第24話 聖女様、珍生物の朝まで起きています
眠らずに休む。
リリアはそう言った。
目を閉じない。
意識を落とさない。
けれど、体の力だけは少し抜く。
そんな器用なことができるのかと思ったが、意外にも効果はあった。
俺は小さな毛布の中で丸くなり、前足だけを外へ出していた。
その前足には、リリアの聖力糸がそっと触れている。
白く細い糸。
熱すぎず、弱すぎず、ただそこにある光。
その糸を感じていると、意識が完全に沈むことはなかった。
眠ればガルディアスに入り込まれるかもしれない。
だが、起き続ければ体が削られる。
だから、眠らずに休む。
かなり無茶な状態だ。
でも、今の俺たちにはそれしかなかった。
---
条件達成まで:21時間45分02秒
現在状態:臨界安定
安定補助:聖力糸/中立紋/簡易毛布/覚醒補助
負荷:中低
---
残り二十一時間台。
まだ長い。
だが、二十三時間台だった頃に比べれば、かなり進んだ。
俺はそれを希望として受け取ることにした。
見方を変えろ。
リリアがそう言ったわけではない。
でも、彼女はさっき、二十二時間半もある俺に対して「進みましたね」と言った。
その考え方は、悪くない。
まだ二十一時間もある。
ではなく。
二時間以上、耐えた。
そう考える。
少しだけ、心が軽くなる。
ほんの少しだけ。
「ノア、眠くありませんか?」
リリアが小声で尋ねた。
部屋の中は暗い。
壁の聖印は布で光を和らげられ、机の上の聖灯も低く抑えられている。
アリアは扉のそばに立っている。
司祭長は机の前で、封印具と記録を交互に確認していた。
神官兵たちの足音は、廊下の向こうから一定の間隔で聞こえる。
誰も寝ていない。
いや、交代で休んでいる者はいるらしい。
だが、この部屋の中にいる者は、誰も完全には気を抜けていなかった。
「きゅ」
眠いです。
でも、さっきの眠気とは違います。
普通に疲れて眠いです。
リリアは俺の鳴き声を聞いて、少しだけ眉を下げた。
「眠いけれど、危ない眠気ではない……でしょうか」
「きゅ」
たぶん。
伝わる。
本当に伝わる。
ここまで来ると、もう普通に会話しているのとあまり変わらない。
俺は魔物なのに。
珍しい獣扱いなのに。
鳴き声は「きゅ」なのに。
なぜか伝わる。
アリアが静かに言った。
「聖女様の理解力が上がっているのか、ノアの伝える力が上がっているのか、判断に困りますね」
「両方ではないでしょうか」
リリアは真面目に答えた。
「ノアも、前よりたくさん伝えようとしてくれています」
そうかもしれない。
最初の俺は、ただ生き残ることに必死だった。
今も必死だ。
だが、少し違う。
ただ逃げたいだけではない。
伝えたい。
危険を知らせたい。
リリアを守りたい。
俺は、そう思っている。
だから、鳴き声にも感情が乗るのかもしれない。
それが相手に伝わるのかもしれない。
ステータス画面は、それを見逃さなかった。
---
関係性による安定補正を確認しました。
対象:リリア・セレスティア
認識:保護者/守りたい相手
効果:精神干渉への抵抗が上昇しています。
---
守りたい相手。
もう何度か見た表示だ。
だが、見るたびに少しだけ胸の奥が熱くなる。
俺はリリアを守りたい。
その気持ちを、ガルディアスは利用しようとしている。
聖女を守るためなら、お前は開く。
そう言った。
たぶん、それは完全な間違いではない。
俺はリリアが危なければ無茶をする。
実際、今までもしてきた。
だが、それを器として利用されるのは違う。
守りたい気持ちは、誰かに利用されるためのものではありません。
リリアはそう言ってくれた。
なら、俺もそう信じる。
俺はリリアを守りたい。
でも、ガルディアスの器にはならない。
両方を選ぶ。
難しくても、選ぶ。
「きゅ……」
俺は小さく鳴いた。
リリアが優しく頷く。
「はい。ノアはノアです」
早い。
返事が早い。
もう、俺が何を考えているか半分くらい読まれているのではないか。
少し怖い。
でも、悪くない。
◇
夜がさらに深くなるにつれて、部屋の空気は重くなっていった。
何かが起きているわけではない。
それが逆にきつい。
ガルディアスは視線を飛ばしてきた。
声を送り込んできた。
黒煙で眠らせようとしてきた。
次は何をするのか。
リリアを眠らせる、と言った。
だからリリアの周囲には、覚醒補助の結界が張られている。
強すぎる聖光ではない。
空気を澄ませるような薄い結界。
俺にも刺激が少なく、リリアの聖力糸も乱さない。
司祭長の調整は見事だった。
だが、それでも安心はできない。
ガルディアスは、こちらが対策することも見越している気がする。
俺は毛布の中で、聖力糸に触れている前足を少し動かした。
リリアがすぐに気づく。
「ノア?」
「きゅ」
警戒した方がいいです。
何となく。
リリアは真剣な顔で頷いた。
「アリア」
「はい」
「ノアが何か気にしています」
アリアは即座に扉の方へ視線を向けた。
「窓ではなく、扉ですか?」
俺は耳を澄ませる。
窓ではない。
扉でもない。
床下でもない。
天井でもない。
どこだ。
分からない。
ただ、部屋の空気の端が少しだけざらついている。
俺は鼻を動かした。
匂いではない。
音でもない。
視線でもない。
もっと薄い。
部屋にある聖印の光が、ほんの少しだけ揺れている。
壁だ。
壁の聖印。
俺は壁を見た。
「きゅ」
アリアが視線を追う。
「壁?」
司祭長がすぐに杖を取った。
「壁面聖印、確認します」
司祭長が近づきすぎない距離で光を当てる。
壁の聖印は白く光っている。
異常はないように見える。
だが、俺には違和感があった。
白い線の端。
ほんの少しだけ、光が遅れている。
まるで、そこだけ呼吸のタイミングがずれているような。
俺は小さく鳴いた。
「きゅう……」
司祭長の目が細くなる。
「……なるほど。聖印そのものではなく、聖印に残った過去の修復痕ですな」
「修復痕?」
アリアが聞き返す。
「ええ。昔、この壁は一度損傷し、別の聖印で補強されています。表面の聖印は新しい。しかし奥に古い聖印の痕跡が残っている」
古い構造。
まただ。
ガルディアスは、神殿の古い部分を知っている。
今の結界ではなく、過去の接続部を狙う。
壁の修復痕も、その一つなのだろう。
司祭長が顔を険しくした。
「外からではなく、記憶に残った聖印痕へ干渉しようとしている」
記憶に残った聖印。
何だそれ。
聖印にも記憶があるのか。
いや、たぶん魔法的な残留痕のことだろう。
難しい。
でも危ないことだけは分かる。
俺の危険察知が開いた。
---
危険察知:中反応
対象:壁面聖印の旧修復痕
危険度:中
警告:遅延型術式の兆候があります。
---
遅延型。
つまり、すぐ発動するわけではない。
時間差で何かを起こす仕掛け。
今の状況でそれは最悪だ。
俺たちは二十時間以上、ここで耐えなければならない。
その途中に発動する罠を仕込まれたら、休む暇がなくなる。
「きゅう!」
俺は強く鳴いた。
司祭長が頷く。
「やはり、何かありますか」
「ノアの反応を見る限り、危険ですね」
アリアが剣を抜く。
司祭長はすぐに制止した。
「斬ってはいけません。旧修復痕は壁の奥にあります。力ずくで壊せば、壁の聖印全体が乱れる」
「では、どう処理しますか」
「発動前に、眠らせます」
眠らせる?
さっき俺たちを眠らせようとした相手に対して、今度は術式を眠らせるのか。
言葉としては皮肉だ。
司祭長は杖を壁へ向け、低い声で詠唱を始めた。
強い聖光ではない。
むしろ、白い布をかけるような穏やかな光。
壁の奥にある古い聖印痕を、刺激せず、覆い、静める。
リリアは俺の前足につながる聖力糸を細く保ったまま、息を整えていた。
アリアは扉と窓を同時に警戒する。
俺は毛布の中から壁を見つめる。
黒い気配はまだ薄い。
だが、確かにある。
壁の奥。
白い聖印の古い傷のような場所に、黒い針が刺さっている。
司祭長の光が、その針を包む。
だが、黒い針は静かに震えた。
次の瞬間、頭の奥にまた声が響いた。
『よく気づく』
ガルディアス。
声が近い。
壁の修復痕を通して、こちらへ届いている。
『聖女のそばで育った獣は、神殿の傷まで嗅ぎ分けるか』
俺は耳を伏せた。
気持ち悪い。
声が壁の中から染み出してくる。
まるで部屋そのものが喋っているみたいだ。
リリアが俺を見る。
「ノア、声ですか?」
「きゅ」
はい。
またです。
アリアの目が鋭くなる。
「司祭長、壁からの精神干渉です」
「分かっています。処理を急ぎます」
司祭長の額に汗が浮かんだ。
古い修復痕に触れる作業は、かなり繊細らしい。
強くやれば壊れる。
弱すぎれば残る。
その間に、ガルディアスの声が俺へ届く。
『眠りを拒んだか。ならば、起きたまま見せてやろう』
何を。
そう思った瞬間、壁の白い聖印に黒い影が映った。
映像。
いや、幻影か。
そこには、小さな白い獣が映っていた。
俺に似ている。
いや、俺だ。
ただし、今より少し大きい。
角が伸び、銀紋が体全体に広がり、背中から薄い翼のようなものが生えている。
そして、その周りには黒い鎖が絡みついていた。
リリアが息を呑む。
「ノア……?」
違う。
いや、俺かもしれない。
でも違う。
これはガルディアスが見せている幻影だ。
未来かもしれない。
嘘かもしれない。
ただの脅しかもしれない。
『器が開けば、こうなる』
ガルディアスの声が響く。
『聖女を守りたければ、力が必要だ。力が欲しければ、器を開け』
黒い鎖の中の白い獣が、ゆっくり顔を上げる。
目が赤く光っていた。
俺はぞっとした。
嫌だ。
あれは嫌だ。
強そうではある。
だが、俺ではない。
ガルディアスの言う器になった何か。
俺を使って作りたいもの。
そんな気がした。
「きゅう……!」
リリアがすぐに言った。
「見ないでください、ノア」
でも、見えてしまう。
壁に映っている。
頭にも入ってくる。
白い獣。
黒い鎖。
赤い目。
リリアを守る力。
それは、確かに少しだけ魅力的だった。
俺は弱い。
小さい。
今も毛布に包まれて、守られている。
リリアが危険になった時、俺はいつも無茶をするしかない。
もし、本当に力があるなら。
リリアを守れるなら。
そう考えた瞬間、ステータス画面が揺れた。
---
精神干渉:誘惑型
対象:ノア個体
危険度:高
警告:進化方向への外部誘導を確認しました。
---
誘惑型。
そうか。
これは脅しではない。
誘導だ。
怖がらせるだけではなく、欲しがらせようとしている。
リリアを守る力が欲しいだろう。
なら器になれ。
そう言っている。
俺は前足を震わせた。
リリアの聖力糸が揺れる。
リリアがすぐに、糸を強めずに整えた。
「ノア、力が欲しいと思ってもいいのです」
え。
俺はリリアを見た。
彼女は真っ直ぐ俺を見ていた。
「誰かを守る力が欲しいと思うのは、悪いことではありません」
リリアの声は穏やかだった。
「でも、そのためにノア自身を捨ててはいけません」
胸の奥が揺れた。
力が欲しい。
それ自体は悪くない。
そう言ってくれるのか。
リリアは続ける。
「ノアがノアのまま強くなること。それを選びましょう」
ノアのまま。
またその言葉。
俺は壁の幻影を見た。
黒い鎖。
赤い目。
器。
違う。
あれは俺のままではない。
俺は、リリアを守りたい。
でも、リリアが呼んでくれるノアでいたい。
なら、選ぶのはあれじゃない。
「きゅうっ!」
俺は鳴いた。
拒絶の声だった。
毛布の中から前足を出し、聖力糸に押し当てる。
リリアの糸が白く輝く。
俺の銀紋がそれに応える。
---
感情反応:拒絶
関係性補正:発動
進化方向への外部誘導を拒否しています。
---
壁の幻影が歪んだ。
黒い鎖が震える。
赤い目の白い獣が、ぼやけていく。
ガルディアスの声に、わずかな不快感が混ざった。
『聖女の言葉は邪魔だな』
その言い方に、俺は怒りを覚えた。
邪魔。
リリアの言葉を、邪魔と言った。
俺にとって、それは今一番必要なものなのに。
「きゅううっ!」
---
感情反応:怒り
聖魔変換膜が一時反応しました。
---
白銀の薄い膜が、俺の前足から広がる。
リリアの聖力糸を伝い、壁の幻影に向かう。
司祭長がすぐにそれを見た。
「ノア、強く当てすぎてはいけません!」
分かっています。
たぶん。
でも、止めるだけでは足りない。
あの幻影を、この部屋に残したくない。
リリアの声が続く。
「ノア、消すのではなく、薄めましょう」
薄める。
ああ。
まただ。
黒いものを全部焼くのではない。
リリアの聖力をそのままぶつけるのでもない。
俺の中で受け止めて、変える。
聖魔変換膜。
俺は意識を集中した。
壁の黒い針。
古い修復痕。
そこから流れる幻影。
ガルディアスの声。
それを、全部焼き切るのではなく。
膜で包む。
薄める。
流れを鈍らせる。
司祭長の光と合わせる。
リリアの糸で安定させる。
俺は鳴いた。
「きゅうっ!」
白銀の膜が、壁の幻影を包んだ。
黒い鎖が白く霞む。
赤い目が消える。
白い獣の影が、ただの光の染みになっていく。
ガルディアスの声が遠くなる。
『……なるほど。拒むか』
拒みます。
当然です。
『ならば、三日目に選ばせよう』
選ばせる?
何を。
嫌な予感がした。
『聖女か。お前自身か』
その言葉を最後に、声が消えた。
壁の旧修復痕に刺さっていた黒い針も、司祭長の光に包まれて静かになる。
聖印の揺れが収まった。
部屋に静けさが戻る。
俺は毛布の中で、がくりと力を抜いた。
---
遅延型術式の封眠に成功しました。
精神干渉を遮断しました。
進化方向への外部誘導を拒否しました。
臨界安定:維持
負荷:中低 → 中
---
負荷は上がった。
そりゃそうだ。
幻影を見せられ、誘惑され、拒絶して、壁の術式まで薄めた。
休んでいたはずなのに、また働いてしまった。
俺は毛布の中でぐったりする。
「きゅ……」
リリアが俺を覗き込む。
「ノア、よく頑張りました」
その声で、少しだけ救われた。
アリアは壁を確認しながら言う。
「今のは、進化を誘導しようとしていたのですか」
司祭長が重く頷く。
「おそらく。ガルディアスはノアの変化に干渉するだけでなく、ノア自身に選ばせるつもりなのでしょう」
「選ばせる?」
「ええ。自ら器になるように」
最悪だ。
無理やりだけではなく、選ばせる。
俺が自分で望んだ形に見せかける。
ガルディアスは、そういうことを狙っている。
リリアの表情が険しくなる。
「ノアは、選びません」
俺はリリアを見た。
リリアは俺に言っているのではなく、自分にも言い聞かせているようだった。
「選ばせません。ノアが苦しむ選択を、選ばせません」
「きゅ……」
ありがとうございます。
でも。
ガルディアスは言った。
聖女か、お前自身か。
嫌な二択。
きっと三日目に、それを突きつけてくる。
リリアを守るために自分を捨てるか。
自分を守るためにリリアを危険に晒すか。
そんな選択を迫るつもりなのだろう。
俺は毛布の中で、前足に触れる聖力糸を見た。
二択ではない。
俺は、そう思いたかった。
リリアを守る。
自分も捨てない。
ノアのまま強くなる。
リリアが言った道。
その道を選びたい。
でも、できるのか。
今の俺に。
ステータス画面は、静かに浮かんだ。
---
条件達成まで:18時間12分09秒
---
かなり進んでいた。
壁の術式対応に、それだけ時間がかかったらしい。
夜は深く、外はまだ暗い。
だが、数字は確かに減っている。
二十一時間台から、十八時間台へ。
あと十八時間。
まだ長い。
でも、第一進化は近づいている。
そして同時に、ガルディアスの本命も近づいている。
リリアが俺の背中の毛布を少し整えた。
聖力糸は切れていない。
アリアは壁と扉と窓を順に見た。
司祭長は疲れた顔で、それでも杖を下ろさなかった。
誰も無傷ではない。
だが、まだ崩れていない。
俺は小さく鳴いた。
「きゅ……」
聖女様。
ガルディアスは、俺に嫌な選択をさせるつもりみたいです。
でも。
俺はできれば、あなたの言葉の方を選びたいです。
ノアがノアのまま強くなる。
そんな都合のいい道を。
俺は、選びたい。




