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第29話 聖女様、少し個性的な猫を歩かせます

 リリアの部屋に戻ってきた。


 会議室からここまでは、専用のかごで運ばれた。


 毛布つき。


 中立紋つき。


 尻尾用の余裕あり。


 変わった後の俺に合わせて、急いで用意されたものらしい。


 ありがたい。


 ありがたいのだが、少し複雑だ。


 俺は第一進化を果たした。


 低級魔物から、白銀の幼聖魔獣になった。


 角も伸びた。


 銀紋も増えた。


 背中には、翼なのか膜なのかよく分からないものまで生えた。


 なのに移動はかご。


 進化した珍生物、運ばれる。


 締まらない。


 かなり締まらない。


 とはいえ、アリアに言われたことは正しい。


 歩行が安定するまでは必要です。


 はい。


 その通りです。


 俺はまだ、この体でまともに歩けない。


 前足は前より長い。


 尻尾も長い。


 体重も違う。


 背中のそれは、感情に反応して勝手にぴこっと動く。


 これで廊下を歩いたら、たぶん途中で転ぶ。


 そして、遠巻きに見ている神官や侍女たちの前で、白銀の角を持つ謎生物が転がることになる。


 噂になる。


 もう十分噂になっている気はするが、さらに余計な尾ひれがつく。


 白銀個体ノア、廊下で転倒。


 背中がぴこっと動いていた。


 やめてほしい。


 俺はリリアの部屋の結界台の上で、毛布に包まれたまま前足を見下ろした。


 白い前足。


 前より少し大きくなった肉球。


 毛もふわふわしている。


 見た目だけなら、まあ、猫っぽい部分もなくはない。


 ただし、角と銀紋と背中のそれを見なかったことにすれば、である。


 いや、角はリリア的には寝癖なのかもしれない。


 寝癖。


 無理がある。


 だいぶ無理がある。


「ノア」


 リリアが俺の前にしゃがんだ。


 会議のあと、少し休んだおかげか、顔色は朝よりましになっている。


 それでも、まだ疲れは残っていた。


 俺はじっとリリアを見た。


「きゅ」


 無理していませんか。


 リリアは一瞬だけ目をそらした。


 はい、怪しい。


「……少しだけです」


「きゅう」


 それは無理している側の返事です。


 アリアが横から言った。


「聖女様。ノアにまで見抜かれています」


「ノアはよく見ていますから」


「そういう問題ではありません」


 リリアは少し困ったように笑った。


 このやり取りも、もう何度目だろう。


 ただ、以前と違うのは、リリアが言い張らなくなったことだ。


 大丈夫です、とは言わない。


 少し疲れています。


 まだ続けられる状態です。


 無理だと思ったら休みます。


 そう言えるようになった。


 聖女様も成長している。


 俺は進化したけど、リリアも地味に進化している。


 いや、本人に言ったら首を傾げそうなので、黙っておく。


「歩いてみますか?」


 リリアが言った。


 俺は前足を見る。


 歩く。


 ついに来た。


 かご生活を脱するための第一歩。


 いや、文字通り第一歩である。


「きゅ」


 やります。


 リリアの顔が明るくなった。


「では、少しだけ練習しましょう」


「少しだけです」


 アリアがすかさず付け足した。


「窓には近づかない。扉にも近づかない。結界台の周りだけです。疲れたらすぐやめること」


「きゅ」


 分かりました。


「本当に分かっていますか?」


「きゅ……」


 たぶん。


「ノア」


 アリアの声が低くなった。


 怖い。


「きゅ」


 分かりました。


 アリアは満足げに頷いた。


「よろしいです」


 しつけられている。


 完全に。


 俺は元人間で、しかも中身は三十二歳だったはずだ。


 なのに今、護衛騎士に歩行訓練の注意事項を言い聞かされている。


 しかも反論できない。


 だって正しいから。


     ◇


 結界台の下には、柔らかい布が敷かれていた。


 滑りにくく、転んでも痛くないようにしてある。


 しかも中立紋入り。


 歩行練習用の敷物である。


 また専用装備が増えた。


 毛布。


 かご。


 結界台。


 聖力糸固定具。


 歩行練習用敷物。


 そのうち、ノア専用部屋でもできるのではないか。


 いや、今もリリアの部屋の一角がほぼ俺用になっている。


 猫ならキャットタワーとか置かれるのだろうか。


 この世界にキャットタワーがあるかは知らないが。


 いや、あっても困る。


 今の俺が登ったら、背中のそれが引っかかる未来しか見えない。


「ノア、まずは台から降りてみましょう」


 リリアが手を差し出しかけて、途中で止めた。


 触れていいのか迷ったのだろう。


 俺の聖属性耐性は上がった。


 でも、体が変わったばかりだから、無闇に触れない方がいい。


 そう司祭長に言われている。


 リリアは代わりに、細い聖力糸を俺の前足にそっと添えた。


 白い糸。


 今はもう痛くない。


 ちょうど、温かい布に触れているような感覚だった。


「支えますね」


「きゅ」


 お願いします。


 俺は前足を一歩、結界台の端に置いた。


 低い台だ。


 降りるだけなら簡単。


 そう思った。


 思ったのが間違いだった。


 前足を下ろした瞬間、体が前に流れた。


 え。


 思ったより重心が前に行く。


 後ろ足で支えようとする。


 尻尾が動く。


 長い。


 尻尾が前より長くて、思ったより遅れてついてくる。


 背中が、ぴこっと動く。


 驚いた。


 俺が驚いたせいで、さらにぴこっと動く。


 やめろ。


 お前が動くと余計に驚く。


「きゅっ」


 俺はそのまま、敷物の上に前のめりになった。


 転んだ。


 見事に。


 痛くはない。


 敷物が柔らかいから。


 でも、心は痛い。


 かなり痛い。


 新しい体での初歩行。


 第一歩で転倒。


 俺は敷物に顎を乗せたまま動けなかった。


 リリアが慌てる。


「ノア、大丈夫ですか?」


「きゅ……」


 体は大丈夫です。


 心は少しやられました。


 アリアが冷静に確認する。


「痛がってはいません。驚いているだけのようです」


 通訳が正確すぎる。


 リリアはほっとしたあと、少しだけ笑いそうになって、こらえた。


 見た。


 今、笑いそうになった。


「ノア、初めてですから」


「きゅう……」


 慰めが優しい。


 でも、余計に恥ずかしい。


 俺は前足に力を入れて起き上がろうとした。


 今度は慎重に。


 右前足。


 左前足。


 後ろ足。


 尻尾は、あまり動かさない。


 背中のそれは、意識しない。


 意識すると動く。


 意識しない。


 動くな。


 動くなよ。


 ぴこっ。


 動いた。


「きゅう……」


 なんでだ。


 リリアが目を輝かせる。


「ノアの背中が可愛く動きました」


「きゅ」


 今はそこを見ないでください。


 アリアが真面目に言う。


「感情に連動しているようですね」


 分析しないでください。


 恥ずかしいので。


 司祭長が部屋の端で記録を取っていた。


 いたのか。


 いや、いた。


 当然のようにいた。


「翼状器官は、感情反応と姿勢制御の両方に関わる可能性がありますな」


 記録された。


 俺の転倒と、背中がぴこっと動いたことが、学術的っぽく記録された。


 やめてほしい。


 ただ転んで恥ずかしかっただけなのに、立派な観察結果にしないでほしい。


「きゅう」


 司祭長は少しだけ笑った。


「失礼。観察だけにします」


 それは、今も観察はするということでは?


 俺は細かいことを考えないことにした。


 歩く。


 今は歩くことに集中する。


     ◇


 二回目。


 俺は結界台の下に立った。


 いや、立てた。


 すごい。


 立っている。


 四本足で立つこと自体は、変わる前にもやっていた。


 だが、今は体の大きさが違うせいで、立つだけでも感覚が違う。


 床が近いようで遠い。


 前足と後ろ足の距離も違う。


 尻尾の重さで、後ろに引っ張られる。


 でも、立てている。


「きゅ……」


 できた。


 小さく鳴くと、リリアが嬉しそうに頷いた。


「上手です」


 座った時も言われた気がする。


 ただ立っただけで褒められる。


 前世ではなかった経験だ。


 いや、赤ん坊の時ならあったのかもしれない。


 記憶にない。


 俺は前足を一歩出した。


 右。


 次に左。


 ゆっくり。


 焦るな。


 大丈夫。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 お。


 歩けている。


 かなりゆっくりだが、歩けている。


 リリアが声を抑えて言う。


「ノア、歩けています」


 分かっています。


 今、集中しているので話しかけないでください。


 そう思った瞬間、尻尾が敷物の端に触れた。


 びくっとした。


 背中が反応する。


 バランスが崩れる。


「きゅっ」


 俺は横にころんと転がった。


 二回目の転倒。


 今度は横。


 敷物のおかげで痛くない。


 痛くないが、恥ずかしい。


 俺はそのまま丸まった。


 もう毛布になりたい。


 敷物と一体化したい。


 リリアは今度こそ少し笑った。


 小さく。


 かなり小さく。


 でも笑った。


「ノア、転がるのも上手です」


「きゅう!?」


 それは褒めていますか?


 褒めているのですか?


 アリアが咳払いした。


「聖女様、今のは慰めとして少し不適切です」


「そうでしょうか」


「はい」


 リリアは俺を見た。


「では、ノア、もう一度やってみましょう」


 切り替えが早い。


 俺の心の傷はまだ癒えていない。


 だが、いつまでも丸まっていても仕方ない。


 俺は起き上がった。


 今度はさっきより少しスムーズだった。


 前足の位置。


 後ろ足の位置。


 尻尾は床に軽く触れる程度。


 背中は、動いても気にしない。


 気にすると崩れる。


 動いたら動いたで、そういうものだと思う。


 俺は一歩踏み出した。


 右。


 左。


 右。


 左。


 ゆっくり。


 かなりゆっくり。


 でも、進んでいる。


 結界台の周りを半周ほど歩いた。


 リリアが息を呑む。


 アリアも少しだけ目を細める。


 司祭長の筆が止まる。


 やめて。


 そんなに見ないで。


 集中が切れる。


 切れると転ぶ。


 俺は最後の一歩を踏み出し、なんとか結界台の前まで戻った。


「きゅ……!」


 歩けた。


 半周。


 たった半周。


 でも歩けた。


 俺は少し胸を張った。


 尻尾がふわりと揺れる。


 背中が、ぴこっと動く。


 今度は、恥ずかしいというより、少し誇らしかった。


 リリアがぱっと笑った。


「すごいです、ノア」


「きゅ」


 もっと褒めてもいいです。


 いや、今のは内心だけにしておく。


 アリアが言った。


「かなり安定しましたね。ですが、今日はここまでです」


「きゅ?」


 もう?


「転倒二回。歩行半周。まだ体に慣れていない状態としては十分です」


 正論。


 だが、せっかく感覚が掴めてきたのに。


 もう少しやりたい。


 俺はリリアを見た。


 リリアは少し迷った顔をした。


 いけるか?


 と思った瞬間、アリアがリリアを見た。


「聖女様」


「……今日はここまでにしましょう、ノア」


 負けた。


 リリアがアリアに負けた。


 いや、正しい判断である。


 俺も分かっている。


 無理はよくない。


 リリアにも言っている。


 なら、俺も従うべきだ。


「きゅ……」


 分かりました。


 少し不満です。


 リリアが俺の表情を見て微笑む。


「またあとで練習しましょう」


「きゅ」


 約束です。


     ◇


 歩行練習のあとは、毛布に戻された。


 戻された、という表現が正しい。


 俺が自分で戻ろうとしたら、結界台に上がるところでまたよろけたので、リリアの聖力糸に支えられながら、ほとんど誘導される形で戻った。


 悔しい。


 上がる方が難しい。


 下りるより、上がる方が大変。


 それも今日の学びである。


 俺は毛布の上に伏せた。


 体がじんわり疲れている。


 たった半周。


 それだけなのに、思ったより疲れた。


 変わったばかりの体で動くのは、かなり負担が大きいらしい。



状態:進化直後/安定化中


歩行適応:低


推奨:短時間訓練と休息



 歩行適応、低。


 分かっている。


 わざわざ言わなくてもいい。


 俺は画面を見て、そっと目をそらした。


 リリアが首を傾げる。


「ノア、何か見えましたか?」


「きゅ……」


 見えました。


 あまり見たくないやつです。


「無理しないで、ということですね」


 だいたい合っている。


 俺は頷くように鳴いた。


「きゅ」


 アリアが言う。


「では、次の訓練は夕方以降にしましょう。聖女様もそれまで休憩です」


「私もですか?」


「当然です」


「でも、ノアの毛布を」


「休憩です」


「はい」


 アリアが強い。


 とても強い。


 俺は毛布の中で安心した。


 この人がいれば、リリアはちゃんと休める。


 たぶん。


 リリアは少しだけ名残惜しそうに毛布を見たあと、長椅子に座った。


 横になるまではしなかったが、背もたれに体を預けている。


 まあ、合格。


 アリアもそれ以上は言わなかった。


 部屋に少し静かな時間が戻る。


 外の警備は続いている。


 ガルディアスの遠距離観測らしき気配は、薄く残っている。


 だが、強い干渉はない。


 俺は毛布の中で、さっき歩いた感覚を思い出していた。


 一歩。


 二歩。


 転んだ。


 また立った。


 半周できた。


 それだけだ。


 でも、大事な一歩だった。


 俺はもう、変わる前の小さな体ではない。


 この体に慣れなければならない。


 リリアを守るとか、ガルディアスに対抗するとか、その前に。


 まずは転ばずに歩く。


 ものすごく地味だ。


 でも、たぶん必要なことだ。


 俺は小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアが目を閉じかけたまま、うっすら笑う。


「頑張りましたね、ノア」


「きゅ」


 はい。


 頑張りました。


 少しだけ。


 リリアはそのまま、静かに呼吸を整えた。


 眠る一歩手前。


 ちゃんと休めそうだ。


 俺は前足を聖力糸に軽く重ねた。


 今は俺を支えるためというより、リリアがそばにいると感じるための糸だ。


 痛くない。


 温かい。


 部屋の外では、神官兵の足音がする。


 アリアは扉のそばで警戒している。


 司祭長は記録を整理している。


 俺は毛布に包まれている。


 そして、さっきより少しだけ歩ける。


 それで今は十分だ。


 聖女様。


 俺はまだ、半周歩くだけで転びます。


 でも。


 次にガルディアスが来るまでには、せめてリリアのところまで転ばずに歩けるようになっておきます。

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