11.狂犬たちの咆哮(ウォークライ)
応接間の扉が乱暴に閉まり、ザイードの重い足音が廊下の奥へ消えていく。
息の詰まるような沈黙が下りた。背中を撫でていたマーサの手が止まり、おずおずと声が降ってくる。
「お、お嬢様……! 大丈夫ですか!? お怪我は……」
「……うん。大丈夫よ、マーサ」
冷たい床に手をつき、エルマは弾かれたように身を起こした。
ドレスの裾を払い、メイドに向けて口角を引き上げる。頬の筋肉がピクピクと痙攣するのを、奥歯を噛み締めて必死に押し留めた。
「なんとかするから、マーサ! だから心配しないで!」
マーサは痛ましそうに目を伏せた。震える指でエルマの乱れた髪を梳いてから、逃げるように部屋をあとにする。
足音が完全に消えたのを確認した瞬間、膝から力が抜け、エルマはその場にへたり込んだ。
『……どうしよう。金貨五百枚なんてない。麦を渡せばみんなが飢え死にしちゃう。でも、断れば正規軍が……っ!』
(――慌てるな。それが弱者の思考だと気が付け。クク、伯爵か。しょぼい子爵たぁ訳がちがうぜ。全兵力は多く見積もって三千。こんなド田舎にゆすりにくるってなぁ、よくて二百か三百ってところだな)
脳髄に直接、悪鬼の愉悦に満ちた低い声が響く。
エルマはドレスの裾が破れるほど強く握りしめた。昨日、喉に刃を当てて抵抗したばかりだというのに。三百の正規兵という現実の重圧が、肺から空気を奪っていく。頭に浮かぶのは、ロッシ爺さんの焼きたてのパンの匂い、泥だらけで笑うトムの顔。
『……殺しちゃだめだからね』
(ククク。いいぜ。問題ねぇ。お前はただ、俺の言う通りに盤面の駒を動かせばいい。簡単な遊戯だ)
喉の奥が震える。この男にとって、命のやり取りすら盤上の遊びに過ぎない。
それでも――ガタガタと震える膝を抱え込む今の自分には、そのドス黒く傲慢な声が、呪いのように甘く、頼もしく耳に響いてしまう。
夜。冷たいシーツを痛いほど握りしめ、エルマは王都にいる父の大きな背中を思い浮かべた。
「お父様……エルマは、お留守番をがんばります……」
暗闇の中、震える吐息を漏らし、きつく瞼を閉じる。
* * *
二日目。
(まずはマーサをこの町から離れさせろ。なぜってお前、マーサが危険な目にあうんだぜ?)
脳内に響いた声に、ハッと息を呑む。そうだ。戦いになれば、真っ先に狙われるのは無力な彼女だ。
夜明けと共に、エルマは血相を変えてマーサの元へ駆けた。
「どうしても明日が怖くて、夜も眠れないの……。明日はどうにかするから、お願いマーサ、この手紙を、王都にいるお父様に届けて! 今から急いで馬車に乗れば、きっと……っ! 最悪になる前には帰ってきてくれると思うの!」
王都までは片道数日。馬を潰して走らせても、明日の朝には絶対に間に合わない。だが、主の半狂乱の姿に、マーサは顔面を蒼白にさせながら深く頷き、慌ただしく屋敷を飛び出していった。
遠ざかる馬車の土煙を見届け、エルマは小さく息を吐く。
(次は戦える者を集めるんだ)
領主の館、薄暗い地下室。
肉屋のアレク、パン屋のロッシ、八百屋のフィン。集められた約百名の大人たちの顔に、いつもの人の良い笑みはない。灯りに照らされた彼らは、獣のように腰を低く落とし、値踏みするような鋭い眼光をエルマに突き刺していた。
「……お嬢。わざわざマーサを遠ざけて俺たちを集めたんだ。大体空気読めばわかるよ。カインズの豚どもが絡む一大事だろ?」
アレクが肩に担いだ大剣の柄を叩き鳴らす。それに呼応するように、あちこちで衣擦れの音が鳴る。
エルマはきゅっと唇を結び、熱くなった両手で頬をパタパタと扇いだ。
「みんな……これから、お父様が書斎に残していた戦術の本を思い出しながら、作戦の指示を出すわ」
「作戦、でございますか?」
怪訝そうに聞き返したのは、八百屋のフィンだった。
「ええ。その……お父様の真似をするから、ちょっと言葉遣いとかが、らしくないと思うかもしれないけど……恥ずかしいから、あんまり言わないでね?」
その言葉に、鋭かった大人たちの目尻がわずかに下がり、張り詰めていた空気がふわりと緩む。
――だが。
エルマはゆっくりと目を閉じ、再び開いた。
「――さて、よく聞け狂犬ども。明日の朝、このシマに想定だがな、三百匹の豚が迷い込んでくる」
少女の喉から絞り出されたとは思えない、地を這うような低い声。
ランタンの光を反射するエルマの瞳は、獲物を前にした猛禽のように爛々とした黄金色へと反転していた。
和らいだばかりのアレクたちの顔面が凍りつき、地下室の空気が物理的な重さを持って軋み始める。
「お前らの腕なら、豚三百匹を挽肉にするなんざ造作もねぇだろう。だがな、向こうは腐っても正規軍だ。一匹でも殺せば、ベルン家が反逆の汚名を被ることになる」
「……つまり、手を出さずに降伏しろと?」
大剣の柄を握りしめたまま、アレクが血走った目で低く唸る。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。タダで帰すわけがねぇだろ」
エルマの顔の筋肉が歪み、口角が耳まで裂けんばかりに深く吊り上がっていく。
「いいか、絶対に殺すな。首の皮一枚残して、二度とこのシマに牙を向けようと思わねぇように……心と四肢だけを、綺麗にへし折ってやれ」
地下室に深い沈黙が落ちた。
直後、アレクの太い首筋に青筋がミチリと浮かび上がり、握りしめた大剣がカタカタと震え始める。
「お前らのキバはさびついちまったか?」
「そんなことねぇ!」
真っ先に吼え返したのは、肉屋のアレクだった。
「お前らの誇りはなんだ?」
「力と、この領地だァッ!」
今度はロッシ爺さんが、丸太のような腕を天井へ突き上げて応える。それを合図に、あちこちで刃の鞘鳴りが響き、腹の底から湧き上がるような濁った哄笑が地下室を埋め尽くした。
「ああそうだ! おれらはなんだ!」
「ベルンの戦士だ!!」
百の咆哮が重なり、石壁の埃を震い落とす。黄金の瞳を見上げる彼らの目は血走り、誰もが獲物を前にした獣のように牙を剥き出しにしていた。
「ならば圧倒して見せよ。我らがベルンの力が、大陸一であると知れェッ!!」
オオォォォォォォォォッ!!!
ランタンの炎が吹き消えんばかりの、すさまじいウォークライが地下を揺らす。
「ああ、それからもう一つ。部隊を率いてる銀鎧の隊長だけは、絶対に無傷で屋敷の玄関まで通せ。……俺が直々に、伯爵へのお土産を持たせてやるからよォ」
『や、やりすぎですよぅ』
血に飢えた狂犬と化した領民たちの熱気と、内側で喉の奥を鳴らす悪鬼の底知れぬ悪意。
二つの狂気が地下室で隙間なく噛み合っていく空気を肌で感じながら、エルマは明日この街で巻き起こるであろう容赦のない惨劇を想像し、思わずブルッと身震いした。




