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第25話 聖女様、珍生物の三日目が来ました

 条件達成まで、十八時間十二分九秒。


 その数字を見た時、俺は思った。


 まだ長い。


 けれど、ようやく見える距離まで来た。


 二十三時間台から始まったカウントダウンは、ガルディアスの偵察、精神干渉、黒煙、壁の旧修復痕への術式を越えて、十八時間台まで減っていた。


 楽ではなかった。


 まったく楽ではなかった。


 むしろ、ここまで削られたのにまだ十八時間あるのかと絶望した。


 だが、それでも進んでいる。


 一秒ずつ。


 一分ずつ。


 俺が毛布の中で震えていても。


 リリアが聖力糸を維持してくれていても。


 アリアが扉の前で剣を握っていても。


 司祭長が壁の聖印痕を封じていても。


 時間だけは、確実に進んでいた。


 夜が過ぎる。


 窓の外の闇が、少しずつ薄くなる。


 俺は毛布の中で、目を開けたまま夜明けを見ていた。


 眠らなかった。


 正確には、眠れなかった。


 黒煙で眠らされかけたせいで、眠ることそのものが怖くなっていた。


 リリアは「眠らずに休みましょう」と言ってくれた。


 目を閉じず、意識を落とさず、体の力だけを抜く。


 そんな休み方を、俺とリリアは何度も繰り返した。


 リリアも、ずっと起きていた。


 聖力糸を切らないために。


 俺を安定させるために。


 だから俺は、何度も鳴いた。


「きゅ……」


 休んでください。


 そう伝えるつもりで。


 けれどリリアは、そのたびに微笑んだ。


「私は、まだ続けられる状態です」


 大丈夫です、とは言わなくなった。


 アリアに禁止され、俺にも注意されたからだ。


 その言い換えだけで少し安心する。


 この聖女様は、自分の無理を少しずつ言葉にできるようになっている。


 それでも、疲れているのは分かる。


 顔色は少し白い。


 声も、いつもより小さい。


 それでも聖力糸は乱れなかった。


 細く。


 柔らかく。


 俺の前足に触れ続けていた。


---


条件達成まで:15時間48分31秒


現在状態:臨界安定


安定補助:聖力糸/中立紋/簡易毛布/覚醒補助


負荷:中


---


 夜明けの頃には、十五時間台まで来ていた。


 途中で何度か小さな干渉はあった。


 窓の外に一瞬だけ黒い視線。


 床下の感知聖印にかすかな揺れ。


 封印箱の中の黒い石が、こつんと鳴る音。


 だが、大きな攻撃はなかった。


 それが逆に怖かった。


 ガルディアスは、こちらの反応を見ていた。


 試していた。


 そして、たぶん待っている。


 三日目。


 俺が変わる瞬間を。


 聖女か。


 お前自身か。


 昨日の夜、ガルディアスはそう言った。


 嫌な二択だった。


 リリアを守るか。


 自分を守るか。


 どちらかを選べ、と言っているようだった。


 そんなもの、選びたくない。


 リリアを守りたい。


 でも、自分を捨てて器になるのも嫌だ。


 俺はノアのまま変わりたい。


 リリアが言ったように。


 ノアがノアのまま強くなる。


 都合がいい。


 甘い。


 そんなことができる保証はない。


 でも、俺はその道を選びたかった。


     ◇


 朝になると、神殿の空気が少し変わった。


 外では通常の祈りの鐘が鳴った。


 ただし、リリアの部屋の周囲だけは静かだった。


 人の出入りは制限され、廊下には神官兵が立ち、朝の祈りもこの部屋には届けないように調整された。


 聖属性が強くなりすぎると、俺の臨界安定に負担がかかるからだ。


 神殿なのに、祈りの光を抑える。


 聖女の部屋なのに、聖属性控えめ。


 俺のせいである。


 申し訳ない。


 だが、助かる。


 俺は毛布の中から小さく鳴いた。


「きゅ……」


 リリアがこちらを見る。


「ノア、気にしなくていいですよ」


 まだ何も言っていない。


 いや、鳴いたけど。


 伝わりすぎである。


「今は、ノアが安定することが一番大事です」


 リリアはそう言って、聖力糸を整える。


 その指先は少し震えていた。


 俺はすぐに気づいた。


「きゅ」


 リリア。


 手が震えています。


 リリアは一瞬だけ目を伏せ、それから正直に言った。


「少し疲れています」


 アリアがすぐに反応した。


「聖女様、休憩を」


「はい」


 リリアは素直に頷いた。


「聖力糸は維持したまま、呼吸を整えます」


 アリアは満足そうに頷く。


「よろしいです」


 俺は少し感動した。


 リリアが自分の疲れを認めた。


 しかも、すぐに休憩すると言った。


 すごい進歩だ。


 俺が異世界で進化待ちをしている間に、聖女様も少し進化している。


 いや、進化というと俺と被るか。


 成長している。


 リリアは椅子に深く腰掛け、聖力糸を細く保ったまま、ゆっくり呼吸を整えた。


 アリアは水を用意し、司祭長は聖力糸の揺れを確認する。


 俺は毛布の中で、リリアの糸に前足を添えた。


「きゅ」


 無理しないでください。


 リリアは目を閉じずに微笑んだ。


「はい。ノアもです」


 俺は黙った。


 それを言われると弱い。


 俺も無理をしがちである。


 リリアのことは言えない。


     ◇


 昼前。


 ガルディアスからの大きな干渉はなかった。


 だが、神殿側の緊張はさらに高まっていた。


 条件達成が近づいている。


 俺自身にも分かる。


 カウントダウンの数字は、頭の奥に張りついている。


 見ようとしなくても、薄く感じる。


 一時間進むたびに、体の奥の熱が少しずつ変わる。


 ただ熱いだけではない。


 形を持ちはじめている。


 角の根元。


 背中。


 尻尾の銀紋。


 前足。


 体中の奥で、何かが準備されている。


 俺は小さく震えた。


---


条件達成まで:9時間26分17秒


進化予兆が強まっています。


現在状態:臨界安定


注意:外部干渉に警戒してください。


---


 九時間台。


 一桁になった。


 それを見た瞬間、俺の中で恐怖と期待が同時に膨らんだ。


 近い。


 ようやく近い。


 この危なっかしい状態から抜けられるかもしれない。


 聖属性への耐性が得られるかもしれない。


 仮スキルが正式なものになるかもしれない。


 もう少し、リリアのそばにいても消えかけずに済むかもしれない。


 でも。


 ガルディアスも近づいている。


 俺の進化が近いということは、彼の狙う瞬間も近いということだ。


 期待と恐怖が混ざる。


 猛毒と回復薬を同時に飲んでいるようなものだ。


 助かるかもしれない。


 でも、間違えれば壊れる。


「きゅう……」


 俺は毛布の中で鳴いた。


 リリアがすぐに覗き込む。


「ノア、近いのですね?」


「きゅ」


 はい。


 かなり。


 司祭長が静かに言う。


「やはり、ノアの変化が近づくほど、体内の反応が強くなっています」


 アリアが問う。


「危険ですか」


「危険です。しかし、これは悪い変化とは限りません」


 司祭長は俺を見る。


「ノア自身の変化です。外から乱されなければ、安定する可能性が高い」


 外から乱されなければ。


 それが一番難しい。


 リリアは俺の前足に触れる聖力糸を見つめた。


「ノアがノアのまま変われるように、ですね」


「ええ」


 司祭長が頷く。


「そのためには、リリア様の聖力糸を乱さないこと。そして、ノア自身が外部の誘導に引きずられないことです」


 俺は息を呑んだ。


 外部の誘導。


 ガルディアスの幻影。


 黒い鎖。


 赤い目の白い獣。


 力が欲しいなら器を開け。


 リリアを守りたければ、自分を捨てろ。


 あの声が、まだ頭の奥に残っている。


 俺は前足で毛布を押さえた。


 背中にかかる小さな毛布。


 リリアの手作り。


 未完成だったはずなのに、いつの間にか端はきれいに縫われていた。


 俺が気づかない間に、侍女長とリリアが仕上げてくれていたらしい。


 角用の余裕もある。


 悔しいが、ありがたい。


 俺は毛布の感触を確かめた。


 これはガルディアスのものではない。


 リリアのものだ。


 器になるための道具ではない。


 ノアとして落ち着くためのものだ。


 そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。


---


安定補助:聖女の手作り毛布


精神状態:安定傾向


---


 名前が変わった。


 簡易毛布から、聖女の手作り毛布へ。


 ステータス画面まで、そこを反映するのか。


 少し笑いそうになった。


 俺が小さく鳴くと、リリアが嬉しそうにした。


「毛布、気に入ってくれましたか?」


「きゅ」


 はい。


 かなり。


 アリアが毛布を見て言う。


「角用の余裕も機能しているようですね」


「大切な個性用です」


「まだ言いますか」


「はい」


 リリアは真剣だった。


 このやり取りも、何度目だろう。


 だが、今はありがたい。


 いつもの会話。


 いつものズレ。


 それが俺を現実につなぎ止める。


     ◇


 午後。


 外からの警備報告が一気に増えた。


 北門外の旧施療小屋周辺で、魔性反応の残滓。


 神殿外壁の古い排水路付近で、黒い小石が一つ。


 庭の外周に、視線用と思われる小型魔性具の破片。


 すべて封印済み。


 だが、数が増えている。


 ガルディアスが近づいているのか。


 それとも、あらかじめ置いていたものが動き始めたのか。


 分からない。


 しかし、確実に包囲が狭まっているような感覚があった。


 アリアは部屋の中央へ少し位置を変えた。


 扉と窓の両方に対応できる場所。


 司祭長は壁の聖印と床下の中立紋を再確認する。


 リリアは聖力糸を維持したまま、呼吸を整えていた。


 俺は毛布の中で、カウントを見る。


---


条件達成まで:4時間03分55秒


---


 四時間。


 ついに、片手で数えられる時間になった。


 いや、今の俺に指はない。


 前足はある。


 でも片手で数えるという表現は、人間だった頃の感覚だ。


 どうでもいいことを考えていないと、怖さに飲まれそうだった。


 体の予兆はさらに強まっている。


 角が熱い。


 銀紋が明滅する。


 毛布の下で、背中がむずむずする。


 何かが生えそうな感覚。


 いや、やめて。


 怖い。


 翼か。


 翼なのか。


 今は考えたくない。


 俺は小さく震えた。


「きゅ……」


 リリアがすぐに言う。


「ノア、背中ですか?」


 伝わるのが早い。


 俺は鳴いた。


「きゅ」


 はい。


 何か変です。


 リリアが心配そうに毛布を見る。


「痛いですか?」


「きゅ……」


 痛いというより、変です。


 ぞわぞわします。


 司祭長が距離を保ちながら観察する。


「背中の銀紋が増えています」


 やっぱり。


 聞きたくなかった。


 アリアが冷静に問う。


「危険な変化ですか」


「今のところ、自然な変化に見えます。外部干渉の色はありません」


 自然な変化。


 それならいい。


 いや、よくはない。


 でも、ガルディアスの黒い鎖ではないなら、まだましだ。


 リリアは俺の前足に伸びる聖力糸を整えた。


「ノア、怖い時は私を見てください」


「きゅ」


 はい。


「変わっても、ノアはノアです」


「きゅ……」


 その言葉を信じたい。


 俺はリリアを見た。


 青い瞳。


 疲れているのに、まっすぐな目。


 俺を器ではなく、ノアと呼ぶ目。


 それを見ていると、背中のぞわつきが少しだけ耐えやすくなった。


     ◇


 残り二時間を切った頃、空気が変わった。


 窓際の鈴が鳴ったわけではない。


 扉側の鈴も静かだ。


 床下の感知聖印も反応していない。


 なのに、部屋の空気が重くなった。


 俺だけではない。


 アリアも、司祭長も、リリアも気づいた。


 何かが来る。


 ガルディアスだ。


 直接の姿はない。


 だが、気配が濃い。


 今までの視線や声より、ずっと近い。


 まるで、神殿の外側から、この部屋そのものを覗き込んでいるような圧。


 俺の危険察知が開いた。


---


危険察知:強反応


対象:不明


危険度:高


備考:複数の旧接続部から魔性反応が接近しています。


---


 複数。


 一つではない。


 窓でも、扉でも、壁でも、床でもない。


 全部の古い接続部から、細い黒い糸が近づいている。


 ガルディアスは、一点突破ではなく、神殿の古い傷をまとめて使うつもりだ。


 司祭長の顔色が変わった。


「来ましたな」


 アリアが剣を抜く。


「どこからですか」


「全部です」


 司祭長が杖を床に立てた。


「古い聖印痕、旧排水路、壁面修復痕、祈祷室の補助紋。複数の流路を同時に使っています」


「防げますか」


「防ぎます」


 司祭長の声は低かった。


「二十年前の失敗を、ここで繰り返すわけにはいきません」


 リリアは俺を見る。


「ノア」


「きゅ……」


 来ました。


 たぶん。


 本命ではないかもしれない。


 でも、今までとは違います。


 リリアは聖力糸を細く保ったまま言った。


「私はここにいます」


 その言葉だけで、俺は少し落ち着いた。


「ノアも、ここにいます」


「きゅ」


 はい。


 俺はここにいます。


 毛布の中で。


 結界台の上で。


 リリアの聖力糸に触れて。


 ガルディアスの器ではなく。


 ノアとして。


 その瞬間、部屋の四隅の鈴が同時に鳴った。


 ちりん。


 ちりん。


 ちりん。


 ちりん。


 白い音が重なる。


 壁の聖印が揺れた。


 床下の中立紋が光る。


 隣の祈祷室から神官たちの詠唱が聞こえる。


 そして、頭の奥に声が響いた。


『時が近い』


 ガルディアス。


 低く、楽しそうな声。


『白い獣。器よ。準備は整ったか』


 俺は歯を食いしばろうとした。


 だが、今の口ではうまくできない。


 代わりに鳴いた。


「きゅう……!」


 器じゃない。


 ノアだ。


 リリアが即座に言った。


「ノアです」


 ガルディアスの声が笑う。


『聖女よ。お前が名を与えたことで、それはよく育った』


「ノアは、あなたのものではありません」


『誰のものでもない。だからこそ、器になる』


 黒い糸が部屋の周囲を這う。


 司祭長の三層結界が光る。


 一層目、感知。


 二層目、遅延。


 三層目、隔離。


 黒い糸はすぐには入ってこない。


 だが、止まりもしない。


 じわじわと、結界の外側を撫でながら、弱い場所を探している。


 アリアが剣を構えたまま言う。


「斬る場所を示してください」


「まだです」


 司祭長が答える。


「流路が多すぎる。中心が見えるまで待つ」


 待つ。


 また待つのか。


 俺はカウントを見る。


---


条件達成まで:1時間12分18秒


---


 あと一時間ちょっと。


 近い。


 近すぎる。


 体の中の熱が一段階上がった。


 角が光る。


 銀紋が明滅する。


 背中のぞわつきが強くなる。


 毛布が少し持ち上がった気がした。


 リリアが息を呑む。


「ノア……」


「きゅ……」


 見ないでください。


 いや、見てください。


 分からない。


 恥ずかしい。


 怖い。


 でも、リリアに見ていてほしい。


 俺は自分でも何を思っているのか分からなかった。


 ガルディアスの声が甘く響く。


『聖女を守りたいか』


 俺は固まる。


『ならば、力を与えよう』


 黒い糸の一本が、結界の隙間を探り当てる。


 司祭長が叫ぶ。


「祈祷室補助紋の旧接続部!」


 アリアが即座に動く。


 剣が白く光り、隣の祈祷室へ向いた黒い糸を斬る。


 ぱきん。


 細い音。


 黒い糸が弾ける。


 だが、別の糸がすぐに壁から伸びる。


 多い。


 多すぎる。


 ガルディアスは一つ一つの糸を本命にしていない。


 全部を囮にしながら、本命の瞬間を待っている。


 俺の進化条件達成。


 その瞬間を。


 リリアの聖力糸が揺れた。


 俺の体が反応している。


 進化が近づくほど、リリアとの接続も敏感になっている。


 ガルディアスはそこを狙ってくる。


『聖女か、お前自身か』


 またその言葉。


『選べ』


 俺は震えた。


 リリアが俺を見つめる。


「ノア。選ばなくていいです」


「きゅ……」


「いいえ、違いますね」


 リリアは言い直した。


「その二つから選ばなくていいです」


 俺は顔を上げた。


 リリアの声は、疲れているのに強かった。


「私も守る。ノアも捨てない。その道を選びましょう」


 胸の奥が熱くなる。


 都合がいい。


 無茶だ。


 でも、それをリリアが言うなら。


 俺は信じたい。


「きゅう……!」


 俺は鳴いた。


 黒い糸が震える。


 俺の銀紋が白銀に光る。


---


進化方向への外部誘導を検知しました。


選択干渉:発生中


関係性補正:発動


拒否意志を確認しました。


---


 拒否。


 俺は拒否する。


 器になる道を。


 リリアを守るために自分を捨てる道を。


 自分を守るためにリリアを見捨てる道を。


 両方拒否する。


 俺は前足で聖力糸に触れた。


 リリアの糸が震えながらも、切れない。


 アリアが黒い糸を斬る。


 司祭長が封じる。


 神官たちが祈祷室から支える。


 俺は毛布の中で、体の奥の熱に耐える。


 時間が進む。


---


条件達成まで:00時間30分00秒


---


 三十分。


 あと三十分。


 ここまで来た。


 だが、ガルディアスの圧も強くなる。


 黒い糸が結界の外側で絡み合い、一つの大きな輪を作り始める。


 司祭長が叫んだ。


「中心が来ます!」


 部屋の壁、床、天井。


 すべての旧接続部から伸びた糸が、一点に集まる。


 狙いは、俺とリリアをつなぐ聖力糸。


 やはりそこだ。


 リリアの糸を通じて、俺の進化に干渉するつもりだ。


 アリアが踏み出す。


「斬ります!」


「まだ早い!」


 司祭長が叫ぶ。


「今斬れば、散った流路が全部ノアへ向かう!」


 最悪だ。


 斬れない。


 防ぐしかない。


 リリアは聖力糸を細く保ちながら、俺に言った。


「ノア、私を見てください」


 俺は見た。


「ガルディアスではなく、私を」


「きゅ……」


 はい。


「器ではなく、ノアとして」


「きゅ」


 はい。


「怖くても、ここにいてください」


 俺は震えながら鳴いた。


「きゅう……!」


 ここにいます。


 俺はここにいます。


 リリアのそばに。


 ノアとして。


 その瞬間、毛布が白く淡く光った。


 手作り毛布。


 中立紋。


 リリアの聖力。


 俺の銀紋。


 それらが小さく反応し、俺の周りに薄い膜を作る。


---


安定補助:聖女の手作り毛布


聖魔変換膜と連動しました。


臨界安定:維持


---


 毛布が連動した。


 もう本当に何でもありだ。


 でも、助かる。


 毛布の内側に、白銀の膜が広がる。


 リリアの聖力糸が、その膜にやわらかく接続される。


 黒い糸が触れようとする。


 だが、直接俺には届かない。


 膜で薄められる。


 リリアの糸で整えられる。


 俺の体で変換される。


 ガルディアスの声に苛立ちが混ざった。


『またそれか』


 そうです。


 またです。


 俺たちはそれで何度も耐えてきた。


 お前の嫌がるそれで、今回も耐える。


 俺は鳴いた。


「きゅうっ!」


---


条件達成まで:00時間05分00秒


---


 五分。


 体が熱い。


 角が割れそうだ。


 背中が燃えるように疼く。


 銀紋が全身を走る。


 リリアの聖力糸が、俺の前足から体の奥へ届いている。


 でも、焼けない。


 消えない。


 痛い。


 怖い。


 けれど、耐えられる。


 ガルディアスの黒い糸が一気に集まる。


 結界が軋む。


 アリアが剣を構える。


 司祭長が杖を床に叩きつける。


 リリアが俺を呼ぶ。


「ノア!」


「きゅう!」


 ここです。


 俺はここにいます。


---


条件達成まで:00時間00分10秒


---


 十秒。


 数字が見える。


 九。


 八。


 七。


 黒い糸が聖力糸へ伸びる。


 アリアの剣がその一部を斬る。


 六。


 五。


 司祭長の結界が黒い輪を遅らせる。


 四。


 三。


 リリアの聖力糸が俺の前足を包む。


 二。


 一。


---


第一進化条件を達成しました。


条件:聖女のそばで三日間生存する


達成確認。


進化を開始します。


---


 その瞬間、俺の体が白銀の光に包まれた。


 熱い。


 でも、燃える熱ではない。


 聖属性に焼かれる痛みとも違う。


 体の奥から、今まで耐えてきたものが形を変えていく。


 リリアの聖力。


 魔性への抵抗。


 黒い干渉を拒んだ意志。


 守りたいという気持ち。


 ノアのまま変わりたいという願い。


 全部が、俺の中で混ざり合う。


 ガルディアスの黒い糸が、進化の光へ飛び込もうとした。


『開け、器よ』


 違う。


 俺は器じゃない。


 俺は、ノアだ。


「きゅうううっ!」


---


外部干渉を確認しました。


進化方向への強制接続を拒否しています。


関係性補正:最大化


保護対象:リリア・セレスティア


認識:保護者/守りたい相手/帰る場所


---


 帰る場所。


 その表示を見た瞬間、俺はリリアを見た。


 彼女は聖力糸を離さなかった。


 怖いはずなのに。


 疲れているはずなのに。


 それでも、俺を見ていた。


「ノア!」


 俺の名を呼んでいた。


 その声が、進化の光の中で道標になる。


 黒い糸が、白銀の光に触れた。


 だが、飲み込まれない。


 むしろ、白銀の膜がそれを包み、薄め、押し返す。


 アリアが叫ぶ。


「今ですか!」


 司祭長が答える。


「今です!」


 アリアの剣が振り下ろされた。


 白い斬撃が、黒い糸の束を断つ。


 同時に、司祭長の結界が切れた流路を隔離する。


 神官たちの詠唱が重なる。


 リリアの聖力糸が、最後まで俺につながる。


 そして。


 俺の体が、完全に光の中へ沈んだ。


---


第一進化を実行中……


外部干渉:遮断中


進化方向:安定化


個体名:ノア


---


 名前が出た。


 種族名ではなく。


 分類でもなく。


 個体名。


 ノア。


 リリアがくれた名前。


 俺は光の中で、その名前にしがみついた。


 体が変わる。


 骨が軋む。


 毛並みが伸びる。


 角が熱を持つ。


 背中に何かが広がる。


 怖い。


 けれど、もう逃げられない。


 いや。


 逃げる必要はない。


 俺は変わる。


 ガルディアスの器としてではなく。


 リリアのそばで生きるために。


 ノアとして。


 白銀の光が部屋を満たす。


 黒い糸が焼け落ちる。


 リリアの声が聞こえる。


「ノア!」


 俺は、その声に応えるように鳴いた。


 だが、その声はもう、いつもの小さな「きゅ」ではなかった。


 光の中で、少しだけ澄んだ、知らない声が響いた。


「――きゅう!」


 そして、部屋の中に浮かんだステータス画面が、最後の一文を表示した。


---


第一進化が完了します。


---


 次の瞬間、光が弾けた。

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