11.狂犬たちの咆哮(ウォークライ)
応接間の扉が乱暴に閉まり、ザイードの重い足音が遠ざかっていく。
嵐が去った後のような静寂の中、扉の陰からおろおろと駆け寄ってきたのは、メイドのマーサだった。
「お、お嬢様……! 大丈夫ですか!? お怪我は……っ」
「……うん。大丈夫よ、マーサ」
床でジタバタと転げ回っていたエルマは、はっと我に返ると、慌てて立ち上がった。
ドレスの裾についた埃をパンパンと払い落とし、まだ涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、心配そうなメイドに向けて無理やり笑顔を作ってみせる。
「なんとかするから、マーサ! だから心配しないで!」
それは、領主代行としての健気な強がりだった。マーサは痛ましそうに目を伏せると、エルマの乱れた金糸の髪を優しく梳かし、そっと部屋を退出していった。
一人残された応接間で、エルマの笑顔がパラリと剥がれ落ちる。
『……どうしよう。金貨五百枚なんてない。麦を渡せばみんなが飢え死にしちゃう。でも、断れば正規軍が……っ!』
(――慌てるな。それが弱者の思考だと気が付け。クク、伯爵か。チンケな子爵たぁ訳がちがうぜ。全兵力は多く見積もって三千。こんなド田舎にゆすりにくるってなぁ、よくて二百か三百ってところだな)
脳内の奥底で、悪鬼が愉悦に満ちた声を上げる。
エルマはギュッとドレスの裾を握りしめた。先日、自分の喉にペーパーナイフを突き立ててまで「これ以上勝手な真似をするなら死ぬ」と抵抗したはずだった。
だが、バルバロッサが見積もった「三百の正規兵」という現実の暴力は、十四歳の少女が一人で背負うにはあまりにも重すぎた。ロッシ爺さんや、アレクおじさん、泥だらけの林檎をくれた小さなトム。大好きな領民たちの顔が脳裏をよぎり、胸が張り裂けそうになる。
『……殺しちゃだめだからね』
(ククク。いいぜ。問題ねぇ。お前はただ、俺の言う通りに盤面の駒を動かせばいい。簡単な遊戯だ)
自分や領民の命が、この悪魔にとってはただの「遊戯」にすぎないことは分かっている。
それでも、エルマは縋るしかなかった。極限の焦りとストレスから、彼女は無意識のうちにバルバロッサの冷徹な知略に依存してしまった。それこそが、圧倒的な暴力の前にすがるものを求める「弱者の思考」であると気づかないまま。
その日の夜。
ベッドに潜り込んだエルマは、ぎゅっとシーツを握りしめ、王都にいるはずの父の顔を思い浮かべていた。
「お父様……エルマは、お留守番をがんばります……」
震える声でそう呟き、少女は浅い眠りについた。
◆
そして、二日目。
バルバロッサから次々と下される指示に従い、エルマは行動を開始した。
(まずはマーサをこの町から離れさせろ。なぜってお前、マーサが危険な目にあうんだぜ?)
脳内で囁かれたその言葉に、エルマはハッとした。たしかに、ただのメイドである彼女をこんな危険に巻き込むわけにはいかない。エルマは決意を固め、朝一番にマーサのもとへ向かった。
「どうしても明日が怖くて、夜も眠れないの……。明日はどうにかするから、お願いマーサ、この手紙を、王都にいるお父様に届けて! 今から急いで馬車に乗れば、きっと……っ!最悪になる前には帰ってきてくれると思うの!」
王都までは片道数日。明日には到底間に合わない。だが、パニックになった主の必死の懇願という体裁をとることで、マーサは二つ返事で頷いた。
そしてエルマは、彼女を「お使い」という口実で、屋敷から遠ざけることに成功したのだ。
(次は戦える者を集めるんだ)
マーサの姿が街道の彼方に消えたのを確認すると、エルマは領内の大人たちに密かな召集をかけた。
向かったのは、領主の館の地下室。
集められているのは、肉屋のアレク、パン屋のロッシ、八百屋のフィンをはじめとする、領内の大人たち約百名。皆、普段の陽気な顔つきから一変し、歴戦の傭兵のような鋭い眼光を放っている。
彼らの視線の先には、ランタンの灯りに照らされた十四歳の少女――エルマが立っていた。
「……お嬢。わざわざマーサを遠ざけて俺たちを集めたんだ。大体空気読めばわかるよ。カインズの豚どもが絡む『一大事』だろ?」
大剣を肩に担いだアレクの言葉に、集まった領民たちが静かに頷く。いつでも武器を取る覚悟はできている、という歴戦の猛者たちの無言の圧力。
そんな物騒な大人たちを前にして、エルマはきゅっと唇を結び、少しだけ頬を赤らめながら告げた。
「みんな……これから、お父様が書斎に残していた戦術の本を思い出しながら、作戦の指示を出すわ」
「作戦、ですか?」
「ええ。その……お父様の真似をするから、ちょっと言葉遣いとかが、らしくないと思うかもしれないけど……恥ずかしいから、あんまり言わないでね?」
照れ隠しのように両手で顔をパタパタと扇ぐエルマの姿に、領民たちの顔がパッと綻ぶ。
ああ、お嬢が旦那様の真似をして無理を張ろうとしている。なんて健気で可愛いんだ!と、全員の心が一つになった瞬間だった。
――だが、次の瞬間。
エルマがゆっくりと目を閉じ、再び開いた時。地下室の温度が、急激に数度下がったような錯覚に全員が襲われた。
「――さて、よく聞け狂犬ども。明日の朝、このシマに想定だがな、三百匹の豚が迷い込んでくる」
先ほどまでの可憐な少女の面影は、微塵もない。
ドスの効いた低く冷酷な声音、普段の菫色ではなく金色の瞳、獲物をねぶるような絶対者の視線。あまりの豹変(パパの真似)っぷりに、アレクやロッシたちですら思わず息を呑んだ。
「お前らの腕なら、豚三百匹を挽肉にするなんざ造作もねぇだろう。だがな、向こうは腐っても『正規軍』だ。一匹でも殺せば、ベルン家が反逆の汚名を被ることになる」
「……つまり、手を出さずに降伏しろと?」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。タダで帰すわけがねぇだろ」
エルマ(バルバロッサ)は、にんまりと悪魔のような笑みを浮かべた。
「いいか、絶対に殺すな。首の皮一枚残して、二度とこのシマに牙を向けようと思わねぇように……心と四肢だけを、綺麗にへし折ってやれ」
その言葉の意味を理解し、領民たちの顔に凶悪な笑みが伝染していく。
「お前らのキバはさびついちまったか?」
「そんなことねぇ!」
真っ先に吼えたのは、肉屋のアレクだった。その首筋には太い血管が浮かび上がり、握りしめた大剣がカタカタと武者震いのように鳴っている。
「お前らの誇りはなんだ?」
「力と、この領地だァッ!」
今度はロッシ爺さんが、丸太のような腕を突き上げて応えた。それに呼応するように、あちこちで刃の擦れる音や、獰猛な笑い声が次々と熱を帯びて伝播していく。
「ああそうだ! おれらはなんだ!」
「ベルンの戦士だ!!」
百人の声が完全に重なった。もはやそこには、パン屋も八百屋もいない。ただ血に飢え、戦いを渇望する『狂犬』の群れだけが、主を見上げていた。
「ならば圧倒して見せよ。我らがベルンの力が、大陸一であると知れェッ!!」
オオォォォォォォォォッ!!!
地下室の空気がビリビリと震え、ランタンの灯りが吹き飛ぶほどの凄まじい咆哮が轟いた。
「ああ、それからもう一つ。部隊を率いてる『銀鎧の隊長』だけは、絶対に無傷で屋敷の玄関まで通せ。……俺が直々に、伯爵への『お土産』を持たせてやるからよォ」
『や、やりすぎですよぅ』
――こうして、盤面は完全に整った。




