第37話 聖女様、少し個性的な猫の食事を考えます
# 第37話 聖女様、少し個性的な猫の食事を考えます
中央神殿から、正式な文書が届いた。
聖女リリアと、白銀個体ノアに関する聴取要請。
つまり、俺とリリアに中央神殿へ来い、という話である。
もちろん、すぐに行きますとはならなかった。
リリアは、俺を無理に連れて行くことはできないと言った。
アリアは、警備と移動経路の確認が先だと言った。
司祭長は、中央神殿側の意図を見極める必要があると言った。
俺は、毛布に潜った。
中央神殿。
聴取。
移動。
監察官。
知らない場所。
知らない神官たち。
それだけで、だいぶ気が重い。
お出かけ毛布があっても、中央神殿まで行くとなると話が違う。
リリアの部屋から小窓まで歩くのとは、きっと全然違う。
だから、その話はいったん保留になった。
まずは、俺が外へ出られる状態を整える。
長く移動できるか。
知らない相手に囲まれても落ち着けるか。
リリアと離されずにいられるか。
お出かけ毛布や毛布本体を持ち込めるか。
確認することは多い。
多すぎる。
だが。
その日の朝、俺にはもう一つ、どうしても無視できない問題があった。
目の前の器である。
温ミルク。
いつものやつだ。
白くて、温かくて、ほんのり甘い。
うまい。
それは間違いない。
この世界に来てから、何度この温ミルクに救われたか分からない。
黒狼に追われて、森で震えていた時も。
リリアに拾われたあとも。
聖属性で消えかけた時も。
ガルディアスの黒い糸に絡まれたあとも。
第一進化して、歩く練習を始めたあとも。
だいたい、俺の前には温ミルクがあった。
ありがたい。
本当にありがたい。
だが。
肉が食べたい。
無性に肉が食べたい。
いや、魚でもいい。
魚もいい。
白身魚をほぐしたやつとか、薄いスープとか、そういう優しい感じのものもかなりいい。
猫扱いされている以上、魚を出される未来は見える。
見えるし、悪くない。
だが、俺は元々人間だったのだ。
焼いた肉。
煮込んだ肉。
少し塩気のあるスープ。
ほろほろに崩れる柔らかい肉。
そういうものを、俺は知っている。
知っているせいで、今、困っている。
温ミルクは美味しい。
それは本当だ。
でも、朝もミルク。
休憩もミルク。
頑張ったあともミルク。
俺は子猫か。
いや、リリア基準では少し個性的な猫なのだが。
でも違う。
中身は元人間である。
温ミルクだけで完全に満足できるほど、俺の中身は赤ちゃんではない。
それに、俺は第一進化した。
体も大きくなった。
白銀の幼聖魔獣とかいう、何だかすごそうな種族になった。
聖属性耐性もついた。
歩行適応も中低になった。
お出かけ毛布まで装備した。
なら、そろそろミルク以外もいけるのでは?
いけるよな?
いや、いけると言ってほしい。
俺は器を見つめたまま、小さく鳴いた。
「きゅう……」
リリアがすぐに顔を上げた。
「ノア?」
「きゅ……」
何でもありません。
いや、何でもあります。
かなりあります。
肉が食べたいです。
魚も食べたいです。
スープとかでもいいです。
そう言えたら楽なのに。
俺の鳴き声は、今日も安定の「きゅ」である。
肉要素が一切ない。
魚要素もない。
スープ要素など、どこにもない。
リリアは俺を見た。
次に、器の温ミルクを見る。
そして、また俺を見る。
少しだけ首を傾げた。
「ノア、もしかして……」
え。
まさか。
伝わるのか。
「ミルク以外を食べたいのですか?」
「きゅっ」
それです。
まさにそれです。
俺は思わず前足を器の横に置いた。
温ミルクを拒否するつもりではない。
違う。
ミルクは好きだ。
好きだが、それ以外も欲しい。
この微妙な欲望が、ちゃんと伝わったらしい。
リリアの顔がぱっと明るくなった。
「やっぱり」
やっぱりなのか。
すごい。
聖女様、今の「きゅう……」だけでそこまで分かるのか。
いや、俺がミルクを見つめすぎていたのかもしれない。
肉への未練が顔に出ていたのかもしれない。
リリアはとても真剣な顔で頷いた。
「では、お魚ですね」
「きゅ……?」
魚。
いや、間違ってはいない。
猫なら魚。
実に分かりやすい。
リリアの中で、俺は少し個性的な猫である。
だからミルク以外なら魚。
その発想は自然だ。
自然なのだが。
聖女様。
俺は猫かどうか怪しい上に、中身は元人間なので、肉という選択肢もまだ生きています。
かなり元気に生きています。
俺はもう一度、少し低めに鳴いた。
「きゅう……」
リリアが俺の顔を覗き込む。
「お魚だけでは、違うのですか?」
「きゅ……」
魚も食べたいです。
でも、肉も食べたいです。
リリアは少し考える。
「もしかして、お肉ですか?」
「きゅっ」
それです。
聖女様。
あなた本当にすごいですね。
もしかして、俺の鳴き声ではなく表情を読んでいるのだろうか。
いや、今の俺がどんな表情をしているかは分からない。
でも、肉が食べたい顔をしていた可能性はある。
アリアが扉のそばから近づいてきた。
「聖女様。ミルク以外となると、安全確認が必要です」
「はい。もちろんです」
「ノアの体は変化してからまだ日が浅いです。消化できるか、聖属性に反応しないか、魔性との相性に問題がないか、慎重に見なければなりません」
分かる。
ものすごく分かる。
ただ肉が食べたいだけなのに、確認事項が重い。
消化。
聖属性。
魔性。
相性。
俺の食事、そんなに大ごとなのか。
いや、大ごとなのだろう。
俺は聖属性で消えかけるような体だったし、魔性研究者に狙われているし、第一進化も前例がない。
下手なものを食べて倒れたら、リリアが泣く。
それは困る。
とても困る。
だが、肉は食べたい。
俺は少しだけ耳を伏せた。
「きゅ……」
やっぱり無理ですか。
リリアは優しく首を振った。
「無理とは言いません。少しずつ試しましょう」
おお。
希望がある。
俺は思わず前足を出した。
「きゅ!」
試します。
ぜひ試します。
アリアは俺の反応を見て、少しだけ眉を動かした。
「かなり食べたそうですね」
ばれた。
恥ずかしい。
でも、もう隠せない。
肉が食べたい。
魚も食べたい。
ミルク以外の何かを食べたい。
俺は今、食欲に正直な珍生物である。
リリアが嬉しそうに言う。
「ノアが食べたいものを考えるのは、初めてですね」
確かに。
これまでは、生きるだけで精一杯だった。
食事を選ぶどころではなかった。
温ミルクを飲めるだけで十分だった。
でも今は、少し違う。
歩けるようになってきた。
人に見られても、少しずつ固まらなくなってきた。
お出かけ毛布もできた。
そして今、俺は肉が食べたいと悩んでいる。
ものすごく平和な悩みだ。
でも、その平和な悩みが、なんだか少し嬉しい。
◇
侍女長が呼ばれた。
彼女は俺の食事問題を聞くと、すぐに真剣な顔になった。
「でしたら、まずは魚の身をほぐしたものか、薄いスープがよろしいかと」
魚。
来た。
やはり魚からだった。
侍女長は続ける。
「脂の少ない白身魚を蒸し、身を細かくほぐします。塩気はほとんど入れず、聖属性を帯びた水は避けます。温ミルクに慣れているなら、温かい汁物からが安全でしょう」
完璧。
さすが侍女長。
かなり現実的だ。
「お肉の場合はどうでしょうか?」
リリアが聞いた。
ナイスです。
聖女様。
今の質問はとても大事です。
侍女長は少し考えてから答える。
「肉も、脂を落としたものを柔らかく煮れば可能かもしれません。ただ、魚よりは慎重に少量からがよろしいかと」
肉。
可能。
少量。
その単語だけで、俺の背中がぴこっと動いた。
お出かけ毛布は今つけていない。
だから、背中の動きがそのまま出た。
リリアが嬉しそうに言う。
「ノアの背中が可愛く動きました!」
「きゅ……」
今のは仕方ないです。
肉ですから。
アリアが少しだけ呆れたように言った。
「ノア、食べ物への反応が分かりやすいですね」
「きゅう……」
自分でもそう思います。
でも肉です。
仕方ない。
そこへ、司祭長が部屋に入ってきた。
呼ばれたわけではない。
たぶん、食事の安全確認について相談されると思って来たのだろう。
司祭長は俺、リリア、侍女長、そして並べられた食材候補の話を聞いて、ゆっくり頷いた。
「ふむ。初めてなら、まずは白身魚の薄いスープがよいでしょうな」
ですよね。
やはり魚。
俺は少しだけ肩を落とした。
いや、魚も良い。
良いのだが、肉への未練が。
すると司祭長は続けた。
「ただ、肉もごく少量、別に用意しておきましょう。魚だけで判断するのは早い」
「きゅ……!」
司祭長。
あなた。
分かっている。
とても分かっている。
俺は思わず司祭長を見上げた。
司祭長は白い髭を撫で、少しだけ笑う。
「ノアは肉も気になっているようですからな」
ばれている。
完全にばれている。
俺は恥ずかしくなったが、否定はできない。
気になっている。
ものすごく気になっている。
司祭長は侍女長の横へ行き、食材を確認した。
そして、何気ない動きで袖を軽くまくった。
え。
今、袖をまくりました?
リリアも目を丸くした。
「司祭長、お料理ができるのですか?」
「若い頃、巡礼先では自分で作ることも多かったのです。聖職者も腹は減りますからな」
出来るおじさんだった。
司祭長、まさかそっち方面でも有能だったのか。
アリアも少し驚いた顔をしている。
「初耳です」
「話す機会がありませんでしたからな」
司祭長は、白身魚を見て、肉を見て、水を確認し、侍女長へいくつか指示を出した。
手際がいい。
かなりいい。
ただの助言ではない。
普通に作れる人の動きだ。
「魚は蒸してから細かく。汁は薄く、香りは控えめに。肉は脂を落として、出汁だけ先に試すのがよいでしょう。身を食べるのは、その後ですな」
出汁。
肉の出汁。
それだけでもうまそうだ。
俺の背中がまた、ぴこっと動く。
もう止められない。
リリアが小さく笑う。
「ノア、楽しみなのですね」
「きゅ……」
はい。
かなり。
司祭長は少し考えたあと、言った。
「ただし、部屋で急に試すより、状態が安定した時間帯にしましょう。食べた後の反応も見なければなりません」
それはそう。
食べて終わりではない。
俺の体に合うかどうかを見る必要がある。
アリアが頷いた。
「であれば、警備と結界を整えた上で、短時間の中庭訓練と合わせるのはどうでしょう」
中庭。
俺は顔を上げた。
中庭。
小窓から見たあの庭。
白い花。
小さな噴水。
外壁。
ガルディアスの観測具があった場所に近いが、警備を整えれば行けるかもしれない。
リリアの表情が明るくなる。
「中庭で、ノアと食事をするのですか?」
「訓練です」
アリアが即答した。
「短距離屋外歩行、対人反応、食事反応、外部警戒の確認を兼ねます」
硬い。
かなり硬い。
言っている内容はピクニックなのに、言葉が全部訓練と確認になっている。
リリアは少し考え、それから嬉しそうに言った。
「では、ピクニックですね」
「訓練です」
「ピクニックです」
「……訓練を兼ねたピクニックです」
アリアが折れた。
珍しい。
いや、最近リリアとアリアの間で、こういう落としどころが増えてきた気がする。
リリアは俺を見る。
「ノア、中庭で食べてみますか?」
「きゅ……」
中庭。
魚スープ。
肉の出汁。
ピクニック。
単語だけなら、かなり幸せそうだ。
ただし、この神殿では、幸せそうな単語の裏に護衛と結界とガルディアス対策と監察官対策がついてくる。
それでも。
ミルク以外。
魚。
肉。
その誘惑には、勝てなかった。
「きゅ!」
行きます。
リリアがぱっと笑った。
「では、準備しましょう」
アリアがすぐに付け足す。
「聖女様は、準備を見守るだけです」
「え?」
「聖女様は昨日から少し張り切りすぎています。料理に参加するなら、短時間です」
「でも、ノアの初めての食事です」
「だからこそ、安全管理を優先します」
リリアが少しだけしゅんとした。
俺はそれを見て、少し胸が痛くなる。
リリアは、俺に何かしてあげたいのだ。
毛布もそうだった。
お出かけ毛布もそうだった。
食事も、きっと自分で何か作りたいのだろう。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
リリアが俺を見る。
「ノア?」
俺は前足を少し出して、リリアの方を見た。
無理しない範囲で。
少しだけなら。
そういう気持ちで鳴いたつもりだった。
伝わるかは分からない。
リリアは目を瞬かせたあと、やわらかく微笑んだ。
「ノア、少しだけなら作ってもいいと言ってくれていますか?」
「きゅ」
はい。
でも無理はだめです。
アリアが俺を見る。
今のは、リリアの通訳を信じるかどうか考えている顔だった。
そして、ため息をつく。
「……聖女様が参加する場合、侍女長の指導のもと、成形のみ。火と刃物は扱わない。時間は短く」
「はい」
リリアの顔が明るくなった。
よかった。
俺も少し嬉しくなる。
アリアはさらに言う。
「ノアも、食べる量は少量です。欲しがっても追加は司祭長の許可が必要です」
「きゅ……」
はい。
分かっています。
でも、欲しがる可能性はあります。
かなりあります。
司祭長が笑った。
「まずは一口ずつですな」
一口。
魚スープも。
肉の出汁も。
一口。
少ない。
だが、初めてなら仕方ない。
俺は温ミルクの器を見た。
いつものミルク。
白くて、温かい。
これはこれで美味しい。
でも今日は、初めてその先が見えた。
ミルク以外。
俺の食事。
俺の生活。
少しずつ、増えていく。
◇
その後、食事の準備は思った以上に大ごとになった。
中庭の安全確認。
外壁付近の再点検。
お出かけ毛布の調整。
中立紋入りの敷物。
食事用の小皿。
温ミルク。
魚スープ。
肉の出汁。
リリアが成形する予定の、白身魚の柔らかい団子。
そして、なぜかアリアが用意しようとしている栄養携帯食。
アリアは真面目な顔で言った。
「保存性と携帯性を考えるなら、今後ノア用の携帯食も必要になります」
差し出された試作品は、茶色い棒だった。
棒。
食べ物というより、訓練用の何かに見える。
「きゅ……?」
これは、食べ物ですか?
「はい。食べられます」
食べられます。
その説明が一番不安だった。
リリアが困ったように笑う。
「アリア、ノアには少し硬そうです」
「柔らかくする余地はあります」
余地。
今は硬いらしい。
俺はそっと目を逸らした。
魚スープと肉の出汁に期待しよう。
司祭長。
あなたが頼りです。
司祭長はそんな俺の視線に気づいたのか、白い髭を撫でて言った。
「安心しなさい。最初の食事で無理はさせません」
「きゅ」
お願いします。
本当にお願いします。
リリアは俺を見て、楽しそうに微笑んだ。
「ノア、明日はピクニックですね」
「きゅ」
はい。
ピクニック。
訓練を兼ねたピクニック。
警備つき。
結界つき。
食事反応確認つき。
いろいろ付いてくるが、それでもピクニック。
俺は毛布の中で、少しだけ尻尾を揺らした。
初めての中庭。
初めての魚スープ。
初めての肉の出汁。
そして、リリアが少しだけ作ってくれる食事。
期待してはいけない。
期待しすぎると、がっかりするかもしれない。
体に合わない可能性だってある。
だが。
どうしよう。
かなり楽しみだ。
---
食欲反応:上昇
摂取履歴:温ミルク中心
推奨候補:白身魚の薄いスープ/脂を落とした肉の出汁/聖属性を含まない水
注意:初回摂取は少量にしてください。
---
分かっています。
少量。
少量です。
でも、肉の出汁は飲みたいです。
かなり。
俺はステータス画面を見ながら、小さく鳴いた。
「きゅ……」
リリアが嬉しそうに言う。
「ノア、楽しみなのですね」
「きゅ」
はい。
楽しみです。
中央神殿の聴取要請。
ガルディアスの観測具。
エルネストの記録。
問題はまだ山ほど残っている。
でも、今だけは。
明日の魚スープと肉の出汁のことを考えていたい。
聖女様。
ミルクは今でも好きです。
でも。
明日、俺はついにミルク以外に挑戦します。
できれば。
どうか。
肉の出汁が、俺の体に合いますように。




