エピローグ
燃え盛るベルン領の夜空を遠目に眺めながら、帝国軍指揮官であるレゼン将軍は、ひどく冷めた声で撤退の号令を下した。
「……退け。惨憺たる状況だな。これ以上は無意味だ」
その言葉通り、帝国軍の被害はレゼンの想定を遥かに超えていた。
辺境の小領主一つを潰すだけの、簡単な作戦のつもりだった。だが、蓋を開けてみれば黒曜の牙による鬼神の如き抵抗によって、部隊はほぼ壊滅状態になってしまった。
(王国の辺境に武神ありか。……盤面を見誤った。黒曜の牙が居るなんて知っていれば……だが、良い検体が手に入った)
レゼンの顔が、微かな自嘲に歪む。
だが、収穫が全くなかったわけではない。彼らの部隊が今回試験的に投入した新兵器『火弾槍』――魔力を物理的な爆発力に変換して撃ち出すその兵装は、実戦において十分な破壊力を証明した。
三度の連射で槍身が熱を持ち暴発するという致命的な欠陥も露呈したが、それもこの実地データがあれば本国で改良できる。
「蟲にこれ以上都合よく使われてやる義理はない。我々は帰還する。――ああ、その男の遺体は保管しろ。大切にな。腐らすなよ」
レゼンはマントを翻し、馬首を反した。
彼らが去った後には、屋敷以外の全てが灰燼に帰したベルンの惨状だけが残されていた。
* * *
一方その頃。戦火から遠く離れた安全な陣営で、ユベール公爵は優雅に赤ワインのグラスを揺らしていた。
彼のもとへ、血相を変えた伝令が駆け込んできたのは、ちょうどその時だった。
「ほ、報告いたします! 帝国軍がベルン領への攻撃を停止! 全軍、国境を越えて撤退を開始した模様です!」
「ほう。臆病風にひかれて帰りおったか。脆弱な帝国兵らしいではないか」
ユベールは満足げに目を細め、グラスに口をつけた。
マーサの働きで手薄になったベルンを帝国が食い破り、疲弊した帝国が引いていく。公爵軍が帝国を打ち滅ぼすというシナリオからは外れてしまったが、結果としては悪くない。
「ご苦労だった。ベルンの田舎男も、帝国の恐ろしさを骨の髄まで味わったことだろう。……で、私の花嫁はいつこちらへ到着する? マーサからの連絡は?」
「そ、それが……」
伝令の兵士は、まるで死刑宣告を待つ罪人のように激しく震え、顔面を蒼白にしていた。
「焼け落ちたベルンの家屋の傍で、ご遺体が、発見されまして……」
「……遺体だと?」
ユベールの声から、温度が消えた。
「は、はい。ひどく焼け焦げており、その、お顔の判別はつきませんでしたが……残された金糸の髪と、身につけていた貴族のドレスから、間違いなく、その……エ、エルマ・ベルン、いや、アデレータ令嬢のものかと……っ!」
ガシャンッ!!
硬質な破砕音が、静まり返った天幕に響き渡った。
ユベールの手から滑り落ちたグラスが粉々に砕け散り、極上の赤ワインが、まるで血溜まりのように絨毯を赤く染めていく。
「な、なにを、言っている……? 死んだ? 誰が? 私の、アデレータが?」
公爵の顔から表情が抜け落ちた。虚ろな瞳が、足元の赤い染みをじっと見つめている。
見つかったのは、金糸の髪とあのドレス。それはすなわち、彼が執着し、手に入れるはずだった『過去の幻影』が、再びこの世界から永遠に失われたことを意味していた。
「アァ……あぁぁぁああああっ!! アデレータ!! アデレータァァァアアアッ!!」
ユベールは絨毯に這いつくばり、割れたグラスの破片で手を血だらけにしながら、喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げた。
辺境の小娘の命などどうでもいい。彼の最愛の幻影が、再び理不尽な暴力によって奪われたのだ。己の差し向けた帝国軍の手によって。
「許さん……許さんぞ!!」
血まみれの手で己の顔を掻き毟り、ユベール公爵は夜の闇に向かって獣のように吠え猛った。
「帝国ゥゥウウウッ!! 私の愛を! アデレータを奪った野蛮な獣どもめ!! 一人残らず、根絶やしにしてくれるわぁぁぁあああッ!!」
己の身勝手な謀略が引き起こした炎によって最愛を失い、男はただ復讐に憑りつかれた狂人へと成り果てたのだった。
* * *
(こっちだ)
『ああ』
夜の森を駆ける一つの影があった。
泥と返り血に塗れ、ボロボロの平服を纏うその姿に、泣き虫だった令嬢の面影は、もうどこにもない。
不揃いに切り落とされた金糸の髪が、獣のように夜風を切り裂く。暗闇の中、エルマの右目は本来の菫色を湛え、左目は悪鬼の狂気を孕んだ黄金色に爛々と輝いていた。相反する二つの光が、どこまでも続く漆黒の森の先を鋭く見据えている。
(アズガルド山脈には、裏社会の連中しか知らねぇ獣道がある)
『……帝国へ向かうのね』
肺は焼け付くように痛み、傷だらけの足は泥にまみれている。それでも、小柄な身体を突き動かすエルマの足取りには、一切の恐怖はなかった。
(そうさ、小娘。楽しい楽しい外遊さ。国盗りは一日にしてならずだぜ)
脳内で響き渡る、血に飢えた悪鬼の凶悪な哄笑。
それに呼応するように、すべてを喪失した少女の血塗られた唇が、夜の闇に紛れてひっそりと三日月のように吊り上がった。
まだ慣れない、ひどく歪で不器用な、悪党の笑みだった。
第一章 砂糖菓子の夢に溺れて死ね 完
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