第34話 聖女様、お出かけ毛布を正式装備にします
聖女の散歩は、よく目立つ。
黒い布片に残されていたその文字は、部屋の空気を一気に重くした。
ガルディアス。
直接姿を見せないくせに、嫌なところだけは正確に突いてくる男。
俺たちは、ただ散歩をしただけだった。
いや、ただの散歩というには、護衛つき、結界確認つき、中立紋の布道つき、監察官乱入つきだったので、だいぶ物々しい。
それでも、俺にとっては大事な散歩だった。
小窓まで歩けた。
庭を見られた。
侍女や見習いの少年に挨拶できた。
少しだけ、普通に近づけた気がした。
その直後にこれである。
聖女の散歩は、よく目立つ。
見ていた。
ガルディアスは見ていた。
リリアが俺と歩いたことを。
俺が外壁の方に気づいたことを。
神殿が、俺を少しずつ外へ慣らそうとしていることを。
俺は毛布の中で丸くなった。
深く。
できるだけ深く。
ただ、今の俺は変わる前より大きい。
毛布に潜っても、角が少し出る。
リリア的には寝癖。
俺的には角。
どちらにしても、隠れきれていない。
「ノア」
リリアがそっと呼んだ。
「きゅ……」
はい。
聞こえています。
今は少しだけ毛布と一体化したいです。
リリアは毛布の端を整えながら、静かに言った。
「怖かったですね」
「きゅ」
はい。
かなり。
黒い布片そのものは、すでに封印されている。
魔性具の一部らしいが、残っていた力は弱かった。
攻撃用ではない。
観測用。
あるいは、伝言用。
つまりガルディアスは、俺たちを傷つけるためではなく、見ていると知らせるためにあれを残した。
最悪だ。
攻撃された方がまだ分かりやすい。
見ているぞ。
目立つぞ。
そう言われるだけで、次に外へ出る時の足が重くなる。
俺の歩行適応は、ようやく中低になったところなのだ。
精神適応は、たぶんまだ低い。
かなり低い。
アリアが扉のそばで指示を出していた。
「外壁周辺の巡回を増やしてください。ただし、追跡班は出さないこと。ガルディアスの誘導である可能性があります」
「はっ」
「黒い布片は司祭長の封印室へ。監察官殿には、こちらから報告します。勝手に現場へ近づかせないように」
「承知しました」
監察官殿。
エルネスト。
そうだ。
あの人もいた。
普通の散歩を邪魔した第二の原因である。
第一がガルディアス。
第二がエルネスト。
どちらも毛布退避推奨対象だ。
俺はステータス画面を思い出した。
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備考:監察官遭遇時は毛布退避を推奨します。
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あれは正しい。
ものすごく正しい。
だが、廊下では毛布がない。
そこが問題だった。
いや、今日から問題になった。
俺は毛布の端を前足で押さえる。
この毛布は落ち着く。
聖女の手作り毛布・改。
中立紋入り。
背中がぴこっと動いても引っかかりにくい。
角、いや寝癖に余裕あり。
尻尾も出せる。
完璧に近い。
だが、持ち運びには向かない。
今の俺がこれを引きずって歩いたら、絶対に転ぶ。
たぶん三歩で転ぶ。
下手をすると一歩目で転ぶ。
つまり、お出かけ用が必要。
そう考えた瞬間、リリアが真剣な顔で言った。
「ノアのお出かけ毛布は、やはり必要ですね」
また読まれた。
俺はリリアを見た。
「きゅ……」
どうして分かるんですか。
「ノアが毛布を見ていましたから」
それだけで?
俺はそんなに分かりやすいのか。
アリアが戻ってきて、リリアの言葉に頷いた。
「名称はともかく、携帯用の安定補助具は必要です。廊下で異変があった場合、ノアが即座に落ち着ける場所がありません」
名称はともかく。
つまり、お出かけ毛布という名前には疑問があるらしい。
分かる。
俺も少し疑問がある。
でも、他に何と呼べばいいのか。
携帯用安定補助具。
固い。
お出かけ毛布。
ゆるい。
どちらがいいかと言えば、お出かけ毛布の方がリリアらしい。
そして、俺も少し好きだ。
認めたくないが。
リリアは嬉しそうに言った。
「では、お出かけ毛布を作りましょう」
「聖女様」
アリアがすぐに口を挟む。
「はい。休んでからです」
「よろしいです」
早い。
もう完全に教育されている。
俺は少し感動した。
リリアが自分から休む前提で話している。
第一章の頃なら、きっと今すぐ針を持っていた。
成長。
聖女様、かなり成長している。
俺も歩行適応が中低になった。
リリアも休息適応が中低くらいになっているのではないだろうか。
いや、まだ低+かもしれない。
◇
しばらくして、司祭長が封印室から戻ってきた。
黒い布片は、三重封印の箱に入れられたらしい。
司祭長は疲れた顔をしていた。
ここ数日で一番老けた気がする。
俺のせいだろうか。
たぶん俺だけのせいではない。
ガルディアスとエルネストのせいでもある。
「布片は、やはり遠隔観測用の魔性具の一部でした」
司祭長は机の前に立ち、全員へ説明した。
部屋にいるのは、リリア、アリア、司祭長、侍女長。
そして毛布に沈んだ俺。
神官長は別件で神殿内の噂対応に回っているらしい。
エルネストは呼んでいない。
呼ばなくていい。
できればずっと呼ばなくていい。
「観測用といっても、強いものではありません。神殿内を見通せるほどの力はない。外壁付近に置き、聖女様やノアが窓際、小窓、庭などに出た場合だけ反応する程度でしょう」
「つまり、私たちの動きそのものをずっと見ていたわけではないと」
リリアが問うと、司祭長は頷いた。
「ええ。ただし、外へ出る瞬間を狙っていたのは間違いない」
外へ出る瞬間。
そこを見られていた。
俺は毛布の中で前足を丸める。
外に出るのが、少し怖くなる。
小窓まで歩けた喜びが、黒い布片一枚で曇る。
ガルディアスは、そういうところが上手い。
直接襲わなくても、こちらの動きを止められる。
「きゅう……」
俺が鳴くと、リリアが俺を見る。
「ノア、また散歩が怖くなりましたか?」
「きゅ」
はい。
少し。
リリアはしばらく考えた。
そして、真面目な顔で言った。
「では、散歩を怖いものにしないようにしましょう」
どうやって?
俺が首を傾げると、リリアは続けた。
「ガルディアスに見られるから散歩をやめるのではなく、見られても大丈夫な準備をします」
見られても大丈夫な準備。
アリアが頷いた。
「そのための巡回強化と補助具ですね」
「はい」
リリアは俺を見る。
「ノアが外に出ることを怖いと思わないように、お出かけ毛布を作ります」
お出かけ毛布の責任が重くなった。
ただの毛布ではない。
俺の散歩恐怖を軽減する装備。
ガルディアスの観測対策。
聖女様の安心設計。
重い。
かなり重い。
名前はゆるいのに役割が重い。
侍女長が静かに一礼した。
「すぐに布と中立紋糸を用意いたします」
リリアが口を開きかけた瞬間、アリアが見た。
俺も見た。
リリアは一度止まった。
そして、正しく言い直した。
「私は、休んでから確認します」
「よろしいです」
アリアが即答した。
司祭長まで頷いている。
完全にみんなでリリアを管理している。
リリア本人も少し照れたように笑った。
「私、そんなに無理をしそうに見えますか?」
全員が黙った。
俺も黙った。
答えは沈黙で十分だった。
リリアは小さく肩を落とした。
「……気をつけます」
「きゅ」
お願いします。
◇
お出かけ毛布の構想会議が始まった。
なぜか、ガルディアス対策会議の流れから、お出かけ毛布会議に移った。
いや、つながってはいる。
つながってはいるのだが、話題の落差がすごい。
魔性研究者の観測具。
中央神殿の監察官。
聖女の散歩。
お出かけ毛布。
この世界の会議は忙しい。
侍女長が布を広げる。
柔らかい白い布。
軽く、厚すぎず、けれど冷えを防げるもの。
そこに中立紋糸を縫い込む。
ただし、強すぎる聖紋は俺に負担をかけるので、あくまで中立。
背中が動いても引っかからないよう、後ろ側には余裕を持たせる。
尻尾を通す部分も必要。
角、つまり寝癖に引っかからない前合わせ。
さらに、廊下で急に毛布退避できるよう、リリアかアリアがさっとかけられる形。
もはや外套である。
俺用の外套。
お出かけ毛布というより、ノア用ケープ。
いや、ケープと言うと少し格好いい。
格好いいと落ち着かない。
やはりお出かけ毛布でいいのかもしれない。
「ノア、色は白がいいですか?」
リリアが聞いた。
「きゅ……?」
色?
選べるのですか?
侍女長がいくつか布を並べた。
白。
淡い青。
薄い銀。
淡い緑。
全部、柔らかい色だ。
俺は少し困った。
どれがいいのか分からない。
前世でも服の色にそこまでこだわった記憶はない。
まして今は、毛布である。
でも、白だと俺の毛と同化しそうだ。
淡い青はリリアっぽい。
薄い銀は俺の銀紋に合いそう。
淡い緑は庭っぽい。
悩む。
「きゅう……」
リリアが嬉しそうにした。
「ノア、迷っています」
分かるのか。
まあ、これは分かるか。
俺は布を順番に見た。
白。
青。
銀。
緑。
最終的に、淡い青の布に前足を置いた。
リリアの色。
そう思ったわけではない。
いや、少し思った。
かなり思った。
でも、言わない。
「きゅ」
これで。
リリアが目を丸くした。
「青でいいのですか?」
「きゅ」
はい。
リリアは布を見て、それから俺を見た。
少しだけ嬉しそうだった。
「私の色に似ていますね」
ばれた。
俺は目をそらした。
「きゅ……」
偶然です。
たぶん。
リリアは何も追及しなかった。
ただ、やわらかく笑った。
「では、青にしましょう」
アリアが横から確認する。
「目立ちすぎない色であれば問題ありません。白よりは輪郭も分かりやすいでしょう」
現実的。
ありがたい。
侍女長は淡い青の布を丁寧に畳んだ。
「仮縫いをいたします。背中と尻尾の余裕を確認したいので、後ほどノアに合わせます」
「きゅ」
お願いします。
これで俺に、お出かけ毛布ができることになった。
しかも淡い青。
リリアの色。
……少しだけ、悪くないと思った。
◇
エルネストが来た。
来なくていい時に来る。
この人は、そういう才能がある。
扉の外で、神官兵が声をかけてきた。
「アリア様。監察官エルネスト殿が、外壁の件について同席を求めています」
アリアの表情が露骨に硬くなった。
俺は毛布に沈んだ。
今すぐお出かけ毛布が欲しい。
室内だけど。
リリアは少し考え、司祭長を見た。
司祭長は重く頷いた。
「外壁の件は中央神殿にも関わります。無視はできませんな」
嫌だ。
でも分かる。
ガルディアスの魔性具が外壁付近にあった。
中央神殿の監察官がそれを知った以上、完全に締め出すのは難しい。
アリアが扉へ向かう。
「入室は許可します。ただし、ノアへの接近は禁止。質問は司祭長を通して」
神官兵が外へ伝える。
少しして、エルネストが入ってきた。
白い神官服。
銀飾り。
穏やかな笑み。
そして、相変わらず記録する気満々の目。
俺は毛布の中から顔だけ出した。
いや、出したくなかった。
だが、何も見えないのも怖い。
エルネストは部屋に入ると、まずリリアへ礼をした。
「聖女様。急な訪問、失礼いたします」
「はい」
リリアは落ち着いている。
昨日よりも、少し硬い声だ。
エルネストは次に司祭長、アリアへ視線を移し、最後に俺を見た。
「ノア。今日は毛布の中ですか」
「きゅう……」
あなたが来たからです。
リリアが少し口元を押さえた。
アリアも一瞬だけ視線を逸らした。
エルネストは目を細める。
「今の鳴き声には、あまり歓迎されていない響きがありますね」
分かるな。
いや、分からなくてもいい。
俺はさらに毛布に沈んだ。
エルネストは部屋の中央までは来ず、指定された位置で止まった。
その点は守るらしい。
「外壁付近の布片について、こちらでも確認したいのですが」
司祭長が答える。
「封印済みです。直接確認は許可できません。記録を共有します」
「記録ですか」
「ええ。封印前に確認した内容です」
記録。
また記録。
だが、今回は俺の記録ではない。
黒い布片の記録だ。
それなら少し許せる。
司祭長は簡潔に説明した。
外壁付近に残された黒い布片。
観測用の魔性具の一部。
強度は低い。
神殿内部を見通すものではなく、一定範囲に出た対象を感知するもの。
文字による挑発。
聖女の散歩は、よく目立つ。
エルネストは黙って聞いていた。
そして言った。
「つまり、ガルディアスは聖女様の行動範囲が広がることを待っていた」
嫌な言い方だが、その通りだ。
俺が小窓まで行かなければ、布片には気づかなかったかもしれない。
でも、それはつまり、ガルディアスが外へ出る機会を狙っていたということでもある。
リリアが静かに問う。
「中央神殿は、ガルディアスの居場所を把握しているのですか?」
エルネストは首を振った。
「いいえ。二十年前の追放後、何度か痕跡はありますが、拠点は不明です」
「では、中央神殿も彼を止められていないのですね」
リリアの声は責めているわけではない。
ただ、事実を確認している。
だが、エルネストの笑みが少し薄くなった。
「その通りです」
認めた。
意外だった。
「だからこそ、今回の件は重要なのです。ガルディアスが再び動いた。そして聖女様とノアに執着している」
執着。
嫌な言葉だ。
だが、これも否定できない。
エルネストは俺を見る。
「ノア。あなたは、ガルディアスの痕跡に気づける」
「きゅ……」
気づきたくて気づいているわけではありません。
エルネストは少しだけ目を細めた。
「今のは、嫌そうですね」
だから分かるな。
リリアが穏やかに言った。
「ノアは、怖い思いをしています」
「それは理解しています」
「では、能力として扱う前に、怖がっていることも見てください」
部屋が静かになった。
リリアの声は強くなかった。
でも、はっきりしていた。
「ノアは道具ではありません。ガルディアスを探すためのものでもありません」
俺は毛布の中で固まった。
リリア。
エルネストは少しだけ沈黙した。
そして、ゆっくり頷いた。
「……失礼しました。中央神殿の人間として、情報の価値を先に見ていました」
謝った?
いや、完全に心を許してはいけない。
でも、少なくとも今の言葉は、取り繕いだけではない気がした。
エルネストは俺を見た。
「ノア。あなたが怖がっていることも、記録に入れます」
いや、それはそれで嫌だ。
俺は鳴いた。
「きゅう……」
リリアが困ったように笑う。
「記録されるのも嫌みたいです」
「そうですか」
エルネストは少し考えた。
「では、こうしましょう。ノアの反応については、必要最低限だけ記録します。感情面については、聖女様と司祭長の所見を添える」
それがどれくらいましなのかは分からない。
でも、何でもかんでも記録されるよりはましなのかもしれない。
アリアが冷静に言う。
「それでも、ノアへの直接確認は制限します」
「承知しています」
本当かな。
まだ少し疑っている。
俺は毛布から顔を少しだけ出した。
エルネストは俺を見て、珍しく少し柔らかい声で言った。
「今日は、散歩を邪魔するつもりはありませんでした」
「きゅう……」
邪魔しました。
かなり。
「結果的に邪魔になったことは認めます」
認めた。
少しだけ驚いた。
この人、全部詭弁で押してくるわけではないらしい。
面倒な人ではある。
でも、完全に敵と決めつけるには、少し早いのかもしれない。
ガルディアスとは違う。
やはり、別の種類の厄介さだ。
◇
エルネストが帰ったあと、部屋には少し妙な空気が残った。
完全に安心したわけではない。
でも、少しだけ分かったこともある。
中央神殿もガルディアスを止められていない。
エルネストは俺を監察対象として見ているが、ガルディアスの件を軽く見ているわけではない。
そして、リリアは俺を道具扱いされることに、はっきり反対してくれる。
そのことが、一番大きかった。
俺は毛布の中で、リリアを見た。
「きゅ……」
ありがとうございました。
リリアは微笑む。
「ノアはノアですから」
その言葉を聞くと、少し落ち着く。
もう何度も聞いた。
でも、何度聞いても効く。
アリアが咳払いした。
「聖女様。休憩を」
「はい」
早い。
リリアは素直に頷いた。
「お出かけ毛布は、休んでからですね」
「はい」
リリアは長椅子に座り、背もたれに体を預けた。
侍女長は淡い青の布を持って、仮縫いの準備に向かう。
司祭長は黒い布片の記録をまとめに戻る。
アリアは扉のそばへ。
部屋が少しずつ、いつもの形に戻っていく。
俺は毛布の中で、今日決まったことを考えた。
ガルディアス対策。
中央神殿との監察対応。
そして、お出かけ毛布。
やっぱり話題の並びがおかしい。
だが、どれも今の俺には必要なことだ。
外へ出るために。
怖がられないために。
見られても、ノアでいるために。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
リリアが目を閉じかけたまま言う。
「ノア、お出かけ毛布、楽しみですね」
「きゅ」
はい。
少しだけ。
いや、かなり。
淡い青の布。
リリアの色に似た毛布。
それを着てなら、次の散歩はもう少しだけ怖くないかもしれない。
ガルディアスが見ていても。
エルネストが記録していても。
俺には帰る毛布がある。
リリアがノアと呼んでくれる。
それだけで、少しだけ前に進める気がした。
聖女様。
お出かけ毛布という名前は、正直少し恥ずかしいです。
でも。
それがあれば、俺はもう少しだけ外に出られるかもしれません。
だから、休んでからでいいので。
できれば、少しだけ格好よく作ってください。
……いや、やっぱり落ち着く方を優先でお願いします。




