6.わるいことはいけません!
夕食を終え、夜の帳が降りる頃。ベルン領、領主の館。
月明かりに照らされた二階の窓から、シーツを引き裂いて作られたロープが、だらりと垂れ下がっていた。
『いやだいやだいやだぁぁっ! お父様たすけてぇぇっ!』
(やかましい、舌を噛むぞ小娘。さっさと降りねぇと日が昇っちまうだろうが。タイムリミットは夜明けだ。夜明けまでにここに戻る)
脳内で泣き叫ぶエルマの意志とは裏腹に、彼女の体はバルバロッサの完璧な制御下にあった。
筋肉ミリなしのヒョロ枝令嬢のはずが、大悪党の卓越した身体操作によって、スルスルと滑らかにシーツのロープを降下していく。
音もなく着地を決めると、エルマ(バルバロッサ)は一切の躊躇なく、夜の闇に包まれた北の森へと足を向けた。
『私、エルマ。なんか私じゃない動きしているの』
* * *
森の入り口。
そこには、馬の嘶きを必死になだめながら、ガクガクと震える三つの人影があった。
昨日、大悪党によって肩口に『逃げたら死ぬ印(ただのナイフ傷、魔力はハッタリである)』を刻み込まれた、哀れな野盗たちである。
「ひっ……! き、来たぜ……姉御が……っ」
暗闇から、無表情のままヒタヒタと歩み寄ってくる可憐な少女。
その瞳が、夜目にも明らかな黄金色にギラリと輝いているのを見て、三人の大男たちは文字通り地面に平伏した。
「あ、姉御ォ! 言われた通り、近隣の村で一番脚の速い馬を用意しやしたぁ!」
「も、もちろん足はついてねぇです! どうか、どうか命だけは……っ!」
涙と鼻水まみれで命乞いをする三人に、エルマは恐ろしく冷徹でドスの効いた声を下す。
「うるせぇ。知能が足りねぇやつは声を無駄に張り上げる。知性がねぇ、知性が」
『ひいぃぃっ! ごめんなさい、ごめんなさい! バルバロッサさんが本当にごめんなさいっ!』
脳内で大号泣しながら土下座の勢いで謝罪するエルマの心など知る由もなく、野盗たちはヒッと悲鳴を上げてさらに頭を地面に擦り付けた。
(おい小娘、泣いてる暇はねぇぞ。さっさと馬に乗れ)
『む、無理ですぅ! 私、お父様の前に座ってポニーに乗ったことしか……ひぎゃあっ!?』
(お馬さんはもういやだったんだっけな! 仕方ねぇ、貸せ)
『私、今日こそ死ぬんだわ……』
「まあ、お前ら二人は特に大変だ。期待しているぞ」
バルバロッサは、陽動に使うつもりの野盗二人の背をポンポンと叩いてから、手綱を奪い取って躊躇なく馬の背へと飛び乗った。
そして、平伏する三匹の野盗を見下ろして、極悪な笑みを浮かべる。
「いいか。徒歩なら丸一日かかる子爵の関所も、この馬で駆け抜ければ深夜には着く計算だ。テメェら二人は先に行け。残りの一人は俺の後ろについてこい」
「へ、へいっ! ……あ、あの、俺たちは関所で何を……?」
「決まってるだろ?」
エルマの可憐な唇が、三日月のように吊り上がる。
「そりゃ、楽しい宴会だよ」
「ヒィィィッ……!」
「もたもたしてると夜があくびしちまうぜ。そらいくぞ」
ダァァァンッ! と。
バルバロッサが容赦なく馬の腹を蹴り上げると、馬は悲鳴のような嘶きを上げて夜の街道へと飛び出していった。
『いやああああああああああっ! 速い! 速いですぅぅぅ! お尻が、お尻が割れちゃいますぅぅぅ!』
(ハッハー! 舌噛むなよ! もっと飛ばすぞ!!)
夜の静寂を切り裂いて、馬の蹄の音と、エルマの悲鳴(脳内限定)、そして大悪党の高笑い(脳内限定)が響き渡る。
* * *
そして、深夜。
月が最も高く昇り、冷たい夜風が街道を吹き抜ける頃。
ベルン領と子爵領を隔てる、街道の関所。
通行税という名目で法外な金品を巻き上げ、私腹を肥やしている子爵の私兵(役人)たちは、夜通しの酒盛りを終えて、見張り台で居眠りこけていた。
「……んぁ? おい、なんだあのアホみたいに飛ばしてくる馬は……」
一人の役人が目をこすりながら、街道の彼方から猛烈な土煙を上げて迫りくる二騎の馬を指差した。
「い、いくしかねぇぞ! 生き残る道はこっちだ!!」
「わかってる! 適当に暴れたら認めてくれるだろ!」
悲壮な覚悟を決めた野盗二人が、武器を振り回しながら関所の正面へと捨て身の突撃をしていく。
「こんな夜更けから、どこの馬鹿だ? ……まぁいい。身ぐるみ剥いで、通行税の代わりにしてやるよ。へへっ」
下劣な笑みを浮かべ、役人たちが槍を手に迎撃へと向かう。
その騒ぎを、少し離れた物陰から見つめる黄金色の瞳があった。
「いいねぇ、青春ってやつだ」
物陰から嗤うバルバロッサ。
(どの道、背中に仕込んだ毒でお前らは死ぬんだぜ)
「あ、姉御ぉ。あっしは何するんで?」
残された三番目の野盗が、おずおずと尋ねてくる。
「お前は中々顔がいけてるからな。今からいうところで待機してろ」
「え? へへ、そうですかい。惚れちゃだめですぜ?」
「もうちょっと俺が成長したらな」
もちろん顔など関係ない。ただの足止め(フタ)として使うための、極悪人の見事な口八丁である。
気分の良くなった野盗を、関所の裏手にある茂みへと向かわせる。
(さて、アホ共が正面で騒いでる間に、裏口からお邪魔するとするか)
『や、やめてくださいっ! お家に帰りましょうよぅ!』
(あ? 安心しろ小娘、手荒な真似しかしねぇよ)
『あぁ、神様……』
(こんな夜中だ。おめぇの神様はクソして寝てるよ)
* * *
関所内、執務室。
表の騒ぎをよそに、関所のボスである私兵隊長は、溜め込んだワイロと通行税の金貨をニチャァと笑いながら数えていた。
「よう。愛の女神様よりこんばんは」
『怖い怖い怖い怖いっ!』
突如として背後から響いた、鈴を転がすような愛らしい声。
隊長が弾かれたように振り返ると、そこにはいつの間にか忍び込んでいた、金髪の可憐な少女が立っていた。
「な、なんだお前は!? どこから入った! っが!?」
「愛してってお前が呼ぶから、特大の愛をご提供」
ズシュッ、と。
バルバロッサの容赦ない一撃が、目にも留まらぬ速さで隊長の喉笛を正確に貫いていた。
ゴボッ、ゴボゴボッ、と気管から溢れ出る鮮血が、積み上げられたワイロの金貨を汚しながら、その巨体が床に崩れ落ちる。
『え? ……死、死……?』
初めて目の前で叩きつけられた『本物の死』。
十四歳のエルマの精神は、ショックのあまり白目を剥いて完全に意識を手放してしまった。
「なにが起きた!?」
「隊長!?」
騒ぎを聞きつけた部下の役人たちが、慌てて執務室へ駆け込んでくる。
しかし、大悪党にとってエルマの気絶は、むしろ主導権を完全に掌握できる好都合でしかなかった。
「迅速、徹底がモットーなのですわ。悪いことはしちゃだめなんですよぉ!? ……ってな」
恐ろしいほどの美貌の少女が可愛い正論を吐きながら、笑顔のまま無慈悲に関節を外してくる。
それと同時に、奪い取った刃が流れるような軌道を描き――
何の抵抗もなく、部下の役人の一人の首が、呆気なく宙を舞った。
まだ驚愕の表情を貼り付けたままの生首が床を転がる。
残された胴体の切断面からは、おぞましい勢いで血が噴き出し、可憐な少女のドレスを瞬時に返り血で真っ赤に汚した。
「ば、化け物……!」
顔中に返り血を浴び、黄金色の瞳をギラつかせながら笑顔で近づいてくる少女。
その異常な光景に恐怖した最後の一人の役人は、机の上の『裏帳簿』だけを鷲掴みにすると、迷わず壁の隠し扉――緊急用の抜け道へと飛び込んだ。
(ビンゴそれが『大事な』ものだな?)
真っ暗な通路を這い進み、役人は関所の外の茂みへと転がり出る。
「はぁ、はぁ……! 助かった……あの狂ったガキめ、覚えていろ……!」
「あ? なんだおっさん」
「……え?」
秘密の抜け道を出た最後の役人。
そこには、言われた通りに待機していた『野盗』が、不思議そうな顔で剣を構えて立っていた。
「姉御の言った通り、ホントにここからネズミが出てきやがったぜ」
「なっ……! 貴様、待ち伏せ……!?」
(悪党の逃げ道ってな、大体こんなもんだぜ)
役人が剣を抜くより早く、野盗の刃が容赦なくその体を斬り捨てた。
「よくやった。これをやろう」
背後の抜け穴から音もなく姿を現したバルバロッサは、血濡れの役人から裏帳簿と金貨の袋を奪い取ると、その一部をポンと野盗へと投げ渡した。
『はうぅ……? 私、一体……』
その時。気絶の底に落ちていたエルマの意識が、唐突に覚醒した。
視界に飛び込んできたのは、自らの血塗れの両手と、足元に転がる凄惨な役人の死体。
「は! 姉御やりま……な、なぜ!?」
野盗が金貨を受け取り、満面の笑みを浮かべた次の瞬間。
バルバロッサ(エルマ)の手にある凶刃が、何の躊躇もなく、口封じのためにその『捨て駒』の首へと振り下ろされようとしていた。
『バ、バルバロッサさん! やめっ!!』
(チェックメイトだ)
『やめなさい!!!!』
ピタリ、と。
野盗の首の皮一枚を裂いたところで、凶刃が完全に停止した。
(なッ……!? てめぇ小娘! 今、止まっちまったら!)
バルバロッサの予想外の事態。
死体を見て気絶するだけのヒョロ枝だと思っていた少女の『絶対の拒絶』が、大戦頭の強靭な精神支配を、ほんの一瞬だけ上回ったのだ。
「ひぃぃぃぃぃぃっ!!」
肩の《魔力印》(ただのハッタリ)のことすら忘れ、限界を突破した恐怖に支配された野盗は、狂ったような悲鳴を上げて夜の森へと逃げ出していった。
(ハッ。予定が狂ったぜ。しかし、想定内ではある。この小娘が、俺の意志に対抗するなんてな……)
暗闇に消えていく野盗の背中を見つめながら。
バルバロッサは舌打ちと共に、しかしどこか愉快そうに、喉の奥で低く嗤ったのだった。




