ネギたま牛丼メガつゆだくだくだく明太マヨトッピング温玉変更
凛から電話が来た時、レオンは笑った。
声には出さない。
受話口に乗せるのは、低くて優しい声だけだ。
『もちろん。迎えに行くよ』
そう言って通話を切る。
窓の向こうには、都心の夜景が広がっていた。
昔、ゴールネット越しに見上げた空とは違う。土埃も、汗臭いユニフォームも、負けた後の沈黙もない。
今の自分には、高層マンションの窓と、黒い車と、マネージャーと、仕事の予定表がある。
そして、国民的アイドル原宿凛がいる。
「見てるか、岡野」
レオンは誰もいない部屋で呟いた。
「お前じゃ届かない高みに、俺はいる」
中学のグラウンド。
十六対ゼロ。
十二ゴール四アシスト。
顔はプロ。
あの時の笑い声は、まだ耳の奥に残っている。
けれど、もう違う。
「もうお前のことなんて、気にもならないくらい俺は格上だ」
そう言って、レオンはスマホを握った。
気にもならない。
そのはずなのに、岡野貴之という名前は、まだ胸の奥に刺さっていた。
◇
レオンの車が凛のマンション前に着いたのは、深夜を少し回った頃だった。
凛はキャップを深くかぶり、マスクをして、エントランスから出てきた。
顔色が悪い。
でも綺麗だった。
壊れそうなほど綺麗で、レオンは少しだけ本気で見惚れた。
「凛」
車から降りて、彼女に近づく。
凛は小さく笑った。
「ごめんね、急に」
「急じゃないよ。凛ならいつでもいい」
その言葉に、凛の肩が少しだけ緩んだ。
簡単だ、とレオンは思った。
優しい言葉をかける。
否定しない。
触れすぎない。
でも、離れない。
それだけで、凛は沈んでくる。
もちろん、ただの計算ではなかった。
弱った凛は、本当に可愛い。
自分だけを頼っている女の子。
国民的アイドルなのに、今は自分の一言で揺れる女の子。
レオンは、その感覚が嫌いではなかった。
「どこ行く?」
助手席に乗った凛が聞いた。
「少しだけ、人に会う」
「今から?」
「うん。大事な人たち。凛のこともちゃんと紹介したい」
凛の表情が硬くなった。
「また?」
昨日のラウンジを思い出している顔だった。
レオンはすぐに優しく笑う。
「無理ならやめるよ」
嘘だった。
やめるつもりはない。
今夜の席には、映画プロデューサー、配信会社の役員、ファッション誌の編集長、そしてスポンサー筋が来る。
レオン一人では届かなかった席。
でも、凛が隣にいれば話が早い。
熱愛報道はダメージではない。
使い方次第で、踏み台になる。
「……私、行ったほうがいい?」
凛が聞いた。
「凛がいてくれたら、嬉しい」
答えになっていない答え。
でも、今の凛にはそれで十分だった。
「分かった」
凛は窓の外を見た。
「行く」
レオンはハンドルを握りながら、静かに笑った。
◇
会員制ラウンジは、看板のないビルの最上階にあった。
エレベーターの扉が開くと、柔らかい照明と、重たい香水の匂いが流れてきた。
店内には大きなソファ。
低いテーブル。
高そうな酒瓶。
笑い声。
凛は一瞬、足を止めた。
「大丈夫」
レオンが背中に手を添える。
「俺がいる」
その手の温度が、今の凛には頼りなくて、でも逃げる理由にもならなかった。
「おお、レオン!」
奥の席から、恰幅のいい男が手を上げた。
隣にはスーツ姿の男たちと、モデルのような女の子が数人。
視線が一斉に凛へ向く。
「本物じゃん」
「原宿凛?」
「すご。テレビより白いな」
「レオン、やるねえ」
凛は笑った。
条件反射だった。
原宿凛の笑顔。
どんな時でも場を明るくする、仕事用の顔。
「初めまして、原宿凛です」
「いやあ、まさか本当に連れてくるとはね」
映画プロデューサーらしい男がグラスを掲げる。
「レオンくん、最近勢いあると思ったけど、これは本物だ」
「やめてくださいよ」
レオンは照れたように笑う。
「凛はそういうんじゃないです。大事な人なんで」
大事な人。
その言葉に、凛の胸が少しだけ温かくなる。
でもすぐに、別の男が言った。
「じゃあ大事な人に一杯作ってもらおうかな」
場が笑った。
冗談。
分かっている。
でも、レオンは止めなかった。
むしろ自然な顔で、凛の方を見る。
「凛、悪いけどお願いしていい?」
凛は一瞬だけ固まった。
そして笑った。
「はい」
テーブルの上の酒瓶を取る。
氷を入れる。
炭酸を注ぐ。
マドラーで軽く混ぜる。
「お上手だね」
「そんなことないです」
「いやいや、アイドルに作ってもらう酒なんて贅沢だ」
また笑い声。
凛も笑った。
笑うしかなかった。
それから時間は、妙に長く続いた。
「凛ちゃん、こっち座って」
「いや、レオンの隣じゃないと怒られるか」
「写真はさすがにダメ?」
「今度、うちの配信ドラマに二人で出てよ」
「熱愛からの共演って話題性あるよね」
「ファンも最初は荒れるけど、ちゃんと演出すれば美談になる」
「国民的アイドルと若手俳優の純愛って、いいじゃん」
凛は相槌を打った。
笑った。
グラスを持った。
勧められた料理を少し食べた。
質問に答えた。
レオンは隣で、上手く場を回していた。
凛の話題を出し、自分の仕事につなげ、相手を持ち上げる。
完璧だった。
完璧すぎて、凛は怖くなった。
私、何をしてるんだろう。
ラウンジ嬢みたいなことをしている。
もちろん、その仕事を選んで誇りを持っている人を馬鹿にする気はない。
笑顔で空気を読み、人を楽しませるのは簡単なことじゃない。
でも。
私は、いつこれを選んだ?
アイドルになりたかった。
歌いたかった。
踊りたかった。
貴之くんの好きな女の子になりたかった。
それが間違いだったとしても、少なくとも自分で走っていた。
今は違う。
レオンの隣に置かれて、レオンの価値を上げるために笑っている。
国民的アイドル原宿凛。
その肩書きが、レオンの名刺みたいに使われている。
「凛ちゃん、幸せそうだね」
誰かが言った。
凛は笑った。
「はい。幸せです」
嘘だった。
喉の奥で、その言葉が腐っていく。
私の幸せはどこ。
どこに置いてきたんだろう。
◇
レオンは、凛が曇っていくのを横目で見ていた。
気づいていないわけじゃない。
むしろ、よく分かっている。
凛は今、限界に近い。
岡野に振られた。
飛鳥にも揺さぶられた。
自分が誰のものなのか、自分でも分からなくなっている。
だからこそ、今だった。
人は弱っている時に、強い光へ寄っていく。
レオンは、その光になればいい。
たとえそれが照明で作った偽物でも。
「レオンくん、次の映画の件だけどね」
プロデューサーが身を乗り出した。
「君単体でも悪くない。でも、今なら原宿凛との話題性がある。二人セットなら、上に通しやすい」
「ありがとうございます」
「恋愛もの、いける?」
「もちろんです」
「凛ちゃんも出てくれたら最高なんだけど」
凛の肩が小さく跳ねる。
レオンは先に答えた。
「彼女の事務所と相談ですね。でも、前向きに話します」
凛がこちらを見る。
何か言いたそうだった。
レオンは微笑んだ。
大丈夫。
そう目で伝える。
凛は何も言わなかった。
この沈黙も、今のレオンには都合がよかった。
見てるか、岡野。
お前が振った女の子は、俺の隣で価値になっている。
お前が「みんなの凛」だと言って手放したその子を、俺はこの世界の上へ連れていく。
いや、違う。
俺が上へ行くために、連れていく。
サッカーのゴール前で、お前は俺を見下ろした。
今度は俺の番だ。
この席には、お前は呼ばれない。
この酒は、お前には注がれない。
この名刺も、この企画書も、この夜景も、お前には届かない。
レオンはグラスを傾けた。
勝っている。
そう思った。
なのに、胸の奥の小さな傷はまだ疼いていた。
◇
店の空気が変わったのは、夜中の一時を過ぎた頃だった。
入り口の方で、誰かがざわついた。
「桜ちゃん来た」
「マジ?」
「今日いたんだ」
凛が顔を上げる。
黒いミニワンピースに、長いコート。
髪は赤みのあるブラウンで、唇は深いローズ色。
派手なのに品がある。
品があるのに危ない。
女王みたいな女の人が、こちらへ歩いてきた。
「レオン」
その声を聞いた瞬間、レオンの表情が少しだけ変わった。
ほんの一瞬。
でも凛は見逃さなかった。
「桜」
レオンが立ち上がる。
駒込桜。
凛も名前は知っていた。
モデル。
インフルエンサー。
女優も少し。
夜系ファッション誌では伝説みたいに扱われている女の人。
そして、レオンの元カノ。
噂でしか知らなかった。
でも今、目の前にいる。
「久しぶりじゃん」
桜は笑った。
そして、何の前触れもなくレオンの首に腕を回した。
次の瞬間、二人の唇が重なった。
深く、熱いキスだった。
周りが盛り上がる。
「おおー」
「相変わらずだな」
「桜ちゃん強い」
凛は動けなかった。
グラスを持ったまま、指先だけが冷えていく。
レオンは最初、驚いたように固まった。
でも突き放さなかった。
桜の腰に手を添えた。
その仕草が、自然すぎた。
凛は理解した。
この二人は、こういう距離を知っている。
自分が知らないレオンを、桜は知っている。
やがて桜が唇を離した。
「相変わらず顔いいね、あんた」
「いきなり何するんだよ」
「挨拶」
「昔と変わらないな」
「変わったよ。あんたが気づいてないだけ」
桜はそこで、凛を見た。
視線が絡む。
凛は反射的に笑おうとした。
でもうまくいかなかった。
桜は面白そうに目を細める。
「へぇ、可愛いじゃん」
凛の喉が鳴った。
「原宿凛ちゃんだよね。テレビで見るより、ずっと甘そう」
桜は凛の隣に座った。
香水の匂いが強くなる。
「あーしも食べちゃおっかなー」
冗談みたいな声。
でも目は笑っていなかった。
凛は背筋が固まった。
「やめろよ、桜」
レオンが軽くたしなめる。
軽い。
軽すぎる。
「何? 大事な彼女だから?」
「そう」
「ふーん」
桜は凛の顔を覗き込んだ。
「大事にされてる?」
凛は答えられなかった。
桜は笑った。
「あ、これ聞いちゃダメなやつ?」
「桜」
レオンの声が少し低くなる。
桜は肩をすくめた。
「ごめんごめん。怖い顔しないでよ。あーし、レオンの成功を祝いに来ただけだし」
「成功?」
「そう。国民的アイドル捕まえたんでしょ? 仕事増えるじゃん」
凛の胸に、鋭いものが刺さった。
捕まえた。
仕事が増える。
場は笑っている。
誰も、その言葉を否定しない。
レオンも、強くは否定しない。
「言い方」
「でも事実じゃん」
桜はグラスに酒を注いだ。
「レオンは昔からそう。上に行くためなら、使えるものは全部使う」
「桜もだろ」
「うん。だから別れたんじゃん」
二人は笑った。
昔を共有する笑い方だった。
凛だけが置いていかれる。
「凛ちゃん」
桜が急に優しい声を出した。
「レオンのこと、好き?」
凛は唇を開いた。
でも、言葉が出なかった。
好き。
その言葉の形が分からない。
貴之くんが好きだった。
飛鳥が好きだった。
レオンが優しかった。
でも今、自分は誰を好きなのか。
それとも、誰かに好きでいてほしいだけなのか。
「分かんない顔してる」
桜はくすっと笑った。
「可愛い。そういう子、夜に沈むの早いよ」
「桜、やめろ」
レオンが今度は少し本気で言った。
桜は立ち上がる。
「はいはい。じゃあ今日はこの辺で」
去り際に、桜は凛の耳元へ顔を寄せた。
「レオンに食べられる前に、自分で自分の味くらい知っときな」
意味は分かるようで、分からなかった。
でも、ひどく嫌な言葉だった。
桜は笑って、別の席へ去っていく。
凛は膝の上で手を握った。
ネイルが手のひらに食い込む。
痛い。
痛いのに、それが少しだけ安心した。
まだ私は、痛いって分かる。
◇
凛は耐えきれず、席を立った。
「ごめんなさい。お手洗い」
「ああ」
レオンはすぐに立とうとした。
でもプロデューサーに呼び止められる。
「レオンくん、ちょっとこの資料見て」
「はい」
レオンは一瞬迷い、それから凛に目で謝った。
凛は笑った。
「大丈夫」
また嘘。
トイレまでの廊下は、店内より静かだった。
鏡の前に立つ。
そこに映るのは、原宿凛。
ミルクティー色の髪。
白い肌。
甘いリップ。
長いまつ毛。
貴之くんの好きな白ギャル。
だったもの。
「何やってるんだろう」
声に出すと、涙が出そうになった。
でも泣けなかった。
メイクが崩れるから。
仕事中だから。
レオンの大事な人だから。
国民的アイドルだから。
理由はいくらでもあった。
本当は、泣いたら全部終わりそうで怖かった。
貴之くんに振られた。
凛、お前じゃない。
飛鳥は好きって言ってくれた。
でもその飛鳥に、貴之くんが告白した。
レオンくんは優しい。
でも今、私はレオンくんの隣で何をしている?
私の幸せはどこ。
小学生の頃、貴之くんの後ろを歩いていた時。
中学で初めてリップを塗った時。
原宿でスカウトされた時。
ステージで名前を呼ばれた時。
レオンくんに抱きしめられた時。
飛鳥に「私がいる」と言われた時。
どこかには、あったはずなのに。
今はもう、どこを探しても見つからない。
スマホを取り出す。
連絡先の上で指が迷う。
飛鳥。
押せない。
飛鳥の声を聞いたら、泣いてしまう。
責めてしまう。
縋ってしまう。
貴之くん。
押す理由がない。
正式に振られた。
もう私じゃない。
レオンくん。
今、席にいる。
なのに遠い。
凛はスマホを握ったまま、洗面台に両手をついた。
「帰りたい」
どこへ?
その答えが出なかった。
◇
飛鳥は、自分の部屋の床に座っていた。
電気はつけていない。
スマホの画面だけが、暗い部屋に浮いている。
貴之に告白された。
その事実が、頭の中で何度も再生される。
『俺が好きなのは、お前なんだよ』
馬鹿じゃないの。
そう思う。
最低だと思う。
凛を正式に振った直後に、凛の目の前で、自分に告白するなんて。
人の心がない。
本当にそう思った。
ビンタした手のひらには、まだ感触が残っている。
それなのに。
「なんで……」
飛鳥は膝を抱えた。
胸の奥が、ずっと熱い。
怒りだけじゃない。
嫌悪だけじゃない。
喜び、なんて言葉は使いたくなかった。
でも、全く嬉しくなかったと言えば嘘になる。
貴之は、飛鳥の汚い部分を見た。
凛をアイドルにしたこと。
レオンと組んだこと。
凛を貴之から離そうとしたこと。
自分の欲を隠して、優しさみたいな顔をしていたこと。
全部、知られてしまった。
それでも好きだと言われた。
それは、飛鳥にとって初めての経験だった。
飛鳥はずっと、凛を好きだった。
幼い頃から女の子が好きで、凛が特別で、凛の幸せを願っているつもりだった。
でもその願いは、いつの間にか歪んだ。
凛を守るふりをして、囲いたかった。
貴之から切り離したかった。
レオンを利用した。
結果、凛を傷つけた。
あいつが凛にやってきたことは許せない。
貴之が凛に甘えたこと。
貴之が凛を理想の女の子として見たこと。
貴之が凛を振ったこと。
そして、最後にまた凛を傷つけたこと。
全部許せない。
なのに。
好きって言われた。
この気持ちは何?
恋ではない。
そう言い切りたい。
でも、胸の奥にある熱が邪魔をする。
怒りの形をした何か。
嫌悪の下に沈んだ何か。
見られてしまった恥ずかしさと、見捨てられなかった安堵。
飛鳥はスマホを開いた。
凛に電話をかけようとして、止まる。
今、自分が凛に何を言える?
貴之に告白された。
少し揺れている。
でも凛が好き。
そんなぐちゃぐちゃな状態で、凛の前に立てるのか。
「最低だ、私」
呟いた時、通知が来た。
SNSのおすすめ欄。
駒込桜のストーリーが流れてきた。
会員制ラウンジらしき場所。
グラス。
夜景。
ぼかされた人影。
でも、端に映ったミルクティー色の髪を、飛鳥は見逃さなかった。
凛だ。
次のストーリーには、レオンの横顔が映っていた。
さらに次。
桜が笑いながら、誰かに寄りかかっている。
映像は一瞬ぶれていたが、その奥で凛がグラスを持っていた。
飛鳥の血の気が引いた。
「何やってんの、あいつ……」
レオン。
あいつは凛を守ると言った。
でもこれは何?
守る顔じゃない。
見せびらかしている顔だ。
凛を、使っている。
飛鳥は凛に電話した。
出ない。
もう一度。
出ない。
メッセージを送る。
『今どこ?』
『凛、返事して』
『レオンといるの?』
既読はつかない。
飛鳥は立ち上がった。
行くしかない。
でもどこへ?
ラウンジの場所なんて知らない。
駒込桜のストーリーを何度も見返す。
窓の外の景色。
ビルの形。
内装。
飛鳥は検索を始めた。
凛を救いたい。
そう思った。
でも同時に、胸の奥で別の声がする。
凛が弱っているなら、今度こそ自分のところへ来てくれるかもしれない。
その声に気づいた瞬間、飛鳥は吐き気がした。
「違う」
自分に言い聞かせる。
「今度こそ、違う」
それでも、その言葉が本当かどうかは分からなかった。
◇
レオンは、凛がなかなか戻ってこないことに気づいていた。
でも席を立てなかった。
プロデューサーが、今まさに次の仕事の話をしている。
「主演はまだ早いかもしれない。でも二番手なら押せる」
「ありがとうございます」
「ただ、今の君は恋愛報道込みで注目されてる。そこを上手く使いたい」
「分かります」
「凛ちゃんの事務所が渋ったら?」
「説得します」
「できる?」
レオンは笑った。
「俺に任せてください」
その時、桜が隣に戻ってきた。
「言うねえ」
「桜」
「凛ちゃん、戻ってこないね」
「すぐ戻る」
「本当に?」
桜はグラスを揺らした。
「あの子、壊れかけてるよ」
「余計なこと言うな」
「余計かなあ。あーし、親切で言ってるんだけど」
「君の親切は高い」
「分かってるじゃん」
桜は笑った。
「レオン、あんた変わってないね」
「変わったよ」
「ううん。昔と同じ。自分を馬鹿にしたやつを見返すために、ずっと上見てる」
レオンの目が細くなる。
「何が悪い」
「悪くないよ。あーしもそういう男、嫌いじゃない」
桜は顔を近づけた。
「でもさ、復讐って燃料にすると、燃え尽きたあと寒いよ」
「説教?」
「経験談」
桜はレオンの胸元を指で軽く叩いた。
「凛ちゃん、あんたの復讐道具にするには柔らかすぎる」
「道具じゃない」
「じゃあ何?」
「大事な人だ」
「便利な言葉」
レオンは黙った。
その沈黙を、桜は笑った。
「あんた、岡野くんだっけ? まだ気にしてるんでしょ」
レオンの表情が消える。
「名前出すな」
「やっぱり」
「桜」
「凛ちゃんじゃなくて、岡野くん見てるみたい。あんた」
その言葉は、的確だった。
的確すぎて、レオンは何も言えなかった。
凛を見ている。
そう思っていた。
でも本当は、凛の向こうに岡野貴之を見ている瞬間がある。
岡野が手放した女を、自分が持っている。
岡野が届かない場所に、自分が立っている。
その証明として、凛を隣に置いている。
桜は見抜いていた。
「それ、凛ちゃんにバレたら終わるよ」
「終わらない」
「どうかな」
桜は立ち上がった。
「せいぜい大事にしてあげな。壊れた女の子は綺麗だけど、壊しきったら光らないから」
そう言って、また別の席へ消えた。
レオンはグラスを置いた。
苛立っている。
岡野の名前を出されたからか。
桜に見抜かれたからか。
凛が戻ってこないからか。
自分でも分からなかった。
◇
凛はトイレから出たあと、非常階段へ向かった。
空気が欲しかった。
ドアを開けると、冷たい風が入ってくる。
階段の踊り場に座り込む。
スマホの画面は暗いまま。
飛鳥からの着信が何件も入っていた。
メッセージも来ている。
『今どこ?』
『凛、返事して』
『レオンといるの?』
凛は画面を見つめた。
返事をしたい。
でも、何て?
助けて?
また?
私は飛鳥に何回助けてもらうつもりなんだろう。
飛鳥だってぐちゃぐちゃなのに。
貴之くんに告白されたのに。
凛は膝に顔を埋めた。
泣きたかった。
でも涙は出なかった。
代わりに、胸の奥に黒い水が溜まっていく。
貴之くんに選ばれなかった。
レオンくんには使われているかもしれない。
飛鳥には頼れない。
じゃあ、私は?
私は私を選べるの?
その答えも出なかった。
非常階段のドアが開く。
レオンだった。
「凛」
彼は息を切らしていた。
本当に探してくれたのかもしれない。
凛は顔を上げた。
「ごめんね」
「謝らなくていい」
レオンは隣に座った。
「疲れた?」
「少し」
「桜のこと?」
凛は黙った。
レオンは息を吐く。
「あいつは昔からああなんだ。悪気は……いや、あるな。悪気ある」
「元カノなんだよね」
「うん」
「今も好き?」
「まさか」
「キスしてた」
「向こうが勝手に」
「レオンくん、止めなかった」
レオンは言葉に詰まった。
凛は初めて、少しだけ責めるように彼を見た。
「私、何なの?」
「凛は凛だよ」
「そういうのじゃなくて」
凛の声が震えた。
「私、今日、何しに来たの? レオンくんの大事な人として? 彼女として? それとも、仕事のため?」
「全部だよ」
その答えは、最悪だった。
レオンも言った瞬間に気づいた。
でも遅かった。
凛の目から光が一つ消えた。
「そっか」
「違う、今のは」
「違わないよ」
凛は笑った。
「私、便利だもんね。国民的アイドルだし。熱愛出たし。レオンくんと一緒にいたら、話題になるもんね」
「凛」
「私も悪いよ。分かってて来た。嫌なら断ればよかった。でも、断ったら一人になるのが怖かった」
凛は両手を握る。
「私、誰かに好きって言われたかっただけなのかな」
レオンは何も言えなかった。
ここで「俺は好きだ」と言えばいい。
簡単だ。
でも、その言葉が今の凛に届くか分からない。
そして何より、自分の中に混ざっている復讐心を、レオン自身が否定しきれなかった。
「凛」
ようやく彼は言った。
「俺は君を利用してるかもしれない」
凛が顔を上げる。
「最低だけど、そういう部分はある」
「……」
「でも、それだけじゃない」
「信じていいの?」
レオンは答えようとした。
その時、スマホが震えた。
マネージャーからだった。
『プロデューサーが帰る前に戻って。次の映画の話、今決めたい』
レオンの視線が一瞬だけ画面へ落ちる。
凛はそれを見た。
ほんの一瞬。
でも、もう十分だった。
「戻っていいよ」
「凛」
「仕事、大事でしょ」
その言い方は優しかった。
優しすぎて、突き放していた。
レオンは立ち上がれなかった。
でも、立たないこともできなかった。
「すぐ戻る」
そう言ってしまった。
凛は笑った。
「うん」
レオンが非常階段を出ていく。
扉が閉まる。
凛は一人になった。
今度こそ、涙が落ちた。
◇
その頃、岡野貴之は異様に清々しい気持ちで歩いていた。
飛鳥に告白した。
凛を正式に振った。
飛鳥にはビンタされた。
凛は部屋にこもった。
客観的に見れば、地獄みたいな夜である。
だが俺は、不思議と空が広く見えていた。
言いたいことを言えたからだ。
もちろん最低だった。
タイミングも最悪だった。
飛鳥の怒りも当然だ。
それでも、俺は初めて逃げなかった。
凛に曖昧な態度を取らなかった。
飛鳥への気持ちも隠さなかった。
自分が最低だということも、もう誤魔化さなかった。
ここからが人生のリスタートだ。
俺はそう思った。
人間、やり直せる。
たぶん。
知らんけど。
問題は、腹が減っていたことだった。
感情をぶつけると、腹が減る。
これは生理現象だ。
俺は駅前の牛丼屋に入った。
店名はスキー家。
赤い看板。
明るすぎる照明。
深夜でも変わらない味の匂い。
最高だ。
俺は迷わなかった。
「ネギたま牛丼メガ、つゆだくだくだく、明太マヨトッピング、温玉変更で」
店員が一瞬止まった。
「えっと、ネギたま牛丼メガ、つゆだくだくだく、明太マヨ、温玉変更ですね」
「はい」
「つゆだくだくだくですと、かなりつゆ多めになりますが」
「人生もそれくらい汁気が欲しいんで」
「はあ」
店員は何も聞かなかった。
プロだ。
席に座る。
水を飲む。
しばらくして、丼が来た。
でかい。
メガは正義だ。
牛肉が山のように乗っている。
青ネギがその上に広がり、温玉が中央に鎮座している。
明太マヨが脇から攻めてくる。
つゆはだくだくを超え、もはや丼の底で海になっていた。
俺は箸を割った。
温玉を崩す。
黄身が流れる。
明太マヨとつゆが混ざる。
肉、米、ネギ、卵、明太マヨ。
全部をまとめて口に入れた。
「うっま」
声が出た。
マジでうまい。
何だこれ。
世界、まだ終わってなかった。
牛丼がうまい。
それだけで、人間は少し救われる。
俺は無心で食べた。
凛の泣き顔も。
飛鳥のビンタも。
レオンの顔も。
全部、いったん明太マヨの海に沈めた。
もちろん、食べ終わったら戻ってくる。
分かっている。
でも今だけは、牛丼が勝っていた。
人生のリスタートに必要なのは、綺麗な決意じゃない。
たぶん、メガ盛りの炭水化物だ。
俺は丼を抱えるようにして、最後の米粒までかき込んだ。
「うますぎる……」
心から感動していた。
◇
飛鳥はタクシーに乗っていた。
ようやくラウンジらしき場所を特定した。
駒込桜のストーリーに映っていた夜景。
窓の形。
内装の一部。
検索と勘と、昔バイトで聞いた噂をつなぎ合わせた結果だった。
運転手に住所を伝え、飛鳥は何度も凛へ電話した。
出ない。
レオンにもかけた。
出ない。
「出ろよ……」
飛鳥はスマホを握りしめる。
胸が苦しい。
凛が危ない。
そう思う。
でも、その「危ない」の中に、自分の嫉妬が混ざっていることも分かっている。
レオンの隣に凛がいるのが嫌だ。
レオンに凛が利用されているのが嫌だ。
桜という知らない女が凛に近づいているのが嫌だ。
守りたい。
奪いたい。
その境目が、もう分からない。
貴之の顔が浮かぶ。
『俺が好きなのは、お前なんだよ』
「今それ思い出すな、馬鹿」
飛鳥は自分に言った。
でも、思い出してしまう。
貴之が自分を見ていた。
凛の付属品としてではなく。
幼なじみとしてでもなく。
田端飛鳥として。
それが嬉しいなんて、認めたくない。
認めたら、凛への気持ちまで嘘になる気がする。
でも、気持ちは一つじゃない。
人間の中には、いくつも矛盾がある。
凛が好き。
貴之を許せない。
レオンを信用できない。
貴之に好きと言われて、少し揺れた。
全部本当だった。
「最悪」
飛鳥は窓の外を見た。
都心の夜景が流れていく。
その光のどこかに、凛がいる。
今度こそ、間違えない。
そう思った。
でも自信はなかった。
◇
レオンが席に戻ると、話はほとんど決まりかけていた。
「じゃあ、来週一度事務所で」
「お願いします」
「凛ちゃんも同席できると助かる」
「調整します」
「頼むよ。君たち、今一番数字持ってるから」
数字。
レオンは笑顔で頷いた。
その言葉に抵抗はなかった。
芸能界では、数字が価値だ。
視聴率。
再生数。
フォロワー。
検索数。
話題性。
数字にならない感情は、簡単に切り捨てられる。
レオンはそれを知っていた。
だから数字を取りにいく。
そのために凛が必要なら、使う。
それの何が悪い。
自分にも言い聞かせる。
凛を幸せにするには、自分が強くならなきゃいけない。
強くなるには、仕事を取らなきゃいけない。
仕事を取るには、チャンスを逃しちゃいけない。
だからこれは正しい。
正しいはずだ。
でも、非常階段に一人残した凛の顔が、頭から離れなかった。
駒込桜が、離れた席からこちらを見ていた。
笑っている。
見透かすように。
レオンは視線を逸らした。
◇
凛がラウンジへ戻ったのは、それから十分後だった。
目元は綺麗に直されていた。
泣いたことが分からないくらい、完璧だった。
「大丈夫?」
レオンが聞く。
凛は笑った。
「うん」
その笑顔を見て、レオンはなぜか怖くなった。
さっきより明るい。
さっきより完璧。
でも、さっきより遠い。
「凛」
「お仕事の話、終わった?」
「ああ」
「よかったね」
凛は本当に嬉しそうに言った。
それが余計に怖かった。
凛は席に戻り、またグラスを持った。
誰かに話しかけられれば笑う。
褒められれば照れる。
からかわれれば可愛く返す。
完璧な原宿凛。
でも、その奥にいる本当の凛は、どこかへ引っ込んでしまったみたいだった。
桜がまた近づいてきた。
「凛ちゃん、復活した?」
「はい」
「強いね」
「お仕事ですから」
凛は笑った。
桜の目が少しだけ細くなる。
「あー、そっち行っちゃったか」
「そっち?」
「壊れるんじゃなくて、仕事にしちゃう方」
桜は小さくため息をついた。
「それ、長持ちするけど、戻るの大変だよ」
「大丈夫です」
凛は言った。
「私、慣れてるので」
その言葉は、自分で思っていたよりずっと冷たかった。
桜は黙った。
レオンも黙った。
凛だけが笑っていた。
◇
スキー家で牛丼を食べ終えた俺は、水を三杯飲んだ。
満腹だった。
腹が満たされると、人間は少しだけ前向きになる。
俺はスマホを見た。
飛鳥からの連絡はない。
まあ、当然だ。
考えさせてと言われた。
待つしかない。
凛からも連絡はない。
それも当然だ。
俺は正式に振った。
今さら何を言うこともない。
俺は俺の人生をやり直す。
まずは部屋を片づけよう。
積んだ漫画を読む。
アニメも、惰性じゃなくちゃんと見る。
サッカーも久しぶりにボールを蹴るかもしれない。
ダーツも練習し直す。
そして、飛鳥の返事を待つ。
俺にできることは、それくらいだ。
店を出ようとした時、隣の席の若い男たちの会話が耳に入った。
「見た? レオンと原宿凛、また夜遊びだって」
「マジで? 熱愛出たばっかなのに?」
「駒込桜のストーリーに映ってたらしいよ」
「うわ、あの桜? やば」
俺は足を止めた。
聞きたくなかった。
でも、耳が勝手に拾う。
「原宿凛、清純っぽかったのに意外とそっち系なんだな」
「いや白ギャルだし、元からそっちじゃね?」
「レオン勝ち組すぎ」
俺は拳を握った。
言う資格はない。
何もない。
でも、腹の底が冷えた。
凛がどう言われているか。
レオンの隣にいることで、どう消費されているか。
それを聞いて、初めて実感した。
俺が「みんなの凛」と言って手放した世界は、思っていたよりずっと汚い。
スマホを開く。
検索欄に、原宿凛、と打とうとして止まった。
見るな。
見たらまた、自分勝手な感情が出る。
俺は凛を選ばないと決めた。
なら、凛の人生に口を出すな。
でも。
飛鳥は今、どうしている?
あいつは凛を放っておけるのか?
俺は画面を閉じた。
そして、なぜかもう一度開いた。
連絡先。
田端飛鳥。
指が止まる。
今電話したら、また余計なことになる。
でも、胸騒ぎがした。
その瞬間、スマホが震えた。
飛鳥からだった。
『凛がレオンといる。たぶんまずい』
短いメッセージ。
俺は息を吐いた。
人生のリスタートは、牛丼を食べたくらいでは始まらないらしい。
◇
ラウンジの夜は、終わらない。
凛はもう何杯目か分からないグラスを作っていた。
飲んではいない。
でも酔っている気がした。
空気に。
音に。
視線に。
自分の笑顔に。
「凛ちゃん、本当に可愛いね」
「ありがとうございます」
「レオンくんにはもったいないな」
「そんなことないです」
「今度、個人的に食事でも」
男が名刺を差し出す。
凛は受け取らない。
その前に、レオンが手を出した。
「彼女への連絡は俺を通してください」
場が少し静かになる。
男は笑った。
「独占欲強いねえ」
「大事なんで」
レオンは笑っている。
でも目は笑っていなかった。
凛はその横顔を見た。
守ってくれた。
そう思いたかった。
でも同時に、囲われた、とも思った。
どちらが本当か分からない。
たぶん、どちらも本当なのだ。
レオンは凛を守っている。
そして利用している。
飛鳥は凛を守ろうとしている。
そして自分のものにしたがっている。
貴之は凛を傷つけた。
でも初めて正直に振った。
人は一つじゃない。
優しさだけの人も、悪意だけの人もいない。
だからこそ、凛は苦しかった。
誰を責めればいいのか分からない。
最後にはいつも、自分が悪い気がしてくる。
私が弱いから。
私が流されるから。
私が誰かに選ばれたがるから。
その時、スマホが震えた。
飛鳥からのメッセージ。
『今から行く』
凛の心臓が跳ねた。
来る。
飛鳥が来る。
嬉しかった。
怖かった。
会いたい。
会いたくない。
この場所にいる自分を見られたくない。
でも、見つけてほしい。
凛はスマホを伏せた。
「誰?」
レオンが聞いた。
「飛鳥」
その名前に、レオンの表情が変わる。
「来るの?」
「たぶん」
「場所、教えた?」
「教えてない」
「じゃあ来られないよ」
レオンはそう言った。
でも声に余裕はなかった。
凛は初めて、少しだけ思った。
レオンくんは、飛鳥が怖いんだ。
貴之くんではなく。
飛鳥が。
◇
飛鳥のタクシーは、ラウンジのあるビルの前に止まった。
入り口には看板がない。
黒服の男が立っているだけ。
飛鳥は深呼吸した。
場違いだ。
でも、そんなことを気にしている場合じゃない。
「すみません」
黒服が飛鳥を見る。
「ご予約のお客様ですか」
「中に原宿凛がいますよね」
男の目がわずかに動いた。
「お答えできません」
「じゃあ桐生レオン」
「お答えできません」
「駒込桜」
男は黙る。
当たりだ。
飛鳥はスマホを握りしめた。
「友人です。凛を迎えに来ました」
「ご本人様からの確認が取れないと」
その時、エレベーターが開いた。
降りてきたのは駒込桜だった。
桜は飛鳥を見ると、すぐに何かを察したように笑った。
「あんたが飛鳥ちゃん?」
飛鳥は警戒する。
「誰」
「駒込桜。知ってるでしょ」
「凛はどこ」
「上」
「通して」
「怖い顔」
桜は黒服に軽く手を振った。
「通してあげて。あーしの知り合い」
黒服が少し迷い、道を開ける。
飛鳥は桜を睨んだ。
「何のつもり」
「面白そうだから」
「ふざけないで」
「ふざけてないよ」
桜は飛鳥に近づき、低い声で言った。
「あの子、今ならまだ戻れるかもね」
「何をした」
「あーしは何も。ただ、レオンがいつも通りだっただけ」
飛鳥の拳が震える。
「レオンは凛を利用してるの?」
「利用もしてるし、好きでもあるんじゃない?」
桜は肩をすくめる。
「一番厄介なやつ。悪意だけなら切れるのに、情も混ざってる」
「……」
「あんたもそうでしょ?」
飛鳥は息を止めた。
桜は笑う。
「凛ちゃんのこと、好きなんだよね。でも守りたいだけじゃない。欲しいんでしょ」
「黙って」
「図星か」
「黙れって言ってんの」
飛鳥の声は低かった。
桜は両手を上げる。
「はいはい。怖。じゃ、頑張って」
エレベーターの扉が開く。
飛鳥は乗り込んだ。
扉が閉まる直前、桜が言った。
「凛ちゃんに選ばせなよ」
飛鳥は答えなかった。
でも、その言葉は胸に残った。
◇
俺はスキー家の前に立っていた。
飛鳥からのメッセージを見たまま、動けずにいた。
『凛がレオンといる。たぶんまずい』
電話をかける。
飛鳥は出ない。
もう向かっているのかもしれない。
俺は画面を見つめる。
行くべきか。
行かないべきか。
凛を正式に振ったばかりだ。
俺が行けば、またややこしくなる。
でも、飛鳥が危ないかもしれない。
凛も。
レオンもいる。
駒込桜とかいう知らない名前も出てきた。
「……何なんだよ、もう」
人生をリスタートしようとした直後にこれだ。
牛丼で世界が救われるほど、現実は甘くない。
俺はタクシーアプリを開いた。
行き先は分からない。
飛鳥に位置情報を送れとメッセージを打つ。
『どこだ。行く』
送信。
すぐに既読はつかない。
俺は空を見上げた。
腹は満たされている。
なのに胸は空っぽだ。
凛を選ばない。
それは変わらない。
でも、だからといって、凛が壊れていくのを見ていい理由にはならない。
飛鳥が一人で抱え込むのを、放っておいていい理由にもならない。
好きって、何だろう。
選ぶって、何だろう。
分からないまま、俺は走り出した。
◇
飛鳥がラウンジに入ると、最初に凛を見つけた。
白い髪。
白い肌。
完璧な笑顔。
そして、その手にはグラス。
凛は誰かの隣で笑っていた。
飛鳥の胸が潰れた。
「凛」
声は思ったより大きく響いた。
凛が振り返る。
その瞬間、凛の笑顔が崩れた。
「飛鳥……」
レオンも立ち上がる。
「どうしてここに」
「迎えに来た」
飛鳥はまっすぐ凛へ歩いた。
周りの男たちが面白そうに見ている。
「何? 修羅場?」
「幼なじみ?」
「女の子同士で?」
笑い声。
飛鳥は全部無視した。
凛の前に立つ。
「帰ろう」
凛は口を開いた。
でも、その前にレオンが言った。
「凛は俺と来てる」
「だから何」
「勝手に連れて帰られる筋合いはない」
「凛が帰りたいなら帰る」
飛鳥は凛を見た。
「帰りたい?」
凛の目が揺れる。
帰りたい。
そう言いたかった。
でも、言葉が出ない。
レオンの仕事。
場の空気。
自分の立場。
全部が喉を塞ぐ。
「凛」
飛鳥の声が少しだけ柔らかくなる。
「選んで」
その言葉に、凛は息を呑んだ。
選んで。
今まで、誰かに選ばれようとしてきた。
貴之に。
レオンに。
飛鳥に。
ファンに。
スタッフに。
でも、自分で選ぶことから逃げていた。
帰りたいなら、帰る。
残りたいなら、残る。
それだけのことが、こんなに怖い。
レオンは凛を見た。
「凛。無理しなくていい。でも、俺は君といたい」
優しい声。
飛鳥は言った。
「凛。私はあんたを連れて帰りたい。でも、あんたが決めて」
二人の声が、凛を挟む。
凛は震える手で、持っていたグラスをテーブルに置いた。
小さな音がした。
「私」
声がかすれる。
「帰る」
飛鳥が息を吐いた。
レオンの表情が固まる。
凛はレオンを見た。
「ごめん。今日はもう無理」
「送る」
「いい」
凛は首を振った。
「飛鳥と帰る」
レオンの目が暗くなる。
でも、すぐに笑った。
「分かった」
その笑顔は優しかった。
だから余計に、凛の胸が痛んだ。
「連絡して」
「うん」
凛は飛鳥の方へ歩いた。
飛鳥が手を差し出す。
凛は少し迷って、その手を取った。
今度は、自分で。
◇
エレベーターの中で、凛は何も言わなかった。
飛鳥も言わなかった。
手だけが繋がっている。
強く握りすぎないように。
でも、離さないように。
一階に着く。
ビルの外へ出ると、夜風が冷たかった。
凛は深呼吸した。
「寒い」
「帰ろ」
「うん」
その時、道の向こうから誰かが走ってきた。
岡野貴之だった。
息を切らして、髪を乱して、どう見ても場違いな顔で。
飛鳥が目を見開く。
「なんで来たの」
「お前が、まずいって送ったから」
「場所教えてない」
「だいたい分かった。あと途中でお前の位置情報が一瞬飛んできた」
「嘘」
「たぶん誤送信」
飛鳥はスマホを見る。
本当に送っていた。
「最悪……」
凛は貴之を見た。
胸が痛む。
でも、さっきほど壊れそうではなかった。
貴之も凛を見た。
何か言いたそうだった。
でも、言わなかった。
代わりに、飛鳥を見た。
「大丈夫か」
飛鳥は一瞬黙った。
それから言った。
「凛は帰る」
「そっか」
「それだけ」
「分かった」
貴之は頷いた。
凛へ近づこうとはしなかった。
それが、凛には少し意外だった。
貴之は言った。
「凛」
「……うん」
「帰れ。今日は寝ろ」
たったそれだけ。
謝罪も、言い訳も、優しさの押し売りもない。
凛は少しだけ笑った。
「うん」
飛鳥がタクシーを止める。
凛を乗せる。
自分も乗る前に、飛鳥は貴之を見た。
「話はまた今度」
「分かった」
「あと」
「何」
「牛丼くさい」
「食ったからな」
「何食べたの」
「ネギたま牛丼メガつゆだくだくだく明太マヨトッピング温玉変更」
「情報量多すぎ」
ほんの一瞬、飛鳥が笑いそうになった。
でもすぐに顔を引き締める。
「じゃあ」
タクシーの扉が閉まる。
車が走り出す。
貴之はその場に残った。
ビルの上のラウンジには、まだ明かりがついている。
レオンがそこにいる。
駒込桜もいるかもしれない。
でも今は、追いかけなかった。
凛は自分で帰ると言った。
飛鳥が連れて帰った。
それでいい。
少なくとも今夜は。
◇
ラウンジの窓から、レオンは三人を見ていた。
凛が飛鳥の手を取るところ。
岡野貴之が現れるところ。
そして、凛がタクシーに乗って去っていくところ。
グラスを持つ手に力が入る。
岡野。
またお前か。
お前は何もしていない顔で、最後にそこに立つ。
凛はお前を選ばなかった。
飛鳥もお前に怒っている。
なのに、お前はあの二人の近くにいる。
それが、レオンには耐えがたかった。
「負けた顔してる」
背後から桜の声。
レオンは振り返らない。
「負けてない」
「凛ちゃん帰っちゃったじゃん」
「一時的にね」
「岡野くんも来たし」
「黙れ」
桜は笑う。
「やっぱ気にしてるじゃん」
レオンは窓に映る自分を見た。
整った顔。
高いスーツ。
芸能界の席。
仕事のチャンス。
岡野貴之より、ずっと高い場所にいる。
そのはずなのに。
なぜ、まだ勝った気がしない。
「見てろよ」
レオンは小さく呟いた。
「まだ終わってない」
桜はその横顔を見て、少しだけ退屈そうに笑った。
「男の復讐って、ほんと味濃いね」
◇
タクシーの中。
凛は飛鳥の肩にもたれていた。
眠ってはいない。
ただ、目を閉じている。
「飛鳥」
「何」
「私、帰るって言えた」
「うん」
「自分で言えた」
「うん」
飛鳥は凛の手を握った。
「偉い」
その一言で、凛の目から涙が落ちた。
「私、何やってるんだろうね」
「今は考えなくていい」
「考えないと、また流される」
「じゃあ一緒に考える」
凛は目を開けた。
「飛鳥は、私のこと好き?」
飛鳥の喉が詰まる。
今ここで、嘘はつけない。
「好き」
「貴之くんに好きって言われた?」
飛鳥は黙った。
凛は小さく笑った。
「やっぱり」
「凛」
「怒ってないよ」
「嘘」
「ちょっと怒ってる」
「うん」
「でも、飛鳥のせいだけじゃない」
凛は窓の外を見る。
「私、誰かに選ばれたくて、ずっと自分で選んでなかった」
飛鳥は何も言えなかった。
「だから、今すぐ答え出さない」
「うん」
「レオンくんのことも。貴之くんのことも。飛鳥のことも」
凛は飛鳥の手を握り返した。
「私の幸せがどこにあるのか、ちゃんと探す」
その声は弱かった。
でも、さっきラウンジで笑っていた凛より、ずっと凛らしかった。
飛鳥は頷いた。
「うん」
そして心の中で思った。
今度こそ、凛に選ばせる。
たとえ選ばれるのが自分じゃなくても。
そう思った。
思ったはずだった。
でも凛の手の温度を感じると、胸の奥の欲がまた小さく疼いた。
飛鳥はそれを否定しなかった。
否定できないなら、せめて見張る。
自分の中の最低な部分を。
◇
俺は一人、夜道を歩いて帰った。
スマホを見ると、スキー家のアプリから通知が来ていた。
『次回使えるクーポン配信中』
今それどころじゃない。
でも、少し笑ってしまった。
人生はめちゃくちゃだ。
凛は曇っている。
飛鳥は揺れている。
レオンはまだ何か企んでいる。
俺は飛鳥に告白したばかりで、返事待ち。
それでも腹は減るし、牛丼はうまいし、クーポンは来る。
現実は残酷で、しょうもなくて、たまに少しだけ優しい。
俺は夜空を見上げた。
「リスタート、遠いな」
呟いて、歩き出す。
頬には、飛鳥に叩かれた痛みがまだ残っていた。
不思議と、その痛みだけが今夜の中で一番確かだった。




