5. 床は、誰が見ていなくても汚れます
六月九日、午前十時。
〈白鏡〉本部の役員室。白い大理石が床一面に広がり、靴音ひとつまでよそ者を告げるように高く響く。壁いっぱいの窓からは、坑の中にはない白い光が差しこみ、まっすぐ床を照らしていた。
「座れ」
梶原が命令を重ねるように、向かいのソファを指す。宗司は座らない。代わりに、使い慣れたモップを自分の隣へまっすぐ立てる。
「条件を言う。S級待遇、専属、配信の権利はうちが持つ。年収は、うちに居たときの十二倍だ」
「配信は、ミコさんのものです」
「数字で言え、蓬田。おまえの十八年、いくらになった?」
返せる言葉は無い。宗司が勤めた年数に、値段が付いたことなど一度もなかった。働いた時間も、磨いた床も、帳簿の外では数に入らないらしい。
「……」
「言えんだろう。おまえは一層のスライム一匹、いまも倒せんのだからな」
「はい。落とせません」
口にしてから、自分の声が思ったより平らだと気づく。恥ずかしくも、悔しくもない。胸の奥が空になったわけでもない。ただ、床に落ちた汚れを確かめるのと同じように、事実を読み上げただけだった。
その平らさを降参と受け取ったのか、梶原の口の端がほんのわずかに持ち上がる。
「俺は言えるぞ。おまえの十八年は、うちの帳簿では〇円だ。書く欄が無いからだ。おまえはそれを恨まないだろう。恨まないから、十八年で〇円なんだ」
宗司は何も返さない。モップの柄に添えた親指だけが、古い傷の縁をゆっくりとなぞっていた。
梶原の机の脇には、空のモップ立てがある。艶は残っているが、新品ではない。柄が当たる高さだけ、内側の塗装が黒くすり減っている。
見ればわかる。あれは六年ぶんの減り方だ。毎朝、おなじ角度で柄を差し続ければ、あの一点だけが少しずつ痩せていく。
宗司の指先は、考えるより先にその高さを測っている。胸を刺す言葉より、床に残った仕事の跡へ目が向く。それが、もう身体から抜けない清掃員の癖だった。
「うちの株主は数字しか読まん。読めるものしか、守れんのだ。おまえの十八年を守れなかったのは、書き方を知らんおまえのせいでもある」
「そうかもしれません」
「認めるのか?」
梶原の視線が、初めてまっすぐ宗司へ来る。
「はい。書き方を覚えようとしなかったのは、私です」
それでも、と宗司は思う。
「ですが、書けないものは、無かったことにはなりません」
耳に痛いぶん、その言い分には三割ほど正しいところがある。宗司は認めたくない正しさを黙って飲みこみ、逃げ場を探すように部屋の隅へ目をやる。
「梶原さん」
「なんだ」
「清掃班にいたのは、六年でしたか?」
机の上で組まれていた梶原の指が、ぴたりと止まる。
「……よく覚えてるな」
「あなたが拭いた床を、私が引き継ぎましたので」
「……覚えているのか?」
「はい。東の弁から閉める順番も、あなたに教わりました」
梶原が窓のほうを向く。
「忘れた」
「私は忘れていません」
「……忘れたと言っている」
「はい」
梶原の声が、初めて荒くなった。
「なぜ引き下がらん?」
「引き下がると、床が汚れたままになりますので」
梶原が椅子の背へ体を預ける。
「おまえは、いつもそれだ」
「はい」
「十八年、それで何が変わった?」
変わらなかった。そう答えるつもりだったのだ。
「今日は、変わりました」
「何がだ?」
「あなたが、私に条件を出しました。十八年、一度もなかったことです」
梶原は答えない。
「それだけです。ですが、私にはそれで足ります」
梶原が、ゆっくりと立ち上がる。
「……三階の東側は、来週カビるんだったな」
「はい。もう間に合いません」
「そうか」
「梶原さん」
「なんだ」
梶原がドアの手前で止まる。
「東の弁から、です。西からだと管が鳴ります」
「……知っている」
◇
梶原の顔から目を外し、宗司は足元へ視線を落とす。
大理石の目地に、細かな砂が食いこんでいる。白い床の上で、そこだけが小さな傷のように赤い。しかも、靴底からこぼれるには粒が粗すぎた。
九層の砂だ。
この部屋の埃は落とせない。埃は、もとからここにあるものだからだ。だが九層の砂は違う。玄関から靴に運ばれ、歩いて入ってくる物ではない。
背中の産毛が、冷たい指で撫でられたようにすっと立つ。十八年、この感覚には何度か出会っている。そのたび、騒ぐほどではないと自分へ言い聞かせ、黙って拭き、誰にも告げずに帰ってきた。
役員室の静けさを蹴破るように、ドアが乱暴に開く。
「いた! やっぱここだ!」
携帯を構えたミコが、転がりこむ勢いで飛びこんでくる。後ろでは、追いついた受付が声にならない悲鳴を上げていた。
「おい、撮るな。ここは社の――」
「おじさん、今日の汚れは?」
「……ひとつです」
「床が汚れる」
その言葉を確かめるように、宗司はモップの房を目地へ当て、ゆっくり床へ滑らせる。
「〈九層の砂〉、清掃します」
この部屋には水気がない。代わりに、磨かれもせず積もっていた床の埃が、いっせいに目地へ寄った。
房のなぞった線の上だけに、細く長い膜が立つ。
膜は大理石の継ぎ目を、川底をさらうように、まっすぐ走っていく。
赤い砂は、触れられた端から色を失い、細い糸のように引かれて房へ入っていった。
濡れた雑巾を絞る音が、高い天井にひとつだけ跳ね返る。
大理石は傷ひとつなく、そこに残る。四年ぶん積もった埃も、目地の縁に押しやられたまま、そのままである。
手元で、房が一本、さらりと灰になった。残りは三十本。
「うわ、埃まで寄った」
「水が無いので、代わりに埃が寄ります」
「清掃のプロすぎる」
ミコが自分の靴の下を覗きこむ。
「埃の寄り方で、長く放ってあった場所も分かります」
「怖い。事務所の床、もう見せられないじゃん」
「十八年やっていましたので」
ミコが半眼になる。
「そこ、もっと威張っていいところだよ?」
「……威張り方を、教わっていません」
そのとき、砂の下から、紙が一枚だけ姿を現す。
目地の奥へ折りこまれ、三年ぶん、何足もの靴に踏まれ続けていた紙である。汚れの向こうに、受付印と番号がどうにか読めた。
指を伸ばしかけ、宗司は息ごと動きを止める。紙の縁は、靴底の圧で薄く毛羽立っている。三年ぶんの足の数が、声の代わりに刻みこまれている。
『なんか出たぞ』『床から書類?』『合成でしょさすがに』『いや生放送だぞ』
「……これは、落とせません。異物ではありませんので」
そう告げてからも、宗司は膝をついたまま動かない。落とせるかどうかと、拾うかどうかは別だ。これはもう、清掃員が勝手に消してよい物ではなかった。
「拾いもしません。八重樫さんが写すまで、このままにします」
◇
午後三時、管理局。
八重樫は、目の前の紙を長いこと見つめている。折れ目も、擦れた縁も、目をそらさず確かめてから、自分の机の引き出しを開ける。
奥から出てきたのは、同じ番号の控えだった。決裁欄には、消えずに残った彼女の署名がある。
「三年前です。土門源三さんという方が、班の者からの報告として、九層の砂が一層で見つかったと申告されました」
「土門さん」
「わたくしは、様式が無いという理由で、受け付けませんでした。控えだけが、ここに残っています」
「……三年前も、同じことが起きていたんですね」
「同じことです。申告の文面まで、ほとんど同じです」
八重樫の指が、いつもの癖のように控えの角をそろえかけ、途中で止まる。紙の端がずれたままなのに、直そうとはしない。
「制度上、それは起きません。……起きたのなら、制度のほうが間違っています」
自分にも言い聞かせるように言い切り、八重樫は背筋を立て直して椅子へ深く座り直した。
「様式を作ります。三年ぶんの遡及になります。徹夜では済みません」
「八重樫さん」
「はい」
「三年前に受け付けていたら、どうなっていましたか?」
八重樫の手が止まる。指だけでなく、呼吸まで止めてしまったように見えた。ずいぶん長いあいだ、宗司は急かさず、その沈黙を待つ。
「……わかりません。ですが、わたくしは三年、それを考えないようにしてまいりました」
「八重樫さん」
「はい」
「私も、十八年そうしていました」
八重樫の指が控えの上でわずかに丸まり、紙を押さえる。爪の先から血の色が引いて、白くなっていた。
宗司はその手を見て、慰めの言葉を探すのをやめる。同じように指を丸め、声にできないものを飲みこんできた十八年が、自分にもあるからだ。
◇
午後四時。
呼ばれた梶原が入ってきても、宗司はまだ同じ場所に立っている。モップの先だけが、磨かれた床へ細い影を落としていた。
八重樫は書類を三枚、机の上へ順にそろえて置く。備品票、今朝の砂の現認、そして三年前の控えである。薄い紙ばかりなのに、置かれた音はやけに硬く響く。
「一昨日、照会した札の備品票です。〈白鏡〉の資材で、購入の決裁欄は梶原さんです」
「……」
「その資材が一層で使われ、今朝、九層の砂があなたの部屋の床にありました。この二つは、同じお名前で繋がります」
「決裁は年に千件やってるんだ。それが何の証明になる?」
八重樫は反論せず、三枚目をいちばん端へ静かに寄せる。紙が机を擦る乾いた音に、梶原の視線が吸い寄せられる。
「三年前の申告は、お名前では繋がりません。繋がるのは、出来事のほうです。九層の砂が、本来ないはずの場所で見つかる。三年前も、今朝も、同じです」
「……」
「わたくしは判断をいたしません。並べるだけです。判断は上がします」
「並べるだけ、か」
「はい。三年前は、それすらしませんでした」
八重樫は目を伏せない。
「今さらだな」
「今さらです。ですので、いたします」
梶原が何かを言い返しかける。けれど、喉だけが動き、口を固く閉じる。
「梶原さん」
「なんだ」
「班も、無いものにしましたね」
喉の奥で、長く押さえこんできたものがせり上がる。十八年ぶんの重さがあるはずなのに、言葉になって出てきたのは、たった一行だった。
宗司の声が、自分でも知らなかった低さへ沈む。
「――俺の班を、あんたが消したんだ」
部屋が静まり返る。空調の低い音さえ、急に遠のいたようだった。
口をついて出た一人称が変わっていたことに、宗司は遅れて気づく。「俺」という響きが、まだ熱を持って胸に残る。モップの柄を握る指は、節が白くなるほど強くこわばっている。
あの紙は、三年間、誰にも拾われず、あの部屋の床にあった。
班が九人から二人になったのは四年前だ。そこから役員室まで、とうとう手が回らなくなった。誰も剥がさなかったのではない。回らなかったのは、宗司の手である。
目地は、腰を落とし、膝を床につけ、指の腹で汚れを押し出すように拭いていく。続ければ腰は焼けるように痛み、膝の感覚は薄れていく。それでも九人なら半日で終わる。二人だと、三階から上は年に一度も回らない。
その回らなかった床に、これが三年、挟まったまま待っていた。
胸の底が、遅れてじわりと熱を持つ。怒りだけではない。誇らしさと呼ぶには、あまりに遅くて痛い。消されたはずの十八年ぶんの仕事が、いま初めて、誰にも消せない形で目の前に現れたからである。
床が汚れているのは、誰かがそこを通ったからである。
宗司は十八年、それだけを見てきた。足跡は拭けば消える。けれど、誰が通ったかは、消える前の床に必ず残る。誰も見ていなくても、床だけは覚えている。
「梶原さん」
胸につかえていたものごと、深く息を吸う。吐き出す声は、もう震えていない。
怒鳴らずに済む言い方を選ぶ。宗司は梶原の目を見て、静かに続けた。
「床は、誰が見ていなくても汚れます」
『ふざけんな』『三年だぞ』『十八年の意味そこかよ』『解説さん出てきて説明して』
誰も言葉を出せない部屋で、ミコの携帯だけが、ずっと赤く光っている。
◇
午後六時。
梶原の運営部長職が解かれたことを、八重樫は事務的な声で告げる。九層への査察も、来週に決まったという。勝ち誇る響きはなく、ただ遅れて動きだした仕事を読み上げる声だった。
建物の外へ出ると、生ぬるい風が頬を撫でる。坑の底で染みついた冷たさは、まだ袖口の内側に残っている。
傾いた夕方の光が、モップの柄の割れ目へ細く差しこむ。廃棄の札を剥がした跡だけが、消えない傷のように、まだ白く四角い。
この一本で、あと三十回。数えられるということは、終わりまでの距離が見えているということである。
それでも今日は、ほんの少しだけ、明日の床を思い浮かべている。そこへ自分の手が届くことまで。
「おじさん、一緒に潜ろ。九層」
「……定時で上がれますか?」
「無理じゃない?」
「無理ですか?」
「無理だよ。あたし、毎日撮るって言ったじゃん」
ミコが携帯を持ち上げて、レンズを宗司の顔へ向ける。
「……せめて、顔は」
「むり」
「はい」
坑の外はまだ明るく、帰っていく人々の影が長く伸びている。定時に上がれた日は、十八年で数えるほどしかない。それでも今は、暮れていく空を惜しいとは思わない。
ミコが笑う。宗司は返事の代わりに、モップの房をまた数え始めた。さっきまで終わりへの数だったものが、いまは明日までの残りに見える。




