3.膳は急げ
大聖堂の一角。教皇の私室での『御勤め』を後にしたリルハは、一人、水浴び場で己の身を清めていた。
アスタロッテの子供の多くは、物心つく前にここに連れてこられ、一様の教育を受ける。
男子は強き神殿騎士となるために。そして女子は、『御勤め』できるように。
神の代弁者たちに身を捧げ、十分な徳を積んだ後は、市井に戻って新たな命を育む。それはこの国において無上の喜びであり、素晴らしきことであると教え込まれてきた。
神は平等だ。祈り、研鑽する者には、それ相応の幸福を与えてくださる。
だからこそ、私は教皇様に直接『御勤め』を指名されるという、栄誉をいただいているのだ。
そう、リルハは信じている。信じている、はずなのに。
(――なぜ私は、身を清めているのでしょうか)
肌を擦る手が止まらない。
何度御勤めを繰り返しても、決して慣れることのない、腹の底にこびりついたような嫌悪感。確かにそこにある。
神聖な儀式を受けたのだから、今の私はこの上なく清らかなはずだ。それなのに、何度も何度も肌を洗い続けている。
次第に、この『身を清める』という行為すらも、神聖な儀式に相応しい自分であるためと無理やり正当化しようとしている己の矛盾が、リルハを困惑させる。
ふと、昼間に案内した帝国の女将軍を思い出す。
スフィーリア様を名乗る不届き者とのことだが、なるほど、確かに目を奪われるほど美しい人だった。輝く銀の髪に、澄んだ菫色の瞳。白く滑らかな肌。そして何よりも、内面から滲み出るような静かなエネルギーと、底知れぬ圧力。
(美しい。……戦場では、スフィーリア様のように流麗で、凛々しくも美しい姿なのだろうか)
見てみたい。リルハは冷たい水で肌を擦りながらも、ライカへと熱い思いを寄せていた。
(でも、彼女は異端審問にかけられる……。きっと教皇様に『浄化』していただき、やがては私たちと共に『御勤め』をするようになるのね)
あの高潔で美しい女将軍も、やがては自分と同じように教皇の腕の中で声をあげ、神への信仰を高める日々を分かち合うようになるのだ。
完全に『浄化』されて生まれ変わり、共に神聖な生活を送る未来。それを想像した途端、リルハの心はどこか上向くのだった。
* * *
「シスターネリネ! マルコは!? マルコはいませんか!? もうずっと姿が見えないのです!」
「私も見ておりません」
リルハは宿舎に戻る。歓待を終えたであろうルーイ司祭がネリネに縋るように聞いている。
この大聖堂では度々、幼い少年の姿が消えることがある。
多くの修道女や修道士、司祭などは日常茶飯事で「あまりに愛らしいために神の元に召されたのだ」と認識しているが、このルーイという司祭は違う。居なくなる度にこうやって探し回っては涙を流すのだ。
何故、涙を流すのかが理解できない。
(でも、確かにはじめはそうだったかもしれない)
14の頃に初めて御勤めに指名された時、終わった後のあれはたしかに涙だったか。歓喜のものだと思っていたが、ふと思い出がブレる。
彼も、地方教会からこちらにきてまだ間もない。リルハは大聖堂に慣れていけばこのようなこともなくなるかと冷めた目でみていた。
* * *
ライカたちは数日間、アスタロッテに滞在していた。毎日同じような生活を強いられ、そろそろ帰ろうかと街を出ようとすると、何かにつけて止められる。
特に、形式上はまだ異端審問が終わっていないから、という理由を盾にしてくるのだ。だが、一向にその審問が始まる気配はない。
「ふざけてるな。いい加減イライラしてきたぜ。毎日祈りやら教義やら聞かされて、ことあるごとに感想を聞いてきやがる。飯も毎日同じだ」
「そうだな」
(大変参考になってるぜ。これが心を殺すやり方の一つだ。退屈と同じ日々で心身を疲労させ、思考力を奪う)
『今日で丸7日は経過している』
(そろそろだな)
ザックに短い返事をしつつ、大聖堂の壁画を見る。銀の髪に、金で縁取りされた青い鎧を纏った美しき戦乙女が、邪龍を鎖で地面に縫い付けている姿を描いたものだ。
ザックもそれを見て一言。
「なるほど、確かに似てる」
「そうか?」
「イカレモードの時はもっとだ」
(ハッ、スフィーリアが俺に似てるんだよ)
――夜。
ルーイと子供たちが給仕にやってきたが、ルーイの顔色がひどく優れない。
「司祭、どうしたのだ? 顔色がわるいぞ」
「いえ、その。未熟が故です」
「それにしてもひどい顔だ。教義とは関係ないことなら、いってみてくれ。我々は時間だけはある。おかげさまでな」
「……大変、申し訳なく思っております。それでは……」
ルーイはぽつりぽつりと話しはじめた。
彼によると、そもそも地方教会からこの大聖堂にきて日が浅いらしい。前回のドラグの季節頃にここにきたという。
教義を子供たちに教えることに至福を感じており、その成長を楽しく見守っているとのこと。しかし、そんな大切な子供たちが時折、不自然に姿を消すのだ。
それも、一人や二人ではない。特に決まって、地方から送られてきた身寄りのない孤児が消える。
「大聖堂の皆は『神に導かれたのだ』と言うのですが……いや、司祭としてあるまじきことですが、納得できていないのです。異端審問にかけられるべきは私なのかもしれません。神の所業を疑うなどと……」
「ほーん。なんか実験でもされてるんじゃねぇ?」
「ザック殿!? なんてことを!?」
(ザァーック、お前は本当に賢いが馬鹿だ)
『……潜入には向いてないな』
傭兵らしい身も蓋もない直球の指摘にルーイが血相を変える中、ライカの精神の奥底では、悪鬼とエルマが同時に呆れていた。
ライカたちはその後も、給仕された食事を一口、二口と腹に入れていく。
――途端。世界がぐにゃりと歪み、視界が激しく明滅した。
「ライカ将軍!?」
何も知らないルーイの切羽詰まった叫び声と同時に、食堂の扉が乱暴に蹴破られ、神殿騎士たちが雪崩れ込んでくる。
『……今日か』
急速に薄れゆく意識の中、令嬢の思考はその時点で完全に途切れた。
代わって、精神の奥底に沈んでいた巨大な闇が、ゆっくりと浮上してくる。
(小娘、ビンゴだぜ。しばらくゆっくり眠ってろ。――ここからは、俺がやる)
荒々しく床に押さえつけられ、両腕を拘束されながらも。
表に引きずり出された悪鬼は、閉じた瞼の裏で黄金の瞳を爛々と輝かせ、獲物を見つけた猛獣のようにひどく楽しげに嗤うのであった。




