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俺の理想(白ギャル)になった幼馴染を、俺の傲慢が汚していく。  作者: ラズベリーパイ大好きおじさん


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6/10

ままならねぇ人生に温玉を落として

飛鳥から返事が来たのは、翌日の夕方だった。


 場所は、駅前の歩道橋。


 夕焼けがビルの隙間に沈みかけていて、車のライトがぽつぽつ灯り始めていた。

 俺は手すりにもたれて、飛鳥を待っていた。


 告白した。


 凛を振った直後に。

 凛の目の前で。

 最低のタイミングで。


 だから、どんな返事でも受け入れるつもりだった。


 飛鳥は黒いパーカー姿で現れた。

 目の下に少し隈がある。

 たぶん、寝ていない。


「待たせた」


「いや」


「返事する」


「うん」


 早かった。


 もっと悩むと思っていた。

 でも飛鳥は、そういうところがある。

 逃げる時は全力で逃げるくせに、決めたら早い。


 飛鳥は俺の正面に立った。


「ごめん。無理」


 短かった。


 でも、その短さが飛鳥らしかった。


「そっか」


「そっか、じゃない。ちゃんと聞いて」


「聞く」


 飛鳥は唇を噛んだ。


「正直、動揺した」


 俺は黙っていた。


「あんたに好きって言われて、嬉しくなかったって言ったら嘘になる。むかつくけど。ほんと、むかつくけど」


「うん」


「私の最低なところも知って、それでも好きって言われた。そんなの、揺れるに決まってるじゃん」


 飛鳥は俺から目を逸らした。


「でも、やっぱり私は凛が好き」


 その声は、真っ直ぐだった。


「私にとっては凛が全部。小さい頃からずっと、凛だった。あの子が貴之を好きでも、レオンに寄りかかっても、それでも私は凛を諦められない」


「……うん」


「だから、あんたの気持ちには応えたくない」


 応えられない、ではなく。


 応えたくない。


 その言い方が、飛鳥の意志だった。


「それは凛を裏切ることになるから。私はもう、あの子を傷つけることをたくさんした。これ以上、自分の気持ちで凛を踏みつけたくない」


 胸が痛んだ。


 でも、不思議と納得していた。


 俺が好きになった飛鳥は、そういうやつだ。


 凛のために嘘をついて、凛のために間違えて、凛のために泣けるやつ。


「分かった」


「ほんとに?」


「分かった」


「軽くない?」


「軽くない」


 俺は手すりから体を離した。


「ちゃんと振られたの、たぶん初めてだから、どういう顔すればいいか分からないだけ」


「最悪。凛の気持ち、少しは分かった?」


「かなり」


 飛鳥は少しだけ苦しそうに笑った。


「じゃあ、これで終わり」


「終わり?」


「告白の返事は」


「そっか」


「……貴之」


「何」


「あんたが好きって言ってくれたことは、忘れない」


 飛鳥は言った。


「でも、それを理由に凛から逃げたりはしない」


「うん」


「だから、あんたも逃げないで」


 俺は頷いた。


 飛鳥は背を向けた。


 その背中に、俺は何か言いたかった。


 好きだ、とか。

 待ってる、とか。

 諦めない、とか。


 でも今言うのは違う気がした。


 飛鳥は階段を降りながら、スマホを取り出した。


 たぶん凛に連絡しているのだろう。


 俺は夕焼けの中で、一人残された。


 振られた。


 はっきりと。


 なのに、なぜか心の奥に、小さな火が残っていた。


     ◇


 飛鳥は歩道橋を降りてすぐ、凛にメッセージを送った。


『貴之の告白、断った』


 送ってから、自分の指が震えていることに気づいた。


 続けて打つ。


『今日、会えない?』


 既読はすぐについた。


 返事は少し遅れて来た。


『会いたい』


 飛鳥は息を吐いた。


 場所は、昔よく遊んだ公園にした。


 滑り台とブランコと、半分地面に埋まったタイヤ遊具があるだけの小さな公園。

 小学生の頃、三人でよく隠れんぼをした場所。


 夜の公園は、人がいなかった。


 街灯の下に、凛が立っていた。


 キャップを深くかぶり、マスクをしている。

 それでも、凛だと分かる。


「飛鳥」


「凛」


 二人はしばらく黙って向かい合った。


 最初に口を開いたのは、飛鳥だった。


「貴之、振った」


「うん。聞いた」


「私、凛が好きだから」


「うん」


「凛を裏切りたくないから」


 そう言った瞬間、凛の表情が変わった。


 強く、凛は首を振った。


「それは違う」


「え?」


「私のことは気にしなくていい」


「気にするよ」


「気にしなくていい」


 凛の声は思ったより強かった。


「そんなことされたら、飛鳥のこと好きじゃいられないよ?」


 飛鳥は息を呑んだ。


「私を理由に、自分の気持ちを殺さないで。私を言い訳にしないで。飛鳥が誰を好きになるかは、飛鳥のものだよ」


「でも、私は凛が好き」


「うん」


「貴之に言われて動揺した。でも、それでもやっぱり凛が好き」


 飛鳥は泣きそうになりながら言った。


「それだけは嘘じゃない」


 凛は少しだけ目を伏せた。


「うん。ありがとう」


「ありがとうって何」


「好きでいてくれて」


 凛は笑った。


 弱い笑顔だった。


「私、ずっと誰かに選ばれたくて、自分で選ぶことから逃げてた。だから、飛鳥には逃げてほしくない」


「凛……」


「もし飛鳥が貴之を好きになったなら、私はちゃんと悔しがる。泣くかもしれない。怒るかもしれない。でも、それを理由に飛鳥のこと嫌いになりたくない」


 飛鳥の胸が締めつけられた。


 凛は変わろうとしている。


 誰かの好きな女の子になるためじゃなく。

 誰かに選ばれるためじゃなく。


 自分で立つために。


 それが嬉しくて、怖かった。


「青春してんじゃん」


 突然、知らない声がした。


 二人が振り返る。


 公園の入り口に、駒込桜が立っていた。


 黒いコート。

 赤みのある髪。

 夜の公園にまるで似合わない女王みたいな女。


「桜さん……?」


 凛が驚く。


 桜は片手を上げた。


「やっほ。密会?」


「なんでここに」


 飛鳥が警戒する。


「凛ちゃんが心配だったから、って言ったら信じる?」


「信じない」


「正解」


 桜は楽しそうに笑った。


「半分は面白そうだったから。もう半分は、レオンがまた変なことしそうだったから」


 飛鳥の目が鋭くなる。


「レオンのこと、何か知ってるの」


「元カノだからね。まあ、色々」


 桜はブランコに腰かけた。


 高いヒールの先が、砂を軽く蹴る。


「あいつ、昔から勝ち負けでしか自分を測れない男だった」


 桜は夜空を見上げながら話し始めた。


「顔がいい。才能もそこそこある。努力もできる。でも一回、自分のプライドをぐちゃぐちゃにされてから、ずっとそれを埋めようとしてる」


「岡野のこと?」


「そう。サッカーでボコられたんでしょ? 十六対ゼロだっけ? あいつ、酔うとたまに言ってたよ。『いつか岡野の大事なものを奪う』って」


 凛の肩が震えた。


 飛鳥は拳を握った。


「レオンは、私と付き合ってた時もそうだった」


 桜は続ける。


「あーしもあいつを利用した。あいつもあーしを利用した。モデルのコネ、仕事の紹介、人脈、話題性。お互い様だった」


「それ、恋だったの?」


 凛が聞いた。


 桜は少し笑った。


「たぶん恋も混ざってたよ」


「混ざってた?」


「人間、そんな綺麗に分けられないじゃん。好き、利用、嫉妬、承認欲求、復讐。全部ぐちゃぐちゃに混ぜて、それでも『恋』って名前をつける時がある」


 その言葉は、凛にも飛鳥にも刺さった。


「レオンは凛ちゃんのこと、嫌いじゃないと思う。むしろ可愛いとは思ってる。守りたい気持ちもゼロじゃない」


「じゃあ……」


「でも、それ以上に岡野くんを見てる」


 桜は凛を見た。


「凛ちゃんを通して、岡野くんに勝とうとしてる。『お前の欲しかったものは俺の隣にいる』って証明したがってる」


 凛は唇を噛んだ。


 飛鳥は顔を青くした。


「私が……」


 声が震える。


「私が、レオンを凛に近づけた」


 凛が飛鳥を見る。


 飛鳥は逃げなかった。


「ごめん。私、貴之から凛を離したかった。だからレオンに情報を渡した。レオンが貴之を恨んでるって知ってて、それでも利用した」


 飛鳥は頭を下げた。


「ごめん、凛。私があんたを巻き込んだ」


 凛は何も言わなかった。


 沈黙が長かった。


 飛鳥には、その沈黙が何より怖かった。


「……知りたくなかった」


 凛がぽつりと言った。


 飛鳥の心臓が潰れそうになる。


「でも、知らないままじゃもっと嫌だった」


 凛は飛鳥の前に立った。


「飛鳥は最低なことをした」


「うん」


「でも、私も選んだ。原宿に行くことも、アイドルになることも、レオンくんに寄りかかることも」


「でも私が」


「全部を飛鳥のせいにしたら、私はまた何も選ばなかったことになる」


 凛は強く言った。


「それは嫌」


 飛鳥は泣きそうになった。


 凛は、少しずつ自分の足で立とうとしている。


 その姿が、眩しかった。


 そして痛かった。


「最近ね」


 凛は静かに話し始めた。


「レオンくんにラウンジへ連れて行かれたの」


 飛鳥の顔が強張る。


「大人の人たちがいっぱいいて、仕事の話をして、私は隣で笑ってた。グラス作ったり、話に相槌打ったり。別に無理やり何かされたわけじゃない。でも、私、何してるんだろうって思った」


 凛は自分の手を見る。


「私の名前が、レオンくんの名刺みたいに使われてた。国民的アイドル原宿凛って肩書きが、あの人を上に運ぶための階段になってた」


「凛……」


「桜さんが来て、レオンくんにキスした」


 飛鳥が桜を見る。


 桜は悪びれない。


「したね」


「レオンくんは止めなかった。私、そこにいて、笑うしかなかった」


 凛の声は震えていた。


「私の幸せってどこなんだろうって、ずっと考えてた。貴之くんの好きな女の子になれたら幸せだと思ってた。レオンくんに大事にされたら幸せだと思ってた。飛鳥に守られたら幸せだと思ってた」


 凛は顔を上げた。


「でも、どれも違うのかもしれない」


 飛鳥は何も言えなかった。


 自分が作った地獄だと思った。


 凛を貴之から離したいと思った。

 レオンを使った。

 凛の恋を壊した。

 そして凛は今、自分の幸せが分からなくなっている。


「私のせいだ……」


 飛鳥が呟く。


「違うって言っても、飛鳥はそう思うよね」


 凛は苦く笑った。


「私も、自分のせいだって思ってるから」


 その時、凛のスマホが震えた。


 画面を見た凛の表情が曇る。


「レオンくん?」


 飛鳥が聞く。


 凛は頷いた。


『昨日のプロデューサーがもう一度会いたいって。大事な話だから来てほしい』


 凛はメッセージを読み上げた。


「行くの?」


 飛鳥の声が鋭くなる。


「うん」


「なんで!」


「呼ばれたから」


「凛!」


「逃げたくないの」


 凛は健気な顔で言った。


「レオンくんにも、ちゃんと話したい。仕事のこともあるし、もう曖昧に笑って流したくない」


「危ない」


「分かってる」


「分かってない!」


 飛鳥は凛の手を掴んだ。


「お願い。行かないで」


 凛はその手を見た。


 そして、そっと外した。


「飛鳥。私、自分で選ぶって決めた」


 飛鳥は何も言えなくなる。


 桜が立ち上がった。


「じゃ、あーしも行こ」


「え?」


 凛が驚く。


「面白そうだし。あと、レオンが変なことしないように見張る係」


「桜さん……」


「顔パスあるしね。便利でしょ?」


 桜はウインクした。


 飛鳥は唇を噛む。


「私も行く」


「飛鳥は来ないで」


 凛が言った。


「今来たら、また私が飛鳥に守られるだけになる」


「でも」


「大丈夫。今度は、帰りたい時は帰るって言う」


 凛はそう言って、少しだけ笑った。


 桜と凛が公園を出ていく。


 飛鳥は追いかけられなかった。


 足が動かなかった。


 自分のせいで凛が行く。

 でも止めたら、凛の選択を奪う。


 どうすればいいのか分からなかった。


 その時だった。


 公園のタイヤ遊具の下から、ずるり、と音がした。


「……痛っ」


 聞き慣れた声。


 飛鳥が振り返る。


 地面に半分埋まった大きなタイヤの陰から、岡野貴之が這い出てきた。


「……何してんの」


 飛鳥の声は低かった。


 俺は砂を払った。


「いや、その」


「何してんの」


「昔から、このタイヤの中、落ち着くんだよ」


「通報するよ?」


「待て。俺にも事情がある」


「盗み聞き?」


「結果的には」


 飛鳥は額を押さえた。


「最悪」


「話は全部聞いてた」


「もっと最悪」


 俺は飛鳥を見た。


 凛が去っていった公園の出口。

 その方向を、飛鳥はまだ見ている。


「飛鳥」


「今はそれどころじゃない」


「それでも俺は、お前が好きだ」


 飛鳥が固まった。


 それから、ものすごく嫌そうな顔をした。


「空気読め、バカ」


 でも、その声は怒鳴り声ではなかった。


 少しだけ、嬉しそうだった。


 ほんの少しだけ。


「読んだ結果だ」


「どこが」


「今のお前、一人だと自分のせいだって沈むだけだろ」


 飛鳥は言い返せなかった。


「凛を助けたいんだろ」


「……うん」


「でも凛の選択を奪いたくない」


「うん」


「なら、俺たちが助けに行こう」


 飛鳥が俺を見る。


「俺たち?」


「お前一人で行くと、また全部背負う。俺一人で行くと、だいたい最悪になる」


「自覚あるんだ」


「ある」


 俺は公園の出口を見た。


「だから二人で行く。凛が自分で選べるように、逃げ道を作る。レオンが変なことしたら止める」


「私のせいなのに」


「なら、なおさらだ」


 俺は言った。


「自分のせいだと思うなら、最後まで責任取れ。俺も取る。凛を傷つけた責任を」


 飛鳥はしばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


「行く」


「よし」


「でも貴之」


「何」


「好きとか言うタイミング、ほんと最悪だから」


「知ってる」


「でも……」


 飛鳥は小さく呟いた。


「ありがと」


 聞こえた。


 でも聞こえなかったふりをした。


 今は、それくらいがちょうどよかった。


     ◇


 会員制ラウンジのビル前には、昨日と同じように黒服のガードが立っていた。


 俺と飛鳥が近づくと、すぐに止められた。


「ご予約は」


「ないです」


「ではお通しできません」


「中に原宿凛と桐生レオンがいるはずです」


「お答えできません」


 テンプレのような対応。


 飛鳥が一歩前に出る。


「友人です。凛を迎えに来ました」


「確認が取れない限り」


 その時、入り口横のインターホンが鳴った。


 ガードが耳に手を当てる。


 少しだけ表情が変わった。


「……はい。承知しました」


 ガードが俺たちを見る。


「桐生様がお上がりください、と」


 飛鳥が眉をひそめた。


「罠じゃん」


「だな」


「行くの?」


「行くしかないだろ」


 エレベーターに乗る。


 扉が閉まる瞬間、俺は深呼吸した。


 怒っていた。


 レオンに。

 飛鳥に。

 自分に。


 でも、だからこそ冷静でいようと思った。


 怒りのまま殴れば、それで終わりだ。


 今夜終わらせるべきなのは、レオンの復讐ごっこだ。


 エレベーターの扉が開く。


 ラウンジの中は、昨日より少し静かだった。


 奥のソファにレオンがいた。


 その隣に凛。

 少し離れて桜。


 プロデューサーらしき大人たちもいる。

 高そうな酒。

 低い照明。

 笑い声の残り香。


 レオンが立ち上がった。


「岡野ぉ」


 名前を呼ぶ声に、ねっとりしたものが混ざっていた。


「よく来たな」


「呼んだのはお前だろ」


「ああ。見せたくてさ」


 レオンは両腕を広げた。


「俺はここまで来たぜ?」


 ラウンジの夜景。

 業界人たち。

 高い酒。

 スポットライトの匂い。


 レオンはそれら全部を背負うように笑った。


「お前が知らない場所。お前じゃ届かない高さ。俺はここにいる」


 俺は黙っていた。


 レオンは凛をちらりと見た。


「お前のほしいもの、全部俺が持ってる」


 凛の顔が強張る。


 飛鳥の拳が握られる。


 俺は、静かに息を吐いた。


「いや、そんなことはないさ」


 レオンの眉が動く。


「なんなら、もう一回叩き潰してやろうか?」


 空気が凍った。


 レオンの目が一瞬で変わる。


 中学のグラウンドで、ゴール前に立っていたキーパーの目。


 あの時と同じだ。


 いや、もっと暗い。


「てめぇ……」


 俺はレオンから視線を外し、店の奥を見た。


 壁際に、ダーツボードがあった。


 客用の遊び道具だろう。

 電子ボード。

 横には矢が数セット。


 おあつらえ向きに。


「そこにダーツボードがある」


 俺は言った。


「クリケットをやろう」


 レオンは一瞬、ぽかんとした。


 それから笑った。


「ダーツ?」


「ああ」


「喧嘩じゃなくて?」


「喧嘩したらお前の顔に傷がつく。俳優だろ」


「優しいな」


「違う。面倒なだけだ」


 桜が吹き出した。


「いいじゃん。大人の男の決着って感じで」


 レオンは俺を睨んだ。


「てめぇなんざに、もう負けねぇんだよ」


「じゃあ決まりだ」


「条件は?」


 レオンが言った。


「俺が勝ったら、凛はここに残る。お前らは帰れ」


 飛鳥が怒りかけた。


 でも凛が先に言った。


「私は物じゃない」


 レオンが少しだけ怯む。


 凛は立ち上がった。


「私のことを賭けないで」


 俺は頷いた。


「条件は一つだけでいい。勝った方の言葉を、負けた方は最後まで聞く」


 レオンが目を細める。


「甘いな」


「俺たちに必要なのは、賭けじゃなくて言葉だろ」


「気持ち悪いこと言うようになったな、岡野」


「牛丼食ったからな」


「意味分かんねぇ」


 レオンは矢を手に取った。


「いいぜ。やってやる」


     ◇


 まずはコーク。


 先攻を決めるため、一本ずつブルを狙う。


 俺が先に投げた。


 手は少し震えていた。


 でも、投げる瞬間だけは静かだった。


 ダーツは真っ直ぐ飛び、ブルに刺さった。


 電子音が鳴る。


 悪くない。


 でも、ど真ん中ではない。


「へえ」


 レオンが笑う。


 彼は矢を構えた。


 フォームが綺麗だった。


 悔しいが、練習している。


 投げた瞬間、分かった。


 入る。


 ダーツはインブルの中心に吸い込まれた。


 機械が距離を表示する。


 誤差、ゼロ。


 どセンター。


 店内がざわつく。


 レオンが笑った。


「先攻、もらうぜ」


「ああ」


 ゲームスタート。


 クリケット。


 陣取りと点取りのゲーム。


 20から15、そしてブル。

 同じナンバーに三マーク入れれば閉じる。

 相手が閉じていないナンバーに追加で当てれば点になる。


 要するに、狩場を作って、相手の狩場を潰すゲーム。


 サッカーに似ていると思った。


 スペースを作る。

 相手の強みを消す。

 自分の得意な場所へ誘導する。


 レオンの一投目。


 T20。


 二投目。


 T20。


 三投目。


 T20。


 電子音が連続で鳴り、ボードの20が一気に閉じた。


 そして追加点。


 最初のターンで、レオンは20を支配した。


「うわ、マジか」


 誰かが呟く。


 レオンは俺を見た。


「どうした、岡野」


 俺は矢を握った。


 20で殴り返すのは悪手だ。


 レオンの狩場に乗るな。


 俺は19を狙う。


 一投目。


 T19。


 二投目。


 T19。


 三投目。


 T19。


 ボードが鳴る。


 19を閉じ、点を返す。


 T20対T19。


 レオンが笑った。


「そう来ると思った」


「だろうな」


 二ラウンド目。


 レオンは迷わず20を打った。


 T20。

 T20。

 T20。


 点差が広がる。


 強い。


 単純に上手い。


 だが、レオンの目は20しか見ていなかった。


 俺は一投目でT20を狙った。


 入る。


 これで20は閉じた。


 レオンの狩場を潰す。


 二投目、T19。

 三投目、T19。


 差はまだある。


 でも、流れは止めた。


 レオンの顔から笑みが消える。


 三ラウンド目。


 レオンは19を閉じに来た。


 一投目、シングル19。

 二投目、T19。


 閉じた。


 もう19では点が取れない。


 三投目はS18に外れた。


 俺の番。


 18を狙う。


 一投目、T18。


 開く。


 二投目、T18。

 三投目、T18。


 点が入る。


 初めて俺がリードした。


 飛鳥が小さく息を呑む。


 凛は両手を握っていた。


 桜は楽しそうに笑っている。


「やるじゃん」


 レオンが言った。


 声が少し低い。


「お前もな」


「余裕ぶってんじゃねぇよ」


 そこからは、殴り合いだった。


 レオンが18を閉じる。

 俺が17で点を取る。

 レオンが17を潰す。

 俺が16へ逃げる。

 レオンが追う。

 俺が15を先に閉じる。


 数字が下がるたび、店内の空気が熱くなっていく。


 これはただのダーツじゃなかった。


 レオンにとっては、中学のゴール前の続き。

 俺にとっては、逃げ続けた人生の続き。


 レオンの投げ方は鋭い。


 怒りを矢に乗せている。


 でも、怒りが強すぎた。


 ここぞという場面で、力が入る。


 トリプルのワイヤーに弾かれる。

 ほんの数ミリ外れる。


 一方、俺の中には妙な静けさがあった。


 怒っている。


 確かに怒っている。


 でも、それ以上に、終わらせたいと思っていた。


 レオンの復讐も。

 飛鳥の罪悪感も。

 凛の自己犠牲も。

 俺自身の逃げ癖も。


 全部、ここで一回区切りをつける。


 最後はブル勝負になった。


 得点はほぼ互角。


 レオンがわずかにリード。


 残るはブルだけ。


 レオンのターン。


 一投目、アウターブル。

 二投目、アウターブル。


 あと一マーク。


 三投目。


 レオンの指がわずかに震えた。


 ダーツはブルを逸れ、外に刺さる。


 店内がざわつく。


 レオンが舌打ちした。


 俺の番。


 必要なのは、ブル三マーク。


 そして点差をひっくり返す一撃。


 俺は矢を構えた。


 視界の端に、凛がいる。


 飛鳥がいる。


 レオンがいる。


 でも、見ているのはボードだけ。


 一投目。


 インブル。


 電子音。


 二マーク。


 店内が静まり返る。


 二投目。


 アウターブル。


 開いた。


 これで全ナンバーが空いた。


 ただし、点差はまだわずかにレオン。


 三投目。


 インブルなら逆転。


 外せば負け。


 俺は息を吐いた。


 昔、サッカーの試合でレオンのゴールを見た時、どこに蹴れば入るか分かった。


 今は、どこへ投げれば届くか分かる。


 矢が指を離れた。


 飛んでいく時間が、やけに長く感じた。


 そして。


 インブル。


 電子音が鳴った。


 ボードに表示が出る。


 WINNER OKANO


 誰もすぐには声を出さなかった。


 俺は矢を下ろした。


 レオンはボードを見ていた。


 信じられないという顔で。


「なんで」


 声が漏れる。


「なんでお前なんかに勝てねぇ」


 レオンの拳が震える。


「俺は……俺は!」


 彼はテーブルを蹴りかけて、途中で力を失った。


 項垂れる。


 背中が、小さく見えた。


 その隙に、飛鳥が凛の手を取った。


「行くよ」


 凛は頷いた。


 俺も踵を返す。


「待て……」


 レオンが掠れた声で言った。


 でも、立ち上がれない。


 その前に、桜が彼の前に立った。


「レオン」


「どけ、桜」


「やだ」


 桜はレオンの頬に手を添えた。


「負けた男の顔、嫌いじゃないよ」


「ふざけんな」


「ふざけてない」


 桜は微笑んだ。


「岡野くんを追っても、今のあんたはもっと惨めになるだけ」


「黙れ」


「黙らせたい?」


 桜はレオンに顔を近づけた。


 そして、唇で彼の言葉を塞いだ。


 熱いキスだった。


 周囲が息を呑む。


 レオンは最初、抵抗しようとした。


 でも桜は離れない。


 彼女はレオンを知っている。

 勝ちたい時の顔も、負けた時の顔も、虚勢を張っている時の呼吸も。


 やがてレオンの肩から力が抜けた。


 桜は唇を離し、彼の耳元で囁いた。


「今日はあーしに負けときな。負け方、教えてあげる」


 レオンは何も言わなかった。


 ただ、ソファに沈むように座り込んだ。


 俺たちはその隙に、ラウンジを出た。


     ◇


 ビルの外に出ると、夜風が冷たかった。


 ラウンジの中の甘い匂いが、ようやく体から抜けていく。


 三人で歩道に立つ。


 俺。

 飛鳥。

 凛。


 誰もすぐには話さなかった。


 最初に口を開いたのは、凛だった。


「ありがとう」


「私は何も」


 飛鳥が言いかける。


「飛鳥も、貴之くんも」


 凛はそう言った。


 俺は頬をかいた。


「俺はダーツしただけだ」


「かっこつけないでよ」


 飛鳥が言う。


「いや、結構かっこよかったでしょ」


「調子乗んな」


 でも、飛鳥の声は少し柔らかかった。


 俺はその顔を見て、もう一度言うことにした。


 今度は、ちゃんと。


「飛鳥」


「何」


「付き合ってほしい」


 飛鳥は目を閉じた。


「また今?」


「今」


「ほんと空気読めない」


「読むと逃げるから」


「最低」


「知ってる」


 飛鳥はしばらく黙っていた。


 それから凛を見た。


「凛」


「うん」


「やっぱり、私は凛を諦めきれない」


 凛の目が揺れる。


「貴之に好きって言われて動揺した。嬉しかった。今も、嫌いじゃない。たぶん、貴之のことを完全に突き放せない」


 飛鳥は苦しそうに続ける。


「でも、それでも私は凛が好き。凛を一番に見てきた気持ちは、簡単に消えない」


 俺は黙って聞いていた。


 凛も黙っていた。


 しばらくして、凛が小さく笑った。


「私も、貴之くんを諦められない」


 今度は俺が息を呑んだ。


「凛」


「正式に振られたのは分かってる。貴之くんが今、私を恋人として見てないのも分かってる」


 凛は俺を見る。


「でも、好きなの。まだ」


 凛は飛鳥を見る。


「飛鳥も好き。私を見てくれて、守ってくれて、間違えて、それでも泣いてくれる飛鳥が好き」


 そして、少しだけ首を傾げた。


「じゃあ、三人で付き合わない?」


 夜の歩道に、沈黙が落ちた。


 俺と飛鳥は同時に言った。


「は?」


 凛は真面目な顔だった。


「私は貴之くんを諦められない。飛鳥は私が好き。貴之くんは飛鳥が好き」


「いや、整理すると地獄だな」


 俺が言うと、飛鳥が睨んだ。


「黙って」


 凛は続ける。


「普通の形にしようとして、みんな傷ついた。誰か一人を選んで、誰か一人を切り捨てようとして、ぐちゃぐちゃになった」


「だから三人?」


「うん」


「凛、それは勢いで言ってない?」


 飛鳥が聞く。


「勢いもある」


「あるんだ」


「でも本気」


 凛は言った。


「三人で過ごそうよ。すぐに答えを決めなくていい。貴之くんが今好きなのは飛鳥で、飛鳥が好きなのは私で、私は貴之くんを好き。それでいい」


「よくないでしょ」


 飛鳥が頭を抱える。


「恋愛偏差値バグってる」


「私たち、最初からバグってたじゃん」


 凛は少しだけ笑った。


 そして俺を見た。


「でも、私負けないから」


 その目は、昔の凛ではなかった。


 三歩後ろを歩いていた女の子ではない。


 国民的アイドルの作り笑顔でもない。


 自分で選ぶと決めた原宿凛の目だった。


 俺はその目を見て、ようやくちゃんと言えた。


「俺は、今すぐ凛を恋人として好きだとは言えない」


「うん」


「嘘はつきたくない」


「うん」


「それでも三人でいるなら、俺は逃げない」


 凛が笑った。


「それでいい」


 飛鳥は大きく息を吐いた。


「私は……凛がそれを選ぶなら、逃げない」


「飛鳥自身は?」


 凛が聞く。


 飛鳥は少しだけ俺を見た。


 すぐに目を逸らした。


「保留」


「えー」


 俺が言うと、飛鳥は肘で俺の脇腹を突いた。


「文句ある?」


「ありません」


「まずは三人で付き合う、というか、三人でちゃんと向き合う。変なことしたら即解散」


「契約厳しいな」


「主にあんた向け」


「俺かよ」


「九割あんた」


 凛が笑った。


 久しぶりに、少しだけ自然な笑い方だった。


 その笑顔を見て、俺は思った。


 ままならない。


 本当に、何一つままならない。


 俺が好きなのは飛鳥。

 飛鳥が好きなのは凛。

 凛が好きなのは俺。


 三角形ですらない。

 矢印が全部ずれている。


 でも、不思議と悪くなかった。


「腹減ったな」


 俺が言うと、飛鳥が呆れた顔をした。


「この流れで?」


「この流れだから」


「何食べるの」


「スキー家でも行くか」


 凛が小さく目を丸くする。


 飛鳥はすぐに言った。


「凛は売れてるんだから、そんなの行けるわけないでしょ」


「じゃあテイクアウトだ」


「切り替え早」


「人生は決断の連続だからな」


「牛丼で言うな」


     ◇


 深夜のスキー家は、相変わらず明るかった。


 凛はキャップとマスクで完全防備。

 飛鳥はその横で周囲を警戒している。

 俺はレジの前に立った。


 店員がこちらを見る。


「ご注文どうぞ」


 俺は迷わず言った。


「ネギたま牛丼メガつゆだくだくだくだくだくだく、明太マヨトッピング温玉変更を三つ、テイクアウトで」


 店員が固まった。


「……ネギたま牛丼メガ、つゆだくだくだくだくだくだく、明太マヨトッピング、温玉変更を三つ、でよろしいですか」


「はい」


「つゆ、かなり多くなりますが」


「人生もそれくらい浸かってるんで」


「やめて」


 飛鳥が即座に止めた。


 凛はマスクの下で肩を震わせていた。


「三つとも同じで?」


「同じで」


「重いですよ」


「人生も重いんで」


「だからやめろって」


 店員はプロだった。


 何も聞かずに厨房へ通した。


 待っている間、三人で店の隅に立つ。


 凛が小さく言った。


「私、牛丼屋のテイクアウト初めてかも」


「国民的アイドルの初体験がこれでいいのか」


「直接的な表現やめて」


 飛鳥が俺を睨む。


「すみません」


 凛がまた笑った。


 その笑い声は小さかったけれど、確かだった。


 しばらくして、三つの重い袋が渡された。


 つゆが多すぎるせいか、袋の底が少し不安だった。


 俺は一つを持ち、飛鳥が一つ、凛が一つ持とうとした。


「凛はいい」


 飛鳥が言う。


「持つ」


「重いよ」


「持つ」


 凛は自分の袋を抱えた。


 その姿を見て、飛鳥は何も言わなかった。


 店を出る。


 夜風の中に、牛丼の匂いが広がる。


 俺は歩きながら呟いた。


「ままならねぇもんだな、人生って」


 飛鳥が隣で笑った。


「ほんとにね」


 そして、袋を少し持ち上げて言った。


「でも、トッピングみたいなものでしょ」


「トッピング?」


「決まった形にはなれなかったけど、私たちのアレンジを見つけていけばいいよ」


 凛がその言葉を聞いて、静かに頷いた。


「うん」


 俺は空を見上げた。


 恋は綺麗じゃなかった。


 努力は報われなかった。

 好きは歪んだ。

 優しさには欲が混ざった。

 復讐には恋が混ざった。

 振って、振られて、傷つけて、助けて、また傷ついた。


 それでも。


 三つの牛丼を持って、俺たちは夜の公園へ向かって歩いていた。


 凛はもう三歩後ろじゃない。


 飛鳥も、誰かの陰に隠れていない。


 俺も、たぶん逃げていない。


 タイヤ遊具のある公園は、まだそこにある。


 俺たちはそこで、メガ盛りの牛丼を広げるのだろう。


 つゆだくだくだくだくだくだくで、明太マヨが乗っていて、温玉に変更された、意味の分からない牛丼を。


 意味の分からない三人で。


 意味の分からない夜に。


 それでも、たぶん。


 これは俺たちなりの始まりだった。


 ――Start

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