2.なっちまったもんは仕方ねぇ
「あいたた……うぅ、腕が上がりません……」
壊れた扉の処理をメイド長のマーサに任せ、お父様が廊下で説教を受けている隙に、エルマは隣の客室へと避難していた。
昨日の乗馬訓練がもたらした全身の筋肉痛が、容赦なく14歳の身体を苛んでいる。使用人の少ないベルン男爵家では自分で着替えるのが日常だが、今日は質素な綿のドレスに袖を通すだけでも一苦労だ。
「痛っ……痛いですぅ……」
エルマはベソベソシクシクと情けなく泣き言を言い続ける。
(……チッ。いちいち泣き言を喚くな。こっちまで痛みが響いて鬱陶しい)
脳内に響くドスの効いた声にビクッとしつつも、エルマはどうにか着替えを終え、部屋の隅にある姿見(鏡)の前に立った。
(……さて。なんだかわかんねぇが、身体が別もんになっちまったことは事実だ。ここで考えすぎて行動を止めるのは三流だな。俺がどんな間抜けな器に収まっちまったのか、見せてもらおうじゃねぇか)
バルバロッサの意志が働き、エルマの視線が無理やり鏡へと向けられる。
そこに映っていたのは――自信なげに背中を丸め、痛みに顔をしかめている小柄な少女だった。幸の薄そうな表情が特に映える。
(……なんだこの、日陰で震える小動物みてぇなツラは)
バルバロッサは呆れ果て、ふと鏡の横の壁に掛けられた一枚の『肖像画』へと視線を移した。
そこに描かれているのは、春の陽だまりをそのまま編み込んだような金糸の髪と、透き通るような白い肌を持った、絶世の美女。
思わず口笛を吹く。物理的に聴こえないが脳内に高い音が鳴る。
バルバロッサは、輝くような妖精の肖像画と、鏡の中で猫背になっているうらぶれた野良猫を、胡散臭げに見比べた。
(おい小娘。横に飾ってあるこっちのべっぴんさんは、テメェの母親か?)
『……はい。お母様です』
(……トンビが鷹を生むたぁよく言うが、こいつは逆だな。上等な素材は揃ってんのに、なんでテメェはこんな陰気臭ぇツラしてやがるんだ)
『うぅ……だって、お母様は……かつて『王国の至宝』と謳われた、本物の高位貴族のお嬢様だったんですよ! 私なんかとは大違いです……。それに今、体中痛いんですもの……』
(ほう。高位貴族ね……。身なりからして伯爵か、いや侯爵家か。そんな上流階級の『至宝』が、なんでこんな貧乏くせぇ貴族の家に嫁いでんだ?)
バルバロッサは鼻で嗤う。
(こちとらついさっき、『帝国の秘宝』とかいう代物ごと、帝国軍数千人を巻き込んでド派手に自爆してきたばかりだからな。それに比べりゃ、こっちの国の宝は随分と品の良いことだ。まぁ、こいつじゃ俺は殺せねぇ)
バルバロッサはため息をつき、再び鏡の中のエルマを見据えて、無言で右腕を曲げ、力を込めてみた。
しかし、そこに鋼鉄の筋肉が隆起することはなく、ただ白くて柔らかい肌がぷにっと自己主張するだけだった。
(…………嘘、だろ)
『……な、なんですか』
(なんだこのヒョロ枝は!! 筋肉がミリも存在しねぇじゃねぇか! これでどうやって大剣を振るえってんだ! 少し重たいモンを持っただけで手首がへし折れるぞ!)
ただでさえ筋肉痛で痛む腕を勝手に動かされ、エルマは涙目になりながら抗議の声を上げた。
「ひ、ヒョロ枝じゃありませんっ! 私だって厨房のお手伝いをしてます! フライパンくらい、ちゃんと振れますぅぅ!」
(フライパンと両手剣を一緒にすんなバカ娘!! てめぇのその細腕じゃ、雑魚の頭一つカチ割れねぇぞ!)
「割らなくていいです! 私はお料理ができればいいんですぅぅぅ!」
鏡の前で、ひしと自分の細い腕を抱きしめながら、一人で「フライパンが振れるもん!」と口喧嘩をしている。
はたから見れば完全に頭のおかしい光景だった。
(……ハァ。綺麗じゃねぇ。まぁいい、口と耳はまともに機能してるんだろ。ならやりようはある。とっととメシに行くぞ。まずは『ここがどこで、今がいつか』を探らねぇと始まらねぇ)
『メ、メシ……? 朝のお茶とお菓子くらいなら出ますけどぉ……うう、なんか物騒なこといってるよ』
(……チッ。なんでもいい、さっさと案内しろ)
* * *
ベルン男爵邸の、質素だが温かみのある食堂。
筋肉痛でギクシャクと動くエルマがマーサの手作りクッキーと紅茶を口に運ぶ中、テーブルの向かいでは、お父様とメイド長のマーサが深刻な顔で羊皮紙の束とにらめっこをしていた。
「……バルデ子爵の領地を通る街道の通行税が、また引き上げられただと?」
「はい、ガルム様。名目は『街道警備費の増額』とのことですが……実態は、我がベルン領の交易を締め付けるための嫌がらせに他なりません」
マーサの冷ややかな報告に、お父様は眉間を深く揉み込んだ。
バルバロッサは、エルマの視覚と聴覚を通して、その会話を静かに分析する。
(……なるほどな)
エルマの脳内で、バルバロッサが思考を巡らせる。
どうやらここは、帝国と長年対立している『オルディス王国』の辺境らしい。
机の上にある帳簿や、これまでの会話から察するに、この『ガルム』という男は決して政治ができない馬鹿ではない。むしろ無駄を削ぎ落として堅実に領地を回している、そこそこ優秀な部類の領主だ。
だが、敵のやり口がチンケすぎた。
あの殺気を纏うほどの腕一つで成り上がり、高位貴族の出身であり『王国の至宝』と呼ばれたアデレータを娶ったのだろう。
歴史と血筋ばかりを重んじる中央の腐った貴族どもや、近隣の領主(バルデ子爵など)からすれば、これほど嫉妬と憎悪の的になる存在はない。
「このままでは、冬を越すための備蓄に影響が出ます」
「……領民への税はこれ以上上げられん。屋敷の予算をさらに削ろう。それと、私が戦える者を連れて北の森へ入り、魔獣を狩って素材を金に換える。それでなんとか急場を凌ぐしかない」
ガルムのその言葉を聞いて、バルバロッサは深く呆れ返り、同時に盤面のあまりのお粗末さを嘲笑うように鼻を鳴らした。
(……有能で、真面目で、善良。だが、クソ真面目だ。盤面そのものが腐りきってんのに、正攻法で戦おうとしたって、いずれジリ貧になって食い殺されるだけだぜ)
悪意と権力で殴ってくる豚どもには、それを上回る『盤面返し』で対抗するのがまぁ、セオリーか。
そして、ここの貴族どもは甘い。やるなら仕返しができないくらい、つまり、殺すのが1番だ。中途半端に手を出して、安全地帯と思い込んで高笑いしてることだろう。
『……? 性悪さん? どうしたんですか、急に静かになって』
(……アァ? 性悪だ? ちげぇな。それはちげぇ。極悪だ。極悪人バルバロッサだ、覚えとけ小娘)
『ひっ、はい!? ご、極悪人さん!?』
脳内に響く声が、先ほどまでの呆れ声から一転、獲物を見つけた肉食獣のような『低く、甘い声』に変わる。
(この国……随分と面白れェおもちゃ箱じゃねぇか。貴族ってなぁ、楽しめそうだ。匂うぜ。悪の匂いだ)
バルバロッサは、エルマの意識の奥底で、ゆったりと極上の笑みを浮かべた。
(筋肉痛でまともに動けねぇポンコツボディってのも、悪くねぇ。……なあ、小娘。侵略開始だ。国盗りよ)
『――――は?』
エルマは、口に含んだ紅茶を、危うく盛大に吹き出しそうになった。




