29.魂の契約(のろい)
「お父様!」
絶叫するエルマの眼前で、巨狼はまさしく戦神だった。
死角から迫りくる無数の矢を大剣の腹で弾き落とし、返す刀で飛び込んできた帝国兵の胴を両断する。さらに頭上の屋根から放たれた火球に対し、ガルムは咄嗟に足元の刃――亡き帝国兵士の剣を蹴り上げ、己の大剣と交差させて盾とした。
凄まじい衝撃と共に爆炎が弾け、巨狼の膂力によって強引に弾き返された火球が、密集していた帝国兵たちを巻き込んで燃え上がる。
(……綺麗じゃねぇか)
ただの力任せではない。死の淵にあってなお研ぎ澄まされたその絶技に、エルマの奥底に潜む悪鬼が、感嘆の声を漏らす。
鬼神の如き武威を振るう父の背中が、決して闘争心だけで動いているわけではないことを、エルマは痛いほどに理解していた。
『あぁ、エルマ。私の可愛い天使。お前を守るためなら、お父様は何も怖くないのだぞ』
『エルマ! やったな! お前は天才だ! この刺繍は芸術品だ!』
『こら、エルマ。馬が苦手だからって、お父様を本物の馬みたいに扱うとは……』
血と炎が飛び交う凄惨な視界の向こう側で、一緒に刺繍をした日、乗馬を教わった日。愛する娘と過ごした愛おしい記憶が、その広大な背中から温かな幻影となってエルマの胸に流れ込んでくるようだった。
「お、とうさ、ま……っ」
絶望と悲しみで、エルマの視界がぐしゃぐしゃにぼやける。
ガルムは血まみれの顔で娘を振り返ると、迷いのない、優しくも厳しい声で告げた。
「エルマ。行きなさい」
「うぅ……っ」
「お嬢様、こちらへ」
泣き崩れるエルマの肩を、マーサが強引に引っ張る。
その背中を見送る直前、ガルムは鋭い視線をエルマの瞳の奥――そこに潜む『もう一人の存在』へと真っ直ぐに突き刺した。
「……どこぞの悪党。娘を頼んだぞ」
そう言い放ち、ガルムがエルマへ向けて投げよこしたもの。それは重い長剣ではなく、刃渡りがちょうどエルマの腕の丈ほどある、短剣だった。
「ちっ、そりゃ呪いだぜ、ガルム。――あばよ巨狼。タイマンは、地獄までおあずけだ」
エルマの口の端が微かに歪み、悪党が不敵な笑みでその誓いを受理して言い放つ。
それを聞いた巨狼の顔に、ふっ、と肩越しに獰猛で満足げな笑みが浮かんだ。
受け取った短剣の柄には、無骨な文字がしっかりと打たれていた。
【黒曜の牙が戦士、エルマ・ベルン】
『お父様、お父様……ッ!』
「さぁ、このガルム・ベルンは一人だぞ。ハハハハ! 貴様等も一廉の戦士だろう! 怯えてないでかかってこい!」
迫り来る帝国兵の濁流へ向け、再び吼え猛る巨狼の背中を振り切り、エルマはついに西の森へと続く暗闇の中へ走り出した。
木の枝が容赦なく服を引き裂き、頬を打つ。ぬかるんだ土に足を取られながらも、マーサに手を引かれるまま、エルマはただ無我夢中で暗い森の奥へと逃げ続けた。
背後から聞こえていた怒号も、剣と剣がぶつかり合う鋼の悲鳴も、やがて夜の静寂に吸い込まれるように消えていく。
それはつまり、あの屋敷での凄惨な戦いが終わったことを意味していた。
「いつも陽気なお肉屋のアレクおじさんも、しっかり者の八百屋のフィンおばさんも。いつも口うるさくて少し意地悪だけど、私のために一生懸命お菓子を焼いてくれたダイナも、本当に優しくて一緒に遊んでくれたファナお姉ちゃんも……。焼きたての甘いパンをこっそりオマケしてくれたロッシ爺さんも……。みんな、みんな……みんな死んでしまった!」
走りながら、限界を迎えたエルマの目からボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。
そして――自分を逃がすために、自ら確実な死地へと残ってくれた父親も。
エルマを愛してくれた人たちは、もう誰もいないのだ。
悲痛な絶望が心臓を鷲掴みにし、エルマの足がふらつきそうになった、その時だった。
(ハッ、勿体ねぇ。あんな極上の戦士、大陸にも数えるくらいしかいねぇ。……巨狼、待ってやがれ)
奥底から響いたのは、いつもの嘲笑でも、慰めの言葉でもなかった。
数多の戦場を駆け抜け、屍の山を築いてきた血に飢えた覇王バルバロッサの、純粋で獰猛な独白。
『極上の、戦士?』
(そうさ、極上だ。格を決めねぇと気がすまねぇ)
内なる化け物のその言葉に、エルマはハッとして、胸元に抱きかかえていた無骨な短剣をぎゅっと握りしめた。
柄に打たれた文字が、掌を通して熱く脈打っているように感じられた。
――【黒曜の牙が戦士、エルマ・ベルン】
父親は、この内なる悪鬼すらも極上と認め、あの世で決着をつけたいと渇望するほどの、偉大なる戦士だったのだ。
ならば、その血を引く自分は、巨狼の子。皆が命を懸けて繋いでくれたこの命を、こんな暗闇の中で絶望に沈めるわけにはいかない。
エルマ・ベルンには、彼ら、彼女らの誇りを背負い、生き抜く使命がある。
暗闇の中で、少女の菫色の瞳に初めて、涙ではない狼のような鋭い光が宿る。
その心の変化を誰よりも早く感じ取ったバルバロッサが、待っていたとばかりに口の端を吊り上げた。
(そら。まずはそこな能面を乗り越えろ)
「え……?」
悪鬼の言葉に、エルマは顔を上げた。
前を歩くのは、自分の手を力強く引いて森を進むメイドのマーサだ。
だが、言われてみれば、おかしい。
これほど過酷な森の逃避行だというのに、彼女の足取りには一切の乱れがない。息一つ切らしていない。何より、後ろを歩く自分がこれほど絶望し、泣きじゃくっていたというのに。
マーサは一度たりとも、エルマを気遣うように振り返らなかった。
まるで、ただの荷物を目的地まで運ぶ作業をこなしているかのように。
「マ、マーサ……?」
エルマが思わず立ち止まると、繋がれた手に引かれる形で、マーサもピタリと足を止めた。
月の光が差し込む森の獣道で、メイドはゆっくりとこちらを振り向いた。
その顔には――先ほどの凄惨な地獄を抜け出してきたとは思えないほど、感情が抜け落ちた能面のような無表情が張り付いていた。
「さぁ、お嬢様。《《アデレータお嬢様》》」
抑揚のない平坦な声。だが、その虚ろな瞳の奥にだけは、得体の知れない昏い光がべっとりと渦巻いていた。
自らの亡き母の名前を呼ばれ、エルマは息を呑む。マーサの視線は確かにエルマを捉えていたが、彼女が見ているのは目の前の少女ではなく、過去の幻影だ。
「公爵様のもとへ参りましょう。あぁ、さぞや綺麗な花嫁姿なことでしょう……。マーサは、こんな辺境へ嫁ぐことなど、ずっと反対だったのです」
「マーサ、なんで……?」
信じられないものを見るようなエルマの問いかけに、マーサは微動だにせず、ただ能面のような顔を傾けた。
「アデレータ様。御身は、このようなむさ苦しい辺境にいるべきではないのです」
(ハッ。紅茶から王都のゲロくせぇ香水の匂いが毎日プンプンしてやがったぜ)
『っ!?』
バルバロッサの冷笑が、エルマの脳髄を殴りつける。
香水。王都。裏切り。その単語がパズルのように組み合わさり、かつての不自然な出来事が次々とフラッシュバックしていく。
不自然なまでに手薄だったバルデ子爵の関所。ザイードの時も、トンパの時も父の不在を狙ってきた。すべては偶然ではない。このメイドが、ベルンを孤立させ、確実に潰すための情報をユベール公爵に流し続けていたのだ。
いや、ユベールの刺客だとしたら。
「さぁ、アデレータ様。私も、手荒な真似はしたくはないのです」
全てが繋がる。
『バルバロッサさん……どこまで、知って? いままでのこと……』
(さぁな)
バルデの関所を潰さなければ、飢えていたこと。ザイードもそうだ、トンパも。
『遅かれ……早かれ……なって、いた、でも』
(でも、なんだ?)
『……』
(ハッ)
震える唇を噛み締めるエルマの耳に、東の空から、ごうっ、と屋敷の一部が焼け落ちる重い音が届いた。
その音を聞いて、マーサの虚ろな瞳が微かに悦楽に歪む。
「あぁ、辺境のゴミが燃えていきますよ、お嬢様。……帝国兵という獣たちも、使いようですね」
マーサの嘲笑に、エルマの心臓がギリッと軋んだ。
その軋みは悲しみではない。全てを理解した瞬間、自身の胸の奥底から、氷のように冷たく、黒い殺意の炎が燃え上がってくるのをエルマは、はっきりと感じ取っていた。




