5.御令嬢は反抗期
「クアーッハッハッハッハ!!」
魔獣すら息を潜める静かな北の森に、美少女の姿をした悪鬼の高笑いが響き渡った。
バルバロッサは鼻歌まじりに帰路へつく。
だが、領主の館が見えてくる頃には、上機嫌だった足取りはすっかり重くなっていた。
(貧弱すぎる。少し暴れて歩いただけで、足がしびれている。関節もギシギシ鳴ってやがる)
どれほどの執念や精神力をもってしても、物理的な肉体の限界はどうにもならない。
重い足を引きずり、ようやく館の門扉にたどり着いたところで、バルバロッサは玄関の扉の前でニヤリと笑うと、あっさりとその意識の主導権を手放した。
(名案だぜ。あとは小娘に任せりゃいいんだ。そら、起きろ。優雅な目覚めだぜ)
* * *
意識の奥底で気絶していたエルマが、唐突に現実に引き戻された。
「……はっ!? あ、あれ……お家……?」
ポカンと周囲を見回した次の瞬間。
限界を優に超えた筋肉の悲鳴と、凄絶な肉体労働のツケが自身の脳髄を直撃した。
「あ、あばばばばばばっ!?」
声にならない悲鳴を上げ、エルマは砂埃にまみれた姿で、玄関の冷たい石畳の上へと無様にぶっ倒れた。白目を剥いて、二度目の気絶である。
* * *
真っ白な、光り輝く花畑の中にいた。
懐かしくて、温かくて、まるでお日様の匂いがするような場所。自身の体は妙に小さい。
そこには、金糸の髪をなびかせ、聖母のような微笑みを浮かべた絶世の美女が立っていた。
「あぁ……お母様! お母様ですぅ……っ!」
エルマは泣きじゃくりながら、亡き母、アデレータの胸に飛び込んだ。
自身の記憶が魅せる良い夢だ。そんなことはわかっている。
昨日の恐ろしい体験。脳内に住み着いたドスの効いた声の男。勝手に動き出す自分の体。すべてを打ち明け、この優しい腕の中で慰めてほしかった。
アデレータはエルマの頭を優しく撫で、その耳元で鈴を転がすような美しい声で囁いた。
「エルマ、私の可愛いエルマ……」
「はい……はい、お母様……っ」
「いい? よく聞きなさい、エルマ。……『外堀』を埋めるのよ」
「……え?」
エルマが顔を上げると、そこには聖母の微笑みを浮かべたまま、目だけを獲物を狙う肉食獣のようにギラつかせた、見たこともない母の表情があった。
「狙った獲物は、他に取られる前に徹底的に逃げ道を塞ぐの。親戚も、友人も、周囲の人間すべてを味方につけて、物理的にも社会的にも逃げられないように固めるのよ。……にがしちゃ、だめ」
「……お、お母様……? なにを……?」
「お父様も、そうやって私が狩ったんだから。……ふふっ」
あまりの告白に、思考が追いつかない。
高位貴族の至宝と謳われた母が、なぜ辺境の傭兵上がりの父の後妻に収まったのか。今になって、知りたくもなかった裏話の核心に触れてしまいそうになり――エルマの意識は、逃げるように急激に現世へと引き戻された。
* * *
「ひいぃぃっ!?」
変な悲鳴を上げて、エルマは跳ね起きた。
……いや、跳ね起きようとした。
「ぎ、ぎにゃあああああああああッ!!?」
次の瞬間。昨日までの筋肉痛などただの微風に思えるほどの、凄絶な激痛が全身を貫いた。
筋肉の悲鳴ではない。いや、筋肉なのだが、関節の節々が内側からミシミシと軋み、砕け散るような未知の衝撃。
「いたっ! 痛いですぅぅ! 全身のネジが外れてますぅぅ!!」
「エルマ! エルマァァァ!! 気がついたか!!」
「お嬢様! そのまま寝ていてください!!」
視界の端に、目の下に真っ黒なクマを作った父と、髪を振り乱したメイドのマーサが飛び込んでくる。血相を変えた使用人たちが廊下を走り回る音が聞こえ、どうやら夜通し行方不明だった自分が玄関先に倒れていたせいで、屋敷中がとんでもない騒ぎになっていたらしいと悟った。
(いい味だしてやがる。戯曲ってなぁ、最前列が一番くるんだよ)
脳の奥底から、あの憎たらしいほど冷静な声が響く。
『バ、バルバロッサさん……! ひどいですぅ、筋肉どころか、骨が、関節が……っ!』
(あぁ? 俺流のストレッチってやつだ。イカしてるだろ? ああ、あの三匹はな、ある場所で待機するように言い含めてある。……痛みが引いたら、すぐに愛の収穫に行くぞ)
「無理ですぅぅぅ! 指一本動かせませんんん!!」
「エルマ! どこが痛いんだ!? 医者か!? 医者を呼ぶか!?」
「いいえガルム様、このお嬢様の悶え方は……十中八九、筋肉痛の限界を超えた筋の痛みですわ。添え木と包帯を持ってきますわ!」
ガルムの絶叫をよそに、マーサがテキパキと手当をしてくれる。
エルマは涙目で、夢の中の母の言葉を思い出していた。
(にがしちゃ、だめ……)
『お母様。私、やはりお母様とは違うようです。だって今、獲物を狩るどころか、自分の体が乗っ取られそうです……!』
* * *
マーサの手によって全身をぐるぐる巻きにされ、ミイラのような有様になったエルマは、ベッドの上で芋虫のように丸まっていた。
「あ、あうぅ……指が、自分のものじゃないみたいですぅ……」
口元から情けない呻き声が漏れる。これではペンを握るどころか、大好きな刺繍の針すら持てそうにない。
(チッ。いつまで死体ごっこしてやがる。ただの筋肉痛だろうが)
『だ、だってぇ……! ああ、もう! 体壊れたら、お嫁に行けなくなっちゃいます……っ!』
脳内に響く大悪党のドスの効いた声に、エルマは必死に抗議の念を返す。
すると、彼女の脳内にあるバルバロッサは、ふと面白そうな気配を漂わせた。
(……あぁ? 嫁だ? おい小娘、テメェ、夢はあるのか?)
『夢、ですか?』
唐突な質問に、エルマは痛む体を少しだけモゾモゾと動かし、脳内でささやかな理想を思い描く。
『優しい旦那様と、幸せな家庭築いて。子供達と一緒に刺繍とか……えへへ』
父も、領民のみんなも笑顔で溢れる、温かいベルン領での暮らし。
そんな絵本に出てくるような未来を想像し、エルマの顔にだらしない笑みが浮かぶ。
その答えに、脳内の戦頭は一瞬の沈黙の後――――喉の奥で低く笑った。
(ふん……叶うかもしんねぇな?)
『本当ですか!? バルバロッサさんもそう思いますか!』
痛みを忘れてパァッと表情を輝かせる。
同意してくれた。そう喜ぶエルマの脳裏で、ふと、底冷えするような邪悪な思考が渦を巻いたような気がした。
優しい旦那に、温かい家庭。
なにかを待ち望んでいるかのような――ひどく冷たい嗤い声だけが響く。
言葉にはならない。けれど、その底知れぬ悪意の気配だけが、エルマの心の奥底でどす黒く渦を巻いていた。
* * *
数日後。
エルマを襲った凄絶な筋肉痛が、ようやく「ただの重い疲労感」程度にまで回復した頃。
ベルン領の領主の館に、王都からの急使が駆け込んできた。
「……急な呼び出しだな。辺境の備えについて、国王陛下が直々に報告を聞きたいと?」
書状に目を通した父ガルムの眉間には、深い皺が刻まれていた。しかし、王命とあれば背くことはできない。ガルムは何度も心配そうにエルマを振り返りながら、出立の準備を整えた。
「エルマ。私は少し家を空ける。お前はまだ体が本調子ではないのだから、絶対に森に入ったり、無理な特訓などしないようにな」
「はい、お父様。気をつけていってらっしゃいませ」
玄関先で殊勝に頷いてみせると、ガルムはデレデレと相好を崩してその頭を撫で、背後に控えるメイドへと視線を向けた。
「マーサ、エルマを頼んだぞ。屋敷の外には一歩も出さず、安静にさせてやってくれ」
「かしこまりました、旦那様。お嬢様のことは、このマーサが責任を持ってお守りいたします」
一糸乱れぬ所作で深く頭を下げるメイドの横で、エルマは慌ただしく王都へと出立していく父の馬車を見送った。
その馬車の背中が見えなくなったのを確認し、エルマは「ふぅ」と小さく息を吐き出す。
(ちょっと貸せ)
『へ?』
(今後の為に、な)
「ふふっ、お父様ったら本当に心配性なんですから」
――ぞわり、と。
エルマの意志とは無関係に、頬の筋肉が勝手に引き上げられる。
自身の体が『いつもの愛らしい笑顔』を顔に貼り付け、マーサに向かって振り返るのを感じた。
「ねえ、マーサ。私、なんだか急に疲れが出ちゃったみたい。夕飯までベッドでゆっくり休むから、いろいろお願いできる?」
「かしこまりました、お嬢様。ごゆっくりとお休みくださいませ」
マーサが深く頭を下げる。
だが、その直前。マーサの肩がビクッと跳ねた。
彼女はサッと血の気を引かせた顔で息を呑み、弾かれたように微かに後ずさる。
「どうしたの、マーサ?」
不思議そうに小首を傾げる動作すら、エルマの制御下にはない。
マーサは瞬きを繰り返し、引きつった笑みで誤魔化すように取り繕った。
「……い、いえ。なんでもございません。ごゆっくりお休みください」
「ええ。それじゃあ、お願いね」
パタン、と自室の扉が閉まる。
扉を隔てた瞬間――――エルマの脳内で、悪鬼が腹の底から極悪に嗤った。
(ハッ、表立って騒がねぇか。こいつもただの素人じゃねぇな)
『バルバロッサさん、マーサがすごく怖い顔してましたよ……?』
(気にするな。さあ小娘、決行は夜だ。シーツを裂いてつなげろ。日が落ちたら、行くぞ。過保護な親父の留守に、子爵にたっぷりの愛を貰いにいくぞ)
『いやだいやだいやだいやだ!』
悲鳴のような抗議の念も虚しく、指先一つ動かせない。
最凶の悪鬼に肉体の主導権を握られたまま、絶望的な長い夜が幕を開けようとしていた。




