7.Call or Bet?
関所から十分に離れた、深い森の中。
悪鬼は街道を外れ、月明かりを反射して静かに澄み切った泉のほとりで馬を止めた。
(ふん、ガキの体ってのはなかなかに順応がはやい)
強靭な精神力をもって動かしているにしても、このポンコツボディはまだ余力がある。
これならば、余裕をもって帰れる算段だ。ギリギリを想定していただけにこれは朗報である。
馬から降りると、悪鬼は躊躇なく泉の冷たい水に手を突っ込み、顔と髪にこびりついたドロドロの返り血を乱暴に洗い流し始めた。
(氷のように冷たい水。鉄錆のような血の匂い。普通なら、ここでヒョロ枝令嬢が『冷たいですぅ!』『臭いですぅ!』と泣き喚くところだ)
だが――エルマの精神は、先ほどの関所での惨劇から、沈黙を保っていた。
『…………』
(おい小娘。聞いてるのか? 寝てんのか?)
『…………』
話しかけても、抗議の声一つ返ってこない。
(ハッ、オツムにきました! ってやつか?)
人を殺さねば、自分が殺される。奪わねば、奪われる。
それが悪鬼の生きてきた世界であり、これからこの小娘が否応なく巻き込まれる世界だ。
(いや、ちげぇな。テメェが毎日食ってたパンが、誰の血肉を絞って焼かれたもんか考えたこともなかっただけだ。……クァッハッハ! 吐き気がするほど無垢で、最高にイカれた喜劇じゃねぇか)
悪鬼は血まみれのドレスを脱ぎ捨て、持参していた簡素な平服へと袖を通しながら、喉の奥で嗤った。
「……レディの嗜みですわ。ってな」
身支度を終え、脱ぎ捨てた血まみれのドレスを丸めると、それを捨てることなく、持参した袋の中へと丁寧に押し込んだ。
(こういうのが上等につかえるんだぜ?)
沈黙するエルマの気配に対し、悪鬼は極悪な笑みを深める。
それが何を意味するのか。今はまだ、絶望の底で沈黙する少女には知る由もなかった。
(さあ、帰るぞ)
血まみれの証拠品を馬に積み込むと、再び手綱を握る。
「イーーーーヤッハーーー!!!」
夜風が冷たく吹き抜ける中、一騎の馬は静かに、ベルン領の館へと帰還の途についたのだった。
***
その頃。
関所から命からがら逃げ出した野盗は、月の沈みかけた暗い森の中を、狂ったように走り続けていた。
「はぁっ! はぁっ……! ひぃぃぃっ!!」
肩に刻まれた魔力印のことすら忘れ、肺が破けそうになるのも構わず足を動かす。
彼の脳裏に焼き付いているのは、血の雨を浴びながら笑顔で人の首を刎ねようとする、あの黄金の瞳を持つバケモノの姿だけだった。
「た、助かった……逃げ切った……! ふざけんな! 魔力印なんか発動しねぇじゃねぇか!」
大木の根元に倒れ込み、激しくむせ返る。
その時、野盗はふと、自分の手が「何か」を固く握りしめられていることに気がついた。
関所から逃げ出す直前、あのバケモノが自分に投げ渡してきたもの。
ずっしりと重い金貨の袋と――子爵の兵隊長が命懸けで持ち出そうとした、『書物』だ。
「ひっ!? 呪いのア、アイテムだ! あんなバケモノからもらったモンなんて、こんな気味のわりぃもん、捨てちまえ!!」
恐怖のあまり発狂しかけた野盗は、金貨も帳簿もまとめて、茂みの奥へと力任せに投げ捨てようと腕を振り上げた。
――しかし。
「おいおい、随分と景気のいいモン持ってんじゃねぇか。独り占めは感心しねぇなァ?」
「……え?」
暗闇からヌッと現れた複数の影に、野盗の動きがピタリと止まる。
彼らは野盗の仲間ではない。この森を根城にし、他領の貴族や裏社会の顔役とも繋がっている、本物のゴロツキたちだった。
「ひ、ひぃぃっ! や、やめてくれ! 金なら全部やる! だから命だけは……!」
「ヒャハハ! 話のわかる奴で助かるぜ!」
ゴロツキの一人が、野盗の手から乱暴に金貨袋と書物をひったくる。
月明かりの下、パラパラとページをめくった男の顔に、下劣で歓喜に満ちた笑みが浮かんだ。
「……おいおいマジかよ。こいつ、ただの紙切れじゃねぇぞ」
男は舌で薄汚れた唇を舐めずり、書物を大事そうに懐へねじ込んだ。
「関所の『裏の財布』だ。……王都の旦那衆のところに持っていけば、この紙束が、なかなかに遊んで暮らせる金に化けるぜ」
「ヒャハハ! こいつはいいタマだぜ! さっそく、王都の旦那衆に高く売りつけに行こうや!」
自身を縛り上げたゴロツキたちの背中を見送る野盗は、その場にへたり込み、絶望に顔を歪めた。
あそこで殺されようが、逃げ切ろうが関係ない。自分は最初から、あの悪鬼がこの森に放った『爆弾』を運ばされるだけの、哀れで滑稽な使い捨ての駒だったのだ。
***
ベルン領、屋敷の裏手。
夜の深い闇に紛れ、悪鬼は誰にも見咎められることなく、エルマの自室の窓枠を音もなくすり抜けた。
(コソ泥ってなぁ名前の割に恐ろしく専門性のいる高等技術なんだぜ? 知ってるか?)
持ち帰った血まみれのドレスが入った袋を部屋の隅の木箱に押し込み、ふうと架空の葉巻の煙を吐き出すように息を細く吐いた。
任務完了。余興を終えた悪鬼は、満足げに嗤う。
(さて。夜のお散歩はここまでだ、小娘。……そろそろ引き籠ってねぇで出てこい。そら、体の主導権、返してやるよ)
――その瞬間だった。
今まで深い水底に沈められていたエルマの意識が、水面へと急浮上する。
「ひっ……! はぁっ、はぁっ……!」
肺に冷たい空気がなだれ込み、エルマは糸の切れた操り人形のように床へ崩れ落ちた。
視覚、嗅覚、触覚。
五感が戻ると同時に、エルマを襲ったのはすっぽりと抜け落ちた記憶と、身体中が軋むような異常な疲労感だった。
関所で怒号に囲まれたところまでは覚えている。だが、そこから先がない。
そして気が付けば、あの野盗に刃を向けていた。鼻を突いたのは、洗い流しても消えきらない、鉄錆の匂い。
「あ、ああぁ……っ」
自分の両手を見る。泉の冷たい水で綺麗に洗われているはずなのに。
意識がない間に、この手がどれほどの命を奪い、どれほどの血を浴びたのか。脳内に巣食う悪魔の愉快そうな気配だけで、すべてを理解してしまった。
幻覚の血を拭い去ろうと、ゴシゴシと皮膚が擦り切れるほどの力で己の手のひらを窓枠に擦りつける。
カタカタと奥歯が鳴る。立っていることすらできず、這いつくばるようにして。
「……もう、やめてください」
自室の書き物机に手をつき、エルマは肩を震わせていた。
脳内に巣食う悪魔は、先ほどの惨劇を思い出すように愉快げに嗤っている。
(ハッ、何言ってやがる。ちょっとご挨拶程度、しかし愛情たっぷりの極上の告白だったじゃねぇか)
「……っ! 綺麗に洗ってあるはずなのに、鼻の奥から血の匂いが消えない……! 私の意識がない間に、いったい何人殺したんですか……!」
(何人? さぁな。俺は記憶力がちぃっとばかり弱えぇもんでな。歳食ったせいかねぇ。いやだネェ。歳ってのは……まぁ安心しろ、次はテメェも起きたまま、特等席で俺の『愛』をたっぷり見せてやるからよ)
「……っ!!」
エルマは弾かれたように書き物机の引き出しを開け、一振りの刃を掴み取った。
そして、震える両手で、その切っ先を自らの細い白首に突き立てた。
(……あぁ?)
「これ以上、無闇に人を殺すというのなら……私の中で、勝手なことをするというのなら……っ!」
瞳に大粒の涙をいっぱいに溜め、エルマは必死に声を張り上げた。
「ここで、死にます……っ!」
部屋に、冷たい沈黙が落ちた。
やがて――腹の底を這い回るような、くぐもった笑い声が脳内に響く。
(……クハハハ! 震えてんぞ、小娘。手紙の封を切るだけのそんなオモチャで、自分の喉笛が裂けると思ってるのか?)
「切れます! お父様が、護身用にと……刃を研いでくれた、ものですから……っ!」
言葉を証明するように、エルマが震える手に力を込める。
白い肌に刃が食い込み、ツツーッと、一筋の赤い血が首筋を伝って流れた。
(……ほう?)
わずかな血の匂いと、少女のちっぽけな勇気に、悪鬼の気配が面白そうに揺れた。
(悪くねぇ。ほんのすこーしだけ、場があったまったな)
「ほ、ほんとうに……死にますから……っ!」
(だが、まだ綺麗じゃねぇ)
己の命を天秤にかけた必死の抵抗すら、この化け物にとっては退屈しのぎの遊戯でしかなかった。
(止めて見せろよ、小娘。止められねぇならお前は死ぬ。俺も死ぬ。クァっハッハッ! さいっこうにおもしれぇじゃねぇか!!)
その狂気に満ちた哄笑が脳内に木霊し、やがて嵐が去るように気配が奥底へと引っ込んだ。
張り詰めていた糸が切れ、エルマはその場にへたり込む。
「ひぐっ……うぅ……っ」
ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、エルマは首筋の血が滲むペーパーナイフを、まるでお守りのように両手で痛いほどに強く、強く握りしめていた。




