37.ラビィの弓兵
一方、ダリア平原の彼方、三国連合軍の本陣。
トラキア騎士団の先陣がバモンの罠に落ち、前線が混乱に陥っているという報告を受けながらも、連合軍の指揮を執るトラキアの将は、天幕の中で酷薄な笑みを浮かべていた。
「まんまと先制されたか。銀狼め、流石に戦場をわかっている」
「はっ。ですが、損害的には軽微です」
傍らに控える副官の報告に、将は短く頷く。
バモンの罠は見事だったが、総数からしてみればそれは確かに軽微である。先陣の混乱など、巨大な波の前では些末な出来事に過ぎなかった。
「エルドラドの傭兵団は各個で散ったようです」
「元々そういうやつらだ。団長共に任せれば良いだろう。また勝手に集まってくる」
味方であるはずのエルドラドの兵たちを駒としか見ていない冷徹な言葉。
「問題はラビィだ。奴らの弓兵が来ない限りは、うかつに手も出せん。無理に押し込めば、こちらの損害も多くなりすぎてしまう」
「伝令からの報告ですが、そろそろ到着するようです」
「朗報だな。森の狩人たちの力、とくと見せてもらおう」
トラキアの将の口角が吊り上がる。
ラビィの弓兵。大陸全土にその名を轟かせる、森の狩人たち。彼らがこの平原に展開し、矢の雨を降らせた時こそが、忌まわしき帝国軍の処刑の始まりなのだ。
「あとは……閣下を待つのみ、か」
将がその名を口にした瞬間、天幕の空気がわずかに冷えた。
平原の風向きが、静かに、だが確実に変わり始めていた。
* * *
「フン、流石に立て直しが早い」
本陣の馬上から戦況を俯瞰し、バモン将軍は苦々しく吐き捨てた。
先刻の罠で混乱したはずのトラキア騎士団は、瞬時に陣形を再構築し、ガルヴェリア軍の隙を窺っている。さらに、一度は散り散りになったエルドラドの傭兵団も、報酬への執着か、あるいは独自の指揮系統か、不気味なまでの早さで再集結しつつあった。
無秩序ゆえに予測不能。その不気味な蠢きは、老将の眉間に深い皺を刻ませる。
「じいさん、また前線に戻るぜ。フォルテ殿下は俺とじいさんの中継あたりにいればいいだろう。ザック、ライドの各三千は殿下の横を固めろ」
不意に届いたライカの声。その指示は、突撃の狂気に満ちていながらも、後方の安全を計算に入れた極めて冷静なものだった。
(……というのは、この女も同じか)
奔放な野生と、冷徹な軍略。その矛盾する二面性を一人の女の中に幻視し、バモンは本日何度目か分からない溜息を深くついた。
* * *
その瞬間、戦場の空気が一変した。
「きたな」
「チッ、きやがった」
天幕の中で酷薄に笑う敵将と、最前線で馬を駆るライカ。
交わるはずのない二人の言葉が、戦場の喧騒を切り裂いて重なった。
「ラーララララー!」
突如、平原に響き渡ったのは、戦場には不似合いなほど澄んだ、だが背筋を凍らせるような男の歌声。
それに呼応し、地を這うような重低音の太鼓が打ち鳴らされる。
一糸乱れぬ動きで現れたのは、深緑の外套を纏った「森の狩人」――ラビィの弓兵隊であった。彼らが一斉に、巨大な長弓を引き絞る。
男の腕が振り下ろされた。
次の瞬間、大気を切り裂く轟音が平原を震撼させた。
「まともに受けるな! 着弾と同時に逸らせ!」
ライカの裂帛の叫びが響く。
直後、放たれた矢の一撃が、帝国兵の盾に正面から降り注いだ。馬上で盾を構えていた兵たちが、まるで巨人に殴り飛ばされたかのように、その場から後方へと吹き飛ばされていく。
「ラビィの狩人か。久しぶりだな……。強ぇんだよな、あいつら」
飛来する矢の軌道を読み、最小限の動きでそれを弾き飛ばしながら、ライカは獰猛な笑みを浮かべて一人ごちる。
後退した連合軍の位置を考えると、接敵した初期位置よりも更に後方。通常の弓兵であれば届かせるだけで精一杯といったところか。
「それにしても、この距離からかよ。……やっぱり、俺も試したくなる」
「ライカ将軍!?」
『悪鬼ッ!? 筋肉が悲鳴をあげている!』
周囲の兵が驚愕の声を上げる中、ライカは近くにいた兵から強引に長弓を引ったくった。
狙いは、遥か彼方で不気味な歌を響かせている、あの男だ。
ミシミシと、通常の兵士が使う弓が限界を超えて軋み、今にもへし折れそうな悲鳴を上げる。だが、ライカの瞳に宿っているのは、バルバロッサとしての戦への渇望と絶え間ない闘志。
「楽しいなぁ、オイ」
弦が放たれた。
それは、ラビィの狩人たちが放ったものと全く同じ――いや、それ以上に凶悪な大気を裂く轟音を響かせ、一直線に敵陣の「男」の元へと飛翔する。
「なっ――!?」
歌っていた男の目に、距離を越えて迫り来る死が映った。
咄嗟に間に割って入った護衛の分厚い大盾が、轟音と共にひしゃげる。護衛の身体は盾ごと宙を舞い、周囲のラビィ兵数人を巻き込んで後方へと派手に吹き飛んだ。
男への直撃こそ免れたものの、たった一本の矢が敵本陣にもたらした戦慄は、計り知れないものであった。
「意外そうな顔しやがって。――チッ、トラキアの騎士隊だ」
悪鬼として楽しんだのも束の間、ライカは舌打ちと共に鋭い視線を前方へと向けた。
空を埋め尽くすラビィの第二射、第三射の矢の雨。それを援護とし、地鳴りと共にトラキアの重装騎士たちが怒涛の突撃を開始したのだ。
特筆すべきは、その突撃の軌道である。
彼らは、自軍の矢の雨が頭上から降り注いでいるにも関わらず、一切の回避や防御の素振りを見せない。ラビィの弓兵たちが誇る絶対の精度への信頼。それゆえに速度を殺すことなく、最短距離を一直線に帝国陣めがけて殺到してくる。
さらに、先ほどの前線攻撃で、死体を装うなどして戦場のそこかしこに身を潜めていたエルドラドの傭兵たちが、血の匂いを嗅ぎつけたハイエナのように、わらわらと姿を現し始めた。
「縦列散開。――ハッ、じいさんとフォルテ、早ぇじゃねぇか」
迫り来る絶望的な波状攻撃を前にしても、ライカの顔に焦りはなかった。彼女の号令で、前線の隊列が縦に幾つも分割され、互いに距離を取って道を開ける。
その直後だった。前衛が空けたその隙間を縫うようにして、地響きに似た足音と共に後方から前進してきた者たちがいる。
戦場の風にはためくのは、『黒百合に鷹』の旗印。
その歩兵部隊はライカたちを追い抜き、さらに前方へと進み出ると、瞬く間に分厚い層となって前線を塞いだ。
一列目の兵士たちが巨大な大盾を大地に突き立て、隙間なく並べる。二列目の兵士たちは、その盾の上から鋭い長槍を突き出しつつ、己の肩と体重で一列目の背中をがっちりと押さえ込んだ。
針鼠のように槍を構えた、物理的な巨大防壁。
これこそが、老将バモンが帝国の「鉄壁」と称される所以。いかなる重装騎兵の突撃をも正面から受け止める、バモン隊得意の防御陣であった。
「ライカ将軍」
「おー、良い中継だったぜ」
ライカのところまでやってきたフォルテの言葉に、ライカは振り返りもせずに褒め称える。
『……殿下にはすぐ誉めるな、悪鬼』
その脳内で、令嬢の呆れたような声が響いたが、悪鬼はそれを無視して前方を見据えた。
「やや! 先ほどの突撃、天から遣わされた戦乙女のように美しく……えー、美しい! それでは聞いてください。『デキモノを潰したその先は』」
突如、張り詰めた戦場の空気を粉々に打ち砕く、場違いなほど陽気な声とリュートの音が響いた。
振り返ると、いつの間にかフォルテの横にぴったりと寄り添うようにして、あの得体の知れない吟遊詩人――カルロがちゃっかりと陣取っていたのである。
「お前、どこにいたんだよ……」
死に物狂いでフォルテの横を張っていたザックが、心底疲労した顔で的確すぎるツッコミを入れる。
「気が抜けるからやめてくれ」
ライドもまた、深く、深く溜息をついた。
少し前方にトラキア騎士団の怒涛の突撃が迫り、頭上からはラビィの矢の雨が降り注いでいるという絶望的な死地にあって、帝国軍のこの陣地だけが、どこかピントのずれた奇妙な空気に包まれていた。




