11.殺すといった
険しいアズガルド山脈の裏ルート。容赦なく吹き付けていた激しい向かい風の冷たさが、ようやく和らいできた頃。
数日の強行軍の末、ライカたちはついに山頂を越え、小高い尾根の上へと辿り着いた。
「やっと折り返しだ。メトスの風はやっぱり堪えるぜ。……こっち側はもうオルディスなんだな」
「アスタロトの風よりはマシだと思う」
「ちげぇねぇ」
ザックはライカとそんな軽口を叩きながら、眼下を指差した。
――のどかな風景だった。
緑が少し落ちかけた草の絨毯の隙間を縫うように、街道がぽつりぽつりと続いている。
「辺境の景色ってのは、どこも変わらねぇな」
「うん……いこう」
ライカはその光景をしばらく無言で見つめ、やがて何かを振り切るように小さくかぶりを振ると、再び歩みを進めた。
下る。下る。下ること、さらに数日。
ようやく足元の傾斜が緩やかになってきた。この辺りが裾野なのだろう。この森を抜ければ、あと半日もせずにベルン領の跡地へと辿り着く。
『アレクおじさん、フィンおばさん、ロッシ爺さん、ファナお姉ちゃん、ダイナ……お父様。私は戻ってきたよ』
静かに帰郷の報告をする令嬢の声を聴きながら、表層に立つ悪鬼が冷静に周囲を見渡す。
(ここらが、拠点として丁度いいな)
悪鬼がそう判断し、ザックたちに野営の指示を出そうとした、その時だった。
カサッ、と。
風が草を鳴らす音とは違う、そう、足音が茂みの奥で鳴った。
ライカとザックが瞬時に息を殺し、剣の柄に手をかける。だが、木陰から姿を現したその巨体を見た瞬間、ライカの殺気は嘘のように霧散した。
「……え」
それは、一頭の立派な黒馬だった。
野生で生き抜いてきたのか、毛並みは荒れているが、その雄大な骨格と理知的な瞳は見間違うはずがない。
「ティッタ……! ティッタでしょ!?」
冷徹な将軍の顔が崩れ、すっかり元の令嬢の口調に戻った彼女は、武装もそのままに黒馬へと駆け寄り、その太い首に力いっぱい抱き着いた。
ブルルッ、と鼻を鳴らしたティッタは、愛おしげにライカの頬を一舐めする。
「……」
ザックは無言で見守る。
だが、感動の再会も束の間、ティッタはスッと顔を離すと、急に森の奥へ向かって歩みを進め始めた。そして数歩進んでは立ち止まり、こちらを振り返るという動作を繰り返す。
「ついてきて、ほしいの?」
何かを訴えかけるようなその瞳に、ライカは吸い寄せられるようにティッタの後を追う。
「おいライカ、離れすぎるなよ」
ザックはそんな彼女の背中を一瞥すると、それ以上は深入りせず、部下たちと共に黙々と拠点づくりにいそしみ始めた。あの馬がライカの過去に深く関わる存在だと、察したからだ。
ティッタに導かれ、静寂に包まれた森の奥へと進む。
やがて、木漏れ日が差し込む小さな開けた場所で、ティッタは足を止めた。
ライカは、そこで息を呑んだ。
大樹の根元。
そこに、一本の巨大な剣が静かに立て掛けられていたのだ。
それはかつて、ガルム・ベルンが振るい、彼の武勇の傍らには常にあった愛剣。あれだけの地獄のような戦火と長い年月を経ているというのに、その分厚い刃には錆一つ見当たらない。
「お父様……」
ライカは震える手でその大剣に触れた。
冷たい鋼の感触が指先から伝わった瞬間、堪えていた涙がポロポロと土に零れ落ちる。ティッタは主の剣をこの場所まで運び、ずっと守り続けていたのだ。
「ティッタ……ありがとう。ありがとう。大好きよ」
ライカがそっと黒馬の首筋を撫でると、ティッタは尻尾を大きく振り、主の娘の帰還を喜ぶように大きく嘶いた。
ひとしきり泣いて、瞳から涙を拭った後。
ライカはティッタの背を見上げ、ふと小さく微笑んだ。
「乗って……いいの?」
ブルルと促す愛馬の背へ、ライカは軽やかに飛び乗る。
ベルン領にいた頃、乗馬訓練ではいつも振り落とされ、筋肉痛で泣かされていた名馬のティッタ。今の彼女は、戦場で鍛え上げられたしなやかな筋肉と体幹で、鞍もないその背に見事に跨っていた。
木漏れ日の中、視界が高くなる。父がいつも見ていたであろう、馬上からの景色。
「ティッタ……あなた、最高ね」
令嬢が穏やかに、そして誇らしげに微笑む。
その精神の奥底では、大悪党が新たな極上の戦力を手に入れた喜びに、獰猛に口角を吊り上げていた。
(ハッ! こんな馬滅多にいねぇぜ)
* * *
「色々、話せたのか?」
「ああ」
「すげー馬だな……いて!?」
ティッタはザックをきれいな瞳で見つめるとその頭を甘噛みしはじめた。
「……ティッタはあなたを気に入ったみたい」
「もっとお手柔らかにしてくれよ」
ザックの頭を甘噛みするティッタを見て、ライカは小さく吹き出した。
張り詰めていた空気が、微かに緩む。交代で夜の見張りを済ませ、短いながらも休息を取った精鋭たちは、翌朝、夜明け前の薄闇に紛れて行動を開始した。
* * *
「……見えたぞ。ここからなら、盆地全体が見渡せる」
かつてのベルン領を見下ろす、見晴らしの良い崖の上。
這いつくばるようにして崖から身を乗り出したザックが、息を呑んだ。
「なんだありゃ……。焼け跡に屋敷?」
「見せて」
ザックを押し退け、ライカは冷たい視線を眼下へと向けた。
――かつて、愛する領民たちが笑顔で暮らし、父が迎撃要塞として作り上げていた美しき故郷。
その面影は、もはや微塵も残っていなかった。
焼け焦げた黒い大地の中心には、周辺の景色からはひどく浮き立ち焦げ付いた屋敷が異様な存在感を放って聳え立っている。それは、令嬢が過ごした領主の館である。
そしてその屋敷を囲むように、無骨な石造りの防壁が築かれ、ユベール公爵の紋章が描かれた旗が何本も風にはためいていた。
『……お母様を祀る、慰霊塔のつもりかしら』
(ふむ。攻める分には問題ねぇな)
エルマの静かな嫌悪に、バルバロッサが戦術的な視点から鼻で嗤う。
だが、視線を屋敷から広場へと合わせた瞬間、ライカの双眸が微かに見開かれた。
「おい、ライカ。あそこで石を運ばされてる連中……」
「……」
防壁の内側で、王国兵の罵声と鞭の音に急かされながら、重い石材を運ばされている痩せこけた奴隷たちの姿があった。
ボロ布を纏い、必死に労働を強いられている彼ら。
その中の一人――重い石を落としてしまい、兵士から容赦なく蹴りつけられている少年の顔に、ライカの視線が釘付けになる。
『……トム!』
土汚れの顔は以前より成長し、頬は痩せこけているが、間違いない。かつて、ベルン領の広場で『エルマ様の瞳と同じ色だから』と、綺麗な菫色の石をくれた、あの無邪気な少年トムだった。
あの夜。ファナの誘導によって地下や東の門から逃げ延びた非戦闘員の領民たちは、帝国軍の撤退後にはユベール公爵にこうして強制労働を強いられていたのだ。
『あっ……』
倒れたトムを庇うように、年老いたパン屋のロッシの妻が兵士にすがりつき、逆に剣の柄で殴り飛ばされる光景が映る。
握った拳が、異常な膂力によってメキメキと音をたてる。
「おい、ライカ! 落ち着け、殺気が漏れてるぞ!」
ザックが慌ててライカの肩を掴む。
彼女の両眼は限界まで見開かれた菫色に、怒りで充血したような赤黒い色が交じり始める、今にも崖から単騎で飛び降りんばかりの尋常ではない殺気を放っていた。
『殺す! 奴らを、今すぐここで……ッ!』
(安いな。馬鹿娘)
脳内で狂乱する令嬢を、悪鬼が強引な精神支配で力ずくでねじ伏せる。
(安い、温い、甘い!!!!)
『だが、みんなが……っ!』
(三流が!)
バルバロッサの冷徹な怒号が、エルマの脳髄を殴りつけるように響いた。
数秒の激しい呼吸の後。ライカの纏っていた暴発寸前の殺気が、ゆっくりと、音を立てずに凪いでいく。
「……すまない、ザック。少し力が入った」
「まぁ、いつも通りだ」
大きく息を吐いてライカは立ち上がった。
その瞳は、絶対零度の冷たさを湛えた両目揃った菫色――将軍ライカ・ローサに戻っていた。
「状況は把握した。拠点に戻るぞ」
踵を返す銀髪の将軍の背中からは、先ほどまでの激情は消え失せ、底知れぬ静かな暴力の気配だけが漂っている。
「アーティア様。どう攻めるおつもりですか?」
「……変わらない。東は動いているはずだ。向こうからの伝令の時間差を考えると――2日後だな」
ライカは振り返らずに答えた。
「アスタロッテが東部の王都に仕掛ける。そうしたらここの戦力には増援がこないだろう。王国の連中がそっちに気を取られた瞬間……殺す」
ライカはベルン領を睨みつけながら吐き捨てるように言ったのだった。




