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俺の理想(白ギャル)になった幼馴染を、俺の傲慢が汚していく。  作者: ラズベリーパイ大好きおじさん


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ネギたま牛丼メガつゆだくだくだく明太マヨトッピング温玉変更

凛から電話が来た時、レオンは笑った。


 声には出さない。

 受話口に乗せるのは、低くて優しい声だけだ。


『もちろん。迎えに行くよ』


 そう言って通話を切る。


 窓の向こうには、都心の夜景が広がっていた。

 昔、ゴールネット越しに見上げた空とは違う。土埃も、汗臭いユニフォームも、負けた後の沈黙もない。


 今の自分には、高層マンションの窓と、黒い車と、マネージャーと、仕事の予定表がある。


 そして、国民的アイドル原宿凛がいる。


「見てるか、岡野」


 レオンは誰もいない部屋で呟いた。


「お前じゃ届かない高みに、俺はいる」


 中学のグラウンド。


 十六対ゼロ。

 十二ゴール四アシスト。

 顔はプロ。


 あの時の笑い声は、まだ耳の奥に残っている。


 けれど、もう違う。


「もうお前のことなんて、気にもならないくらい俺は格上だ」


 そう言って、レオンはスマホを握った。


 気にもならない。


 そのはずなのに、岡野貴之という名前は、まだ胸の奥に刺さっていた。


     ◇


 レオンの車が凛のマンション前に着いたのは、深夜を少し回った頃だった。


 凛はキャップを深くかぶり、マスクをして、エントランスから出てきた。


 顔色が悪い。


 でも綺麗だった。


 壊れそうなほど綺麗で、レオンは少しだけ本気で見惚れた。


「凛」


 車から降りて、彼女に近づく。


 凛は小さく笑った。


「ごめんね、急に」


「急じゃないよ。凛ならいつでもいい」


 その言葉に、凛の肩が少しだけ緩んだ。


 簡単だ、とレオンは思った。


 優しい言葉をかける。

 否定しない。

 触れすぎない。

 でも、離れない。


 それだけで、凛は沈んでくる。


 もちろん、ただの計算ではなかった。


 弱った凛は、本当に可愛い。


 自分だけを頼っている女の子。

 国民的アイドルなのに、今は自分の一言で揺れる女の子。


 レオンは、その感覚が嫌いではなかった。


「どこ行く?」


 助手席に乗った凛が聞いた。


「少しだけ、人に会う」


「今から?」


「うん。大事な人たち。凛のこともちゃんと紹介したい」


 凛の表情が硬くなった。


「また?」


 昨日のラウンジを思い出している顔だった。


 レオンはすぐに優しく笑う。


「無理ならやめるよ」


 嘘だった。


 やめるつもりはない。


 今夜の席には、映画プロデューサー、配信会社の役員、ファッション誌の編集長、そしてスポンサー筋が来る。


 レオン一人では届かなかった席。


 でも、凛が隣にいれば話が早い。


 熱愛報道はダメージではない。


 使い方次第で、踏み台になる。


「……私、行ったほうがいい?」


 凛が聞いた。


「凛がいてくれたら、嬉しい」


 答えになっていない答え。


 でも、今の凛にはそれで十分だった。


「分かった」


 凛は窓の外を見た。


「行く」


 レオンはハンドルを握りながら、静かに笑った。


     ◇


 会員制ラウンジは、看板のないビルの最上階にあった。


 エレベーターの扉が開くと、柔らかい照明と、重たい香水の匂いが流れてきた。


 店内には大きなソファ。

 低いテーブル。

 高そうな酒瓶。

 笑い声。


 凛は一瞬、足を止めた。


「大丈夫」


 レオンが背中に手を添える。


「俺がいる」


 その手の温度が、今の凛には頼りなくて、でも逃げる理由にもならなかった。


「おお、レオン!」


 奥の席から、恰幅のいい男が手を上げた。


 隣にはスーツ姿の男たちと、モデルのような女の子が数人。


 視線が一斉に凛へ向く。


「本物じゃん」


「原宿凛?」


「すご。テレビより白いな」


「レオン、やるねえ」


 凛は笑った。


 条件反射だった。


 原宿凛の笑顔。


 どんな時でも場を明るくする、仕事用の顔。


「初めまして、原宿凛です」


「いやあ、まさか本当に連れてくるとはね」


 映画プロデューサーらしい男がグラスを掲げる。


「レオンくん、最近勢いあると思ったけど、これは本物だ」


「やめてくださいよ」


 レオンは照れたように笑う。


「凛はそういうんじゃないです。大事な人なんで」


 大事な人。


 その言葉に、凛の胸が少しだけ温かくなる。


 でもすぐに、別の男が言った。


「じゃあ大事な人に一杯作ってもらおうかな」


 場が笑った。


 冗談。


 分かっている。


 でも、レオンは止めなかった。


 むしろ自然な顔で、凛の方を見る。


「凛、悪いけどお願いしていい?」


 凛は一瞬だけ固まった。


 そして笑った。


「はい」


 テーブルの上の酒瓶を取る。

 氷を入れる。

 炭酸を注ぐ。

 マドラーで軽く混ぜる。


「お上手だね」


「そんなことないです」


「いやいや、アイドルに作ってもらう酒なんて贅沢だ」


 また笑い声。


 凛も笑った。


 笑うしかなかった。


 それから時間は、妙に長く続いた。


「凛ちゃん、こっち座って」


「いや、レオンの隣じゃないと怒られるか」


「写真はさすがにダメ?」


「今度、うちの配信ドラマに二人で出てよ」


「熱愛からの共演って話題性あるよね」


「ファンも最初は荒れるけど、ちゃんと演出すれば美談になる」


「国民的アイドルと若手俳優の純愛って、いいじゃん」


 凛は相槌を打った。


 笑った。

 グラスを持った。

 勧められた料理を少し食べた。

 質問に答えた。


 レオンは隣で、上手く場を回していた。


 凛の話題を出し、自分の仕事につなげ、相手を持ち上げる。


 完璧だった。


 完璧すぎて、凛は怖くなった。


 私、何をしてるんだろう。


 ラウンジ嬢みたいなことをしている。


 もちろん、その仕事を選んで誇りを持っている人を馬鹿にする気はない。

 笑顔で空気を読み、人を楽しませるのは簡単なことじゃない。


 でも。


 私は、いつこれを選んだ?


 アイドルになりたかった。

 歌いたかった。

 踊りたかった。

 貴之くんの好きな女の子になりたかった。


 それが間違いだったとしても、少なくとも自分で走っていた。


 今は違う。


 レオンの隣に置かれて、レオンの価値を上げるために笑っている。


 国民的アイドル原宿凛。


 その肩書きが、レオンの名刺みたいに使われている。


「凛ちゃん、幸せそうだね」


 誰かが言った。


 凛は笑った。


「はい。幸せです」


 嘘だった。


 喉の奥で、その言葉が腐っていく。


 私の幸せはどこ。


 どこに置いてきたんだろう。


     ◇


 レオンは、凛が曇っていくのを横目で見ていた。


 気づいていないわけじゃない。


 むしろ、よく分かっている。


 凛は今、限界に近い。


 岡野に振られた。

 飛鳥にも揺さぶられた。

 自分が誰のものなのか、自分でも分からなくなっている。


 だからこそ、今だった。


 人は弱っている時に、強い光へ寄っていく。


 レオンは、その光になればいい。


 たとえそれが照明で作った偽物でも。


「レオンくん、次の映画の件だけどね」


 プロデューサーが身を乗り出した。


「君単体でも悪くない。でも、今なら原宿凛との話題性がある。二人セットなら、上に通しやすい」


「ありがとうございます」


「恋愛もの、いける?」


「もちろんです」


「凛ちゃんも出てくれたら最高なんだけど」


 凛の肩が小さく跳ねる。


 レオンは先に答えた。


「彼女の事務所と相談ですね。でも、前向きに話します」


 凛がこちらを見る。


 何か言いたそうだった。


 レオンは微笑んだ。


 大丈夫。


 そう目で伝える。


 凛は何も言わなかった。


 この沈黙も、今のレオンには都合がよかった。


 見てるか、岡野。


 お前が振った女の子は、俺の隣で価値になっている。


 お前が「みんなの凛」だと言って手放したその子を、俺はこの世界の上へ連れていく。


 いや、違う。


 俺が上へ行くために、連れていく。


 サッカーのゴール前で、お前は俺を見下ろした。


 今度は俺の番だ。


 この席には、お前は呼ばれない。

 この酒は、お前には注がれない。

 この名刺も、この企画書も、この夜景も、お前には届かない。


 レオンはグラスを傾けた。


 勝っている。


 そう思った。


 なのに、胸の奥の小さな傷はまだ疼いていた。


     ◇


 店の空気が変わったのは、夜中の一時を過ぎた頃だった。


 入り口の方で、誰かがざわついた。


「桜ちゃん来た」


「マジ?」


「今日いたんだ」


 凛が顔を上げる。


 黒いミニワンピースに、長いコート。

 髪は赤みのあるブラウンで、唇は深いローズ色。


 派手なのに品がある。

 品があるのに危ない。


 女王みたいな女の人が、こちらへ歩いてきた。


「レオン」


 その声を聞いた瞬間、レオンの表情が少しだけ変わった。


 ほんの一瞬。


 でも凛は見逃さなかった。


「桜」


 レオンが立ち上がる。


 駒込桜。


 凛も名前は知っていた。


 モデル。

 インフルエンサー。

 女優も少し。

 夜系ファッション誌では伝説みたいに扱われている女の人。


 そして、レオンの元カノ。


 噂でしか知らなかった。

 でも今、目の前にいる。


「久しぶりじゃん」


 桜は笑った。


 そして、何の前触れもなくレオンの首に腕を回した。


 次の瞬間、二人の唇が重なった。


 深く、熱いキスだった。


 周りが盛り上がる。


「おおー」


「相変わらずだな」


「桜ちゃん強い」


 凛は動けなかった。


 グラスを持ったまま、指先だけが冷えていく。


 レオンは最初、驚いたように固まった。


 でも突き放さなかった。


 桜の腰に手を添えた。


 その仕草が、自然すぎた。


 凛は理解した。


 この二人は、こういう距離を知っている。


 自分が知らないレオンを、桜は知っている。


 やがて桜が唇を離した。


「相変わらず顔いいね、あんた」


「いきなり何するんだよ」


「挨拶」


「昔と変わらないな」


「変わったよ。あんたが気づいてないだけ」


 桜はそこで、凛を見た。


 視線が絡む。


 凛は反射的に笑おうとした。


 でもうまくいかなかった。


 桜は面白そうに目を細める。


「へぇ、可愛いじゃん」


 凛の喉が鳴った。


「原宿凛ちゃんだよね。テレビで見るより、ずっと甘そう」


 桜は凛の隣に座った。


 香水の匂いが強くなる。


「あーしも食べちゃおっかなー」


 冗談みたいな声。


 でも目は笑っていなかった。


 凛は背筋が固まった。


「やめろよ、桜」


 レオンが軽くたしなめる。


 軽い。


 軽すぎる。


「何? 大事な彼女だから?」


「そう」


「ふーん」


 桜は凛の顔を覗き込んだ。


「大事にされてる?」


 凛は答えられなかった。


 桜は笑った。


「あ、これ聞いちゃダメなやつ?」


「桜」


 レオンの声が少し低くなる。


 桜は肩をすくめた。


「ごめんごめん。怖い顔しないでよ。あーし、レオンの成功を祝いに来ただけだし」


「成功?」


「そう。国民的アイドル捕まえたんでしょ? 仕事増えるじゃん」


 凛の胸に、鋭いものが刺さった。


 捕まえた。


 仕事が増える。


 場は笑っている。


 誰も、その言葉を否定しない。


 レオンも、強くは否定しない。


「言い方」


「でも事実じゃん」


 桜はグラスに酒を注いだ。


「レオンは昔からそう。上に行くためなら、使えるものは全部使う」


「桜もだろ」


「うん。だから別れたんじゃん」


 二人は笑った。


 昔を共有する笑い方だった。


 凛だけが置いていかれる。


「凛ちゃん」


 桜が急に優しい声を出した。


「レオンのこと、好き?」


 凛は唇を開いた。


 でも、言葉が出なかった。


 好き。


 その言葉の形が分からない。


 貴之くんが好きだった。

 飛鳥が好きだった。

 レオンが優しかった。


 でも今、自分は誰を好きなのか。


 それとも、誰かに好きでいてほしいだけなのか。


「分かんない顔してる」


 桜はくすっと笑った。


「可愛い。そういう子、夜に沈むの早いよ」


「桜、やめろ」


 レオンが今度は少し本気で言った。


 桜は立ち上がる。


「はいはい。じゃあ今日はこの辺で」


 去り際に、桜は凛の耳元へ顔を寄せた。


「レオンに食べられる前に、自分で自分の味くらい知っときな」


 意味は分かるようで、分からなかった。


 でも、ひどく嫌な言葉だった。


 桜は笑って、別の席へ去っていく。


 凛は膝の上で手を握った。


 ネイルが手のひらに食い込む。


 痛い。


 痛いのに、それが少しだけ安心した。


 まだ私は、痛いって分かる。


     ◇


 凛は耐えきれず、席を立った。


「ごめんなさい。お手洗い」


「ああ」


 レオンはすぐに立とうとした。


 でもプロデューサーに呼び止められる。


「レオンくん、ちょっとこの資料見て」


「はい」


 レオンは一瞬迷い、それから凛に目で謝った。


 凛は笑った。


「大丈夫」


 また嘘。


 トイレまでの廊下は、店内より静かだった。


 鏡の前に立つ。


 そこに映るのは、原宿凛。


 ミルクティー色の髪。

 白い肌。

 甘いリップ。

 長いまつ毛。


 貴之くんの好きな白ギャル。


 だったもの。


「何やってるんだろう」


 声に出すと、涙が出そうになった。


 でも泣けなかった。


 メイクが崩れるから。

 仕事中だから。

 レオンの大事な人だから。

 国民的アイドルだから。


 理由はいくらでもあった。


 本当は、泣いたら全部終わりそうで怖かった。


 貴之くんに振られた。


 凛、お前じゃない。


 飛鳥は好きって言ってくれた。

 でもその飛鳥に、貴之くんが告白した。


 レオンくんは優しい。

 でも今、私はレオンくんの隣で何をしている?


 私の幸せはどこ。


 小学生の頃、貴之くんの後ろを歩いていた時。

 中学で初めてリップを塗った時。

 原宿でスカウトされた時。

 ステージで名前を呼ばれた時。

 レオンくんに抱きしめられた時。

 飛鳥に「私がいる」と言われた時。


 どこかには、あったはずなのに。


 今はもう、どこを探しても見つからない。


 スマホを取り出す。


 連絡先の上で指が迷う。


 飛鳥。


 押せない。


 飛鳥の声を聞いたら、泣いてしまう。

 責めてしまう。

 縋ってしまう。


 貴之くん。


 押す理由がない。


 正式に振られた。

 もう私じゃない。


 レオンくん。


 今、席にいる。


 なのに遠い。


 凛はスマホを握ったまま、洗面台に両手をついた。


「帰りたい」


 どこへ?


 その答えが出なかった。


     ◇


 飛鳥は、自分の部屋の床に座っていた。


 電気はつけていない。


 スマホの画面だけが、暗い部屋に浮いている。


 貴之に告白された。


 その事実が、頭の中で何度も再生される。


『俺が好きなのは、お前なんだよ』


 馬鹿じゃないの。


 そう思う。


 最低だと思う。


 凛を正式に振った直後に、凛の目の前で、自分に告白するなんて。


 人の心がない。


 本当にそう思った。


 ビンタした手のひらには、まだ感触が残っている。


 それなのに。


「なんで……」


 飛鳥は膝を抱えた。


 胸の奥が、ずっと熱い。


 怒りだけじゃない。


 嫌悪だけじゃない。


 喜び、なんて言葉は使いたくなかった。


 でも、全く嬉しくなかったと言えば嘘になる。


 貴之は、飛鳥の汚い部分を見た。


 凛をアイドルにしたこと。

 レオンと組んだこと。

 凛を貴之から離そうとしたこと。

 自分の欲を隠して、優しさみたいな顔をしていたこと。


 全部、知られてしまった。


 それでも好きだと言われた。


 それは、飛鳥にとって初めての経験だった。


 飛鳥はずっと、凛を好きだった。


 幼い頃から女の子が好きで、凛が特別で、凛の幸せを願っているつもりだった。


 でもその願いは、いつの間にか歪んだ。


 凛を守るふりをして、囲いたかった。

 貴之から切り離したかった。

 レオンを利用した。

 結果、凛を傷つけた。


 あいつが凛にやってきたことは許せない。


 貴之が凛に甘えたこと。

 貴之が凛を理想の女の子として見たこと。

 貴之が凛を振ったこと。

 そして、最後にまた凛を傷つけたこと。


 全部許せない。


 なのに。


 好きって言われた。


 この気持ちは何?


 恋ではない。


 そう言い切りたい。


 でも、胸の奥にある熱が邪魔をする。


 怒りの形をした何か。

 嫌悪の下に沈んだ何か。

 見られてしまった恥ずかしさと、見捨てられなかった安堵。


 飛鳥はスマホを開いた。


 凛に電話をかけようとして、止まる。


 今、自分が凛に何を言える?


 貴之に告白された。

 少し揺れている。

 でも凛が好き。


 そんなぐちゃぐちゃな状態で、凛の前に立てるのか。


「最低だ、私」


 呟いた時、通知が来た。


 SNSのおすすめ欄。


 駒込桜のストーリーが流れてきた。


 会員制ラウンジらしき場所。

 グラス。

 夜景。

 ぼかされた人影。


 でも、端に映ったミルクティー色の髪を、飛鳥は見逃さなかった。


 凛だ。


 次のストーリーには、レオンの横顔が映っていた。


 さらに次。


 桜が笑いながら、誰かに寄りかかっている。

 映像は一瞬ぶれていたが、その奥で凛がグラスを持っていた。


 飛鳥の血の気が引いた。


「何やってんの、あいつ……」


 レオン。


 あいつは凛を守ると言った。


 でもこれは何?


 守る顔じゃない。


 見せびらかしている顔だ。


 凛を、使っている。


 飛鳥は凛に電話した。


 出ない。


 もう一度。


 出ない。


 メッセージを送る。


『今どこ?』


『凛、返事して』


『レオンといるの?』


 既読はつかない。


 飛鳥は立ち上がった。


 行くしかない。


 でもどこへ?


 ラウンジの場所なんて知らない。


 駒込桜のストーリーを何度も見返す。

 窓の外の景色。

 ビルの形。

 内装。


 飛鳥は検索を始めた。


 凛を救いたい。


 そう思った。


 でも同時に、胸の奥で別の声がする。


 凛が弱っているなら、今度こそ自分のところへ来てくれるかもしれない。


 その声に気づいた瞬間、飛鳥は吐き気がした。


「違う」


 自分に言い聞かせる。


「今度こそ、違う」


 それでも、その言葉が本当かどうかは分からなかった。


     ◇


 レオンは、凛がなかなか戻ってこないことに気づいていた。


 でも席を立てなかった。


 プロデューサーが、今まさに次の仕事の話をしている。


「主演はまだ早いかもしれない。でも二番手なら押せる」


「ありがとうございます」


「ただ、今の君は恋愛報道込みで注目されてる。そこを上手く使いたい」


「分かります」


「凛ちゃんの事務所が渋ったら?」


「説得します」


「できる?」


 レオンは笑った。


「俺に任せてください」


 その時、桜が隣に戻ってきた。


「言うねえ」


「桜」


「凛ちゃん、戻ってこないね」


「すぐ戻る」


「本当に?」


 桜はグラスを揺らした。


「あの子、壊れかけてるよ」


「余計なこと言うな」


「余計かなあ。あーし、親切で言ってるんだけど」


「君の親切は高い」


「分かってるじゃん」


 桜は笑った。


「レオン、あんた変わってないね」


「変わったよ」


「ううん。昔と同じ。自分を馬鹿にしたやつを見返すために、ずっと上見てる」


 レオンの目が細くなる。


「何が悪い」


「悪くないよ。あーしもそういう男、嫌いじゃない」


 桜は顔を近づけた。


「でもさ、復讐って燃料にすると、燃え尽きたあと寒いよ」


「説教?」


「経験談」


 桜はレオンの胸元を指で軽く叩いた。


「凛ちゃん、あんたの復讐道具にするには柔らかすぎる」


「道具じゃない」


「じゃあ何?」


「大事な人だ」


「便利な言葉」


 レオンは黙った。


 その沈黙を、桜は笑った。


「あんた、岡野くんだっけ? まだ気にしてるんでしょ」


 レオンの表情が消える。


「名前出すな」


「やっぱり」


「桜」


「凛ちゃんじゃなくて、岡野くん見てるみたい。あんた」


 その言葉は、的確だった。


 的確すぎて、レオンは何も言えなかった。


 凛を見ている。

 そう思っていた。


 でも本当は、凛の向こうに岡野貴之を見ている瞬間がある。


 岡野が手放した女を、自分が持っている。

 岡野が届かない場所に、自分が立っている。


 その証明として、凛を隣に置いている。


 桜は見抜いていた。


「それ、凛ちゃんにバレたら終わるよ」


「終わらない」


「どうかな」


 桜は立ち上がった。


「せいぜい大事にしてあげな。壊れた女の子は綺麗だけど、壊しきったら光らないから」


 そう言って、また別の席へ消えた。


 レオンはグラスを置いた。


 苛立っている。


 岡野の名前を出されたからか。

 桜に見抜かれたからか。

 凛が戻ってこないからか。


 自分でも分からなかった。


     ◇


 凛はトイレから出たあと、非常階段へ向かった。


 空気が欲しかった。


 ドアを開けると、冷たい風が入ってくる。


 階段の踊り場に座り込む。


 スマホの画面は暗いまま。


 飛鳥からの着信が何件も入っていた。


 メッセージも来ている。


『今どこ?』


『凛、返事して』


『レオンといるの?』


 凛は画面を見つめた。


 返事をしたい。


 でも、何て?


 助けて?


 また?


 私は飛鳥に何回助けてもらうつもりなんだろう。


 飛鳥だってぐちゃぐちゃなのに。


 貴之くんに告白されたのに。


 凛は膝に顔を埋めた。


 泣きたかった。


 でも涙は出なかった。


 代わりに、胸の奥に黒い水が溜まっていく。


 貴之くんに選ばれなかった。

 レオンくんには使われているかもしれない。

 飛鳥には頼れない。


 じゃあ、私は?


 私は私を選べるの?


 その答えも出なかった。


 非常階段のドアが開く。


 レオンだった。


「凛」


 彼は息を切らしていた。


 本当に探してくれたのかもしれない。


 凛は顔を上げた。


「ごめんね」


「謝らなくていい」


 レオンは隣に座った。


「疲れた?」


「少し」


「桜のこと?」


 凛は黙った。


 レオンは息を吐く。


「あいつは昔からああなんだ。悪気は……いや、あるな。悪気ある」


「元カノなんだよね」


「うん」


「今も好き?」


「まさか」


「キスしてた」


「向こうが勝手に」


「レオンくん、止めなかった」


 レオンは言葉に詰まった。


 凛は初めて、少しだけ責めるように彼を見た。


「私、何なの?」


「凛は凛だよ」


「そういうのじゃなくて」


 凛の声が震えた。


「私、今日、何しに来たの? レオンくんの大事な人として? 彼女として? それとも、仕事のため?」


「全部だよ」


 その答えは、最悪だった。


 レオンも言った瞬間に気づいた。


 でも遅かった。


 凛の目から光が一つ消えた。


「そっか」


「違う、今のは」


「違わないよ」


 凛は笑った。


「私、便利だもんね。国民的アイドルだし。熱愛出たし。レオンくんと一緒にいたら、話題になるもんね」


「凛」


「私も悪いよ。分かってて来た。嫌なら断ればよかった。でも、断ったら一人になるのが怖かった」


 凛は両手を握る。


「私、誰かに好きって言われたかっただけなのかな」


 レオンは何も言えなかった。


 ここで「俺は好きだ」と言えばいい。


 簡単だ。


 でも、その言葉が今の凛に届くか分からない。


 そして何より、自分の中に混ざっている復讐心を、レオン自身が否定しきれなかった。


「凛」


 ようやく彼は言った。


「俺は君を利用してるかもしれない」


 凛が顔を上げる。


「最低だけど、そういう部分はある」


「……」


「でも、それだけじゃない」


「信じていいの?」


 レオンは答えようとした。


 その時、スマホが震えた。


 マネージャーからだった。


『プロデューサーが帰る前に戻って。次の映画の話、今決めたい』


 レオンの視線が一瞬だけ画面へ落ちる。


 凛はそれを見た。


 ほんの一瞬。


 でも、もう十分だった。


「戻っていいよ」


「凛」


「仕事、大事でしょ」


 その言い方は優しかった。


 優しすぎて、突き放していた。


 レオンは立ち上がれなかった。


 でも、立たないこともできなかった。


「すぐ戻る」


 そう言ってしまった。


 凛は笑った。


「うん」


 レオンが非常階段を出ていく。


 扉が閉まる。


 凛は一人になった。


 今度こそ、涙が落ちた。


     ◇


 その頃、岡野貴之は異様に清々しい気持ちで歩いていた。


 飛鳥に告白した。


 凛を正式に振った。


 飛鳥にはビンタされた。


 凛は部屋にこもった。


 客観的に見れば、地獄みたいな夜である。


 だが俺は、不思議と空が広く見えていた。


 言いたいことを言えたからだ。


 もちろん最低だった。

 タイミングも最悪だった。

 飛鳥の怒りも当然だ。


 それでも、俺は初めて逃げなかった。


 凛に曖昧な態度を取らなかった。

 飛鳥への気持ちも隠さなかった。

 自分が最低だということも、もう誤魔化さなかった。


 ここからが人生のリスタートだ。


 俺はそう思った。


 人間、やり直せる。


 たぶん。


 知らんけど。


 問題は、腹が減っていたことだった。


 感情をぶつけると、腹が減る。


 これは生理現象だ。


 俺は駅前の牛丼屋に入った。


 店名はスキー家。


 赤い看板。

 明るすぎる照明。

 深夜でも変わらない味の匂い。


 最高だ。


 俺は迷わなかった。


「ネギたま牛丼メガ、つゆだくだくだく、明太マヨトッピング、温玉変更で」


 店員が一瞬止まった。


「えっと、ネギたま牛丼メガ、つゆだくだくだく、明太マヨ、温玉変更ですね」


「はい」


「つゆだくだくだくですと、かなりつゆ多めになりますが」


「人生もそれくらい汁気が欲しいんで」


「はあ」


 店員は何も聞かなかった。


 プロだ。


 席に座る。


 水を飲む。


 しばらくして、丼が来た。


 でかい。


 メガは正義だ。


 牛肉が山のように乗っている。

 青ネギがその上に広がり、温玉が中央に鎮座している。

 明太マヨが脇から攻めてくる。

 つゆはだくだくを超え、もはや丼の底で海になっていた。


 俺は箸を割った。


 温玉を崩す。


 黄身が流れる。


 明太マヨとつゆが混ざる。


 肉、米、ネギ、卵、明太マヨ。


 全部をまとめて口に入れた。


「うっま」


 声が出た。


 マジでうまい。


 何だこれ。


 世界、まだ終わってなかった。


 牛丼がうまい。


 それだけで、人間は少し救われる。


 俺は無心で食べた。


 凛の泣き顔も。

 飛鳥のビンタも。

 レオンの顔も。

 全部、いったん明太マヨの海に沈めた。


 もちろん、食べ終わったら戻ってくる。


 分かっている。


 でも今だけは、牛丼が勝っていた。


 人生のリスタートに必要なのは、綺麗な決意じゃない。


 たぶん、メガ盛りの炭水化物だ。


 俺は丼を抱えるようにして、最後の米粒までかき込んだ。


「うますぎる……」


 心から感動していた。


     ◇


 飛鳥はタクシーに乗っていた。


 ようやくラウンジらしき場所を特定した。


 駒込桜のストーリーに映っていた夜景。

 窓の形。

 内装の一部。


 検索と勘と、昔バイトで聞いた噂をつなぎ合わせた結果だった。


 運転手に住所を伝え、飛鳥は何度も凛へ電話した。


 出ない。


 レオンにもかけた。


 出ない。


「出ろよ……」


 飛鳥はスマホを握りしめる。


 胸が苦しい。


 凛が危ない。


 そう思う。


 でも、その「危ない」の中に、自分の嫉妬が混ざっていることも分かっている。


 レオンの隣に凛がいるのが嫌だ。

 レオンに凛が利用されているのが嫌だ。

 桜という知らない女が凛に近づいているのが嫌だ。


 守りたい。


 奪いたい。


 その境目が、もう分からない。


 貴之の顔が浮かぶ。


『俺が好きなのは、お前なんだよ』


「今それ思い出すな、馬鹿」


 飛鳥は自分に言った。


 でも、思い出してしまう。


 貴之が自分を見ていた。

 凛の付属品としてではなく。

 幼なじみとしてでもなく。


 田端飛鳥として。


 それが嬉しいなんて、認めたくない。


 認めたら、凛への気持ちまで嘘になる気がする。


 でも、気持ちは一つじゃない。


 人間の中には、いくつも矛盾がある。


 凛が好き。

 貴之を許せない。

 レオンを信用できない。

 貴之に好きと言われて、少し揺れた。


 全部本当だった。


「最悪」


 飛鳥は窓の外を見た。


 都心の夜景が流れていく。


 その光のどこかに、凛がいる。


 今度こそ、間違えない。


 そう思った。


 でも自信はなかった。


     ◇


 レオンが席に戻ると、話はほとんど決まりかけていた。


「じゃあ、来週一度事務所で」


「お願いします」


「凛ちゃんも同席できると助かる」


「調整します」


「頼むよ。君たち、今一番数字持ってるから」


 数字。


 レオンは笑顔で頷いた。


 その言葉に抵抗はなかった。


 芸能界では、数字が価値だ。


 視聴率。

 再生数。

 フォロワー。

 検索数。

 話題性。


 数字にならない感情は、簡単に切り捨てられる。


 レオンはそれを知っていた。


 だから数字を取りにいく。


 そのために凛が必要なら、使う。


 それの何が悪い。


 自分にも言い聞かせる。


 凛を幸せにするには、自分が強くならなきゃいけない。


 強くなるには、仕事を取らなきゃいけない。


 仕事を取るには、チャンスを逃しちゃいけない。


 だからこれは正しい。


 正しいはずだ。


 でも、非常階段に一人残した凛の顔が、頭から離れなかった。


 駒込桜が、離れた席からこちらを見ていた。


 笑っている。


 見透かすように。


 レオンは視線を逸らした。


     ◇


 凛がラウンジへ戻ったのは、それから十分後だった。


 目元は綺麗に直されていた。


 泣いたことが分からないくらい、完璧だった。


「大丈夫?」


 レオンが聞く。


 凛は笑った。


「うん」


 その笑顔を見て、レオンはなぜか怖くなった。


 さっきより明るい。


 さっきより完璧。


 でも、さっきより遠い。


「凛」


「お仕事の話、終わった?」


「ああ」


「よかったね」


 凛は本当に嬉しそうに言った。


 それが余計に怖かった。


 凛は席に戻り、またグラスを持った。


 誰かに話しかけられれば笑う。

 褒められれば照れる。

 からかわれれば可愛く返す。


 完璧な原宿凛。


 でも、その奥にいる本当の凛は、どこかへ引っ込んでしまったみたいだった。


 桜がまた近づいてきた。


「凛ちゃん、復活した?」


「はい」


「強いね」


「お仕事ですから」


 凛は笑った。


 桜の目が少しだけ細くなる。


「あー、そっち行っちゃったか」


「そっち?」


「壊れるんじゃなくて、仕事にしちゃう方」


 桜は小さくため息をついた。


「それ、長持ちするけど、戻るの大変だよ」


「大丈夫です」


 凛は言った。


「私、慣れてるので」


 その言葉は、自分で思っていたよりずっと冷たかった。


 桜は黙った。


 レオンも黙った。


 凛だけが笑っていた。


     ◇


 スキー家で牛丼を食べ終えた俺は、水を三杯飲んだ。


 満腹だった。


 腹が満たされると、人間は少しだけ前向きになる。


 俺はスマホを見た。


 飛鳥からの連絡はない。


 まあ、当然だ。


 考えさせてと言われた。


 待つしかない。


 凛からも連絡はない。


 それも当然だ。


 俺は正式に振った。


 今さら何を言うこともない。


 俺は俺の人生をやり直す。


 まずは部屋を片づけよう。

 積んだ漫画を読む。

 アニメも、惰性じゃなくちゃんと見る。

 サッカーも久しぶりにボールを蹴るかもしれない。

 ダーツも練習し直す。


 そして、飛鳥の返事を待つ。


 俺にできることは、それくらいだ。


 店を出ようとした時、隣の席の若い男たちの会話が耳に入った。


「見た? レオンと原宿凛、また夜遊びだって」


「マジで? 熱愛出たばっかなのに?」


「駒込桜のストーリーに映ってたらしいよ」


「うわ、あの桜? やば」


 俺は足を止めた。


 聞きたくなかった。


 でも、耳が勝手に拾う。


「原宿凛、清純っぽかったのに意外とそっち系なんだな」


「いや白ギャルだし、元からそっちじゃね?」


「レオン勝ち組すぎ」


 俺は拳を握った。


 言う資格はない。


 何もない。


 でも、腹の底が冷えた。


 凛がどう言われているか。


 レオンの隣にいることで、どう消費されているか。


 それを聞いて、初めて実感した。


 俺が「みんなの凛」と言って手放した世界は、思っていたよりずっと汚い。


 スマホを開く。


 検索欄に、原宿凛、と打とうとして止まった。


 見るな。


 見たらまた、自分勝手な感情が出る。


 俺は凛を選ばないと決めた。


 なら、凛の人生に口を出すな。


 でも。


 飛鳥は今、どうしている?


 あいつは凛を放っておけるのか?


 俺は画面を閉じた。


 そして、なぜかもう一度開いた。


 連絡先。


 田端飛鳥。


 指が止まる。


 今電話したら、また余計なことになる。


 でも、胸騒ぎがした。


 その瞬間、スマホが震えた。


 飛鳥からだった。


『凛がレオンといる。たぶんまずい』


 短いメッセージ。


 俺は息を吐いた。


 人生のリスタートは、牛丼を食べたくらいでは始まらないらしい。


     ◇


 ラウンジの夜は、終わらない。


 凛はもう何杯目か分からないグラスを作っていた。


 飲んではいない。


 でも酔っている気がした。


 空気に。

 音に。

 視線に。

 自分の笑顔に。


「凛ちゃん、本当に可愛いね」


「ありがとうございます」


「レオンくんにはもったいないな」


「そんなことないです」


「今度、個人的に食事でも」


 男が名刺を差し出す。


 凛は受け取らない。


 その前に、レオンが手を出した。


「彼女への連絡は俺を通してください」


 場が少し静かになる。


 男は笑った。


「独占欲強いねえ」


「大事なんで」


 レオンは笑っている。


 でも目は笑っていなかった。


 凛はその横顔を見た。


 守ってくれた。


 そう思いたかった。


 でも同時に、囲われた、とも思った。


 どちらが本当か分からない。


 たぶん、どちらも本当なのだ。


 レオンは凛を守っている。

 そして利用している。


 飛鳥は凛を守ろうとしている。

 そして自分のものにしたがっている。


 貴之は凛を傷つけた。

 でも初めて正直に振った。


 人は一つじゃない。


 優しさだけの人も、悪意だけの人もいない。


 だからこそ、凛は苦しかった。


 誰を責めればいいのか分からない。


 最後にはいつも、自分が悪い気がしてくる。


 私が弱いから。

 私が流されるから。

 私が誰かに選ばれたがるから。


 その時、スマホが震えた。


 飛鳥からのメッセージ。


『今から行く』


 凛の心臓が跳ねた。


 来る。


 飛鳥が来る。


 嬉しかった。


 怖かった。


 会いたい。


 会いたくない。


 この場所にいる自分を見られたくない。


 でも、見つけてほしい。


 凛はスマホを伏せた。


「誰?」


 レオンが聞いた。


「飛鳥」


 その名前に、レオンの表情が変わる。


「来るの?」


「たぶん」


「場所、教えた?」


「教えてない」


「じゃあ来られないよ」


 レオンはそう言った。


 でも声に余裕はなかった。


 凛は初めて、少しだけ思った。


 レオンくんは、飛鳥が怖いんだ。


 貴之くんではなく。


 飛鳥が。


     ◇


 飛鳥のタクシーは、ラウンジのあるビルの前に止まった。


 入り口には看板がない。


 黒服の男が立っているだけ。


 飛鳥は深呼吸した。


 場違いだ。


 でも、そんなことを気にしている場合じゃない。


「すみません」


 黒服が飛鳥を見る。


「ご予約のお客様ですか」


「中に原宿凛がいますよね」


 男の目がわずかに動いた。


「お答えできません」


「じゃあ桐生レオン」


「お答えできません」


「駒込桜」


 男は黙る。


 当たりだ。


 飛鳥はスマホを握りしめた。


「友人です。凛を迎えに来ました」


「ご本人様からの確認が取れないと」


 その時、エレベーターが開いた。


 降りてきたのは駒込桜だった。


 桜は飛鳥を見ると、すぐに何かを察したように笑った。


「あんたが飛鳥ちゃん?」


 飛鳥は警戒する。


「誰」


「駒込桜。知ってるでしょ」


「凛はどこ」


「上」


「通して」


「怖い顔」


 桜は黒服に軽く手を振った。


「通してあげて。あーしの知り合い」


 黒服が少し迷い、道を開ける。


 飛鳥は桜を睨んだ。


「何のつもり」


「面白そうだから」


「ふざけないで」


「ふざけてないよ」


 桜は飛鳥に近づき、低い声で言った。


「あの子、今ならまだ戻れるかもね」


「何をした」


「あーしは何も。ただ、レオンがいつも通りだっただけ」


 飛鳥の拳が震える。


「レオンは凛を利用してるの?」


「利用もしてるし、好きでもあるんじゃない?」


 桜は肩をすくめる。


「一番厄介なやつ。悪意だけなら切れるのに、情も混ざってる」


「……」


「あんたもそうでしょ?」


 飛鳥は息を止めた。


 桜は笑う。


「凛ちゃんのこと、好きなんだよね。でも守りたいだけじゃない。欲しいんでしょ」


「黙って」


「図星か」


「黙れって言ってんの」


 飛鳥の声は低かった。


 桜は両手を上げる。


「はいはい。怖。じゃ、頑張って」


 エレベーターの扉が開く。


 飛鳥は乗り込んだ。


 扉が閉まる直前、桜が言った。


「凛ちゃんに選ばせなよ」


 飛鳥は答えなかった。


 でも、その言葉は胸に残った。


     ◇


 俺はスキー家の前に立っていた。


 飛鳥からのメッセージを見たまま、動けずにいた。


『凛がレオンといる。たぶんまずい』


 電話をかける。


 飛鳥は出ない。


 もう向かっているのかもしれない。


 俺は画面を見つめる。


 行くべきか。


 行かないべきか。


 凛を正式に振ったばかりだ。

 俺が行けば、またややこしくなる。


 でも、飛鳥が危ないかもしれない。


 凛も。


 レオンもいる。


 駒込桜とかいう知らない名前も出てきた。


「……何なんだよ、もう」


 人生をリスタートしようとした直後にこれだ。


 牛丼で世界が救われるほど、現実は甘くない。


 俺はタクシーアプリを開いた。


 行き先は分からない。


 飛鳥に位置情報を送れとメッセージを打つ。


『どこだ。行く』


 送信。


 すぐに既読はつかない。


 俺は空を見上げた。


 腹は満たされている。


 なのに胸は空っぽだ。


 凛を選ばない。


 それは変わらない。


 でも、だからといって、凛が壊れていくのを見ていい理由にはならない。


 飛鳥が一人で抱え込むのを、放っておいていい理由にもならない。


 好きって、何だろう。


 選ぶって、何だろう。


 分からないまま、俺は走り出した。


     ◇


 飛鳥がラウンジに入ると、最初に凛を見つけた。


 白い髪。

 白い肌。

 完璧な笑顔。


 そして、その手にはグラス。


 凛は誰かの隣で笑っていた。


 飛鳥の胸が潰れた。


「凛」


 声は思ったより大きく響いた。


 凛が振り返る。


 その瞬間、凛の笑顔が崩れた。


「飛鳥……」


 レオンも立ち上がる。


「どうしてここに」


「迎えに来た」


 飛鳥はまっすぐ凛へ歩いた。


 周りの男たちが面白そうに見ている。


「何? 修羅場?」


「幼なじみ?」


「女の子同士で?」


 笑い声。


 飛鳥は全部無視した。


 凛の前に立つ。


「帰ろう」


 凛は口を開いた。


 でも、その前にレオンが言った。


「凛は俺と来てる」


「だから何」


「勝手に連れて帰られる筋合いはない」


「凛が帰りたいなら帰る」


 飛鳥は凛を見た。


「帰りたい?」


 凛の目が揺れる。


 帰りたい。


 そう言いたかった。


 でも、言葉が出ない。


 レオンの仕事。

 場の空気。

 自分の立場。

 全部が喉を塞ぐ。


「凛」


 飛鳥の声が少しだけ柔らかくなる。


「選んで」


 その言葉に、凛は息を呑んだ。


 選んで。


 今まで、誰かに選ばれようとしてきた。


 貴之に。

 レオンに。

 飛鳥に。

 ファンに。

 スタッフに。


 でも、自分で選ぶことから逃げていた。


 帰りたいなら、帰る。

 残りたいなら、残る。


 それだけのことが、こんなに怖い。


 レオンは凛を見た。


「凛。無理しなくていい。でも、俺は君といたい」


 優しい声。


 飛鳥は言った。


「凛。私はあんたを連れて帰りたい。でも、あんたが決めて」


 二人の声が、凛を挟む。


 凛は震える手で、持っていたグラスをテーブルに置いた。


 小さな音がした。


「私」


 声がかすれる。


「帰る」


 飛鳥が息を吐いた。


 レオンの表情が固まる。


 凛はレオンを見た。


「ごめん。今日はもう無理」


「送る」


「いい」


 凛は首を振った。


「飛鳥と帰る」


 レオンの目が暗くなる。


 でも、すぐに笑った。


「分かった」


 その笑顔は優しかった。


 だから余計に、凛の胸が痛んだ。


「連絡して」


「うん」


 凛は飛鳥の方へ歩いた。


 飛鳥が手を差し出す。


 凛は少し迷って、その手を取った。


 今度は、自分で。


     ◇


 エレベーターの中で、凛は何も言わなかった。


 飛鳥も言わなかった。


 手だけが繋がっている。


 強く握りすぎないように。

 でも、離さないように。


 一階に着く。


 ビルの外へ出ると、夜風が冷たかった。


 凛は深呼吸した。


「寒い」


「帰ろ」


「うん」


 その時、道の向こうから誰かが走ってきた。


 岡野貴之だった。


 息を切らして、髪を乱して、どう見ても場違いな顔で。


 飛鳥が目を見開く。


「なんで来たの」


「お前が、まずいって送ったから」


「場所教えてない」


「だいたい分かった。あと途中でお前の位置情報が一瞬飛んできた」


「嘘」


「たぶん誤送信」


 飛鳥はスマホを見る。


 本当に送っていた。


「最悪……」


 凛は貴之を見た。


 胸が痛む。


 でも、さっきほど壊れそうではなかった。


 貴之も凛を見た。


 何か言いたそうだった。


 でも、言わなかった。


 代わりに、飛鳥を見た。


「大丈夫か」


 飛鳥は一瞬黙った。


 それから言った。


「凛は帰る」


「そっか」


「それだけ」


「分かった」


 貴之は頷いた。


 凛へ近づこうとはしなかった。


 それが、凛には少し意外だった。


 貴之は言った。


「凛」


「……うん」


「帰れ。今日は寝ろ」


 たったそれだけ。


 謝罪も、言い訳も、優しさの押し売りもない。


 凛は少しだけ笑った。


「うん」


 飛鳥がタクシーを止める。


 凛を乗せる。


 自分も乗る前に、飛鳥は貴之を見た。


「話はまた今度」


「分かった」


「あと」


「何」


「牛丼くさい」


「食ったからな」


「何食べたの」


「ネギたま牛丼メガつゆだくだくだく明太マヨトッピング温玉変更」


「情報量多すぎ」


 ほんの一瞬、飛鳥が笑いそうになった。


 でもすぐに顔を引き締める。


「じゃあ」


 タクシーの扉が閉まる。


 車が走り出す。


 貴之はその場に残った。


 ビルの上のラウンジには、まだ明かりがついている。


 レオンがそこにいる。


 駒込桜もいるかもしれない。


 でも今は、追いかけなかった。


 凛は自分で帰ると言った。


 飛鳥が連れて帰った。


 それでいい。


 少なくとも今夜は。


     ◇


 ラウンジの窓から、レオンは三人を見ていた。


 凛が飛鳥の手を取るところ。


 岡野貴之が現れるところ。


 そして、凛がタクシーに乗って去っていくところ。


 グラスを持つ手に力が入る。


 岡野。


 またお前か。


 お前は何もしていない顔で、最後にそこに立つ。


 凛はお前を選ばなかった。

 飛鳥もお前に怒っている。

 なのに、お前はあの二人の近くにいる。


 それが、レオンには耐えがたかった。


「負けた顔してる」


 背後から桜の声。


 レオンは振り返らない。


「負けてない」


「凛ちゃん帰っちゃったじゃん」


「一時的にね」


「岡野くんも来たし」


「黙れ」


 桜は笑う。


「やっぱ気にしてるじゃん」


 レオンは窓に映る自分を見た。


 整った顔。

 高いスーツ。

 芸能界の席。

 仕事のチャンス。


 岡野貴之より、ずっと高い場所にいる。


 そのはずなのに。


 なぜ、まだ勝った気がしない。


「見てろよ」


 レオンは小さく呟いた。


「まだ終わってない」


 桜はその横顔を見て、少しだけ退屈そうに笑った。


「男の復讐って、ほんと味濃いね」


     ◇


 タクシーの中。


 凛は飛鳥の肩にもたれていた。


 眠ってはいない。


 ただ、目を閉じている。


「飛鳥」


「何」


「私、帰るって言えた」


「うん」


「自分で言えた」


「うん」


 飛鳥は凛の手を握った。


「偉い」


 その一言で、凛の目から涙が落ちた。


「私、何やってるんだろうね」


「今は考えなくていい」


「考えないと、また流される」


「じゃあ一緒に考える」


 凛は目を開けた。


「飛鳥は、私のこと好き?」


 飛鳥の喉が詰まる。


 今ここで、嘘はつけない。


「好き」


「貴之くんに好きって言われた?」


 飛鳥は黙った。


 凛は小さく笑った。


「やっぱり」


「凛」


「怒ってないよ」


「嘘」


「ちょっと怒ってる」


「うん」


「でも、飛鳥のせいだけじゃない」


 凛は窓の外を見る。


「私、誰かに選ばれたくて、ずっと自分で選んでなかった」


 飛鳥は何も言えなかった。


「だから、今すぐ答え出さない」


「うん」


「レオンくんのことも。貴之くんのことも。飛鳥のことも」


 凛は飛鳥の手を握り返した。


「私の幸せがどこにあるのか、ちゃんと探す」


 その声は弱かった。


 でも、さっきラウンジで笑っていた凛より、ずっと凛らしかった。


 飛鳥は頷いた。


「うん」


 そして心の中で思った。


 今度こそ、凛に選ばせる。


 たとえ選ばれるのが自分じゃなくても。


 そう思った。


 思ったはずだった。


 でも凛の手の温度を感じると、胸の奥の欲がまた小さく疼いた。


 飛鳥はそれを否定しなかった。


 否定できないなら、せめて見張る。


 自分の中の最低な部分を。


     ◇


 俺は一人、夜道を歩いて帰った。


 スマホを見ると、スキー家のアプリから通知が来ていた。


『次回使えるクーポン配信中』


 今それどころじゃない。


 でも、少し笑ってしまった。


 人生はめちゃくちゃだ。


 凛は曇っている。

 飛鳥は揺れている。

 レオンはまだ何か企んでいる。

 俺は飛鳥に告白したばかりで、返事待ち。


 それでも腹は減るし、牛丼はうまいし、クーポンは来る。


 現実は残酷で、しょうもなくて、たまに少しだけ優しい。


 俺は夜空を見上げた。


「リスタート、遠いな」


 呟いて、歩き出す。


 頬には、飛鳥に叩かれた痛みがまだ残っていた。


 不思議と、その痛みだけが今夜の中で一番確かだった。

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