46.国と民
フォルテは陣を維持し続ける。前線の兵たちが次々と撤退していく。整然としたこの動きは、おそらくライカが指示を出していた影響だろう。
若き皇子は待っていた。自らの盾となって前線へ飛び込んだ、ライカと二人の副官の帰還を。
やがて、土埃の向こうから、ボロボロになった木製のチャリオットが近づいてくるのが見えた。そこに倒れ込んでいるライカと、彼女を庇うように付き従うザックの姿を認める。
――だが。あの大きな体の大剣使いがいない。
血と泥に塗れた二人の姿を見て、フォルテは全てを察した。
胸の奥が締め付けられ、泣き出しそうになる。だが、今この陣の最高指揮官は自分なのだ。
悲しみを無理やり腹の底へと呑み込み、若き皇子は声を張り上げた。
「全軍! 撤退!!」
今は生き延びる。そして、後方のバモン将軍と合流し、必ずや立て直すのだ。
* * *
「サー、お見事な制圧です。……そのお怪我は」
「些事だ」
ギュスターヴは、自らを拘束したまま事切れた大剣使いの巨体を、静かに地面へと横たえた。そして、自身の脚の腱に刻まれた浅い剣傷へと視線を落とす。
自身が血を流すなど、一体いつ以来のことだろうか。我が頂に届き得る将軍、誇り高き戦士、そして、ちっぽけな凡人の執念。
白銀の騎士が手にした聖剣アストライアが、主の静かな昂りに応えるように微かな光を発する。
「この誇り高き戦士を埋葬してやれ。手厚くな」
部下にそう命じると、ギュスターヴは踵を返した。
元より、他国への侵攻は彼の本意とする領分ではない。彼の役目はあくまで、祖国トラキアの危機を排除し、守護することにある。
「ライカ・ローサ。……また会おう」
白銀の騎士は栄光の戦果を残し、静かにトラキアの後陣へと戻っていくのであった。
* * *
「我が軍、損傷甚大。左翼、右翼も削られました。対して連合側の士気向上は著しく……! ですが、中央本陣のライカ・ローサ将軍の働きにより、主力部隊の撤退は完了いたしました」
「ぬう。個の武勇に大軍が呼応する、か。敵ながら最も理想的である。だが、我が帝国もこれ以上むやみに戦力を減らすわけにはいかぬ。――例の準備を急がせよ」
「ハッ」
――ダリアの街のとある酒場。地元の野菜とチーズが自慢のその店の店主は、夜の営業に向けて朝から鼻歌交じりに仕込み作業をしていた。
「ん? 今日はやけに外で兵隊さんたちが騒がしいな。昨日も帝国が優勢って聞いてたし、今夜は祝勝会で客入りが見込めるかもな!」
これから何が起きるかなど知る由もなく、店主は上機嫌で厨房の準備を続けるのであった。
* * *
「……目、覚めたか?」
「ああ、戦況は?」
「……『勝利』だ」
「……そうか」
ライカは息をゆっくりと吐いて天井を見る。少し動いただけで全身の骨が軋んだ。
「ここは? そして何日経った?」
「ダリアの街から南方の後方拠点だ。あれから四日だ」
ライカは将軍という立場上、特別に個別の天幕が設けられていた。内部に意識を集中させてみると、魂をすり減らした悪鬼は深く眠っているようだ。
ライカは再び天井を見る。その菫色の瞳には、どこか覇気がない。
「ギュスターヴは退いたのか?」
「あれからずっと自陣の奥に籠ったままで、一度も出てこなかったよ」
「……そうか」
「どうやって勝ったのかとでも聞きたそうだな。あぁ、最悪さ。――ダリアの街を焼いた」
「……!?」
その言葉を聞いた瞬間、ライカの脳裏に『ベルンの火攻め』の凄惨な光景がフラッシュバックした。
黒く焦げた空。次々と倒れていく戦士達。鼻を突く、肉が焼ける嫌な臭い。
心がぐちゃぐちゃに掻き乱され、視界が激しく明滅する。ヒュー、ヒューと喉が鳴り、過呼吸が止まらない。
「ライカ!? おい、大丈夫か!?」
(小娘、うるせぇぞ。こちとら限界で眠いんだよ……ああ、くそ。またこの発作か)
魂の奥底で、最凶の同居人が気怠げに、しかしひどく面倒くさそうに片目を開けた。
* * *
「何ということをしたんだ……!」
サモラン将軍の天幕に、フォルテの怒号が響き渡った。
「殿下、すべては『勝利』のためです」
「民を守るための軍だろう! 自国の民の犠牲を前提にした焦土作戦など、断じて許されるべきではない……!」
激昂する若き皇子に対し、本作戦の総司令であるサモラン将軍は、涼しい顔で淡々と応じた。
「ファラリス様からは、問題ないとの言質をいただいております」
「クッ……!」
上位者の名を出され、フォルテは言葉を詰まらせた。そこへ、傍らに控えていたバモンが一歩前に出る。
「殿下、お鎮まりください。……殿下のお気持ちはごもっともでございます。元はと言えば、あのギュスターヴの進撃を封じ込められなかったこのバモンの不手際にございます」
「あんなバケモノ、止められるものか……! ライカ殿であっても、足止めだけであんなにボロボロに……!」
フォルテは歯噛みした。あの圧倒的な武の力を最前線で味わった彼だからこそ、その言葉には血を吐くような無力感が滲んでいた。
「左様。あの銀狼をもってしても、です」
サモランが、冷徹な声でフォルテの言葉を引き取った。その表情には、同情も後悔も一切浮かんでいない。
「ギュスターヴが存在したまま、『大軍』が帝国内の深奥へと進軍してきた事態を想像していただきたい。さすれば、ダリアの街一つの犠牲であのバケモノは無理としても大軍の足を止め、撤退に追い込んだのであれば……国全体として見れば、それは『少ない犠牲』と言えましょう」
フォルテはこれまで、剣がだめならばと多くの知識を蓄えてきた。だからこそ、痛いほどに理解してしまうのだ。戦術的、あるいは国家防衛の観点から見れば、サモランの論が正しいということを。
正論を突きつけられ、フォルテはすぐに反論の言葉を見つけられず、ただ震える拳を強く握りしめることしかできなかった。
それでも、理屈で押し潰されそうになる心を必死に奮い立たせ、フォルテは言葉を紡ぐ。
「では……帝国の民を守護する我らが、その民を切り捨て続けて生き延びた先で、一体何を守れるというのだ……!」
血を吐くような若き皇子の叫び。
「サモラン、それは本末転倒ではないのか? 民を犠牲にして、ただ『国』という空虚な枠組みだけを存続させるということではないのか……!」
「極論にございます、殿下」
悲痛な問いかけすらも、総司令は瞬き一つせず、事務的な冷たさで切り捨てた。
「殿下、どうか……どうかそのお怒りはお納めください。これ以上は、殿下ご自身の立場が危うくなります」
たまらずバモンが割って入る。老将の顔には、純粋なフォルテを案じる切実な色が浮かんでいた。帝国内部に渦巻く権力闘争にフォルテの青い正義感は、時として彼自身の首を絞めかねない。
「……バモン。わかったよ……」
バモンの必死の懇願に、フォルテは糸が切れたように深く俯き、力なく呟いた。
二人が天幕を去ったのを確認し、サモランはやれやれと深い溜息をついた。
「まったく、理想ばかりの青い殿下には困ったものだ……。――ッ!?」
不意に、背筋に強烈な悪寒が走った。
背後に『死』が立っている。サモランの本能がそう認識した瞬間にはもう、首筋に極寒の氷のような刃の切っ先がピタリと添えられていた。
気配など、微塵もなかった。
「言え。この焦土作戦は誰の仕掛けだ」
鼓膜を直接撫でるような、ひどく冷酷な囁き声。サモランは刃を恐れて首を動かせず、目線だけを限界まで後ろへ向けた。
「カ、カルロス……殿下……?」
「誰でもいい。言え。この作戦の立案はファラリスのみか?」
「……ッ」
「沈黙は死だぞ? 安心しろ、死ぬのはお前ではない。お前の愛する家族がだ。……今のお前が、まさか私を卑劣とは言わないよな?」
飄々とした吟遊詩人の皮を被った、暗殺者の言葉。
サモランの額から、じわりと冷や汗が滲む。
「……ッ! ……アドニス殿下経由での、レゼンの作戦立案でございます」
「なるほど。やはりアドニスか」
「殿、下……!?」
カルロスは短い納得の言葉を残すと――音もなく、影に溶けるようにその姿を消した。
あとに残された総司令は、首から上がない自身の体を地面からただ見上げるのであった。




