1.最凶の悪鬼と貧弱令嬢
「夢も、理想も、正義も、悪も……全て私が殺す」
辺境の令嬢と、大陸を震え上がらせた最凶の悪鬼。
のちに大陸を蹂躙することとなる二つの魂が結びつく前のことである――。
* * *
火傷をしそうな程の熱い風が頬を撫でる。
迫りくる帝国の軍勢を見下ろし、男は喉の奥を鳴らして嗤った。
「ハッ、リヒトの野郎、俺まで利用するってか。気にいらねぇが悪くねぇ。軍師からしたら誰であれ、駒の一つなのは変わらねぇ」
背後を振り返れば、大盗賊団ゼノン一家の蹂躙を受けた交易都市ゼネビアが、轟々と燃え盛る巨大な火葬炉と化している。その炎は皮肉なことに男自身の退路すらも断っている。
「そら、帝国の犬どもが雁首揃えてやってきやがる。つまり、だ。ヤリ放題ってことだ!」
男――バルバロッサは、愛剣のツーハンデッドを肩に担ぎ、煤と血に汚れた顔を凶悪に歪ませた。彼が足場にしているのは、たった一人で築き上げた無数の帝国兵の屍からなる、不気味な赤塗りの山だ。
「……おら、いつまで寝てやがる野郎共。俺に全て持っていかれねぇように気張りやがれ。動けねぇ腰抜け以外は、この戦頭についてこい!」
だが、彼のその檄に応える声はない。
見下ろせば、共に駆けた一味は、すでに物言わぬ躯と化していた。
返事が返ってこないことなど、百も承知。それでもバルバロッサは、己と敵の血に染まり、無数の傷を晒しながらただ一人、屍山の上で嗤い続ける。
彼の周囲を、生き残った何千もの帝国兵が完全に包囲していた。だが、誰一人として山へ近づこうとする者はいない。
極限まで鍛え抜かれた血塗れの肉体と、飢えた狼のようにギラつく黄金の双眸。そこから放たれる圧倒的な死の気配に呑まれ、一歩でも踏み出せば喉笛を喰い千切られると、兵士たちの本能が警鐘を鳴らしていたのである。
「行け! 行かんか!!」
後方から指揮官が激昂して怒鳴り散らすが、兵士たちの足は大地に縫い付けられたように動かない。
その膠着を破るように、すくみ上がる兵士たちの間を押し退け、異彩な光を放つ魔導具が運び込まれた。
帝国の『秘宝』。
放たれた光の鎖がバルバロッサの四肢に絡みつき、骨が軋むほどの力で無慈悲に拘束する。だが、身の自由を奪われたというのに、男はさらに笑みを深めた。
「ハーハッハッハッ!!」
炎の熱気を裂くような、獰猛な笑い声。
「帝国の『秘宝』まで持ち出すか! そうだなぁ! そこまでしねぇと俺には敵わねぇ! フハハ! 確かにそいつをやられちゃ動けねぇ! ああ、動けねぇさ! そら! 俺の首は目の前だ、いぬっころども、やってみるがいい!!」
手足の自由を奪われた男の、常軌を逸した挑発。
絶好の好機であるはずなのに、包囲する何千もの兵士たちは誰一人として踏み込めない。それどころか、血塗られた悪鬼の放つ圧倒的な死の気配に顔を引き攣らせ、一斉に一歩後ずさった
「あ、悪鬼め! ひ、怯むな! やれ!!!」
後退する兵士たちに焦り、指揮官が悲鳴のような号令を張り上げる。
その声に押され、騎士たちが三人がかりで屍の山へ飛びかかった。
だが――次の瞬間。先頭の騎士が絶叫を上げることもなく、白目を剥いて山から転げ落ちた。
バルバロッサの口内から、瞬きすら許さぬ速度で放たれた凶器が、騎士の喉笛を深々と貫いていたのだ。
「――手足が縛られたくらいで、悪鬼の牙が抜けると思ったか?」
口の端から血を吐き出しながら、悪鬼は嗤う。
「……何をしている! たかが一人、それも動けぬ死に損ないに! 帝国の騎士がこれほどの数で怯むとは、なんたる醜態だ!」
血生臭い戦場にはおよそ似つかわしくない、甲高く傲慢な声が響いた。
恐怖で道をあける兵士たちの間を割って現れたのは、揺れる太鼓腹と、場違いに煌びやかな装飾品を身につけた帝国貴族だった。
「なんだぁ? 随分と俺も偉くなったもんだ。次は御貴族様ってきたもんだ」
光の鎖に縛られながらも、バルバロッサは不敵に口角を吊り上げる。
男は「まだやっとらんのか!」と兵士たちを罵倒すると、自ら息を切らして屍の山を登ってきた。そして、拘束されて膝を屈しているバルバロッサの血塗れの顔を、勝ち誇ったように見下ろした。
「バルバロッサ、貴様の悪運もここまでだ。この私の手で、直々に引導を渡してやる」
貴族が腰の剣を抜き、バルバロッサの眉間へ突きつけた、その瞬間。
「――ッ!!」
バルバロッサの口内から、再び弾丸のような速度で針が射出された。
それは寸分の狂いもなく、傲慢な貴族の眉間を捉え、後頭部まで真っ直ぐに貫き通した。
断末魔すら上げず、肥満体がドサリと仰向けに倒れ込む。戦場が、再び水を打ったような静寂に包まれた。
「……口だけは動くってもんだ。おい、帝国兵共、ちょっと付き合えよ」
秘宝の拘束が解けたわけではない。逃げ場のない絶望的な状況であるにも関わらず、この不遜な態度。
燃え盛る街、積み上げられた屍の山、自分を包囲する幾千の敵兵。そして、足元に転がる貴族の死体。
バルバロッサは周囲の惨状を眺め渡し、喉の奥で極上の歓喜を鳴らした。
「フハハハ! 最高だ。ハッ! 綺麗だぜ! そら、派手にいくぜ。……地獄へはテメェらも道連れだ。帰れたら母ちゃんにでも慰めて貰え」
バルバロッサは、動かない手足の代わりに、最期の魔力を足元の大地へと流し込んだ。
数日前から、この交易都市の地下深くに仕掛けさせていた大量の爆薬へと、起爆のサインを送る。
ズンッ、ズンッ、と。地下深くから、鈍い爆発音が連鎖し始めた。
足元の異変に気づき、一斉に顔を引き攣らせて震え上がる敵兵たちを見渡し、悪鬼は最高に獰猛な笑みを浮かべて言い残した。
「いけねぇなぁ。俺はここにきて方向音痴になったみたいだ。地獄のアテンドはしてくれよ? さぁて、何匹案内してくれっかね? 犬っころども。そら――死んじまいなぁ」
――直後。
街の地下から、大地そのものを裏返すような凄まじい轟音が響き渡った。
それは炎上する交易都市ゼネビアを跡形もなく吹き飛ばし、周辺で待機していた兵達をも巻き込み、巨大な地獄のクレーターへと変える。
それは、大悪党にふさわしい盛大な葬儀の始まりだった。
その日、その瞬間、帝国からゼネビアの存在が消え去ったのだ。
* * *
爆炎が視界を白く染め上げ、鼓膜を破る轟音が世界を塗り潰す。
だが、それも一瞬のことだった。
極小の刹那ののち、灼熱も、激痛も、重みすらもがふっと途切れる。ゆらゆらと、あてもなく水中を漂うような奇妙な浮遊感だけが残った。
(……あん? 死んでねぇのか? 痛みはねぇ……)
果てのない暗闇の空間。己の肉体が存在する感覚すらない、完全な『無』の世界。
灼熱の火あぶりを予想していたバルバロッサにとって、それは拍子抜けするほどの静寂だった。
(ハッ、死んで耄碌したか。信じてもねぇが、これが死後ってやつなのかねぇ)
特に体が動くでもないので、脳内で独り言を繰り返す。いつまで続くのだろうか。
だが――その静寂の中に、不意にノイズが混じる。
暗闇の奥底から、微かな光の糸を引くように、誰かの声が聞こえてきたのだ。
『いたいよぅ。身体中いたいよぅ。お父様もひどい。私に乗馬なんかできるわけないのに』
(あ? なんだこのクソほど情けねぇ声は)
バルバロッサは、無いはずの眉をひそめた。
暗闇の中で、自分の意識がその声の主へと、引き寄せられるように落ちていく。
それと同時に、失われていたはずの肉体の感覚が、波のように押し寄せてきた。
なぜか、むず痒い痛みを感じる。ただし、それは大剣を振るい続けた疲労でも、敵に刻まれた刀傷の痛みでもない。
『うぅ、腕も足もパンパン……。おまけに熱まで……もうお馬さんは嫌ぁぁ……』
(おいおい待て待て! 誰だか知らねぇが、なんで俺までその情けねぇ痛みを感じてやがる!? まさか、この動かねぇ体ってのは……!)
ドクン、と。
他人の心臓の鼓動が、己の意識と完全に同調する。
――パチリ、と。
バルバロッサの視界が、見知らぬ天井の下で唐突に開かれた。
目に飛び込んできたのは、血や怒声とは無縁の、天蓋付きのベッド。
少し腕を動かそうとしただけで、全身の筋肉が情けない悲鳴を上げる。決して、敵に斬られた痛みではない。これは――ただの酷い、運動不足の人間特有の『筋肉痛』だ。
「……あ? なんだこの、細っせぇ腕はァ……?」
思わず口を突いて出た自分の声は、聞いたこともないほど高く、透き通っていた。
その瞬間。
『ひっ!? だ、誰ですか!? 頭の中に悍ましい声が……!?』
(アァ!? 誰だテメェ、人の頭の中でギャーギャー喚きやがって!)
『ひぃぃぃぃぃ!? なにかヤバい悪霊に取り憑かれましたぁぁぁ!』
(やかましい!)
脳内を直接ぶん殴るようなドスの効いた怒声。
バルバロッサの意思に反し、身体の本来の持ち主が半狂乱になって自らの喉元を両手で押さえて叫んだ。
「よくわかりませんが、私のお口返してくださいぃぃ!! ……あ」
自分の唇が動き、いつもの鈴を転がすような声が部屋に響いたことに気づき、少女――エルマはピタリと動きを止めた。
「……よかったぁ。私のお口だわ……自分で喋れてる……」
身体の主導権が自分にあることに気づき、ふぅっと胸を撫で下ろす。
だが、安心できたのはほんの一瞬だけだった。
早鐘のように打ち鳴らされる心臓の音は治まらず、シーツを握りしめる細い指先は、ガタガタと情けなく震え続けている。
無理もない。自分の口は戻ってきたが、頭のど真ん中に居座る『ドス黒い何か』の気配は、一向に消える気配がなかったからだ。
(……チッ。バカ娘。誰がテメェの口なんか奪うか。んな情けねぇ声、ヘドが出るぜ。女はもっといい声で鳴くもんだ)
頭の中に響き渡った、あまりに下世話で野蛮な言葉。その意味を理解したエルマの顔から、さらに血の気が引いた。
「ひ、ひぃぃぃっ!? や、やっぱりまだ頭の中にいますぅぅぅ! 誰か、誰か助けてぇぇ!」
エルマがベッドの上で半狂乱になって泣き叫んだ、その瞬間。
鼓膜を突き破るような轟音と共に、部屋の扉が勢いよく弾け飛んだ。
「エルマ!! エルマ、どうしたんだ私の可愛い天使!」
朝のティータイムの準備をしていたはずの、父――ベルン男爵が、血相を変えて部屋に突入してきた。
鍛え上げられたしなやかな肉体。そして何より、娘を守るという執念によって増幅された、強烈な威圧感を纏っている。
ベルン男爵はベッドに駆け寄るなり、エルマの華奢な体を抱きしめようとして、ピタリと動きを止めた。
(……アァ?)
脳内で、バルバロッサの意識が戦場のソレへと切り替わる。
エルマの父が放つ「強者の気配」をバルバロッサの戦闘本能が、瞬時に感知した。
(おいおい、バカ娘……。なんだ、このオヤジは。……ケッ、随分と面白い殺気を持ってるじゃねぇか)
「ひっ……お、お父様……?」
エルマは、自分の体が突然、父親に対して強烈な「覇気」を放ち始めたことに気づき、恐怖に目を見開いた。
バルバロッサの戦闘本能が、エルマの体を介して、無意識のうちに父親の威圧感へ対抗しようとしているのだ。
エルマの瞳が金色に輝き、その全身から、かつて大陸中を震え上がらせた大悪党の、冷徹で凶悪な殺気が立ち上る。
「…………っ!!」
ベルン男爵は、娘から感じたことのない強者の気配に息を呑んだ。
娘を抱きしめようとした両手が、あまりの殺気の重さに停止する。
だが、ベルン男爵はその恐怖に怯むどころか、その瞳に、かつて戦場で浮かべたような獰猛な光を宿し始めた。
(……まさか。これは……!)
ベルン男爵の体が、歓喜と興奮でガタガタと震え始める。
「私の、エルマが。あの、刺繍ばかりしていた泣き虫な娘が……。ついに、私と同じ『戦士の血』を覚醒させたというのか……ッ!!」
ベルン男爵は勘違いした。それはもう盛大な勘違いだ。
娘から感じる、強い覇気。それを、この男は娘が「戦士として覚醒した証」だと信じ込んでしまったのだ。
「お父様、違うんです! 私、こんな怖いことしたくないのに……!」
「よくぞ……よくぞ言った、エルマ!!」
エルマが涙目で否定しようとした瞬間。
ベルン男爵は感動のあまり大粒の涙を流しながら、エルマを強く抱きしめた。
「私の娘が! 我が家の妖精が! ついに巨狼の牙を持ったか! これでアデレータも、天国で安心してくれるはずだ……ッ!!」
「ひぃぃぃ! 苦しいですぅぅ、お父様ぁぁ! 妖精!? わ、わたし、妖精のままでいいですぅぅぅ!!」
(……チッ。隙がねぇ。『戦士の血』だぁ? ククッ、フハハハハ! こいつはこの俺が貰う! この温室の箱庭ごと、いずれ全てを喰らい尽くしてやる!)
父の暑苦しい抱擁の中で、エルマは涙を流してパニックになり、その脳内ではバルバロッサはかつてないほどの愉悦に浸りながら、獰猛に嗤っていた。




