7.万華鏡の元令嬢
ガルヴェリア帝国西部、中規模都市ダダリア。
砂塵の傭兵団が現在拠点としているこの街の裏路地の酒場に、およそ似つかわしくない上等な馬車が横付けされたのは、団長ライドが「でっけぇ案件」を宣言した直後のことだった。
ギィ……と立て付けの悪い扉が開き、酒場に足を踏み入れたのは三人。
一人は、隙のない身のこなしで周囲を警戒する初老の執事。
その後ろに隠れるように立っているのは、上等な外套をすっぽりと被った十代半ばほどの気弱そうな少年――今回の護衛対象である帝都のボンボンだ。
そして少年の隣には、恰幅が良く、鋭い目つきで酒場の汚れや傭兵たちを睥睨している中年女性の侍女が控えていた。
「坊ちゃま、外套の襟が曲がっております。このようなむさ苦しい場所、坊ちゃまの肌に触れる空気すら不衛生ですわ。ほら、シャンとなさいませ」
「あ、ありがとう……。でも、あまり大声を出さないで……」
外套のフードを目深に被り、蚊の鳴くようなか細い声で縮こまる少年の姿は、温室育ちの貴族そのものだ。
侍女は周囲の傭兵たちの殺気など意にも介さず、甲斐甲斐しく、かつ口うるさく少年の身なりを整え続けている。
『――ッ!』
その光景を見た瞬間。
ライカの身体がビクリと強張り、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
(小娘)
『……あの手の甲斐甲斐しい侍女を見ると、反吐が出るのよ』
ライカの脳裏に、強烈な血の匂いがフラッシュバックする。
自分を愛していると嘯きながら、母の幻影に狂い、父を侮辱し、ベルンを内側から崩壊させた狂人――マーサ。
右目に刺繍針を突き立て、骨ごと首を断ち割ったあの夜の感触が、右手首の奥でじくりと疼いているのがわかる。
(ハッ。それはお前の隙だ。戦士としての弱さがそうさせる)
『チッ……』
内側から伝わってくる強烈な嫌悪感に、悪鬼は内心で冷笑した。
(小娘にとって、あのような貴族に仕える侍女ってのは、いつ内側から牙を剥くか分からない吐き気を催す欺瞞の象徴ってわけだ。まぁいい。愛想笑いしてやる義理はねぇ)
そんな悪鬼をよそに、少し離れた酒場の奥の円卓では団長ライドと初老の執事が、ダダリアから東に位置する旧ゼネビアまでの広域地図を広げて最終確認を行っていた。
「ダダリアから東へ進み、ドラグの森を抜けて旧ゼネビアへ。……ドラグの森では魔物や野盗の類は多く出る。坊ちゃまの安全は絶対だ。腕の立つ者を馬車の直衛に回していただきたい」
「わかってる。そのためのウチだ」
執事の厳しい要求に、ライドはニヤリと笑って顎をしゃくった。
その視線の先にいたのは、酒場の隅でしかめ面をしているザックと、ライカである。
「おい、ザック、ライカ! ちょっとこっち来い!」
ビクッと肩を揺らすザックの首根っこを掴み、ライカは面倒くさそうに円卓へと歩み寄る。
執事は、胡乱な目でザックを一瞥し、次いで隣のライカを見て露骨に顔を顰めた。
「団長殿。彼らは……いかにも場数だけは踏んでいそうな身なりですが。失礼ながら、こちらの女性などに直衛が務まるとは思えませんな」
(俺のナリを見て、戦場を知らねぇ見掛け倒しの女だと高を括りやがったな)
執事の露骨に見下したような視線を受け、悪鬼は内心で鼻を鳴らす。
「そう言うなよ。これでも中々やる腕だぞ?」
怪訝な顔をする執事に対し、ライドはさも名案だというようにガハハと笑った。
「馬車のすぐ横に、むさ苦しい野郎がずっと張り付いてみろ。坊っちゃんもあの侍女も気が休まらんだろうが。その点、こいつは女だ。同性なら、あの侍女連中も無駄に警戒せずに済むって寸法よ」
隣で、ザックがヒュッと息を呑む音が聞こえた。
ライカを一瞥したザックの顔から、サァッと血の気が引いていく。
(ハッ。俺みたいな特大の爆弾を、よりによって馬車の一番近い場所に置く気かよってツラだな)
この数日、悪鬼がやってきた一連の始末を思い出して震え上がっているのだろう。
道中でトラブルが起きないはずがないと、その顔にはっきりと書いてあった。
「てなわけで、馬車周りの直衛は、お前ら二人に任せるぞ。コンビで仲良くな、きっちり頼むぜ」
「……私は別に構わない」
ライカはわざと無害な女を装って小さく肩をすくめた。
だが、その肉体の内側では――『あの女が少しでも妙な動きを見せたら、即座に目を潰して首を刎ねてやる』と、令嬢がドス黒い殺意を滾らせていた。
反論する気力すら湧かないのか、ザックは胃の辺りを押さえて力なく天を仰ぐ。
(せいぜい胃壁をすり減らして護衛しな、相棒)
絶望し、もはや深酒する気力すら失ったように項垂れる凡人を横目に。
悪鬼は懐の密書を、指先でそっと叩いた。
思考の底で、いくつもの盤面を静かに組み上げながら、悪鬼は狂気を孕んだ笑みを微かに浮かべた。




