26.剣よりペンを
一方、戦場の最前線を血の海に変えながら突き進んでいたライカは、ふと剣を振るう手を止めた。
あれほど押し寄せていた敵の前線の圧が、潮が引くように、徐々に、だが確実に薄くなっていくのを感じ取ったからだ。
(……一旦退くか。まぁ、そうだろうな)
敵の指揮官も馬鹿ではない。これ以上の無意味な損耗を嫌い、陣形を立て直そうとしているのだろう。
ライカが頬に飛んだ血を手の甲で無造作に拭い、ひと息つこうとした、その時だった。
ふと、自陣の左翼――本来なら最も手薄で、ひ弱な皇子を守るために防戦一方になっているはずの方向から、異常なまでの歓声と怒号、そして蹂躙の音が響いてきた。
(ハッ、ゴブリンがオーガになりやがった)
脳内で、大悪党バルバロッサがひどく楽しげな、獰猛な嗤いを漏らす。
『わかりづらい例え……』
ライカは内心で呆れたようにツッコミを入れながら、騒ぎの中心へと視線を向けた。
そして、目を見張る。
「右翼、押し込め! 左翼は引け! そこに出来た隙間へ、中央の騎馬を叩き込む!!」
守護の盾の中央。馬上から戦場を俯瞰する第六皇子フォルテが、獰猛な笑みを浮かべて次々と矢継ぎ早に指示を飛ばしていた。
分厚い護衛に守られた彼は、返り血一つ浴びていない。だが、その精神は完全に戦場の狂気に酔いしれていた。
押し、引き、削り、包み込む。
まるで自らの手足の延長のように、巨大な軍の陣形を呼吸するかのごとく変幻自在に操っている。
「ほら、あそこが綻んだ! 逃がさないよ、一兵たりともね!!」
狂気すら孕んだ高揚に満ちた声。
つい先ほどまで「怖いから守って」と震えていた少年の面影は、そこにはもう微塵もなかった。
かつて書物庫の隅で膝を抱えていた弱者特有の『卑屈な光』は、完全に消え失せている。今の彼を突き動かしているのは、自らの描いた盤面で敵が次々とすり潰されていくのを見る、甘美で残酷な高揚感。
その瞳には、敵兵の命を最後の一滴まで喰らい尽くしてやるという、強者としての爛々とした飢えた光だけが宿っていた。
「まだだ! まだ足りない! 全軍、このまま退く敵の背を突――」
「殿下」
戦場に似つかわしくない、ひどく静かな声が少年の熱を遮った。
「ライカ殿……?」
「敵が退くようです」
いつの間にか陣形の中央に戻ってきていたライカが、血に濡れた剣を肩に担ぎ、馬上を見上げていた。
「追わなきゃ! 今なら完全に崩せる!」
「だめです」
ピシャリと、有無を言わさぬ一言で制止される。
「え?」
「退却時、殿下は最初に何を考えますか?」
血の熱に浮かされる少年を冷ますように、凪いだ菫色の瞳がじっとフォルテの目を射抜いた。
その問いかけに、フォルテの脳内で高速の演算が走る。
「逃走……ルート」
「そうです。一番退却のしやすいルートです。つまり、そこは追撃を罠にはめやすい死地でもあるんです」
熱狂に飲まれ、追撃の甘い汁しか見えていなかった自分に気づき、フォルテはハッと息を呑んだ。
もしあのまま全軍を突撃させていたら、伏兵や罠の餌食になり、盤面は一瞬でひっくり返っていたかもしれない。
スゥ、と。フォルテの目から狂気的な熱が引き、元の理知的な、静かな知性の光が戻る。
「……そうだ。そうだね。ライカ殿の言う通りだ」
彼は深く息を吐き出すと、手綱を握り直し、自軍へ向けて冷静な声で新たな号令を響かせた。
「全軍、追撃をやめよ! 現在の前線を維持し、陣形を整えろ!」
「いーや! いただきます!」
「お前たち!? 止まれ!」
「あんな美味しい敵、逃す手はありませんね!」
フォルテの制止を無視し、功を焦って突出していく一部の部隊。
ライカ指揮下の千人の直属傭兵ではない。合流したと思われる、鎧の胸の紋章からして中央精鋭隊の一部だ。田舎の傭兵や第六皇子の命令など聞く耳持たないという、傲慢な背中だった。
「殿下、良いのです。末路を見る、良い答え合わせです」
「ライカ殿……しかし、彼等も帝国の民なんだ……!」
「民だ? くそみてぇな脳で死地にわざと行くような奴はな、敵だ」
瞬間、フォルテの背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。
声が、違う。空気が、違う。
「瞳が、金に……」
傍らに立つ護衛の一人が、恐怖に顔を引き攣らせて呟く。
ライカは感情が高ぶると瞳の色が変わる。それは傭兵団みんなの共通認識だった。だが、今の彼女……から放たれるのは、殺気だ。
大気が軋むほどの殺気。物理的な重さを持っていると錯覚させるほどの、圧倒的な圧。
菫色だった彼女の両目が、飢えた狼のような獰猛な黄金色へと変色していた。
「盤面の支配者はな、甘くねぇぞ。そら、あれを大事な民だといって加勢してみろ。ああなるんだぜ」
黄金の瞳が視線を投げた先。
敵を追って峡谷の入り口へ飛び込んだ中央精鋭隊の頭上――両側の高台から、まるで雨霰のように巨大な岩が落とされ、悲鳴を上げる間もなく次々と兵士たちがひしゃげ、肉塊へとすり潰されていく光景が広がっていた。
間違いなく、追撃部隊を皆殺しにするための伏兵だった。
「そしたらお前、マジモンの大事な民まで消えるんだぜ? 選別しろ。お前は支配者だ」
「ライカ殿! 殿下にそのような無礼な口は――!」
「いいんだ」
諌めようとした守備隊を、フォルテは静かに手で制した。
無惨に潰されていく自国の兵士たちを見つめる少年の瞳から、先ほどの哀れみは綺麗に消え去っていた。
「ありがとう。目が覚めた気分だ。……あいつらは、ゴミムシだね」
「ハッ」
その徹底した切り替えの早さと冷徹さに、悪鬼は愉快そうに嗤う。
「帝国の皇子ってな、優秀すぎて泣けちゃうね」
「いや、僕は『フォルテ』だ」
帝国の飾り物ではない。己の意思で盤面を支配する者としての、誇り高き宣言。
男の底知れぬ凄みを見せつけた少年に、悪鬼は極上の笑みを浮かべて言い放った。
「上等だ。小僧、俺らを使って見せろ。だがな、一つでも違えてみろ。お前の大事な民が全滅する」
「わかっている。そういう立場なんだ。指揮っていうのは、そういう立場なんだ」
瞬間、周囲の兵たちの首筋に再び強烈な悪寒が駆け抜けた。
銀色のものではない。まだ未成熟で易しいが、間違いない。これは、第六皇子フォルテ殿下自身の内奥から発せられた殺気だ。
「さて、フォルテ殿下。どうするんだ?」
黄金の瞳が、試すように盤面を見る。
敵は伏兵を隠し持ち、味方の一部は無惨に散った。戦場には重苦しい緊張感が張り詰めている。
だが、少年は一切の淀みなく、冷ややかに言い放った。
「決まっている。待機だ」
「……ハッ。たまんねぇなおい」
悪鬼は肩を揺らし、心の底から愉快そうに嗤った。
若き知将の最初にして最高の一手――それは『動かない』という自制。
フォルテはそう言うと、敵軍左翼に真っ向から対峙するように強固な陣を立て、盤石のまま沈黙を選んだ。
血に飢えた戦場において、微動だにしないその異様な静けさこそが、敵への最も恐るべき重圧となることを、彼はすでに理解していた。




