10.■■■■
ベルン家の質素な応接間。
普段は父と共に勉強などをする部屋が、今はひどく冷たく、息苦しい空間に成り果てていた。
「――以上が、偉大なるカインズ伯爵様からの通達である。ベルン男爵家は速やかに特別防衛費として金貨五百枚、および領内に備蓄された冬用の兵糧の八割を供出せよ」
(……ほう、カインズか。一度面を拝んだことがあるが……てめぇの影にも怯えるような、骨の髄まで臆病な豚だったぜ。そいつがベルンに喧嘩を売るだと? 戦力を把握してねぇ素人か?)
脳内で悪鬼が怪訝な声を上げる中、羊皮紙を無造作にテーブルに放り投げたのは、全身を豪奢な銀鎧で包んだ男だった。
カインズ伯爵に仕える精鋭部隊の隊長、ザイード。本来ならば文官が来るような使い走りの仕事に、あえて重装備の騎士が来ている。
(親父不在の小娘相手に、わかりやすい威圧のつもりか)
ザイードは応接間のソファーに深く腰掛け、目の前に立つエルマを嘲るように見下ろしていた。
「き、金貨五百枚に……冬を越すための麦の八割……!? そ、そんな無茶な要求、呑めるはずがありませんっ! み、みんなが飢え死にしてしまいます!」
エルマは必死に声を張り上げた。
脳裏に浮かぶのは、ロッシ爺さんの温かいパン、泥だらけで笑うトムの顔。彼らの命の糧を奪うなど、絶対にできるはずがない。
「無茶? 勘違いされないことだ、男爵令嬢殿。先日、我が領の関所が何者かに襲撃され、壊滅したのだ。あれは間違いなく帝国の斥候による凶行。帝国の脅威に対抗するため、隣接する貴様らも防衛の負担を負うのは当然の義務であろう?」
ザイードは鼻で笑い、わざとらしく剣の柄をガシャリと鳴らして威圧してくる。
(ククク! ハーッハッハッ!! だろうな! あの野盗共に刻んでおいたハッタリの印を真に受けて、帝国の脅威を口実にしやがったな!! フハハハハハ!)
恐怖に震えるエルマの脳内の奥底で、悪鬼は痛快そうに腹を抱えて笑っている。
(クク、喜劇だぜ。あの関所の裏帳簿を抜かれて……なるほど、こいつがバルデの親玉だな。カインズの豚が焦ってるのは分かる。俺が残した偽装にまんまと踊らされて、帝国に怯えてるのも傑作だ。……だがな、この歪に最初からアタリをつけておかねぇのが三流なのよ)
ひとしきり笑った後、悪鬼の脳裏で、ふと冷徹な思考が顔を出す。点と点が、急速に繋がっていく。
(あの臆病な豚が帝国の脅威なんて大層な看板を掲げたところで、狂犬揃いのベルン領に自分から喧嘩を売る度胸があるはずがねぇ。……誰かが後ろで糸を引いて、豚の背中を蹴っ飛ばしてやがるな。
親父が王都に足止めされているこのタイミング。さらに、こいつは領内に備蓄された冬用の兵糧の正確な量を完璧に把握してやがる。
辺境の番犬を王都に縛り付け、その間に使い走りの豚に理不尽な税をふっかけさせてシマを枯らす。番犬から領地を奪いてぇのか、それとも……あの過保護な親父からこいつを借金のかたに毟り取りてぇのか)
悪鬼にはおおよその見当はついていた。だが、こうして見事に退路を絶つ盤面を見せつけられると、悪鬼の胸の奥で、抑えきれないドス黒い愉悦が込み上げてくる。
(ハッハッ! 敵ながら綺麗じゃねぇの)
悪鬼は脳内で喝采を送った。
この一連の嫌がらせは、カインズ伯爵の独断などではない。王都の派閥と結託した奴なのだと確信したからだ。
(毎日嗅いでる淹れたての紅茶の匂いに紛れて、王都の香水のゲロ甘ぇ匂いが、ここまで漂ってきやがるぜ)
悪鬼の視線は動かない。だが、その意識だけは、今まさにエルマと対峙している鉄屑を舐め回すように見定めていた。
「さぁ、賢明なるご返答を、令嬢殿。支払いを拒否されるというのなら、伯爵様は我が領地への反逆とみなし、正規軍を率いてこの貧乏領地に徴収に向かうことにな――」
(……小娘)
ザイードの脅し文句を遮るように、悪鬼の低く、地獄の底から響くような声がエルマの脳内を満たした。
(この鉄屑、使えるぜ? ……ここは少し我慢してやれと言いてぇとこだが、判断はお前だ)
『え……? ど、どういうこと……!?』
(この場でこいつを殺しても、後ろで糸を引いてる王都のムカつく野郎には届かねぇ。だから……ここは思いっきり泣き真似をして、弱みを見せてやれ。要求を呑むフリをして、カインズの豚に「全軍」を引き連れてこさせろ)
目の前で傲慢にふんぞり返る使者を見据えながら、悪鬼は喉の奥で嗤い、獰猛に舌なめずりをした。
(ククク……完全に油断させて、この領地の奥深くへとホイホイ誘い込んでやる。逃げ場のない檻の中で、一網打尽にすり潰してやるのさ)
『我慢、する。どうすればいいの?』
(……即答かよ。案外図太いよな小娘。いいか? お前は温室育ちのパパ助けてな女の子ってやつだ。つまり、馬鹿になれ。ここは話の通じないバカになるんだよ。今から言う通りにやれ)
「――男爵令嬢?」
「えぐっ! ひぐっ……!」
「!?」
「えーん! えーん! わからないよううううう!」
最初はたしかに演技のつもりだった。
だが、声を上げた瞬間、エルマの胸の奥で張り詰めていた糸がプツンと切れた。突然のバケモノとの共生生活の恐怖、鼻の奥にこびりついた血の匂い。そして、大好きな領民の命が奪われるかもしれないという逃げ場のない焦燥感。
胸がギュッと締め付けられ、気づけばエルマの瞳からは本物の大粒の涙がボロボロと溢れ、文字通り大音声で泣きじゃくり始めていた。
「お、お父様ぁぁ! お父様がいないと、わたし、なにもわかんなぁぁい! こわいよぉぉぉ!!」
(おいおい、マジ泣きじゃねぇか。……まぁいい、続けろ。もっとバカっぽく喚き散らせ)
「金貨なんて見たことなああああい! 麦なんてぜんぶ食べちゃったもん!! お父様が帰ってくるまで待ってえええええ!!」
「なっ……ええい、いい加減に泣き止まれよ、男爵令嬢!」
(フハハハハ! いいぞ小娘! いい道化っぷりだ! そら! 床で駄々こねるんだよ!)
エルマは言われるがまま、ドレスが汚れることなど一切構わず、床に転がって手足をジタバタとバタつかせた。
視界の端で、ザイードが顔を盛大に引き攣らせて後ずさるのが見えた。刃を突きつけて屈服させるはずだった相手が、床にへたり込んでギャン泣きするただの子供になり果て、すっかり毒気を抜かれている。
「ええええええん! ごめんなさぁぁい! できないよぉぉぉ!」
(よし、上出来だ。これで豚どもは、ベルン家は当主不在で反抗する力もない、ただの馬鹿令嬢がいるだけだと完全に思い込む)
ザイードは苛立たしげに舌打ちをし、泥のついた鉄靴で床を強く踏み鳴らして立ち上がった。
「……チッ。まったく話にならん! 貧乏貴族の温室育ちが……どこまでも甘ったれた男爵令嬢だ!」
その吐き捨てるような声には、ありありとした侮蔑の色が滲み出ている。
だが、その冷ややかな視線を見上げながら、悪鬼はしてやったりと内心でほくそ笑んだ。
(最高の難敵ってな案外、話の通じねぇやつなんだよな)
「よかろう。だが、待つのは三日だ! 三日後までに用意ができていなければ、伯爵様の正規軍がこの領地に直接『差し押さえ』に向かうと思え! ――行くぞ!」
マントを乱暴に翻し、ザイードは厄介な子供の泣き声から逃げるように足早に応接間から出ていった。
遠ざかる背中を、しゃくり上げるエルマの瞳がじっと見送る。その後ろには、困惑したように彼女の背を撫でるメイドのマーサの姿があった。
だが、大粒の涙をこぼすエルマの眼球の奥で――最凶の悪鬼は、この先に待つすべての獲物の群れを想像し、歓喜の舌なめずりをする。
(なぁ踊ろうぜ小娘。貴族の嗜みってやつだろ?)
『遠慮します……。これって、ただただ時間を引き延ばして私の風評をおかしくしただけですよね?』
(どうだかな)
血みどろの死の舞踏の始まりなど知る由もなく抗議する少女の奥底で、悪鬼は楽しそうに鼻歌なんぞを歌っていた。




