↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/6

5. 床は、誰が見ていなくても汚れます

 六月九日、午前十時。


 〈白鏡〉本部の役員室。白い大理石が床一面に広がり、靴音ひとつまでよそ者を告げるように高く響く。壁いっぱいの窓からは、坑の中にはない白い光が差しこみ、まっすぐ床を照らしていた。


「座れ」


 梶原が命令を重ねるように、向かいのソファを指す。宗司は座らない。代わりに、使い慣れたモップを自分の隣へまっすぐ立てる。


「条件を言う。S級待遇、専属、配信の権利はうちが持つ。年収は、うちに居たときの十二倍だ」


「配信は、ミコさんのものです」


「数字で言え、蓬田。おまえの十八年、いくらになった?」


 返せる言葉は無い。宗司が勤めた年数に、値段が付いたことなど一度もなかった。働いた時間も、磨いた床も、帳簿の外では数に入らないらしい。


「……」


「言えんだろう。おまえは一層のスライム一匹、いまも倒せんのだからな」


「はい。落とせません」


 口にしてから、自分の声が思ったより平らだと気づく。恥ずかしくも、悔しくもない。胸の奥が空になったわけでもない。ただ、床に落ちた汚れを確かめるのと同じように、事実を読み上げただけだった。


 その平らさを降参と受け取ったのか、梶原の口の端がほんのわずかに持ち上がる。


「俺は言えるぞ。おまえの十八年は、うちの帳簿では〇円だ。書く欄が無いからだ。おまえはそれを恨まないだろう。恨まないから、十八年で〇円なんだ」


 宗司は何も返さない。モップの柄に添えた親指だけが、古い傷の縁をゆっくりとなぞっていた。


 梶原の机の脇には、空のモップ立てがある。艶は残っているが、新品ではない。柄が当たる高さだけ、内側の塗装が黒くすり減っている。


 見ればわかる。あれは六年ぶんの減り方だ。毎朝、おなじ角度で柄を差し続ければ、あの一点だけが少しずつ痩せていく。


 宗司の指先は、考えるより先にその高さを測っている。胸を刺す言葉より、床に残った仕事の跡へ目が向く。それが、もう身体から抜けない清掃員の癖だった。


「うちの株主は数字しか読まん。読めるものしか、守れんのだ。おまえの十八年を守れなかったのは、書き方を知らんおまえのせいでもある」


「そうかもしれません」


「認めるのか?」


 梶原の視線が、初めてまっすぐ宗司へ来る。


「はい。書き方を覚えようとしなかったのは、私です」


 それでも、と宗司は思う。


「ですが、書けないものは、無かったことにはなりません」


 耳に痛いぶん、その言い分には三割ほど正しいところがある。宗司は認めたくない正しさを黙って飲みこみ、逃げ場を探すように部屋の隅へ目をやる。


「梶原さん」


「なんだ」


「清掃班にいたのは、六年でしたか?」


 机の上で組まれていた梶原の指が、ぴたりと止まる。


「……よく覚えてるな」


「あなたが拭いた床を、私が引き継ぎましたので」


「……覚えているのか?」


「はい。東の弁から閉める順番も、あなたに教わりました」


 梶原が窓のほうを向く。


「忘れた」


「私は忘れていません」


「……忘れたと言っている」


「はい」


 梶原の声が、初めて荒くなった。


「なぜ引き下がらん?」


「引き下がると、床が汚れたままになりますので」


 梶原が椅子の背へ体を預ける。


「おまえは、いつもそれだ」


「はい」


「十八年、それで何が変わった?」


 変わらなかった。そう答えるつもりだったのだ。


「今日は、変わりました」


「何がだ?」


「あなたが、私に条件を出しました。十八年、一度もなかったことです」


 梶原は答えない。


「それだけです。ですが、私にはそれで足ります」


 梶原が、ゆっくりと立ち上がる。


「……三階の東側は、来週カビるんだったな」


「はい。もう間に合いません」


「そうか」


「梶原さん」


「なんだ」


 梶原がドアの手前で止まる。


「東の弁から、です。西からだと管が鳴ります」


「……知っている」


       ◇


 梶原の顔から目を外し、宗司は足元へ視線を落とす。


 大理石の目地に、細かな砂が食いこんでいる。白い床の上で、そこだけが小さな傷のように赤い。しかも、靴底からこぼれるには粒が粗すぎた。


 九層の砂だ。


 この部屋の埃は落とせない。埃は、もとからここにあるものだからだ。だが九層の砂は違う。玄関から靴に運ばれ、歩いて入ってくる物ではない。


 背中の産毛が、冷たい指で撫でられたようにすっと立つ。十八年、この感覚には何度か出会っている。そのたび、騒ぐほどではないと自分へ言い聞かせ、黙って拭き、誰にも告げずに帰ってきた。


 役員室の静けさを蹴破るように、ドアが乱暴に開く。


「いた! やっぱここだ!」


 携帯を構えたミコが、転がりこむ勢いで飛びこんでくる。後ろでは、追いついた受付が声にならない悲鳴を上げていた。


「おい、撮るな。ここは社の――」


「おじさん、今日の汚れは?」


「……ひとつです」


「床が汚れる」


 その言葉を確かめるように、宗司はモップの房を目地へ当て、ゆっくり床へ滑らせる。


「〈九層の砂〉、清掃します」


 この部屋には水気がない。代わりに、磨かれもせず積もっていた床の埃が、いっせいに目地へ寄った。


 房のなぞった線の上だけに、細く長い膜が立つ。


 膜は大理石の継ぎ目を、川底をさらうように、まっすぐ走っていく。


 赤い砂は、触れられた端から色を失い、細い糸のように引かれて房へ入っていった。


 濡れた雑巾を絞る音が、高い天井にひとつだけ跳ね返る。


 大理石は傷ひとつなく、そこに残る。四年ぶん積もった埃も、目地の縁に押しやられたまま、そのままである。


 手元で、房が一本、さらりと灰になった。残りは三十本。


「うわ、埃まで寄った」


「水が無いので、代わりに埃が寄ります」


「清掃のプロすぎる」


 ミコが自分の靴の下を覗きこむ。


「埃の寄り方で、長く放ってあった場所も分かります」


「怖い。事務所の床、もう見せられないじゃん」


「十八年やっていましたので」


 ミコが半眼になる。


「そこ、もっと威張っていいところだよ?」


「……威張り方を、教わっていません」


 そのとき、砂の下から、紙が一枚だけ姿を現す。


 目地の奥へ折りこまれ、三年ぶん、何足もの靴に踏まれ続けていた紙である。汚れの向こうに、受付印と番号がどうにか読めた。


 指を伸ばしかけ、宗司は息ごと動きを止める。紙の縁は、靴底の圧で薄く毛羽立っている。三年ぶんの足の数が、声の代わりに刻みこまれている。


 『なんか出たぞ』『床から書類?』『合成でしょさすがに』『いや生放送だぞ』


「……これは、落とせません。異物ではありませんので」


 そう告げてからも、宗司は膝をついたまま動かない。落とせるかどうかと、拾うかどうかは別だ。これはもう、清掃員が勝手に消してよい物ではなかった。


「拾いもしません。八重樫さんが写すまで、このままにします」


       ◇


 午後三時、管理局。


 八重樫は、目の前の紙を長いこと見つめている。折れ目も、擦れた縁も、目をそらさず確かめてから、自分の机の引き出しを開ける。


 奥から出てきたのは、同じ番号の控えだった。決裁欄には、消えずに残った彼女の署名がある。


「三年前です。土門源三さんという方が、班の者からの報告として、九層の砂が一層で見つかったと申告されました」


「土門さん」


「わたくしは、様式が無いという理由で、受け付けませんでした。控えだけが、ここに残っています」


「……三年前も、同じことが起きていたんですね」


「同じことです。申告の文面まで、ほとんど同じです」


 八重樫の指が、いつもの癖のように控えの角をそろえかけ、途中で止まる。紙の端がずれたままなのに、直そうとはしない。


「制度上、それは起きません。……起きたのなら、制度のほうが間違っています」


 自分にも言い聞かせるように言い切り、八重樫は背筋を立て直して椅子へ深く座り直した。


「様式を作ります。三年ぶんの遡及になります。徹夜では済みません」


「八重樫さん」


「はい」


「三年前に受け付けていたら、どうなっていましたか?」


 八重樫の手が止まる。指だけでなく、呼吸まで止めてしまったように見えた。ずいぶん長いあいだ、宗司は急かさず、その沈黙を待つ。


「……わかりません。ですが、わたくしは三年、それを考えないようにしてまいりました」


「八重樫さん」


「はい」


「私も、十八年そうしていました」


 八重樫の指が控えの上でわずかに丸まり、紙を押さえる。爪の先から血の色が引いて、白くなっていた。


 宗司はその手を見て、慰めの言葉を探すのをやめる。同じように指を丸め、声にできないものを飲みこんできた十八年が、自分にもあるからだ。


       ◇


 午後四時。


 呼ばれた梶原が入ってきても、宗司はまだ同じ場所に立っている。モップの先だけが、磨かれた床へ細い影を落としていた。


 八重樫は書類を三枚、机の上へ順にそろえて置く。備品票、今朝の砂の現認、そして三年前の控えである。薄い紙ばかりなのに、置かれた音はやけに硬く響く。


「一昨日、照会した札の備品票です。〈白鏡〉の資材で、購入の決裁欄は梶原さんです」


「……」


「その資材が一層で使われ、今朝、九層の砂があなたの部屋の床にありました。この二つは、同じお名前で繋がります」


「決裁は年に千件やってるんだ。それが何の証明になる?」


 八重樫は反論せず、三枚目をいちばん端へ静かに寄せる。紙が机を擦る乾いた音に、梶原の視線が吸い寄せられる。


「三年前の申告は、お名前では繋がりません。繋がるのは、出来事のほうです。九層の砂が、本来ないはずの場所で見つかる。三年前も、今朝も、同じです」


「……」


「わたくしは判断をいたしません。並べるだけです。判断は上がします」


「並べるだけ、か」


「はい。三年前は、それすらしませんでした」


 八重樫は目を伏せない。


「今さらだな」


「今さらです。ですので、いたします」


 梶原が何かを言い返しかける。けれど、喉だけが動き、口を固く閉じる。


「梶原さん」


「なんだ」


「班も、無いものにしましたね」


 喉の奥で、長く押さえこんできたものがせり上がる。十八年ぶんの重さがあるはずなのに、言葉になって出てきたのは、たった一行だった。


 宗司の声が、自分でも知らなかった低さへ沈む。


「――俺の班を、あんたが消したんだ」


 部屋が静まり返る。空調の低い音さえ、急に遠のいたようだった。


 口をついて出た一人称が変わっていたことに、宗司は遅れて気づく。「俺」という響きが、まだ熱を持って胸に残る。モップの柄を握る指は、節が白くなるほど強くこわばっている。


 あの紙は、三年間、誰にも拾われず、あの部屋の床にあった。


 班が九人から二人になったのは四年前だ。そこから役員室まで、とうとう手が回らなくなった。誰も剥がさなかったのではない。回らなかったのは、宗司の手である。


 目地は、腰を落とし、膝を床につけ、指の腹で汚れを押し出すように拭いていく。続ければ腰は焼けるように痛み、膝の感覚は薄れていく。それでも九人なら半日で終わる。二人だと、三階から上は年に一度も回らない。


 その回らなかった床に、これが三年、挟まったまま待っていた。


 胸の底が、遅れてじわりと熱を持つ。怒りだけではない。誇らしさと呼ぶには、あまりに遅くて痛い。消されたはずの十八年ぶんの仕事が、いま初めて、誰にも消せない形で目の前に現れたからである。


 床が汚れているのは、誰かがそこを通ったからである。


 宗司は十八年、それだけを見てきた。足跡は拭けば消える。けれど、誰が通ったかは、消える前の床に必ず残る。誰も見ていなくても、床だけは覚えている。


「梶原さん」


 胸につかえていたものごと、深く息を吸う。吐き出す声は、もう震えていない。


 怒鳴らずに済む言い方を選ぶ。宗司は梶原の目を見て、静かに続けた。


「床は、誰が見ていなくても汚れます」


 『ふざけんな』『三年だぞ』『十八年の意味そこかよ』『解説さん出てきて説明して』


 誰も言葉を出せない部屋で、ミコの携帯だけが、ずっと赤く光っている。


       ◇


 午後六時。


 梶原の運営部長職が解かれたことを、八重樫は事務的な声で告げる。九層への査察も、来週に決まったという。勝ち誇る響きはなく、ただ遅れて動きだした仕事を読み上げる声だった。


 建物の外へ出ると、生ぬるい風が頬を撫でる。坑の底で染みついた冷たさは、まだ袖口の内側に残っている。


 傾いた夕方の光が、モップの柄の割れ目へ細く差しこむ。廃棄の札を剥がした跡だけが、消えない傷のように、まだ白く四角い。


 この一本で、あと三十回。数えられるということは、終わりまでの距離が見えているということである。


 それでも今日は、ほんの少しだけ、明日の床を思い浮かべている。そこへ自分の手が届くことまで。


「おじさん、一緒に潜ろ。九層」


「……定時で上がれますか?」


「無理じゃない?」


「無理ですか?」


「無理だよ。あたし、毎日撮るって言ったじゃん」


 ミコが携帯を持ち上げて、レンズを宗司の顔へ向ける。


「……せめて、顔は」


「むり」


「はい」


 坑の外はまだ明るく、帰っていく人々の影が長く伸びている。定時に上がれた日は、十八年で数えるほどしかない。それでも今は、暮れていく空を惜しいとは思わない。


 ミコが笑う。宗司は返事の代わりに、モップの房をまた数え始めた。さっきまで終わりへの数だったものが、いまは明日までの残りに見える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。