第35話 聖女様、お出かけ毛布を着せてみます
お出かけ毛布。
名前だけ聞くと、とても平和だ。
柔らかくて、温かくて、少しだけ可愛い。
散歩の時に羽織るもの。
リリアのそばを歩くためのもの。
そう考えると、悪くない。
だが現実には、ガルディアスの観測対策であり、中央神殿の監察官対策であり、俺の精神安定補助具である。
名前と役割の差が大きすぎる。
お出かけ毛布。
響きはのんびりしているのに、背負っている事情が重い。
俺は結界台の上で、毛布に包まれながら、侍女長が持ってきた淡い青の布を見つめていた。
柔らかい青。
リリアの瞳や聖力の色に少し似ている。
俺が選んだ。
いや、前足を置いただけだ。
偶然。
たぶん偶然。
でも、リリアはそれを見て嬉しそうにしていた。
だから、まあ、悪くない。
「ノア、仮縫いができました」
リリアがそう言って、侍女長から淡い青の布を受け取った。
休んでから。
ちゃんと休んでからだ。
アリアが見張っていたし、俺も見ていた。
リリアは少しだけ不満そうだったが、それでも今回は本当に休んだ。
えらい。
かなりえらい。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
お疲れ様です。
リリアは嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます。ノアも着てみてくれますか?」
「きゅ……」
着る。
ついに着るのか。
お出かけ毛布を。
淡い青の布は、毛布というより小さな外套に近かった。
首元で軽く留められる形。
背中の動きを邪魔しないよう、後ろ側には余裕がある。
尻尾は出せる。
角、いや寝癖に引っかからないよう、前は大きめに開いている。
さらに、裏側には中立紋が細かく縫い込まれていた。
完全に装備品だ。
俺用の防具。
いや、毛布。
防具と言うと身構える。
毛布と言うと少し落ち着く。
不思議だ。
「きゅ……」
お願いします。
俺は結界台の上で体を起こした。
昨日よりはだいぶ慣れた。
座るのも、立つのも、少しずつ楽になっている。
ただし油断すると尻尾が遅れてついてきて、背中がぴこっと動いて、バランスが崩れる。
そこはまだ課題だ。
リリアが布を持って近づく。
直接触れすぎないよう、聖力糸を細く添えながら。
侍女長が横で補助する。
アリアは少し離れて確認している。
司祭長は記録を取る準備をしている。
やめて。
着替えまで記録しないで。
いや、装備確認だから記録するのか。
俺は少しだけ毛布に戻りたくなった。
「ノア、苦しかったら鳴いてくださいね」
「きゅ」
はい。
リリアが淡い青の布を、そっと俺の背中へかけた。
軽い。
思ったより軽い。
ふわりと背中に乗る。
一瞬、背中がぴこっと動いた。
布が少し揺れる。
でも、引っかからない。
おお。
動いても大丈夫だ。
これはすごい。
リリアが目を輝かせる。
「ノアの背中が可愛く動きました!」
「きゅ……」
そこを最初に見ますか。
まあ、今回は布が引っかからない確認にもなったからいい。
アリアが冷静に言う。
「可愛く動いたことより、布が干渉しなかった点が重要です」
「どちらも重要です」
「優先順位は違います」
いつものやり取りだった。
少し安心する。
侍女長が慎重に首元の留め具を合わせた。
金属ではなく、柔らかい紐と小さな布留め。
聖属性の強い素材は避けているらしい。
首元に圧迫感はない。
動ける。
俺は前足を少し動かした。
右。
左。
尻尾を揺らす。
背中を意識しない。
ぴこっ。
動く。
布は大丈夫。
引っかからない。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
大丈夫そうです。
リリアはほっと息を吐いた。
「よかったです」
侍女長も少しだけ表情を緩めた。
「では、動いた時のずれを確認いたします」
動いた時。
つまり歩く。
お出かけ毛布を着て、歩く。
分かっていた。
分かっていたが、少し緊張する。
新しい装備を着ると、また重心が変わるかもしれない。
背中に布が乗っているだけで、体の感覚が少し違う。
俺は前足を見る。
よし。
やるしかない。
「きゅ」
歩きます。
◇
まずは部屋の中だった。
結界台から降りる。
これは成功。
前よりかなりスムーズに降りられるようになった。
尻尾でバランスを取り、前足を出しすぎない。
背中がぴこっとしても気にしない。
淡い青の布は、ふわりと揺れるだけで邪魔にならない。
いい。
思ったよりいい。
一歩。
二歩。
三歩。
結界台の周りを歩く。
布がずれる。
少しだけ。
でも、侍女長がすぐに気づいた。
「左側がわずかに浮きますね」
見ている。
すごく見ている。
エルネストとは違う意味で見ている。
こちらはありがたい観察だ。
たぶん。
侍女長は俺の歩き方を見て、布の位置を確認する。
「ノアは右前足を出す時、少し肩が下がります。その時に左が浮くようです」
俺の歩き方まで分析された。
恥ずかしい。
でも、必要なことだ。
俺はまだ体に慣れていない。
外で布がずれて転んだら大変だ。
「きゅ……」
すみません。
歩き方が下手で。
リリアがすぐに言う。
「ノアは上手に歩いています」
甘い。
でも嬉しい。
アリアは淡々と続けた。
「昨日より安定しています。ですが、まだ急な方向転換は避けるべきですね」
ですよね。
俺もそう思います。
司祭長が記録を取りながら言う。
「中立紋の流れも乱れていません。精神安定への効果は、毛布本体よりは弱いが、移動時の補助としては十分でしょう」
効果あり。
お出かけ毛布、正式採用の気配である。
俺は結界台の周りを半周した。
転ばなかった。
布も大きくずれない。
背中が動いても問題なし。
それだけで、少し嬉しい。
「きゅ……!」
リリアが微笑む。
「ノア、似合っています」
似合う。
言われて少し固まった。
お出かけ毛布が似合う。
それは喜んでいいのだろうか。
俺は鏡の方を見た。
侍女長が察して、鏡を少し動かす。
そこに映ったのは、淡い青の小さな外套をまとった白銀の生き物だった。
白い毛。
薄い銀紋。
頭の角。
背中の何か。
淡い青の布。
見た目だけなら、少し神秘的だ。
いや、自分で言うのも変だが。
少なくとも、ただの珍生物よりは、少し整って見える。
ただし、鳴き声は「きゅ」。
俺は鏡の中の自分を見ながら、小さく鳴いた。
「きゅ……」
何とも言えない。
悪くない。
でも、恥ずかしい。
リリアが嬉しそうに言う。
「ノア、少し照れています」
言わないでください。
アリアが鏡を見て頷く。
「外見上、保護個体としての印象は柔らかくなりますね」
保護個体としての印象。
なるほど。
確かに裸、いや毛だけの状態より、毛布をまとっている方が「誰かに保護されている存在」に見える。
危険な魔物というより、聖女に世話されている不思議な小動物。
そう見えれば、俺への恐怖は少し減るかもしれない。
リリアは俺を見る。
「怖がられにくくなるといいですね」
「きゅ」
はい。
本当に。
◇
部屋の中での確認が終わると、廊下での試着歩行をすることになった。
試着歩行。
また新しい言葉が生まれた。
今度は、昨日と同じく曲がり角まで。
ただし、今回は小窓までは行かない。
ガルディアスの観測具が見つかった直後だからだ。
外壁付近の警戒が済むまでは、小窓に近づかない。
それは俺も賛成だった。
小窓は綺麗だった。
庭も見たい。
でも、ガルディアスが見ていた場所に近づくのは、今は少し怖い。
俺はお出かけ毛布をまとったまま、扉の前に立った。
リリアは半歩後ろ。
アリアは前。
司祭長は部屋の中からではなく、今日は一緒に廊下へ出る。
中立紋と毛布の反応を確認するためらしい。
侍女長も少し離れてついてくる。
完全に試運転である。
俺は小さく息を吐いた。
「きゅ」
行きます。
扉が開いた。
廊下。
白い石の床。
中立紋入りの布道。
廊下の端には、昨日の若い侍女と見習いの少年。
それから神官兵が二人。
エルネストはいない。
よし。
いない。
それだけでかなり安心する。
俺は廊下へ一歩出た。
お出かけ毛布がふわりと揺れる。
軽い。
大丈夫。
二歩。
三歩。
背中がぴこっと動いても、布は引っかからない。
むしろ、少し包まれている感じがして落ち着く。
毛布本体ほどではない。
だが、毛布の気配がある。
これはいい。
かなりいい。
俺は少しだけ足取りが軽くなった。
若い侍女が目を丸くする。
「ノア、似合っています」
「きゅ……」
ありがとうございます。
少し恥ずかしいです。
リリアが嬉しそうに通訳しかけて、やめた。
たぶん、何でも通訳すると俺が恥ずかしがると分かってくれたのだろう。
成長。
リリアもやはり成長している。
見習いの少年は目を輝かせた。
「かっこいい!」
お。
可愛いではなく、かっこいい。
それは少し嬉しい。
いや、かなり嬉しい。
俺は思わず胸を張った。
背中がぴこっと動く。
お出かけ毛布もふわっと揺れる。
少年の目がさらに輝く。
「動いた!」
しまった。
でも、今回は悪くない。
リリアが笑っている。
アリアも止めない。
司祭長は中立紋の流れを見ている。
侍女長は布のずれを確認している。
誰も怖がっていない。
この廊下の中では。
少なくとも、今は。
俺はノアとして歩けている。
白銀個体でも、監察対象でもなく。
お出かけ毛布を着た、少し個性的なノアとして。
俺は曲がり角まで進んだ。
昨日より、さらに安定している。
曲がり角に着いて、座る。
お出かけ毛布は少しずれたが、大きな問題はない。
侍女長が頷く。
「首元の留め具を少しだけ軽くすれば、さらによさそうです」
アリアが言う。
「実用可能ですか」
「はい。短時間なら問題ありません」
短時間なら。
十分だ。
今の俺の歩行距離も短時間用である。
司祭長も頷いた。
「精神安定にも効果あり。毛布本体ほどではありませんが、外出時の不安を軽減する補助具として使えます」
正式に認められた。
お出かけ毛布が。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
よかった。
たぶん。
リリアがそっと言う。
「ノア、これなら少し外も怖くないですか?」
「きゅ」
少しだけ。
本当に少しだけ。
でも、あるのとないのでは違う。
リリアは嬉しそうに頷いた。
◇
帰り道も問題はなかった。
曲がり角から部屋へ戻る。
転ばない。
布も引っかからない。
背中が動いても大丈夫。
廊下の途中で見習いの少年が小さく手を振った。
俺は前足を上げかけた。
だが、歩行中に前足を上げるとバランスを崩す。
危ない。
俺は代わりに小さく鳴いた。
「きゅ」
少年は嬉しそうに笑った。
それで十分だった。
部屋の前まで戻る。
そして結界台へ。
ここが最後の難所。
お出かけ毛布を着たまま台に上がる。
少し怖い。
俺は前足を台にかけた。
後ろ足に力を入れる。
尻尾で調整。
布が少し揺れる。
背中がぴこっと動く。
気にしない。
そのまま、上がる。
成功。
「きゅ……!」
できた。
リリアがぱっと笑う。
「ノア、完璧です」
完璧。
今のは完璧と言っていいかもしれない。
いや、少し言いすぎか。
でも嬉しい。
アリアも頷いた。
「今の上がり方は安定していました」
アリアに認められた。
これはかなり大きい。
俺は毛布の上に伏せようとして、ふと気づいた。
今、俺はお出かけ毛布を着ている。
その上から普段の毛布に入ると、布が重なる。
暑いのでは?
動きづらいのでは?
少し迷う。
侍女長がすぐに気づいた。
「お出かけ毛布を外しますね」
「きゅ」
お願いします。
リリアと侍女長が、慎重に留め具を外す。
淡い青の布が背中から離れる。
少し名残惜しい。
そう思ってしまった。
お出かけ毛布。
恥ずかしい名前だが、悪くなかった。
俺は普段の毛布に戻る。
いつもの安定感。
やはりこちらは強い。
完全に巣である。
お出かけ毛布は外用。
普段の毛布は本拠地。
そんな感じだ。
---
装備:お出かけ毛布(仮)
効果:移動時精神安定補助/中立紋微補助/布接触による安心感
状態:仮調整中
---
装備扱いされた。
しかも仮。
お出かけ毛布(仮)。
ステータス画面までその名前を採用しないでほしい。
いや、もう諦めよう。
俺は小さく鳴いた。
「きゅう……」
リリアが首を傾げる。
「ノア、何か見えましたか?」
「きゅ……」
見えました。
お出かけ毛布が正式に近づいています。
リリアはなぜか嬉しそうにした。
「よかったです」
よかったのか。
まあ、よかったのだろう。
◇
その日の午後。
エルネストが来た。
今度は事前に連絡があった。
しかも司祭長立ち会い。
アリアの指定位置から動かない。
少しだけ改善している。
少しだけ。
俺は普段の毛布に入ったまま、顔だけ出していた。
お出かけ毛布は、侍女長が微調整中だ。
つまり、今は装備していない。
エルネストが部屋に入る。
リリアへ礼。
司祭長へ礼。
アリアへ短く挨拶。
最後に俺を見る。
「ノア。今日は廊下での確認をしたそうですね」
「きゅ……」
はい。
見に来ないでくれてありがとうございました。
エルネストは少しだけ目を細めた。
「今のは、私が来なかったことへの安堵でしょうか」
当てないで。
俺は毛布に沈んだ。
リリアが少し笑いそうになっている。
アリアは真顔だ。
司祭長は咳払いをした。
「監察官殿。本題を」
「失礼しました」
エルネストは書類を取り出した。
嫌な予感。
書類。
記録。
監察。
全部嫌な単語だ。
「外壁の布片について、中央へ一報を送ります。加えて、ガルディアス対策として、神殿外周の感知網を中央側からも補強する提案をします」
補強。
それは悪くなさそうだ。
リリアが問う。
「それは、ノアに負担をかけるものですか?」
「いいえ。神殿外周の結界と感知紋の補強です。ノアに直接何かをするものではありません」
リリアは少しだけ安心したようだった。
俺も少し安心する。
直接何かされないならいい。
エルネストは続ける。
「ただし、ノアの危険察知が外壁付近の魔性具を捉えたことは、報告に含めます」
やっぱり。
そこは記録される。
俺は毛布に沈む。
「きゅう……」
リリアがすぐに言った。
「ノアが嫌がっています」
「分かっています。ですので、能力の詳細ではなく、神殿側の警備強化が必要である根拠として最低限にします」
最低限。
本当だろうか。
俺は疑いの目を向けた。
エルネストはそれを見て、少しだけ苦笑した。
「信用されていませんね」
「きゅ」
はい。
思わず即答してしまった。
部屋が一瞬静かになった。
リリアが口元を押さえる。
アリアが視線を逸らす。
司祭長が咳払いする。
エルネストは、初めて少しだけ声を出して笑った。
「正直ですね」
いや、鳴いただけです。
でも、たぶん伝わった。
伝わってしまった。
エルネストは笑みを収めると、少し真面目な顔になった。
「ノア。信用されないのは当然です。私は昨日、あなたを少し急かしすぎました」
謝罪?
まただ。
この人、時々ちゃんと謝る。
やりづらい。
完全に嫌な奴なら毛布に隠れていられるのに。
「ですが、ガルディアスを放置するつもりはありません。その点だけは、信じなくてもいいので覚えておいてください」
信じなくてもいいので覚えておいてください。
変な言い方だ。
でも、少しだけ本音に聞こえた。
俺は何と鳴けばいいか分からず、短く返した。
「きゅ……」
分かりました。
たぶん。
リリアが俺の反応を見て、少し安心したように微笑んだ。
エルネストは書類を司祭長に渡す。
「内容の確認をお願いします。中央へ送る前に、そちらの修正意見も受けます」
司祭長が少し驚いた顔をした。
「こちらの意見を?」
「現場の情報なしに送れば、また聖女様とノアに警戒されますので」
そうですね。
その通りです。
エルネストは面倒な人だが、学習はするらしい。
俺は毛布の中で、少しだけ警戒を緩めた。
ほんの少しだけ。
◇
エルネストが帰ったあと、リリアは静かに言った。
「少しだけ、話しやすくなった気がします」
アリアは慎重に答えた。
「油断はできません」
「はい。でも、完全に敵ではないのかもしれません」
「それも、まだ判断は早いです」
「はい」
リリアは素直に頷いた。
俺も同意見だった。
エルネストは信用できない。
でも、ガルディアスとは違う。
ガルディアスは俺を器と呼ぶ。
エルネストは俺を監察対象として見る。
どちらも嫌だ。
でも、エルネストは少なくとも、俺が嫌がっていることを少しは見ている。
記録しようとするけど。
そこは嫌だけど。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
リリアが俺を見る。
「ノア、疲れましたか?」
「きゅ」
はい。
でも、少しましです。
リリアは毛布の端を整えた。
「今日は、お出かけ毛布も試せました」
「きゅ」
はい。
「廊下も歩けました」
「きゅ」
はい。
「エルネスト様とも、少しだけ話せました」
「きゅう……」
それはできれば少しで十分です。
リリアは笑った。
「では、今日はここまでですね」
アリアが即座に頷く。
「聖女様も休憩です」
「はい」
完璧な返事だった。
俺は満足して毛布に顔を埋めた。
淡い青のお出かけ毛布。
ガルディアスの観測具。
中央への報告。
エルネストの少しだけの謝罪。
今日も色々あった。
だが、一つ言える。
俺は、昨日より少し外へ出やすくなった。
それだけは確かだ。
聖女様。
お出かけ毛布は、思ったより悪くありませんでした。
名前は少し恥ずかしいですが。
淡い青も、少し照れますが。
でも。
あれを着てなら、俺は次も廊下を歩けそうです。
できれば次こそ、本当にただの散歩でお願いします。




