた人の袖だった。


 リリアは俺の前まで来ると、緊張した顔で皿を見せた。


「ノア、できました」


 皿の上には、白い小さな団子が三つ乗っていた。


 丸い。


 非常に丸い。


 白くて、つるんとしている。


 魚の身を丸めたもの、らしい。


 らしいのだが、見た目は肉でも魚でもなく、とても大きい真珠にしか見えない。


 俺はじっと見た。


「きゅ……」


 すごく丸いですね。


 リリアは嬉しそうに頷いた。


「はい。食べやすいように丸くしました」


 食べやすい。


 そうなのか。


 丸いと食べやすいのか。


 俺には分からない。


 だが、リリアが一生懸命作ったのは分かる。


 それだけで、少し胸が温かくなった。


 侍女長が補足する。


「中身は白身魚のみです。塩気はほぼありません。ノアが食べる時は、崩してスープに混ぜる予定です」


 なるほど。


 そのまま食べるわけではないらしい。


 安心した。


 この球体をそのままかぶりつくのは、少し怖い。


 司祭長が続けて、小さな器を二つ出した。


「こちらが魚の薄いスープ。こちらが肉の出汁です」


 肉の出汁。


 目の前に来た。


 湯気が立っている。


 香りはかなり薄い。


 前世の濃いスープとは比べものにならない。


 だが、ミルクとは違う。


 魚の匂い。


 肉の匂い。


 ほんのわずかだが、確かにある。


 俺は思わず身を乗り出した。


「きゅ……!」


 アリアがすぐに言う。


「まだです。中庭で状態を確認しながらです」


「きゅう……」


 分かっています。


 でも近い。


 近すぎる。


 誘惑が強い。


 司祭長が少し笑う。


「よい反応ですな。ただ、食べる前からこれでは、一口で止まれるか心配です」


 おっしゃる通りです。


 かなり心配です。


 俺は自分でもそう思う。


 アリアが言った。


「だからこそ量を制限します」


「きゅ……」


 はい。


 お願いします。


 止めてください。


 たぶん自分では止まれません。


 リリアが少し心配そうに俺を見る。


「ノア、そんなに食べたいのですか?」


「きゅ」


 はい。


 かなり。


 リリアは目を細め、柔らかく笑った。


「では、少しだけでも美味しいといいですね」


 その言葉が嬉しかった。


 少しだけでも。


 美味しいといい。


 本当に、そう思う。


     ◇


 問題は、アリアの携帯食だった。


 リリアの白身魚団子。


 司祭長の魚スープと肉の出汁。


 ここまではいい。


 かなりいい。


 だが、アリアは真面目な顔で、細長い茶色いものを盆に乗せていた。


 昨日の棒だ。


 少し形が変わっている。


 昨日より短い。


 昨日より角が丸い。


 しかし、やはり棒である。


 食べ物というより、圧縮された何かに見える。


「改良しました」


 アリアが言った。


「柔らかさを上げ、携帯性を維持しています。必要な栄養をまとめ、保存性も考慮しました」


 説明だけ聞くとすごい。


 だが、見た目が棒。


 俺はそっと目を逸らした。


「きゅ……」


 今は遠慮します。


 たぶん。


 リリアが困ったように言う。


「アリア、ノアにはまだ早いかもしれません」


「そうですね。試食は後日で構いません」


 後日。


 逃げられなかった。


 後日がある。


 俺は毛布の中で前足を丸めた。


 アリアは悪気がない。


 むしろ、俺のことをかなり真剣に考えてくれている。


 携帯食。


 中央神殿へ行くかもしれないなら、確かに必要かもしれない。


 食事が合わない場所でも、俺専用の携帯食があれば助かる。


 理屈は分かる。


 分かるが、棒はちょっと……。


 司祭長が棒を見て、少し考えた。


「もう少し、魚の身を混ぜて柔らかくすればよいかもしれませんな」


「なるほど」


 アリアが真剣に頷く。


 改良されるらしい。


 ノア用携帯食。


 開発継続。


 俺は嬉しいような怖いような、複雑な気持ちになった。


     ◇


 中庭へ向かう準備が始まった。


 まずは、お出かけ毛布。


 淡い青の布が、侍女長の手で丁寧に広げられる。


 今日は少しだけ留め具が調整されていた。


 首元がさらに楽になっている。


 背中がぴこっとしても、布が滑るように揺れる。


 いい感じだ。


 侍女長は俺の体を支えながら、慣れた手つきでお出かけ毛布を整えていく。


 角、いや寝癖に引っかからないように。


 背中の動きを邪魔しないように。


 前足が出しやすいように。


 布の端が床を引きずらないように。


 細かい。


 とても細かい。


 俺が少し動くたびに、侍女長の指が迷わず調整してくれる。


 この人は、毛布の扱いに関して信頼できる。


 かなり信頼できる。


「苦しくありませんか、ノア」


「きゅ」


 大丈夫です。


 とても良いです。


 侍女長は満足そうに頷いた。


「では、このままでよろしいでしょう」


 リリアが俺の姿を見て、両手を胸の前で合わせた。


「今日のノアも、とても可愛いです」


「きゅ……」


 ありがとうございます。


 でも今日の俺は、可愛さより食欲です。


 アリアが盆の中身を確認する。


 小さな器。


 蓋つきの容器。


 温度を保つための布。


 食事反応を記録するための紙。


 水。


 予備の温ミルク。


 そして、アリアの棒。


 棒も入っている。


 やはり持っていくのか。


 俺はちらりと見た。


 アリアが気づく。


「試食はしません。持ち運びの確認です」


「きゅ……」


 持ち運びだけ。


 それなら、まあ。


 いや、油断はできない。


 棒はいつか来る。


 いつか俺の前にやって来る。


 その時までに、どうか柔らかくなっていますように。


 司祭長は最後に、小さな護符を盆のそばに置いた。


「食材そのものに聖属性を乗せることは避けていますが、周囲の安定用です。ノアの反応を見ながら調整します」


 ありがたい。


 が、食事一つにここまで準備が必要なのは、やはりすごい。


 前世では、肉を食べるのに護符など必要なかった。


 スーパーで買って、焼けばよかった。


 今は違う。


 魚スープ一口に、聖女と護衛と侍女長と司祭長がついてくる。


 豪華なのか。


 重いのか。


 たぶん両方だ。


「では、行きましょう」


 アリアが扉を開けた。


 廊下の空気が流れ込む。


 俺は結界台から降りた。


 前足を一歩。


 後ろ足を一歩。


 お出かけ毛布がふわりと揺れる。


 今日は、昨日より進みが早い。


 理由は簡単だ。


 目的がある。


 中庭。


 魚スープ。


 肉の出汁。


 リリア作の丸すぎる白身魚団子。


 そして、できれば後回しにしたいアリアの棒。


 目的があると、前足が出る。


 かなり出る。


 アリアが少し目を細めた。


「今日は歩き出しが早いですね」


「きゅ……」


 食べ物の力です。


 言えないけど。


 リリアが楽しそうに笑う。


「ノア、やっぱり楽しみなのですね」


「きゅ」


 はい。


 かなり。


 廊下へ出ると、神官や侍女がいつもより少しだけ距離を取って見守っていた。


 誰も騒がない。


 誰も近づきすぎない。


 でも、ちらちらと視線は来る。


 淡い青のお出かけ毛布を着た、白銀の小さな何か。


 たぶん、かなり目立っている。


 だが、今日は不思議とそこまで怖くなかった。


 リリアが隣にいる。


 アリアが前にいる。


 侍女長が後ろにいる。


 司祭長もいる。


 そして何より、肉の出汁がある。


 肉の出汁は強い。


 俺の心をかなり支えている。


 途中、見習いらしい若い神官が、小さく手を振りかけて、慌てて手を下ろした。


 俺は少し迷ってから、前足をちょっとだけ上げた。


「きゅ」


 神官の顔が明るくなった。


 リリアが隣で嬉しそうに微笑む。


 アリアは前を向いたまま言った。


「ノア、歩行中に余計な動きをすると転びます」


「きゅ……」


 はい。


 気をつけます。


 でも、少しだけならいいじゃないですか。


 俺は前足を戻し、また歩く。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 中庭への扉が近づいてくる。


 扉の向こうから、外の空気が少しだけ流れてきた。


 草の匂い。


 土の匂い。


 花の匂い。


 そして、蓋つきの容器からほんの少し漏れる、魚と肉の匂い。


 俺は思わず顔を上げた。


「きゅ……」


 リリアが扉の横で立ち止まる。


「ノア、ここから中庭です」


 知っています。


 でも、改めて言われると少し緊張する。


 中庭。


 外。


 小窓から見ていた場所。


 そして、初めてミルク以外を食べる場所。


 中央神殿のことも。


 ガルディアスのことも。


 エルネストのことも。


 何も消えてはいない。


 でも今は。


 俺はここで、少しだけ普通のことをする。


 外で食事をする。


 リリアと一緒に。


 アリアと、侍女長と、司祭長に見守られながら。


 少し大げさだけど。


 俺にとっては、それがたぶん大事だ。


「行きましょう、ノア」


 リリアが言った。


「きゅ」


 はい。


 扉が開く。


 柔らかな光が差し込んだ。


 俺は淡い青のお出かけ毛布を揺らしながら、一歩を踏み出す。


 聖女様。


 今日、俺は初めてミルク以外を食べに行きます。


 できれば。


 どうか。


 アリアの棒より先に、肉の出汁にたどり着けますように。

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