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第33話 聖女様、監察官抜きの散歩を希望します

 普通の散歩がしたい。


 そう思った。


 かなり本気で思った。


 廊下を少し歩くだけ。


 リリアの部屋から曲がり角まで。


 誰にも品定めされない。


 誰にも監察されない。


 ガルディアスの気配もない。


 中央神殿の監察官も出てこない。


 ただ、前足を出して、尻尾でバランスを取って、背中がぴこっと動くのをできるだけ気にしない。


 そんな散歩。


 それだけでいい。


 贅沢は言わない。


 いや、異世界に来てからの俺基準では、それがすでに贅沢なのかもしれない。


 俺は毛布の中で丸くなっていた。


 昨日、エルネストと名乗る監察官に会ったせいで、だいぶ疲れた。


 歩くよりも、言葉で追い詰められる方が疲れる。


 ガルディアスの黒い糸も嫌だが、エルネストの笑っていない目も嫌だ。


 あの人は、俺を攻撃してこない。


 でも、何もかも記録されている気がする。


 俺の鳴き声も。


 前足の動きも。


 リリアの聖力糸に触れたことも。


 たぶん、背中がぴこっと動いたことまで。


 やめてほしい。


 俺は記録用の珍生物ではない。


 猫でもかなり怪しいけど、少なくとも記録用ではない。


「きゅう……」


 毛布の中で鳴くと、リリアがすぐにこちらを見た。


「ノア、まだ昨日のことが気になりますか?」


「きゅ」


 はい。


 かなり。


 リリアは俺の結界台の横に座っていた。


 今日は、昨日よりさらに顔色がいい。


 ちゃんと眠ったからだ。


 アリアの管理と、俺の無言の圧と、侍女長の丁寧な寝具準備。


 三方向から逃げ道を塞がれた聖女様は、ついに休むことを覚えた。


 すばらしい進歩である。


 リリアは俺の毛布の端を少し整えた。


 直接触れないように、でも崩れないように。


「今日は、監察官様とは会わない予定です」


「きゅ?」


 本当ですか?


 リリアは俺の疑いを感じ取ったのか、少し困ったように笑った。


「少なくとも、こちらから会う予定はありません」


 こちらからは。


 つまり、向こうから来る可能性はある。


 俺は毛布に沈んだ。


「きゅう……」


 それは安心できません。


 アリアが扉のそばから言った。


「監察官殿には、聖女様の私室周辺への無断接近を控えるよう通達しました」


 おお。


 アリア、頼もしい。


「ただし、中央神殿の監察権限を持つ方です。完全に拒絶はできません」


 頼もしいけど、現実は厳しい。


 俺はますます毛布に沈んだ。


 リリアが首を傾げる。


「ノア、毛布に吸い込まれています」


「きゅ……」


 できればこのまま一体化したいです。


 アリアが真面目に言う。


「一体化されると、歩行訓練に支障が出ます」


 そういう問題ではない。


 だが、歩行訓練は必要だ。


 昨日、俺は廊下の曲がり角まで歩けた。


 転ばずに。


 中央神殿の監察官という予定外の障害物は出たが、それでも歩けた。


 今日はもう少し自然に歩きたい。


 監察官抜きで。


 できれば子どもや侍女に見られるくらいまでで。


 それなら、まだ耐えられる。


 俺は毛布から顔を出した。


「きゅ」


 歩きます。


 リリアの顔が明るくなる。


「散歩ですね」


 散歩。


 その響きはいい。


 ただし、この神殿での散歩は、護衛と結界と事前通達つきである。


 かなり物々しい。


 でも、歩行訓練よりは散歩の方がいい。


 俺の心が少し軽くなる。


 アリアがすぐに確認した。


「距離は昨日と同じ曲がり角まで。状態が安定していれば、その先の小窓まで」


 小窓。


 新しい目標ができた。


 廊下の曲がり角の少し先に、小さな窓があるらしい。


 封印布越しではなく、廊下の外の庭が少し見える場所。


 そこまで行ければ、散歩感が出る。


 かなり出る。


「きゅ」


 リリアがにこりとする。


「今日は歩けそうですか?」


「……きゅ」


 はい。


 ……たぶん。


 少し間が空いたせいか、アリアがこちらを見た。


「不安があるなら、速度を落とします」


「きゅ……」


 お願いします。


 アリアは頷いた。


「では準備します」


     ◇


 散歩の準備は、やはり大げさだった。


 俺の状態確認。


 聖力糸の出力確認。


 廊下の結界確認。


 旧接続部の封印確認。


 見学者という名の、廊下にいる可能性がある人員の整理。


 昨日の若い侍女と見習いの少年は、今日は廊下の端に控えることになったらしい。


 理由は、俺がすでに一度顔を合わせている相手だから。


 知らない人間ばかりより、知っている顔が少しあった方が落ち着くのではないか、というリリアの案だった。


 それはありがたい。


 実際、昨日の二人ならまだ耐えられる。


 若い侍女は「鳴き声は……ノアですね」と言ってくれた。


 見習いの少年は「がんばって、ノア」と言ってくれた。


 たったそれだけ。


 でも、俺にとっては大きかった。


 怖がられすぎなかった。


 ノアと呼ばれた。


 それだけで、毛布から少し顔を出せる。


 俺は結界台の上で立ち上がった。


 昨日より、立つのは楽だ。


 前足の位置。


 後ろ足の位置。


 尻尾の重さ。


 背中のぴこっ。


 全部、少しずつ分かってきた。


 少しだけ。


 まだ油断すると転ぶ。


 でも昨日よりはまし。


---


歩行適応:低+


状態:安定化中


推奨:短距離歩行


---


 短距離歩行。


 はい。


 やります。


 俺は画面を見て、小さく鳴いた。


「きゅ」


 リリアがにこりとする。


「ノア、今日は少し落ち着いていますね」


「きゅ」


 たぶん。


 いや、さっきよりは。


 鳴いてから、少しだけ自分でも分かった。


 昨日よりは、怖くない。


 もちろん不安はある。


 でも、足は出そうだった。


 俺は前足を一歩出した。


 毛布から出る。


 台を降りる。


 昨日よりスムーズ。


 背中がぴこっとした。


 無視。


 それはもう、ただの反射である。


 毎回気にしていたら歩けない。


 俺は扉へ向かった。


 リリアは半歩後ろ。


 アリアは前。


 司祭長は今日は部屋の中から結界を確認するらしい。


 廊下には別の神官が配置されている。


 過保護。


 でも助かる。


 扉が開く。


 廊下の空気。


 白い石の床。


 中立紋入りの細い布。


 昨日と同じ道。


 でも、今日は少しだけ違う。


 昨日は試験みたいだった。


 今日は散歩。


 そう思うことにする。


 俺は廊下へ出た。


 一歩。


 二歩。


 転ばない。


 よし。


 若い侍女が、廊下の端で静かに会釈した。


「おはようございます、ノア」


「きゅ」


 おはようございます。


 見習いの少年も、少し離れたところで小さく手を振った。


 アリアに注意されたのか、近づいてはこない。


 えらい。


「ノア、今日もがんばって」


「きゅ」


 頑張ります。


 何だろう。


 昨日より少し楽だ。


 見られているのに、昨日ほど固まらない。


 この二人は、俺を見ている。


 でも、監察しているわけではない。


 記録しているわけでもない。


 ただ、ノアが歩いているのを見守っている。


 それが分かるから、少しだけ足が出る。


 リリアが小さく言う。


「ノア、いい感じです」


 いい感じ。


 そう言われると、背中がぴこっとした。


 やめろ。


 いや、もういい。


 ぴこっとしたものは仕方ない。


 見習いの少年が小声で言った。


「また動いた」


 聞こえてます。


 俺は少し恥ずかしくなった。


 リリアが嬉しそうにする気配がしたが、何も言わなかった。


 えらい。


 いや、リリアも成長している。


     ◇


 曲がり角までは、問題なく着いた。


 昨日より早い。


 転ばなかった。


 止まりすぎなかった。


 挨拶もできた。


 かなり良い。


 アリアが確認する。


「ここまでは安定しています。続けますか?」


 俺は廊下の先を見た。


 小窓。


 少し先に、白い壁の間から淡い光が差している。


 あそこまで。


 そこまで行ければ、昨日より先に進める。


 散歩らしくなる。


 俺はリリアを見た。


 リリアは俺を急かさず、ただ待っている。


 行くかどうかは、俺が決めていいらしい。


 俺は前足を見た。


 少し疲れている。


 でも、まだいける。


 ……と思う。


 いや。


 ここで自信がなさそうにすると、アリアに止められる。


 俺は一度息を吐いた。


 ゆっくりならいける。


 たぶん。


 いや、ゆっくりなら。


「きゅ」


 行きます。


 アリアは俺の足元と背中を確認してから頷いた。


「では、そこまでです。それ以上は進みません」


「きゅ」


 分かりました。


 俺は曲がり角を越えた。


 昨日はここまでだった。


 ここから先は初めての場所だ。


 廊下の先。


 小窓。


 少しだけ外の庭が見える。


 庭。


 神殿の外ではない。


 でも、部屋の窓越しに見る景色とは違う。


 自分の足で来た場所から見る景色だ。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 リリアの聖力糸が、前足にそっと添えられている。


 痛くない。


 温かい。


 俺は小窓の前まで来た。


 そして、座った。


 できた。


 昨日より、遠くまで来た。


 俺は小窓の外を見た。


 庭には、白い花が咲いていた。


 神殿らしい、整った庭。


 小さな噴水。


 巡回する神官兵。


 遠くの外壁。


 その向こうには、たぶん街がある。


 俺はまだ外には出られない。


 ガルディアスのこともある。


 中央神殿の監察官もいる。


 でも、今日はここまで来た。


 それだけで、少し世界が広がった気がした。


「きゅ……」


 思わず声が出た。


 リリアが隣にしゃがむ。


 直接触れない距離で、同じように庭を見る。


「きれいですね」


「きゅ」


 はい。


 きれいです。


 リリアは穏やかに言った。


「いつか、庭にも行きましょう」


 庭。


 外。


 俺は少しだけ緊張した。


 でも、嫌ではなかった。


 むしろ、少し行ってみたい。


 森は怖かった。


 黒狼も怖かった。


 でも、この庭なら。


 リリアと一緒なら。


 行けるかもしれない。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 いつか。


     ◇


 その時だった。


 危険察知が、ほんのかすかに揺れた。


 昨日のような、監察官の視線ではない。


 魔性の強い反応でもない。


 もっと薄い。


 遠い。


 しかし、知っている嫌な感覚が混ざっていた。


---


危険察知:微反応


対象:外壁付近


危険度:低


備考:観測痕。魔性残滓を微量確認。


---


 魔性残滓。


 ガルディアス。


 俺は小窓の外を見た。


 庭。


 外壁。


 その影。


 何も見えない。


 だが、何かがこちらを見ていた痕跡がある。


 現在進行形ではない。


 たぶん、さっきまで。


 あるいは、ずっと薄く残っている。


 俺の背中がぴこっと動く。


 今度は恥ずかしさではない。


 警戒だ。


 アリアが即座に反応した。


「ノア?」


「きゅ……」


 外壁。


 何かあります。


 リリアの顔が引き締まる。


「ガルディアスですか?」


 俺はすぐには鳴けなかった。


 強い気配ではない。


 でも、魔性残滓。


 ガルディアス本人とは限らない。


 彼の魔性具かもしれない。


 ただの観測痕かもしれない。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 たぶん、痕跡です。


 今すぐ危険ではないと思います。


 リリアが俺の鳴き声を聞き、アリアを見る。


「今すぐではなさそうです。でも、外壁付近に何かあるようです」


 アリアはすぐに神官兵へ指示を出した。


「外壁付近を確認。直接触れず、封印布を用意。深追いは禁止」


「はっ」


 神官兵が動く。


 リリアは俺を見た。


「ノア、戻りましょう」


「きゅ」


 はい。


 もう十分です。


 小窓まで来られた。


 庭も見られた。


 そして、ガルディアスの痕跡も見つけた。


 散歩としては、いろいろ起きすぎである。


 でも、今回は大きな攻撃ではない。


 俺は落ち着いている。


 たぶん。


 背中はぴこっとしたけど。


 俺はリリアの部屋へ戻るために立ち上がった。


 その瞬間、廊下の向こうから声がした。


「外壁付近ですか」


 嫌な予感。


 俺は声の方を見た。


 白い神官服。


 銀飾り。


 穏やかな笑み。


 監察官エルネストが、廊下の奥に立っていた。


 また出た。


 どうして。


 今日は監察官抜きの散歩希望だったのに。


 俺は思わず鳴いた。


「きゅう……」


 嫌です。


 本当に嫌です。


 エルネストは俺の鳴き声を聞いて、少しだけ笑った。


「どうやら、歓迎されてはいないようですね」


 分かるのか。


 分かるなら来ないでほしい。


 アリアがすぐに前に出る。


「監察官殿。聖女様の散歩訓練中です。接触は控えるよう通達したはずです」


「接触するつもりはありませんでした。ただ、外壁付近という言葉が聞こえまして」


「盗み聞きですか」


「廊下で聞こえたのです」


 また詭弁。


 この人、本当に嫌なところを突いてくる。


 リリアが静かに言った。


「ノアが何かに気づきました。今は確認を優先してください」


 エルネストは俺を見た。


「ノアが?」


 その目が、また監察官の目になる。


 俺は毛布が恋しくなった。


「外壁付近の魔性残滓を、この距離から?」


 言わないで。


 それを大きな声で言わないで。


 また記録される。


 俺はただ、嫌な感じがしただけだ。


 危ないかもと思っただけだ。


 それをすぐ能力として扱わないでほしい。


「きゅう……」


 俺が小さく鳴くと、リリアが振り返った。


「ノア、帰りましょう」


 おお。


 聖女様。


 素晴らしい判断です。


 エルネストが何か言おうとしたが、アリアが遮る。


「これ以上は認めません。ノアはすでに本日の予定歩行距離を超えています」


「では、後ほど」


「後ほども、司祭長立ち会いの上で」


「もちろん」


 本当か。


 絶対にふらっと出てきそうだ。


 俺はアリアとリリアに守られるようにして、リリアの部屋へ戻った。


 行きよりも足取りは少し乱れた。


 エルネストが出てきたせいだ。


 でも、転ばなかった。


 そこは成長だ。


     ◇


 リリアの部屋に戻ると、俺はすぐ毛布に潜り込んだ。


 今日も深く。


 角だけ出た。


 リリアが毛布の端を見て言った。


「ノア、寝癖が見えています」


「きゅう……」


 今は寝癖でもいいです。


 もう突っ込む元気がありません。


 アリアが扉を閉め、警備に指示を出す。


「外壁付近の確認結果を急がせてください。監察官殿の動きも記録を」


「はっ」


 部屋の空気が少し重くなる。


 結局、普通の散歩にはならなかった。


 小窓まで行けた。


 庭を見られた。


 でも、ガルディアスの痕跡があり、エルネストが現れた。


 俺の希望はまた半分くらいしか叶わなかった。


 でも。


 半分は叶った。


 小窓まで歩けた。


 庭を見た。


 若い侍女と少年に挨拶できた。


 エルネストが出てきても転ばなかった。


 それは成果だ。


 俺は毛布の中で、ステータス画面を見た。


---


歩行適応:低+ → 中低


対人反応:警戒/微改善


危険察知:観測痕を確認


精神状態:不安定寄り


備考:監察官遭遇時は毛布退避を推奨します。


---


 監察官遭遇時は毛布退避を推奨。


 分かる。


 とても分かる。


 だが、廊下で遭遇した場合、毛布がない。


 携帯毛布が必要なのでは?


 いや、何を考えているんだ。


 でも、ありかもしれない。


 小さめの外出用毛布。


 中立紋入り。


 角、いや寝癖に引っかからない形。


 背中がぴこっとしても大丈夫な余裕。


 完全に装備品である。


 俺がそんなことを考えていると、リリアが真剣な顔で言った。


「ノア用のお出かけ毛布が必要ですね」


 読まれた。


 怖い。


「きゅ……?」


 どうして分かったんですか。


 リリアは少し笑った。


「ノアが毛布を見ていたので」


 見ていたらしい。


 アリアが額に手を当てた。


「聖女様。お出かけ毛布という名称はともかく、携帯用の安定補助具は有効かもしれません」


 まさかの採用。


 お出かけ毛布、神殿公認装備になる可能性が出てきた。


 俺は毛布の中で固まった。


 リリアは嬉しそうに頷く。


「では、休んでから考えます」


 えらい。


 休んでから。


 そこは完璧だ。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ」


 お願いします。


 その時、扉の外から報告が入った。


「アリア様。外壁付近に、黒い布片を確認しました。魔性具の一部と思われます」


 部屋の空気が変わる。


 アリアの顔が険しくなる。


「封印は」


「完了しています。ただ……布片に文字が」


 文字。


 嫌な予感しかしない。


 アリアが扉越しに問う。


「内容は」


 神官兵は少し躊躇ってから言った。


「『聖女の散歩は、よく目立つ』と」


 リリアの表情が強張った。


 俺の背中も、毛布の中でぴこっと動いた。


 ガルディアス。


 やはり見ていた。


 直接攻撃はしてこない。


 ただ、見ている。


 リリアが外に出たことを。


 俺が小窓まで歩いたことを。


 神殿が俺を少しずつ人前に出そうとしていることを。


 見ている。


 俺は毛布の中で、前足を握るように力を入れた。


 聖女様。


 今日は少しだけ普通の散歩に近づけたと思いました。


 でも。


 どうやら、普通の散歩をするにも、まずは覗き見してくる魔性研究者をどうにかしないといけないみたいです。

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ノアくんと聖女様、重圧に負けぬように頑張れ……
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