第39話 聖女様、少し個性的な猫と中庭で食事します
扉が開いた。
朝の光が、ふわりと差し込んでくる。
まぶしい。
けれど、嫌なまぶしさではなかった。
俺は淡い青のお出かけ毛布を揺らしながら、中庭へ一歩を踏み出した。
前足の下に、石畳の感触がある。
部屋の床とは違う。
少し冷たい。
少し硬い。
でも、それだけで分かる。
外だ。
俺は今、外にいる。
小窓から見ていた中庭が、目の前に広がっていた。
白い花。
低く刈られた草。
小さな噴水。
白い石の小道。
風が吹くたびに、草の先がさわさわと揺れる。
護符もある。
警備の神官もいる。
外壁側には、いつもより多めに結界の札が掛けられている。
ピクニック。
ただし、神殿式。
護衛つき。
結界つき。
食事反応確認つき。
たぶん前世でいうピクニックとは、だいぶ違う。
だが、外だ。
そして、食事がある。
俺にとっては、それだけでもう十分だった。
「ノア、大丈夫ですか?」
リリアが、俺の横にしゃがみ込んだ。
朝の光を受けた白銀の髪が、ふわりと揺れる。
今日は動きやすい服だからか、いつもより少しだけ雰囲気が柔らかい。
袖を留めた手が、俺の前にそっと差し出された。
白くて、細い指。
けれど、さっきまで俺のために魚を丸めていた手だ。
綺麗なだけじゃない。
俺のために、何かをしてくれた手。
そう思ったら、胸の奥が少し温かくなった。
「きゅ」
大丈夫です。
リリアはほっとしたように笑った。
「よかったです」
その笑顔を見て、俺は少しだけ照れた。
聖女様の笑顔は強い。
だが、今日の肉の出汁も強い。
かなり強い。
俺はなんとか意識を食べ物へ戻した。
◇
侍女長が敷物を広げた。
淡い色の布。
端には中立紋が小さく刺繍されている。
可愛い敷物なのに、安全対策が本気である。
その上に、器が並べられていく。
小さな皿。
小さな匙。
温度を保つための布。
水。
予備の温ミルク。
魚スープ。
肉の出汁。
リリア作の白身魚団子。
そして、アリアの棒。
棒もいる。
やはりいる。
俺はそっと視線を逸らした。
お前とは、まだ向き合いたくない。
「今日は試食しません」
アリアが言った。
見ていたらしい。
「きゅ……」
ありがとうございます。
心からありがとうございます。
だが、油断はできない。
アリアは真面目だ。
そして、真面目な人間が作る栄養携帯食ほど怖いものはない。
前世でもそうだった。
栄養、効率、保存性。
この三つの言葉が並んだ食べ物は、だいたい味への優先順位が低い。
アリアの棒は、その気配がする。
かなりする。
司祭長が、そんな俺の様子に気づいたのか、白い髭を撫でて笑った。
「まずは魚のスープからですな」
魚スープ。
来た。
俺は前足をそろえた。
姿勢を正す。
心も正す。
司祭長が匙の先に、ほんの少しだけ魚スープをすくった。
本当に少し。
前世なら、味見にもならない量だ。
だが、今の俺には大事件である。
透明に近い薄い汁。
立ち上る湯気。
ほんのりとした魚の香り。
それが、ゆっくりと俺の前に差し出される。
「ノア、無理はしないでくださいね」
リリアの声がした。
心配している。
でも、どこか祈るようでもあった。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
大丈夫です。
いきます。
俺は舌を出して、匙の先をぺろりと舐めた。
魚スープが、舌に触れた。
薄い。
ものすごく薄い。
塩気なんてほとんどない。
前世で飲んだ味噌汁や、ラーメンのスープや、鍋の出汁と比べたら、きっと笑ってしまうくらい薄い。
だが。
ミルクではない。
魚だ。
魚の味がする。
ほんの少し。
ほんの少しだけだが、確かに魚だ。
「きゅ……」
声が漏れた。
うまい。
薄いのに、うまい。
いや、たぶん味だけなら薄い。
でも、これは味だけの問題ではない。
リリアの隣で。
中庭で。
湯気の立つ匙を前にして。
ちゃんと、食べ物を味わっている。
それが、妙に胸に来た。
リリアが息をのむ。
「ノア……?」
心配させた。
違う。
違うんです。
俺は慌てて顔を上げた。
「きゅっ」
美味しいです。
たぶん、それだけを伝えたかった。
リリアの顔が、ゆっくりと明るくなっていく。
「美味しいのですね」
「きゅ」
はい。
美味しいです。
かなり薄いけど。
でも、美味しいです。
リリアは両手を胸の前で握った。
「よかった……」
その声が、少し震えていた。
俺が少し舐めただけで。
俺が倒れないだけで。
俺が苦しまないだけで。
この人は、こんなに安心する。
それが分かって、胸がまた温かくなった。
司祭長は俺の様子を見て、静かに頷く。
「よいようですな。もう少しだけ、同じものを」
もう少し。
その言葉が、宝物のように聞こえた。
二口目の魚スープ。
やはり薄い。
でも今度は、さっきより魚の香りが分かった。
柔らかくて、優しくて、体の中にそっと落ちていくような味。
俺は目を細めた。
いい。
かなりいい。
魚も、かなりいい。
◇
次は肉の出汁。
そう思った。
俺は完全にそう思っていた。
魚スープを試した。
反応も悪くない。
なら、次は肉の出汁である。
流れとして当然だ。
俺は肉の出汁の器を見た。
蓋がある。
あの下に、夢がある。
俺の中の元人間が正座して待っている。
司祭長が器に手を伸ばした。
来た。
ついに来た。
俺は前足をそろえ直した。
姿勢を正す。
心も正す。
肉の出汁に対する礼儀である。
「その前に」
アリアが言った。
嫌な予感がした。
アリアが、盆の端から茶色い棒を手に取る。
「こちらの携帯食も、香りへの反応だけ確認しておきましょう」
「きゅっ!?」
違う。
それじゃない。
今、その流れではない。
俺は肉の出汁に向けて心を整えていたのであって、棒に向けて覚悟を決めていたわけではない。
アリアは真面目な顔で棒を近づける。
「食べさせはしません。香りだけです」
「きゅ、きゅう!」
香りだけでも嫌です。
今じゃないです。
肉の出汁の前に棒を挟まないでください。
リリアが慌てて言った。
「アリア、ノアがとても嫌そうです」
「嫌そう、ですか」
アリアが棒を見る。
俺を見る。
もう一度、棒を見る。
「……食べ物としての認識に問題がある可能性がありますね」
そうです。
問題があります。
俺の中では、まだ棒です。
食べ物というより、圧縮された任務です。
アリアは少し考え、棒を盆へ戻した。
「では、今日は見送ります」
「きゅう……」
助かった。
俺は命をつないだ。
いや、食べ物で命をつなぐはずの時間なのに、なぜか食べ物から命を守った気分である。
司祭長が肩を揺らして笑っていた。
「アリア殿、その携帯食は改良の余地が多そうですな」
「認識しました」
アリアは真剣に頷いた。
認識しないでいい。
いや、していい。
柔らかく、できれば食べ物らしくしてください。
リリアが俺にそっと言う。
「ノア、無理に食べなくて大丈夫ですからね」
「きゅ」
ありがとうございます。
聖女様。
今日の俺は、あなたに救われました。
主に棒から。
◇
棒の危機を乗り越えたあと、今度こそ肉の出汁である。
司祭長が、ゆっくりと器の蓋を開けた。
湯気が立つ。
魚とは違う香りがした。
薄い。
とても薄い。
でも、確かに肉だ。
肉の香りだ。
その瞬間、俺の中の元人間が静かに立ち上がった。
肉だ。
これは肉だ。
焼肉でもない。
唐揚げでもない。
ステーキでもない。
濃厚なスープでもない。
ただの、脂を落とした薄い出汁。
それでも、肉だ。
「きゅ……」
声が震えた。
リリアが心配そうに俺を見る。
「ノア?」
大丈夫です。
これは危険ではありません。
これは、感動です。
司祭長が匙の先に、ごく少量の肉の出汁を取った。
「本当に少しだけですぞ」
「きゅ」
分かっています。
分かっているけど。
待ちきれない。
匙が近づく。
湯気が鼻先をくすぐる。
俺は舌を出した。
ぺろり。
肉の出汁が、舌に触れた。
薄い。
信じられないほど薄い。
でも、肉だった。
その瞬間、俺は固まった。
うまい。
うまい。
たったそれだけの言葉が、頭の中で何度も回った。
前世の肉料理と比べたら、きっと何でもない味だ。
薄い出汁。
一滴。
それだけだ。
でも、今の俺には、これがごちそうだった。
ずっと欲しかったものだった。
俺は、ただ生き延びているだけじゃない。
食べたいものを食べたいと思って。
それを誰かが聞いてくれて。
慎重に、少しずつ、叶えてくれている。
それが、たまらなく嬉しかった。
「きゅぅ……」
声が勝手に出た。
情けないくらい、ゆるい声だった。
リリアが慌てて身を乗り出す。
「ノア、苦しいのですか?」
「きゅっ、きゅ!」
違います。
美味しいです。
美味しすぎて、ちょっとおかしくなっただけです。
俺は必死に首を振った。
お出かけ毛布がふわふわ揺れる。
背中もぴこっと動いた。
いや、ぴこっでは済まなかった。
ぴこぴこぴこっと動いた。
止まらない。
肉だから。
仕方ない。
リリアが目を丸くしたあと、ぱっと笑った。
「ノア、そんなに美味しいのですね!」
「きゅ!」
はい。
とても。
司祭長が、珍しく声を出して笑った。
「どうやら、たいそう気に入ったようですな」
「きゅ……!」
気に入りました。
ものすごく。
あなたは今日から、俺の中で料理の賢者です。
アリアがすぐに言う。
「追加はまだです」
「きゅ……」
早い。
止めるのが早い。
でも、正しい。
正しいのは分かる。
分かるのだが、匙が空なのが悲しい。
とても悲しい。
俺が空の匙を見つめていると、リリアが困ったように笑った。
「ノア、本当にお肉が好きなのですね」
「きゅ」
はい。
とても。
元人間なので。
言えないけど。
司祭長は少しだけ様子を見てから、もう一度、同じ量を匙に取った。
「乱れはありませんな。では、もう一度だけ」
「きゅ……!」
司祭長。
やはり出来るおじさんです。
二度目の肉の出汁。
俺は今度こそ、ゆっくり舐めた。
舌の上に乗せるように。
すぐ飲み込まないように。
わずかな旨味を逃がさないように。
薄い。
でも、やっぱりうまい。
俺は目を細めた。
たぶん、ものすごく幸せそうな顔をしていたと思う。
背中はまた、ぴこぴこ動いた。
もういい。
今日は許してほしい。
肉の日だから。
◇
肉の出汁の余韻に浸っていると、リリアが白い皿を両手で持ち上げた。
来た。
リリア作の白身魚団子。
皿の上で、白い小さな球体が三つ並んでいる。
丸い。
本当に丸い。
とても大きい真珠みたいだ。
魚の身を丸めたものらしいのだが、魚っぽさはほとんどない。
むしろ、神殿のどこかに飾ってあっても違和感がない。
そう思っていたら、近くで控えていた若い神官が小さく呟いた。
「聖女様、それは新しい祈祷具でしょうか」
違います。
俺の昼飯です。
リリアがきょとんとする。
「ノアの食事です」
「あっ、失礼いたしました」
若い神官が慌てて頭を下げた。
俺は白い団子を見た。
祈祷具に間違われる昼飯。
さすが聖女様の手作りである。
聖性が見た目に出すぎている。
リリアは少しだけ恥ずかしそうに皿を見た。
「そんなに祈祷具に見えますか?」
アリアが短く答える。
「見えます」
「えっ」
侍女長が静かに補足した。
「形が整いすぎておりますので」
整いすぎている。
料理への評価として、聞いたことがない。
俺は思わず小さく鳴いた。
「きゅ……」
丸いですからね。
とても。
リリアは少しむっとしたように、でも照れたように言った。
「ノアが食べやすいように丸くしたのです」
その気持ちは嬉しい。
とても嬉しい。
ただ、丸さが強い。
侍女長が、その丸すぎる団子を小さく崩した。
白い身が、ほろりとほどける。
見た目は祈祷具だったが、中身はちゃんと魚だった。
よかった。
昼飯だった。
司祭長が崩した白身魚を、魚スープに少し混ぜる。
それを匙の先に乗せ、俺の前へ差し出した。
俺は鼻を近づけた。
魚の香り。
先ほどより少しだけ濃い。
リリアは、ものすごく緊張した顔で俺を見ている。
そこまで緊張しなくてもいいのに。
いや、本人が作ったものだから仕方ない。
俺は舌を出して、そっと舐めた。
柔らかい。
ほろほろしている。
味は、薄い。
かなり薄い。
というか、ほぼ魚そのものだ。
でも。
リリアが作った。
リリアが俺のために、一生懸命丸めた。
それだけで、不思議と美味しく感じる。
味覚ではなく、気持ちの問題かもしれない。
だが、それでいい。
俺はもう一度、少しだけ舐めた。
「きゅ」
美味しいです。
リリアの顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「きゅ」
本当です。
薄いけど。
かなり薄いけど。
でも、美味しいです。
リリアは安心したように息を吐き、それから少しだけ頬を染めた。
「よかった……。丸くしてよかったです」
丸さは、たぶん味には関係ない。
でも、言わない。
そこは言わない。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
丸かったです。
とても。
アリアが静かに言う。
「ノアが喜んでいるようです」
リリアは嬉しそうに俺を見た。
「ノア、また作りますね」
「きゅ……」
はい。
お願いします。
ただ、次はもう少し丸くなくても大丈夫です。
言えないけど。
侍女長が小さく微笑んでいる。
もしかして、全部分かっているのではないだろうか。
侍女長、恐るべし。
◇
食事は、ほんの少しだけで終わった。
魚スープを数口。
肉の出汁を二回。
リリアの白身魚団子を少し。
量だけで言えば、前世なら「味見」とも呼べないくらいだ。
でも、俺は満たされていた。
腹がいっぱいというより、心がいっぱいだった。
中庭の風が、お出かけ毛布の端を揺らす。
噴水の水音がする。
白い花が、風に合わせて小さく揺れる。
リリアは隣で、自分の軽食を少しだけ食べていた。
小さなパン。
白い果物。
薄い茶。
食べる仕草が静かで、丁寧で、やけに絵になる。
風が吹いて、まとめきれなかった白銀の髪が頬にかかった。
リリアは指先でそれをそっと払う。
その仕草が、妙に綺麗だった。
俺は見てしまった。
見てしまって、すぐに魚スープの器へ視線を落とした。
違う。
俺は少し個性的な猫。
聖女様の仕草に見とれている場合ではない。
いや、中身は元人間なので、余計に見とれてはいけない。
「きゅ……」
肉の出汁のせいです。
たぶん。
リリアが首を傾げる。
「ノア?」
「きゅ」
何でもありません。
アリアがこちらを見た気がした。
やめてください。
今のは見逃してください。
俺は全力で何もなかった顔をした。
今の俺の何もなかった顔が何なのかは分からない。
侍女長が、空いた器を静かに下げる。
「初めてにしては、とても良い様子です」
司祭長も穏やかに頷いた。
「食べられるものが増えるのは、よいことです。少しずつ、無理なく増やしていきましょう」
少しずつ。
無理なく。
その言葉が、前より少し好きになった。
昨日は飲めなかったものが、今日は飲めた。
昨日は知らなかった味を、今日は知った。
それなら、少しずつでもいい。
リリアが俺を見て微笑む。
「ノアの好きなものを、これから一緒に探しましょうね」
好きなもの。
その言葉が、胸に落ちた。
この世界に来てから、俺はずっと、怖いものばかり増えていた気がする。
黒狼。
聖属性。
魔性。
ガルディアス。
中央神殿。
監察官。
知らないものは、だいたい怖かった。
でも、違うのだ。
知らないものは、怖いものだけじゃない。
魚スープもある。
肉の出汁もある。
白い花もある。
草の感触もある。
リリアの手作りの、丸すぎる白身魚団子もある。
俺は、まだこの世界の怖いところしか知らないのかもしれない。
でも、これから嬉しいものも知っていけるのなら。
それは、少し楽しみだと思えた。
「きゅ……」
ありがとうございます。
リリアは、俺の声を聞いて、優しく目を細めた。
◇
食後、少しだけ草の上を歩くことになった。
食べた直後に歩くのはどうなのかと思ったが、本当に少しだけだ。
敷物の端から、草の上へ。
俺は前足を伸ばした。
そっと置く。
ふわり。
「きゅっ」
変な声が出た。
草。
草だ。
石畳でも、床でも、毛布でもない。
柔らかくて、少し冷たくて、くすぐったい。
俺は思わず前足を引っ込めた。
リリアが笑う。
「ノア、草がくすぐったいのですか?」
「きゅ……」
はい。
ちょっと。
でも、嫌ではない。
俺はもう一度、前足を草の上に置いた。
今度は引っ込めなかった。
一歩。
もう一歩。
お出かけ毛布が揺れる。
草の上を、俺は歩いている。
森で逃げた時とは違う。
怖くて走ったのではない。
追われて転げたのでもない。
自分で、ゆっくり、一歩ずつ。
リリアの隣で。
俺は草の上を歩いている。
たったそれだけなのに、胸が少し熱くなった。
なんだ。
今日の俺は、感情が忙しい。
魚スープで嬉しくなって。
肉の出汁で感動して。
棒を回避して安心して。
草でまた変な声が出る。
忙しい。
かなり忙しい。
でも、悪くない。
リリアが少し離れたところで、俺に手を伸ばしている。
転びそうになったら、すぐ支えられる距離。
でも、抱き上げない。
俺に歩かせてくれている。
それが嬉しかった。
アリアも、何も言わずに見守っている。
注意は飛んでこない。
たぶん、俺の足取りが悪くないのだろう。
司祭長が小さく頷いた。
「昨日より、歩き方に迷いが少ないですな」
迷い。
そうかもしれない。
今日は、行きたい場所があった。
食べたいものがあった。
楽しいと思えるものがあった。
怖いから歩くのではなく。
逃げるために歩くのでもなく。
嬉しい場所へ行くために歩く。
それだけで、足はこんなにも前に出る。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
歩けています。
リリアの顔が、また明るくなった。
「はい。ノア、歩けています」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
俺は歩けている。
食べられている。
ここにいる。
リリアのそばにいる。
それだけで、今日という日は、たぶん忘れない。
◇
帰る少し前、中庭の外壁近くにエルネストがいるのが見えた。
俺は一瞬、体を固くした。
監察官。
記録。
中央神殿。
楽しかった気分に、冷たい影が落ちかける。
リリアがすぐに気づいた。
「ノア?」
「きゅ……」
エルネストは、こちらへ近づいてこなかった。
手には、記録具も持っていない。
ただ、少し離れた場所から、静かにこちらを見ていた。
目が合う。
俺は毛布の中へ半分沈んだ。
すると、エルネストはゆっくりと頭を下げた。
それだけだった。
近づかない。
声もかけない。
何も聞かない。
ただ、俺のピクニックを邪魔しない距離にいた。
アリアが低い声で言う。
「監察官には、今日は接触を控えるよう伝えてあります」
そうだったのか。
アリア、ありがとう。
リリアもエルネストを見てから、俺に視線を戻した。
「今日は、ノアのピクニックですから」
「きゅ……」
はい。
今日は、俺のピクニックです。
監察でも、聴取でもない。
記録されるための時間でもない。
俺が魚スープを飲んで、肉の出汁に感動して、棒を回避した時間だ。
エルネストはもう一度だけ頭を下げると、外壁側へ歩いていった。
何を考えているのかは分からない。
信用できるかも、まだ分からない。
でも、今日だけは。
俺の楽しい時間を壊さなかった。
そのことだけは、少しだけ覚えておこうと思った。
◇
部屋へ戻る頃には、俺はすっかり疲れていた。
中庭まで歩いた。
草の上を歩いた。
魚スープを飲んだ。
白身魚団子を食べた。
肉の出汁も舐めた。
アリアの棒を回避した。
リリアに撫でられた。
エルネストに少しだけ警戒した。
情報量が多い。
体力も使った。
でも、不思議と嫌な疲れではなかった。
部屋へ戻ると、俺は結界台の上の毛布に入った。
いつもの毛布。
安心する。
お出かけ毛布も良いが、やはり本体の毛布は別格だ。
リリアが、そっと俺のそばに座る。
「今日は頑張りましたね、ノア」
「きゅ」
頑張りました。
とても。
司祭長とアリアが何かを話している。
食事の量。
体の反応。
今後のこと。
中央神殿へ行く可能性。
そういう話が、部屋の端で静かに続いていた。
でも、俺の耳には少し遠く聞こえた。
眠い。
けれど、まだ眠りたくない。
今日のことを、もう少しだけ覚えていたい。
魚スープの味。
肉の出汁の香り。
草の感触。
リリアの笑顔。
棒を回避した達成感。
全部、すぐに眠気で溶けてしまいそうで、少しもったいなかった。
俺はぼんやりとステータス画面を開いた。
---
食事適応:未確認 → 初期適応
摂取可能候補:白身魚の薄いスープ/脂を落とした肉の出汁
屋外短時間行動:確認済み
精神安定:良好
備考:好きなものが、一つ増えました。
---
最後の一文を見て、俺は目を止めた。
好きなものが、一つ増えました。
魚スープ。
肉の出汁。
中庭。
リリアの手作り。
どれのことだろう。
分からない。
分からないけど、たぶん全部だ。
「きゅ……」
リリアが俺を覗き込む。
「ノア?」
「きゅ」
美味しかったです。
嬉しかったです。
また行きたいです。
そう鳴いたつもりだった。
リリアはしばらく俺を見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「また、食べましょうね」
「きゅ」
はい。
また。
その言葉を聞いて、俺は安心した。
今日だけじゃない。
また食べられる。
また中庭に行ける。
また、少しずつできることが増えていく。
中央神殿も、ガルディアスも、エルネストも、まだ消えていない。
けれど、俺の日常も消えていない。
リリアのそばで。
毛布に包まれて。
少しずつ歩いて。
少しずつ食べて。
俺は、ここで生きている。
眠気が、ゆっくりとやってくる。
最後に思い浮かんだのは、肉の出汁の味だった。
薄かった。
本当に薄かった。
でも、最高だった。
俺は毛布の中で小さく丸まり、満足しながら目を閉じた。
聖女様。
今日のピクニックは、最高でした。
できれば次は。
肉の出汁を、もう少しだけ増やしてもらえると嬉しいです。
あと。
アリアの棒は、もう少し後でお願いします。




