第36話 聖女様、お出かけ毛布で散歩します
翌日。
俺は、お出かけ毛布を着ていた。
淡い青の小さな外套。
いや、毛布。
名前はお出かけ毛布。
ステータス上でも、お出かけ毛布(仮)。
仮なのに、もう完全に定着しつつある。
恥ずかしい。
だが、正直に言うと、悪くない。
背中にふわりとかかる布の感覚。
首元を締めつけない留め具。
中立紋のやわらかい気配。
背中がぴこっと動いても引っかからない余裕。
尻尾も出せる。
角、いやリリア的には寝癖にも引っかからない。
かなり考えられている。
侍女長の技術がすごい。
リリアのこだわりもすごい。
そして、俺の装備がどんどん増えていく。
毛布。
結界台。
運搬かご。
歩行練習用敷物。
聖力糸固定具。
お出かけ毛布。
もはや、俺の周辺だけ小さな介護施設みたいになっている。
いや、介護ではない。
保護。
たぶん保護。
少し個性的な猫の保護である。
猫かどうかは、かなり怪しいけれど。
「ノア、苦しくありませんか?」
リリアが俺の前にしゃがんで聞いた。
今日は顔色が良い。
昨日もちゃんと休んだ。
アリアの管理、侍女長の準備、俺の視線。
この三つが揃うと、リリアもさすがに無理をしなくなる。
すばらしい。
俺は前足を軽く動かした。
「きゅ」
大丈夫です。
リリアはほっとしたように微笑んだ。
「よかったです」
アリアが横から確認する。
「今日は昨日より少し長く歩きます。ただし、庭には出ません。小窓まで行き、そこで休憩して戻ります」
庭には出ない。
そこは少し残念だった。
でも、仕方ない。
外壁付近にガルディアスの魔性具があったばかりだ。
まだ庭は怖い。
小窓までなら、昨日も行けた。
今日はお出かけ毛布あり。
なら、もう少し落ち着いて歩けるかもしれない。
「きゅ」
分かりました。
アリアは俺の足元を見て、少しだけ頷いた。
「昨日より安定していますね」
お。
アリアに認められた。
これは地味に嬉しい。
俺は少し胸を張った。
背中がぴこっと動く。
お出かけ毛布がふわっと揺れる。
リリアが口を開きかけた。
たぶん、「可愛く動きました」と言いかけた。
だが、アリアを見て、少しだけ我慢した。
えらい。
聖女様も日々成長している。
リリアは代わりに小さく言った。
「今日も、きっと大丈夫です」
「きゅ……」
その大丈夫は、少し嬉しい。
◇
廊下に出ると、昨日より人が少なかった。
若い侍女。
見習いの少年。
神官兵が二人。
それから少し離れて、侍女長。
エルネストはいない。
よし。
いない。
まずそこを確認してしまった。
俺の中で、散歩前の安全確認項目に「監察官がいないこと」が追加されている。
かなり重要だ。
ステータスにも出てもおかしくない。
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散歩環境:監察官なし
精神状態:やや安定
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いや、出なかった。
出なくていい。
出たらそれはそれで嫌だ。
俺は廊下に一歩出た。
お出かけ毛布が軽く揺れる。
背中の動きも邪魔しない。
前足。
後ろ足。
尻尾。
大丈夫。
一歩。
二歩。
三歩。
若い侍女が、小さく頭を下げた。
「おはようございます、ノア」
「きゅ」
おはようございます。
見習いの少年は、今日は口を押さえていた。
たぶん大声を出さないように言われているのだろう。
偉い。
俺と目が合うと、少年は小さく手を振った。
俺は歩きながら前足を上げようとして、すぐにやめた。
昨日学んだ。
歩行中の肉球外交は危険だ。
転ぶ。
代わりに小さく鳴いた。
「きゅ」
少年はそれだけで嬉しそうにした。
よし。
これで十分。
俺はゆっくり廊下を進んだ。
昨日より、足取りが軽い。
お出かけ毛布があるせいか、廊下の空気が直接背中に当たらない。
それだけで、少し落ち着く。
毛布本体ほどではない。
でも、外で毛布を感じられるのは大きい。
俺は曲がり角まで着いた。
転ばない。
止まりすぎない。
背中がぴこっとしても気にしない。
かなり順調。
アリアが確認する。
「ここまでは問題ありません」
リリアが嬉しそうにする。
「ノア、昨日より上手です」
「きゅ」
はい。
少しだけ慣れました。
自分でも分かる。
俺は昨日より歩けている。
前足の出し方。
尻尾の使い方。
背中が勝手に動くタイミング。
全部、ほんの少しずつだが、体が覚えてきている。
人間だった頃には、歩けることなんて当たり前だった。
だが今は違う。
一歩進むだけで、わりと大事件だ。
情けない。
でも、嬉しい。
どちらも本当だった。
◇
小窓までの道も、今日は落ち着いていた。
昨日、ガルディアスの観測痕に気づいた場所。
俺は少しだけ緊張した。
外壁。
庭。
白い花。
小さな噴水。
その向こうに、見えない視線。
考えると足が重くなる。
だが、お出かけ毛布が背中にある。
リリアの聖力糸も、低出力で前足に触れている。
アリアが前にいる。
神官兵も外壁を巡回している。
昨日と同じではない。
ちゃんと対策している。
だから、足を出す。
一歩。
二歩。
三歩。
小窓に着いた。
俺は座った。
今度はすぐに外壁を見なかった。
まず、自分の呼吸を整える。
前足を揃える。
尻尾を横に置く。
背中がぴこっと動く。
それから、窓の外を見た。
庭は静かだった。
白い花が揺れている。
小さな噴水が光を受けている。
巡回の神官兵が、外壁の近くを歩いている。
昨日の黒い布片があった場所には、封印布が貼られていた。
そこだけ、少し物々しい。
でも、今は何も見えない。
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危険察知:微反応なし
状態:安定
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よし。
今日は大丈夫。
今のところは。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
リリアが隣にしゃがむ。
「今日は、嫌な感じはありませんか?」
「きゅ」
はい。
今はありません。
リリアは安心したように息を吐いた。
「よかったです」
その声を聞いて、俺も少し安心した。
今日の散歩は、普通に近い。
少なくとも、昨日よりは。
監察官もいない。
ガルディアスの新しい布片もない。
小窓まで歩いて、庭を見て、戻る。
それだけなら。
それだけなら、ちゃんと散歩と言えるかもしれない。
俺は庭を見た。
遠くの花壇に、小さな鳥が降りた。
白い花の間を跳ねる。
翼を震わせて、また飛び立つ。
自由だ。
ちょっと羨ましい。
俺の背中にも、翼っぽい何かはある。
だが、今のところ飛ぶ予定はない。
飛べる気もしない。
ぴこっと動くだけだ。
俺は背中を意識した。
ぴこっ。
動いた。
飛べない。
だろうな。
リリアが微笑んだ。
「ノア、飛びたいのですか?」
「きゅう……?」
いや、別に。
少しだけ。
でも、今は歩くので精一杯です。
アリアが冷静に言う。
「飛行訓練は当面不要です」
飛行訓練。
やめて。
そんな予定を立てないで。
俺は慌てて鳴いた。
「きゅう!」
やりません。
絶対にまだやりません。
リリアが笑った。
「ノア、飛ぶのはまだ怖いそうです」
「当然です」
アリアはあっさり頷いた。
「まずは歩行です」
よかった。
この人は現実的だ。
飛行訓練とか言い出したらどうしようかと思った。
俺は庭を見ながら、小さく息を吐いた。
普通に近い散歩。
監察官抜き。
ガルディアスの新規反応なし。
お出かけ毛布あり。
これは、かなり良い。
そう思った時だった。
廊下の奥から、小さな声が聞こえた。
「……あの」
知らない声。
俺の体が少し強張る。
アリアがすぐに振り向いた。
そこにいたのは、若い神官だった。
見習いの少年より年上。
だが、神官兵ほど大人でもない。
十五、六歳くらいだろうか。
手には薄い書板を抱えている。
怯えているというより、緊張している顔。
アリアが声を低くする。
「許可された者以外は近づかないよう伝えていたはずです」
「も、申し訳ありません。司祭長から、記録板を届けるようにと」
記録板。
また記録。
俺は少し毛布に沈みたくなった。
お出かけ毛布では沈めない。
それが問題だ。
若い神官は、俺をちらりと見た。
そして目を丸くした。
まあ、そうなる。
淡い青のお出かけ毛布を着た、白銀の角つき珍生物。
見た目だけなら、昨日よりさらに不思議だ。
俺は警戒した。
だが、若い神官の反応は少し違った。
「……きれい」
きれい。
そう言われた。
かわいいでも、怖いでもなく。
きれい。
俺は固まった。
「きゅ……?」
俺が鳴くと、若い神官は慌てて頭を下げた。
「す、すみません。失礼しました」
リリアが嬉しそうに言う。
「ノア、きれいと言われましたね」
「きゅう……」
どう反応すればいいんですか。
アリアが若い神官から書板を受け取る。
「届け物は受け取りました。下がってください」
「はい」
若い神官はもう一度だけ俺を見た。
今度は、怖さよりも好奇心が強い目だった。
「ノア、失礼しました」
「きゅ」
はい。
大丈夫です。
たぶん。
若い神官は丁寧に頭を下げ、廊下の奥へ戻っていった。
俺はその背中を見送る。
また一人。
俺を見た人が増えた。
怖がられなかった。
それは良かった。
でも、少しずつ噂は広がる。
お出かけ毛布を着たノア。
きれいな白銀の個体。
聖女様のそばにいる不思議な存在。
どんな風に伝わるのかは分からない。
怖い。
でも、何も見せないよりはいいのかもしれない。
リリアが小さく言った。
「少しずつですね」
「きゅ」
はい。
少しずつ。
◇
散歩は無事に終わった。
本当に無事に。
ガルディアスの布片も出なかった。
エルネストも来なかった。
若い神官が来たくらいで、ほぼ予定通りだった。
俺はリリアの部屋へ戻り、結界台に上がる。
お出かけ毛布を着たままでも、問題なく上がれた。
昨日よりさらに安定している。
リリアが嬉しそうに言う。
「ノア、上手になっています」
「きゅ」
はい。
少しだけ。
侍女長が近づき、お出かけ毛布を外す。
淡い青の布が背中から離れる。
少し寂しい。
いや、別に寂しくはない。
ないはず。
俺は普段の毛布へ潜る。
やはり落ち着く。
お出かけ毛布もいいが、こちらは別格だ。
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歩行適応:中低
散歩成功:短距離/安定
お出かけ毛布:効果良好
対人反応:警戒/改善傾向
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おお。
改善傾向。
少し良い表示だ。
俺はちょっと嬉しくなった。
尻尾が毛布の中で揺れる。
リリアが気づいて微笑む。
「ノア、嬉しそうです」
「きゅ」
少しだけです。
少しだけ。
アリアが言う。
「今日はここまでにしましょう。成功したところで終えるべきです」
正論。
完全に正論。
俺も賛成だ。
珍しく、心から賛成だ。
リリアも素直に頷いた。
「はい。ノアも疲れましたし、私も少し休みます」
自分から休みますと言った。
完璧だ。
俺は満足して鳴いた。
「きゅ」
いいと思います。
リリアは長椅子に座り、背もたれに体を預けた。
アリアも満足そうだ。
今日は平和だった。
比較的。
いや、若い神官に見られたが、まあ許容範囲。
普通の散歩に近かった。
かなり近かった。
俺は毛布の中で目を閉じかけた。
その時、扉の外から神官兵の声が聞こえた。
「アリア様、司祭長より至急の伝言です」
やめて。
今、成功したところで終わる流れだったはず。
アリアが扉へ向かう。
「内容は」
「中央神殿から、正式文書が届きました」
中央神殿。
俺は目を開けた。
嫌な予感。
アリアの表情も変わる。
「監察官殿からではなく?」
「はい。中央神殿本部名義です」
リリアも体を起こしかけた。
アリアが即座に止める。
「聖女様、そのままで」
「はい」
えらい。
でも、顔は真剣になっている。
神官兵は続けた。
「内容は、聖女リリア様および白銀個体ノアに関する、中央神殿での聴取要請です」
聴取要請。
部屋の空気が一気に冷えた。
俺は毛布の中で固まった。
中央神殿での聴取。
つまり、ここではなく。
中央神殿へ行け、と?
エルネストが少しだけ歩み寄ったように見えた矢先に、これか。
俺は小さく鳴いた。
「きゅう……」
嫌です。
かなり。
リリアが静かに俺を見る。
そして、はっきり言った。
「ノアを無理に連れて行くことはできません」
その声は、さっきまでの穏やかさとは違っていた。
聖女としての声だった。
アリアも扉の前で剣に手を添える。
「文書は司祭長と確認します。現時点で返答は保留」
「はっ」
神官兵が下がる。
リリアの部屋に、重い沈黙が落ちた。
成功した散歩。
お出かけ毛布。
少しずつ良くなっていた対人反応。
その流れの最後に、中央神殿からの聴取要請。
俺は毛布に深く潜ろうとした。
だが、角が引っかかった。
寝癖扱いされている角が、毛布の端に引っかかった。
今は笑えない。
俺は小さく息を吐く。
聖女様。
今日は、やっと普通の散歩に近づけたと思いました。
でも。
どうやら今度は、俺たちの方が中央神殿に呼ばれるみたいです。




