16.狼の牙は砕けない
「皆、力を貸してくれるか?」
エルマが涙を拭い、再び凛とした将軍の顔に戻ると、トムはそっとその身体から離れた。
「勿論だ!」
アレクが力強く進み出る。
「我々も勿論だと言いたいところですが……一体何をなさるおつもりですか?」
ヘレンが静かに問う。エルマは真っ直ぐに彼女の目を見据え、冷徹に言い放った。
「ユベールを、いや、オルディス王国を『殺す』」
凄まじい殺気が地下室に吹き荒れる。
皆が知っているかつての優しい令嬢ではない。途方もない重圧が圧し掛かる。
「ベルンの民よ。戦士の血族よ。やられてなお生きているなら、することがあるだろう?」
「あぁ……!」
「心を殺された者はいるか?」
「そんな者はおりませぬ!」
「では、どうする!?」
「殺す!!!!」
老人も女子供も関係なく、全員が狂気の瞳を宿して大合唱する。そのあまりの戦意と異常な熱量に、背後に控えていたザックをはじめ、狂信者であるはずの神殿騎士たちまでもが畏怖に身を震わせた。
「大陸最強の傭兵団『黒曜の牙』は、今ここで再誕した! 目標はオルディス! デカい仕事だ! 殺やるぞ!」
(イカレモードじゃねぇのに、すっかりらしいこと言ってるぜ……)
ザックは顔を引き攣らせながらも、その頼もしすぎる上司の背中に向かって、心底呆れたように、しかし確かな敬意を込めてそっと呟いた。
「ハッ、綺麗だぜ。では、急ぐとしよう」
ふいに、声のトーンが地を這うような低さへと落ちた。
振り返ったその瞳は、すでに禍々しい黄金色へと染まり切っている。
「テメェら! 武器と食料を調達するぞ!」
「あ、イカレの方だわ」
ザックが呆れたようにツッコミを入れるが、もはや狂乱状態の民衆の耳には届かない。
「オォォォォォォ!!!!」
「目標! カインズ別邸! 走れ! 腹は膨れているだろう! 老人? 女? 子供? 関係ねぇ! テメェを踏みにじった奴等に、絶望を味わわせてやれ!」
悪鬼の号令と共に、武器とも呼べない農具を手にしたベルンの民たちが、怒涛の勢いで地下室から駆け出していく。
「……俺らも行くぞ。捕虜は馬に縛れ。大丈夫だ、死んでも喜ぶやつしかいねぇ。使い道はいくらでもあるしな」
ザックは首を鳴らし、背後に待機していた神殿騎士と帝国兵の部下たちに向けて、己の剣を抜き放った。
と、その時、アレクが声を上げた。
「あー、水を差して悪いんだが、ちょっといいか? お嬢」
「ん? なんだ」
「ザック副長、皆、先に行っててくれ。すぐに追いつく。……お嬢、こっちだ」
「あいよ」
ザックは短い返事と共に、手をひらひらと振って去っていった。
「?」
(チッ、はやくしろ)
水を差された悪鬼は忌々しげに舌打ちをして、身体の主導権をエルマに戻す。
エルマは首を傾げながら、アレクの大きな背中についていく。向かったのは、父・ガルムの私室だった。アレクは部屋の奥にある、厳重に鍵の掛けられた隠し扉を力任せに蹴り破り、中へと入る。
「おお、あったあった。これだこれ」
「ドレス……?」
そう言って手渡されたのは、青地に白の縁取りがされた、ひどく上等で美しいドレスだった。
「元は、アデレータの嬢ちゃんがガルムを追いかける時に、鎧の下に着てたドレスだ。侯爵家の財力を尽くしたのかどうかは知らねぇけど、ドレスのくせにその辺の皮鎧よりも頑丈にできてやがる。多少の伸縮も効く。……ガルムが、お嬢の成人の時の為にと、大事にとっておいたみてぇだ」
「お父様……」
「新しい『黒曜の牙』の長としては、ピッタリの戦装束だな。この目で見れねぇのは残念だが……じゃあ、俺も追いかけるわ」
アレクは不器用に笑うと、照れくさそうに背を向けて部屋を出ていった。
(こいつは、えげつねぇ素材だな)
『軽いのに丈夫……通気性もある。……少し、胸が苦しい。隙見て直そう』
悪鬼でさえも、その規格外の機能性に感嘆の声を漏らす。
エルマは即座にその青いドレスに袖を通した。そして、その上から今まで使っていた戦士としての軽鎧の胸当てと籠手を、しっかりと身に纏う。
母の愛と父の想いが詰まったドレスと、己が死線を潜り抜けてきた鎧の融合。
エルマ・ベルンは、『大悪令嬢』としての装備を整え、復讐の戦場へと駆け出していくのであった。
* * *
神殿騎士のレイドルフは、その瞬間を忘れもしない。
アーティア様の精鋭隊に選ばれた栄誉、それだけで身に余る光栄だった。だが、これは更に、言葉も出ないほどの出来事であった。
レイドルフは「先行していてくれ」と言われた時は、内心少しの不満を抱いていた。しかし、神の決定に不満など抱いてはいけないと即座に思い直し、心を切り替えた。片時も御身から離れたくないなどと我儘を言えば、他の信徒たちに異端として火あぶりにされてしまうだろう。
だが、もうそんなことはどうでもよかった。
「待たせた」
アーティア様が追いつき、その御姿を見せた時だった。
彼の脳内で福音が鳴り響き、万物が歓喜した。
輝く金糸の髪に、神秘的な菫色の瞳。青に白の縁取りがされた美しきドレスの上から、戦装束を纏っている。そして背中には、狼と薔薇の刺繍が施されたマントを羽織っていた。
それは、アーティア様とスフィーリア様の魂を同時にその御身に宿しているようにも思えた。
もう、迷うことも不満に思うこともない。絶対にだ。
いまはただ、御身の行く道を邪魔立てする邪悪な異教徒を殲滅するのみ。我が血と肉はその剣となり、使命を全うすることこそが本懐なり。
我らは夜通し走る。アーティア様は先頭を黒馬に乗って進んでいる。
驚くべきことに、旧ベルンの民は老人も子供も女も、我々神殿騎士の行軍に遅れることなくついてきている。どうやら彼らはアーティア様の縁の者たちらしい。つまり、聖なる民である。流石である。
「あそこの領民……石材運ぶ量からして異常だったもんな……」
と、ザック殿が不敬なことを呟いていたが、ザック殿はアーティア様の副官である。もしかしたら、ドラグ様の現世のお姿なのかもしれない。
そういえば一度、「ドラグ様」と呼んだら物凄く嫌な顔をされたのが印象的である。きっと、お忍びであられるのだ。




