第31話 聖女様、少し個性的な猫を廊下に出します
翌朝。
俺は目を覚ました。
正確には、毛布の中で目を開けた。
昨日の夜は、久しぶりにまともに眠れた気がする。
黒煙に眠らされたわけでもない。
ガルディアスの声が夢に出てきたわけでもない。
途中で危険察知が鳴ったわけでもない。
ただ、普通に疲れて、普通に寝て、普通に起きた。
普通。
すばらしい。
この世界に来てから、普通という言葉の価値が爆上がりしている。
俺は毛布の中で、ゆっくり前足を伸ばした。
白い前足。
少し大きくなった肉球。
伸びをすると、背中がぴこっと動いた。
……もういい。
朝のぴこっは見なかったことにする。
俺は顔を上げた。
リリアの部屋には、朝の淡い光が入っていた。
窓には封印布。
壁には聖印。
床には中立紋。
扉の外には神官兵の足音。
相変わらず厳戒態勢ではあるが、昨日までの張り詰めた空気よりは少しだけ柔らかい。
リリアは長椅子ではなく、ちゃんとベッドで眠っていた。
アリアの勝利である。
昨日の夜、リリアは「もう少しだけノアの毛布を」と言いかけ、アリアに止められた。
俺も鳴いた。
司祭長も頷いた。
侍女長も寝具を整えた。
結果、リリアはようやくベッドに入った。
聖女様を寝かせるのに、なぜここまで総力戦になるのか。
不思議である。
でも、その甲斐はあった。
今朝のリリアの顔色は、昨日よりかなり良い。
俺はほっとした。
「きゅ……」
よかった。
リリアが目を開ける。
「ノア……?」
寝起きの声だった。
少しぼんやりしている。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
おはようございます。
リリアは俺を見て、ふわりと微笑んだ。
「おはようございます、ノア」
通じた。
まあ、朝の「きゅ」はだいたい挨拶だ。
リリアはゆっくり起き上がろうとして、途中でアリアに止められた。
「聖女様、急に起きないでください」
「はい」
素直。
かなり素直。
アリアの教育が効いている。
リリアはベッドの端に座り、俺を見た。
「ノア、よく眠れましたか?」
「きゅ」
はい。
久しぶりに。
「よかったです」
リリアは本当に嬉しそうだった。
その顔を見ると、俺も少し嬉しくなる。
昨日、隣の祈祷室まで歩けた。
人に見られても逃げなかった。
低+になった。
地味だが、進歩だ。
今日はもう少し歩けるかもしれない。
そう思った瞬間、扉のそばにいたアリアが口を開いた。
「本日は、廊下での短距離歩行を確認します」
早い。
俺が考えるより早く、予定に入っていた。
リリアの目が輝く。
「ノア、廊下です」
「きゅ……」
廊下。
ついに。
リリアの部屋の外。
昨日の祈祷室より、さらに外。
神官や侍女が通る場所。
見られる。
確実に見られる。
白銀の角と銀紋と背中のぴこっと動く何かを持つ、猫に似たノアが廊下を歩く。
目立つ。
絶対に目立つ。
俺は毛布に少し沈んだ。
だが、アリアは容赦ない。
「ただし、距離は扉から廊下の曲がり角まで。途中で異変があれば即中止。見学者は許可した者のみ。聖女様は半歩後ろ。司祭長が結界を確認します」
もう全部決まっている。
逃げ道がない。
いや、これは必要なことだ。
ずっと部屋に籠もるわけにはいかない。
少しずつ、人に見られることにも慣れなければならない。
分かっている。
分かっているが。
「きゅう……」
気が重いです。
リリアがベッドから降りて、俺のそばに来る。
もちろん、急ぎすぎないようアリアに見張られながら。
「怖いですか?」
「きゅ」
はい。
少し。
「私も少し怖いです」
リリアは素直に言った。
「でも、一緒に行きます」
その言葉はずるい。
俺は顔を上げた。
リリアは俺を見ている。
大丈夫です、とは言わない。
ただ、一緒に行くと言う。
それなら。
「きゅ」
行きます。
リリアが嬉しそうに頷いた。
◇
準備は思ったより大げさだった。
まず、俺用の毛布を外す。
次に、角――リリア的には寝癖――が布に引っかかっていないか確認。
背中がぴこっと動いても邪魔にならないよう、周囲を広く取る。
前足と後ろ足の位置を確認。
尻尾が変な方向に曲がっていないか確認。
最後に、リリアの低出力聖力糸をつなぐ。
完全に出発前点検である。
俺は馬車か何かか。
いや、馬車より扱いが繊細かもしれない。
アリアがしゃがみ、俺を見た。
「ノア、無理はしないこと」
「きゅ」
分かっています。
「人に見られても急に動かないこと」
「きゅ」
はい。
「背中が動いても慌てないこと」
「きゅう……」
それは難しいです。
「慌てないこと」
「きゅ」
努力します。
リリアが横で小さく笑っている。
笑わないでください。
いや、笑ってくれるくらいの方が気が楽かもしれない。
司祭長も部屋に来ていた。
杖を持ち、廊下の結界反応を確認している。
「旧接続部は封じています。現時点で、外部からの干渉反応はなし」
よし。
ガルディアスの気配は薄い。
完全に消えたわけではないが、今すぐ何かしてくる気配はない。
それでも油断はできない。
あの男は、見えない場所から手を伸ばす。
リリアの聖力。
俺との接続。
神殿の古い傷。
どこを使ってくるか分からない。
だから、廊下歩行もただの散歩ではない。
訓練であり、警戒であり、情報管理でもある。
重い。
散歩という言葉にしては重すぎる。
俺は前足を動かした。
昨日よりは感覚がある。
立つ。
少しふらつく。
でも転ばない。
「きゅ」
いけます。
リリアが頷いた。
「はい」
アリアが扉に手をかける。
「開けます」
扉が開いた。
廊下の空気が入ってくる。
リリアの部屋の中より、少し冷たい。
聖属性は抑えられているが、やはり神殿の廊下だ。
白い石壁。
高い天井。
控えめな聖灯。
そして、廊下の左右に立つ神官兵。
さらに少し離れた場所に、侍女長と昨日の若い侍女。
許可された見学者、ということらしい。
少ない。
少ないが、十分緊張する。
全員の視線が俺に向いた。
俺は固まった。
背中がぴこっと動く。
やめろ。
今じゃない。
いや、今だから動いたのか。
リリアが半歩後ろから小さく言った。
「ノア、私はここにいます」
その言葉で、前足が動いた。
一歩。
廊下へ出る。
何も起きない。
危険察知も静かだ。
一歩。
二歩。
白い石の床の上に敷かれた中立紋入りの細い布を歩く。
完全に俺専用の道だ。
ありがたいが、目立つ。
ものすごく目立つ。
神官兵の一人が、息を呑む音が聞こえた。
俺の耳がぴくりと動く。
背中もぴこっと動く。
もう忙しい。
自分の体なのに忙しい。
俺はリリアの聖力糸を感じながら、ゆっくり進んだ。
目標は廊下の曲がり角。
遠い。
昨日の祈祷室より遠い。
でも、歩けない距離ではない。
一歩。
二歩。
三歩。
尻尾を床につけすぎない。
前足を出しすぎない。
背中が動いても無視する。
リリアは何も言わない。
アリアも黙っている。
司祭長の杖の音だけが、少し後ろから聞こえる。
見られている。
だが、逃げたいほどではない。
昨日の侍女。
昨日の神官兵。
彼らが、俺を怖がりすぎない目で見てくれているからかもしれない。
俺は少しだけ顔を上げた。
すると、昨日の若い侍女と目が合った。
彼女は緊張しながらも、小さく会釈した。
俺はどうしようか迷い、前足を止めた。
止まる。
転ばない。
よし。
そして、小さく鳴く。
「きゅ」
侍女の表情が少し緩んだ。
「……おはようございます、ノア」
おはようございます。
そう返された。
俺はまた少し固まった。
白銀個体ではなく。
特殊個体でもなく。
ノア。
昨日から、ほんの少しだけ変わっている。
俺を見る目が、正体不明の怪物を見るものだけではなくなっている。
もちろん、怖さは残っている。
でも、それだけではない。
俺はもう一度鳴いた。
「きゅ」
おはようございます。
リリアが嬉しそうに微笑む。
だが、アリアが小声で言った。
「ノア、止まりすぎると疲れます。進みましょう」
はい。
そうでした。
挨拶で満足している場合ではない。
俺はまた歩き出した。
◇
曲がり角まで、あと少し。
そこで問題が起きた。
廊下の奥から、小さな足音が近づいてきたのだ。
軽い足音。
神官兵ではない。
侍女でもない。
もっと小さい。
子ども?
俺が顔を上げた瞬間、アリアの表情が変わった。
「止まってください」
全員が止まる。
廊下の角から、小さな少年が顔を出した。
神殿の見習いだろうか。
年は十歳前後。
手には水差しを持っている。
おそらく、本来ならこの時間にここへ来る予定ではなかった人物。
つまり、管理外の遭遇。
少年は俺を見た。
俺も少年を見た。
沈黙。
次の瞬間、少年の目が丸くなった。
「わ……」
叫ばれる。
そう思った。
俺は身構えた。
背中がぴこっと動く。
尻尾が揺れる。
前足に力が入る。
逃げるか。
いや、逃げたら余計に怖がられる。
でも、叫ばれたらどうする。
リリアが半歩後ろで息を呑む。
アリアが少年と俺の間に入ろうとする。
その前に、少年が言った。
「白い……猫?」
リリアの目が輝いた。
今、輝いた。
アリアがものすごく嫌な予感を感じた顔をした。
「はい」
リリアが即答した。
「少し個性的な猫です」
言った。
公式ではない場だから、言った。
少年は俺を見る。
角。
銀紋。
背中。
尻尾。
そして、鳴き声。
俺は仕方なく鳴いた。
「きゅ……」
少年が少し首を傾げた。
「猫って、きゅって鳴くんですか?」
正論。
子どもの素直な正論。
リリアは少し考えてから答えた。
「ノアは鳴きます」
それは正しい。
猫が鳴くのではなく、ノアが鳴く。
かなり良い着地点だ。
少年はもう一度俺を見た。
怖がっているというより、好奇心が勝っている顔だった。
「ノア……」
名前を呼ばれた。
俺は少し迷って、前足を上げた。
また肉球。
最近、俺の外交は肉球に頼りすぎている。
少年の顔がぱっと明るくなった。
「かわいい」
お。
これはいける。
俺は少し安心した。
その瞬間、背中がぴこっと動いた。
少年の目がさらに輝く。
「背中も動いた!」
やめて。
見つかった。
リリアが嬉しそうに言う。
「可愛いでしょう?」
「はい!」
少年が元気よく答えた。
アリアが頭を押さえた。
「聖女様、見習いに余計な認識を植え付けないでください」
「余計ではありません。可愛いという正しい認識です」
「優先順位が違います」
このやり取りのせいか、少年は完全に緊張を失った。
俺を怖がるどころか、少し近づこうとした。
アリアがすぐに止める。
「近づいてはいけません」
「はい!」
少年は素直に止まった。
助かった。
いくら怖がられていなくても、急に近づかれるのはまだ怖い。
俺も驚く。
驚くと背中が動く。
背中が動くとまた注目される。
悪循環だ。
リリアが少年に優しく言う。
「ノアは、まだ新しい体に慣れている途中です。驚かせないであげてくださいね」
「はい、聖女様」
少年は真剣に頷いた。
そして、小声で俺に言った。
「がんばって、ノア」
応援された。
子どもに。
思ったより効いた。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
ありがとう。
少年は嬉しそうに笑い、水差しを抱えて廊下の端に下がった。
アリアが通路を確保する。
俺はゆっくり、その前を通った。
見られている。
でも、怖くない視線だった。
そのことに、少し驚いた。
◇
曲がり角に到着した。
廊下の短い距離。
それだけ。
でも、俺にはかなり長い道のりだった。
足が疲れている。
尻尾の感覚も怪しい。
背中も何回ぴこっとしたか分からない。
それでも、転ばなかった。
俺は曲がり角の手前で座った。
「きゅ……!」
着いた。
転ばずに。
アリアが静かに頷く。
「到達確認。異常なし」
司祭長も頷く。
「聖力接続、安定。外部干渉なし」
リリアが半歩後ろから、嬉しそうに言った。
「ノア、すごいです」
「きゅ」
はい。
すごいです。
少しだけ、自分でそう思った。
俺は廊下の先を見た。
まだ先がある。
神殿は広い。
俺が歩いたのは、ほんの短い距離だけだ。
リリアの部屋から曲がり角まで。
たったそれだけ。
でも昨日は、隣の祈祷室までが精一杯だった。
今日は廊下を歩けた。
若い侍女に挨拶を返してもらった。
少年に応援された。
少しずつ、俺はこの場所に慣れている。
この場所も、俺に慣れ始めている。
そう思った。
その時、危険察知がほんのかすかに揺れた。
⸻
危険察知:微反応
対象:廊下奥
危険度:低
備考:魔性残滓ではなく、異質な視線を確認。
⸻
魔性残滓ではない。
ガルディアスではない?
俺は廊下の奥を見る。
そこには、誰もいないように見えた。
だが、確かに視線があった。
敵意ではない。
恐怖でもない。
もっと違う。
品定めするような。
値踏みするような。
そんな視線。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
アリアがすぐに反応する。
「ノア?」
俺は廊下の奥を見続けた。
司祭長も眉を寄せる。
「魔性反応はありません。しかし……」
「人ですか?」
アリアが問う。
「おそらく」
リリアの表情が少し引き締まる。
「誰かが、ノアを見ているのですか?」
「その可能性があります」
その瞬間、廊下の奥で衣擦れの音がした。
白い柱の影から、一人の神官が姿を現す。
見覚えはない。
年は四十前後。
神官長ほど上ではないが、普通の神官よりは明らかに身なりが整っている。
胸元には、上位神官を示す銀の飾り。
その目は俺ではなく、リリアを見ていた。
そして次に、俺を見た。
「なるほど」
男は静かに言った。
「噂以上ですね」
空気が冷えた。
アリアが一歩前に出る。
「何の用です」
男は穏やかに微笑んだ。
「失礼。聖都中央神殿より派遣された、監察官のエルネストと申します」
監察官。
嫌な響きだった。
ガルディアスとは違う。
魔性の匂いはしない。
だが、これはこれで面倒そうだ。
エルネストと名乗った男は、俺を見て目を細める。
「聖女様のそばに置かれた白銀個体。正式な報告を受ける前に、この目で確認できたのは幸運でした」
正式な報告。
中央神殿。
監察官。
情報が早すぎる。
俺は毛が逆立つのを感じた。
背中がぴこっと動きそうになったが、必死で止める。
止まった。
たぶん。
リリアは静かに俺の前に半歩出た。
「ノアは、私の保護下にあります」
エルネストは微笑んだまま頷いた。
「そのようですね」
声は柔らかい。
だが、目が笑っていない。
「ですが、聖女様。正体不明の存在を私的に保護することは、神殿全体の問題でもあります」
アリアの手が剣に近づく。
司祭長の表情が険しくなる。
俺は息を呑んだ。
ガルディアスの次は、中央神殿。
敵か味方か分からない相手。
俺はまだ廊下を短く歩けただけなのに。
世界は、もう次の問題を連れてきたらしい。
エルネストは俺を見た。
「その子は、本当に聖女様のそばに置いてよい存在なのですか?」
リリアは迷わなかった。
「はい」
強い声だった。
「ノアは、ここにいます」
その一言に、俺の胸が少し熱くなる。
ここにいる。
リリアのそばに。
白銀個体としてではなく。
器としてでもなく。
少し個性的な猫として……は、少し無理があるけれど。
ノアとして。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ」
エルネストの視線が、わずかに細くなった。
新しい問題の匂いがした。
聖女様。
俺は今日、廊下を転ばずに歩けました。
それだけで十分な成果だったはずです。
なのに。
どうやら次は、中央神殿に見られることになるみたいです。




