30.エルマ・ベルン
「いいよ」
「お嬢様? わかっていただけましたね? さぁ、いきましょう」
突然、ひどく落ち着き払った声を出したエルマに、マーサが怪訝そうに眉をひそめる。
エルマはゆっくりと、懐に手を入れた。ダイナと服を交換し、屋敷を飛び出すあの極限状態の中にあっても、彼女は無意識に『それら』を握りしめ、持ち直していた。
鈍く光る、一本のペーパーナイフ。
エルマはそれを己の金糸の髪の根元に当てると、躊躇いなく刃を引いた。金属が繊維を断ち切る、微かな、しかし決定的な抵抗感。マーサが毎日、至宝のように手入れしてくれた、自慢の髪。
金糸の束は、月の光を吸いながら、粘り気の強い泥の上へと力なく滑り落ちた。
「あぁ!? アデレータ様!? お、お美しいお髪が!!」
音を立てて崩れ落ちたのは、エルマの髪ではない。マーサの見るアデレータの『幻影』だった。
今まで能面だったメイドの顔が、この世の終わりのような絶望と驚愕に染まる。
その滑稽な姿を見て、エルマは確信した。この狂人は、私を見ていない。私越しに、自分を作り上げた母アデレータの幻影を見ているだけだ。
ならば、そんなものはもう必要ない。
エルマは、地面に落ちた己の長い髪を、泥だらけの靴で無造作に踏み躙った。美しい過去が、汚濁へと変わっていく。
「アデレータ様ぁ!? あぁ、あああぁッ!」
髪を掻き毟り、発狂したように叫ぶマーサ。
その狂気を冷徹に見下ろしながら、エルマはペーパーナイフをしまい、代わりに父から託された短剣を抜き放った。夜気に晒された刃が寒々しく光る。
「いいよ、と、言った」
切先を、下へ。
そこから、刃を下から水平に鋭く切り上げる。流れるような動作で手首を返し、そのまま反対方向へと水平に空を薙ぐ。
そして最後に、柄を両手で力強く握り込み、刃を垂直にして胸の前に高く掲げた。
それは、誇り高き『黒曜の牙』に伝わる、命を懸ける死地に向かう前の神聖な剣儀。
「我は、我は黒曜の牙の戦士が一人! エルマ・ベルン!!」
私は戦士。戦士は屈辱を忘れない。戦士は生きている限り戦う。戦士はその誇りにかけて……。
お父様を殺した帝国。私たちを裏切り、死地へと追いやったユベール公爵と王国。そして、母の幻影に縋り、ベルンを内側から食い破った目の前のメイド。
私の大切なものを理不尽に奪っていくというのなら。
「貴様も、王国も、帝国も! ……全員、全員!!!」
エルマは、髪を振り乱して錯乱するマーサへと、真っ直ぐに短剣の切先を突きつけた。
まだ微かに震えそうになる己の弱さを押さえつけるように、血が滲むほどに唇をきつく引き結ぶ。
「――殺す!!!!!!!!!!」
(ハッ! 色気付きやがって)
エルマの喉から絞り出された殺意の咆哮。それに呼応するように、彼女の体から、常人ならば気絶しかねないほどの凄まじい殺気が爆発的にほとばしった。
月の光を浴びて、エルマの右目は本来の菫色が一段と深く輝き、そして左目は、内に宿る悪鬼の覚醒を示すかのように、禍々しい金色に煌めく。
今、この瞬間。
復讐に燃える辺境の令嬢と、血に飢えたかつての悪鬼。二つの異なる魂の思考が、寸分の狂いもなく完全に一致した。
そのエルマの異様な変貌を前にしても、マーサは掻き毟った髪の隙間から、アデレータの幻影への妄執に歪んだ瞳を向けるだけだった。
「……ガルムも、情けない男でした。所詮はただの野蛮人。アデレータ様にふさわしくはなかったのです」
「その名を、父の名を! 貴様が呼ぶな下郎ッ!!」
父への侮辱。エルマの理性が完全に弾け飛ぶ。
短剣を握りしめ、泥を蹴ってマーサへと突っ込む。
(下だ。緩めにやれ)
バルバロッサの冷徹な声が脳内に響くのと同時に、エルマの手は無意識に短剣を斜め下へと振り下ろしていた。
だが、マーサは直前でエルマの殺気を嗅ぎ取り、紙一重でそれを躱す。のみならず、すれ違いざまにエルマの右手首を冷酷な正確さで打ち払った。
「ッ……!?」
華奢な骨が軋み、手首から先が麻痺したかのような激痛が走る。短剣を取り落としそうになるのを、エルマは必死に指先へ力を込めて耐えた。
(力で張り合うな。殺意だけで体動かしてんじゃねぇ、右足で泥を噛んで踏ん張れ)
悪鬼の泥臭い檄が飛ぶ。
距離を取ったマーサは、まるで夜風に舞う木の葉のように洗練された動きで体勢を立て直していた。
「アデレータ様、おやめください。……私とお嬢様では、悲しいかな、積み上げてきた実力が違いすぎるのです」
マーサの声には、令嬢を諭すような、不気味なほど落ち着いた傲慢さが戻っていた。ユベール公爵の手駒として王都で、そして辺境で磨き上げられてきた戦闘技術。いくら巨狼の血を引こうとも、今日まで剣など握ったこともない小娘に負ける道理などない。彼女はそう確信していた。
「うるさい口だ。反吐が出る!」
エルマは止まらない。実力差など関係ない。目の前の敵を屠る。その一念だけで、再び痛む腕で短剣を構え直す。
(袈裟を狙え。そうだ。わざと弱くやるんだ。……そら、来るぞ、受け流してバランスを崩せ)
接近してくるマーサの動きを、バルバロッサはエルマの左目を通して冷静に分析する。
マーサはお嬢様を手荒に、だが生かしたまま無力化するため、最短距離でエルマの懐へと踏み込んできた。関節を極めるために伸びる、その白い手。
(そこだ。左だ)
「あ、が……ッ!?」
マーサの平坦な能面が、この日一番の衝撃と、喉の奥に張り付いたような絶叫に引き裂かれた。
彼女の眼前、数センチの距離。
そこには、エルマが短剣とは別に、左手に隠し持っていたものが突き立てられていた。
――ドレスを着替えるあの極限状態の中にあっても、エルマをエルマにするための大切な道具。ガルムが手入れしてくれたペーパーナイフと、ガルムが買ってくれた大好きな刺繍の針。
エルマはそれを、まるで父に褒められたあの美しい刺繍を縫い上げる時のように――優雅で正確な軌道で、狂人の瞳へと突き立てたのだ。
マーサの右の眼球へと深々と突き刺さったそれは、視神経を断ち切る『ぶちり』というおぞましい感触を、指先を通してエルマの脳髄へと直接伝達した。
(良い針使いだ。刺繍が得意なだけある)
眼球が破砕され、どくどくと鮮血と硝子体が頬を伝って零れ落ちる。
(刎ねろ)
右目を潰され、激痛に悶え苦しむマーサ。
その最大の隙を逃すほど、エルマの内に棲む悪鬼は甘くなかった。悪鬼の冷酷な死の宣告が、脳内に響き渡る。バルバロッサの殺意がエルマの身体をジャックし、短剣を持つ右腕を突き動かす。
「マーサ。ありがとう。砂糖菓子の夢をありがとう。私は幸せだったわ。だから」
短剣が一閃。
刃が肉を裂き、頸椎の太い骨にガツンと激突する。令嬢の細腕では、成人女性の首を一撃で断ち切る腕力など到底足りない。刃が骨に噛み込み、止まりかける。
(振り抜けッ! 骨ごと断ち切れ!!)
バルバロッサの怒号が轟く。エルマは獣のように歯を食いしばり、全身の体重と憎悪のすべてを右腕の短剣に乗せた。
「死ね」
ごきり、と致命的な音が夜の森に響き渡る。
強引に骨を断ち割られたマーサの首が、宙を舞って泥の上へと転がり落ちた。
直後、主を失った断面から、どばっ、と生温かい大量の鮮血が噴き出す。それはエルマの顔を、金糸の髪を、ただの平服を、華やかな真っ赤なドレスに仕立てあげた。
むせ返るような濃密な鉄の匂い。
それは、か弱い令嬢エルマ・ベルンの最期であり、戦士としての血塗られた洗礼だった。
マーサの首を刎ねたエルマは、顔から滴る血を拭いもせず、左手の刺繍針を強く、強く握りしめていた。その手の震えは、恐怖からか、それとも歓喜からか。
「さようなら。砂糖に塗れたエルマ・ベルン」
落ちた自身の髪を踏みしめる。能面は泥にまみれ、二度と表情を変えることはなかった。
(ぼやっとするな。こっちだ)
「悪鬼、私はあなたの力を利用する」
(あぁ? ……ハッ、上等じゃねぇか、小娘)
脳内の闇の奥底で、かつての悪鬼が、初めて自らの意志を持った『器』に対し、獰猛な、しかし確かな愉悦を滲ませた笑みを浮かべる。
「やってやるさ」
(青春だな)
一人の令嬢と一人の悪鬼は暗闇の中、音もなくその場を去っていった。
第一章 砂糖菓子の夢に溺れて死ね 完




