6. 引き継ぎは、されていません
六月十一日、午前八時。
薄暗い〈第一坑〉一層の入口広間で、宗司は、掛け金の外れた札を見上げている。
〈本日の清掃当番・白鏡〉と記された板が、片側だけ垂れ下がっている。金具は赤茶に錆び、風もない淀んだ空気の中で、ぎい、と細い声を漏らす。裏の日付だけが、八日前で止まったままだ。
その八日前が何の日だったかは、数えるまでもない。自分が地下の控室を出た日である。
壁の下から柱の根元まで、水を含んだ緑が帯になって這っている。指でこすると、ぬるりと逃げるように滑る。爪の先に残る匂いは、雨のあとの土に近い。坑に染みついた鉄と水苔の匂いの中で、そこだけが違う季節を持ちこんだように浮いていた。
一層の岩に、この色は生まれない。
宗司は携帯を岩棚へ立てかけ、赤い印を灯す。画面の隅で膨らんでいく視聴者の数は、もう見ないことにしている。見れば、自分の目まで数字に引っぱられそうだった。
「蓬田さん。柱、数えました」
芹沢楓が、ノートを胸の前で盾のように抱えて寄ってくる。手袋の甲だけは汚れが抜け、布の目まであらわになっている。いちばん濃く毒を吸った場所であり、毒ごと拭い取られた跡である。
「苔の生えてる柱、十一本あります。……たぶん、ですけど」
「たぶんで結構です。数えた人だけが、あとで言えますので」
「あっ……はい。あの、わたし、数えるくらいしか」
「くらい、ではありません。数えられる人は、そう多くないので」
「……はい」
楓の耳の縁が、じわりと赤く染まる。宗司はその顔から目をそらし、柱へ目を戻す。褒めるのは、まだ慣れない。褒められたことがないのだから、受け取った人がどんな顔をするのかさえ、よく分からない。
「おい、裏切り者」
振り向くと、〈白鏡〉の記章をつけた男が、行く手を塞ぐように立っている。一層担当の塚越だ。
「うちの恥を全国に流しといて、よく坑に入れるな」
「入坑は許可制ですので。書式を出して、判をもらって入りました」
「そういうところだよ、あんたは」
塚越が顎で柱を示す。人を見ているのではなく、片づける荷物の場所を確かめるときの動かし方だった。
「まあいい。その緑、落としてくれよ。一日五千円でどうだ。拭くだけだろ」
「五千円は、日当ですか。それとも一本あたりですか?」
「は?」
「柱が十一本あります。工程が違いますので」
「そんなもん、まとめてに決まってるだろうが」
塚越の声が低い天井にぶつかり、固く跳ね返る。宗司は、手のひらに走ったささくれの痛みを確かめるように、柄を持ち替える。
「あのぉ……もう上がっていいですか?」
「まだ来たばっかりだろうが」
塚越が壁へ寄りかかり、腕を組む。話を長引かせる気らしい。
「では、夕方までに終わらせます」
「おい、まだ決まってねえぞ」
「いま、一日五千円とおっしゃいました」
「言ったが、そういう意味じゃ」
「値切るときは、単位まで決めてください。現場が困ります」
塚越の口が、半分ひらいたまま止まった。値段の話で押し返されるとは思っていなかったらしい。
『五千円て』『十八年の人にそれ言う?』『そのクラン今どんな気持ち?』
画面の端で、文字の流れが速度を増す。宗司は押し寄せる言葉を意識から締め出し、柱の高さへ目を戻す。
腹は立たない、と宗司は自分に言い聞かせる。値段をつけられるのは、値段のつくものだけである。ずっと〇円だったものに五千円が付いたのだから、これでも上がったほうだ。
そう思えてしまう自分が、遅れて胸につかえた。汚れよりも、そちらのほうが落としにくい。
◇
午前九時。
足元の水が、引いていない。八日ぶん溜まった水が、そのまま柱の根までせり上がっている。長靴を持ち上げるたび、冷たい重みが足首へまとわりつく。
頭の上で、湿った何かがずれる音がする。
見上げると、梁の上の緑が、水を吸って黒く沈んでいる。乾いて張りついていた幾年ぶんもの苔が、下から上がる湿りを吸い、自分の重さに耐えられないほど膨らんでいた。
塊が、ごそりと傾く。次の瞬間、板のように剥がれ、初心者の一団の足元へ落ちる。
「うわっ」
滑って尻もちをつく音が三つ、岩床に響く。剥がれた裏側から、黒い粒がわっと湧き出す。重なった羽音が耳の奥へ入りこみ、皮膚の上を這い回るように広がった。
「出た出た出たぁ!」
ミコが、獲物を見つけたように携帯を掲げて走りこんでくる。
「おじさん、あの虫!」
「羽虫は落ちません。一層のものですから」
「そこは落としてよ! もぉ!」
「落とせないものは、落とせません。どれだけ言われても、変わりはしませんので」
宗司は背後の騒ぎを切り離すように、柱の帯へ膝を落とす。膝の皿が濡れた岩に当たり、鋭い冷たさが骨まで通って息を詰まらせる。水も岩も一層のものだ。ここで落とせる汚れは、この緑だけである。
「おじさん、今日の汚れは?」
「……ひとつです」
「十一本もあるじゃん」
「同じ木から移ったものです。ひとつづきなので、ひとつです」
宗司は柱の列の端に立ち、呼吸を整えてから房の先を根元へ当てる。柄の割れ目が、いつもの位置で手のひらに食い込み、そこにある古い傷とぴたり重なった。
「床が汚れる」
「〈四層の苔〉、清掃します」
柱の根元に溜まった湿りが、いっせいに房へ吸い寄せられる。乾いた房は水を含むほど膨らみ、みるみる重くなる。手首へずしりと乗るその重さだけが、十八年変わらない。
房の先が描く弧に沿い、緑の帯が壁づたいに立ち上がる。薄い膜が柱から柱へ渡っていくたび、緑は色を失い、布の端をつままれたように石の面から浮き上がる。
ギュゥッ……。
濡れた布を固く絞る音がひとつ、広間の奥まで響く。緑の帯は跡形もなく消え、洗いたての石肌だけが淡い光を返す。
役目を終えた房が一本、さらさらと灰になって落ちる。
それでも、黒い粒はまだそこらを飛び回っている。
「虫、残ってるんだけど」
「残ります。ここのものですから」
宗司は逃げ、ミコはその姿を捉えながら追いかける。
「そこ、ぜんっぜん強くないの。ウケる」
「私に言われても」
「見て。同時接続、いま四十万。虫から逃げてる四十歳が四十万人に見られてるんだよ? きゃはっ!」
差し出された画面の青白い光が、宗司の顎の下を冷たく照らす。
「……その言い方はやめてください」
二十九本。宗司は胸のざわめきを押し戻すように、房を数え直す。
「ねえおじさん、それ一本いくら?」
「値段はついていません」
「じゃあ今日から一本三万ね。くふふふ」
ミコが画面の前で指を折り、値札を貼るような手つきで数を弾いてみせる。
「勝手に決めないでください」
「だって、おじさんが決めないんだもん」
「……決め方を、知りませんので」
◇
午前十時。
苔の落ちた柱には、刃で引いたような水平の線が一本、はっきりと残っていた。
線から下は、長いあいだ人の手で撫でられ、濡れた光を返すほど艶が出ている。線から上は、一度も布が当たらず、ざらついた石の色を残したままだ。
宗司はためらいながら、線へ手を伸ばす。その高さは、ちょうど自分の指先と重なった。
「これは、深い層から移されたものではありません」
「え?」
「四層から坑木を上げる道があります。木に付いた苔を、毎週拭いて落とす工程が、そこにあったはずです」
「誰かがサボったってこと?」
「……誰かが毎週やっていたはずだ、としか言えません」
宗司は携帯を取り出し、登録の一番上を呼び出す。呼び出し音が三度、湿った広間に長く尾を引く。
「おう、宗ちゃんか。腰はまだ痛いぞい」
「土門さん。搬入路の坑木、あれは週に一度でしたよね」
「木の話か。あれはな、乾かしてから上げんと房が持たん。濡れた木を撫でると、房の締めが緩む」
「……房の話ですか?」
「わしは道具の話しかせんぞい」
電話はそこで切れる。宗司はしばらく、音の消えた携帯を耳から離せずにいた。
あの人は、答えを言わない。道具の話にすり替え、こちらの手と頭で考えさせる。二十二の年からずっとそうだった。そうやって仕込まれたものが、いまも自分の手に残っている。
◇
午前十一時。管理局の八重樫が、色の褪せた綴りを両腕で抱え、静かな靴音とともに現れる。
「三年前に、土門源三さんが分室へ出された工程表の控えです。あの申告のときに、一緒に置いていかれました」
「土門さんの」
「搬入路の坑木は週に一度。ここに書いてございます」
八重樫が、もう一束を机代わりの岩へ置く。紙の重みが岩を打ち、その乾いた音が広間の天井へ短く跳ねて消える。
「そして、こちらが〈白鏡〉から出された完了報告です。芹沢さん、数えていただけますか?」
「え、わたしですか。あの、はい」
楓の指先が、紙の角を一枚ずつ弾いていく。息を止めたまま、唇だけがかすかに動く。数えているあいだ、この娘は誰の顔も見ない。見れば、指まで迷ってしまうと知っているようだった。
「……二百八枚。ぜんぶ『済』です」
「一枚も抜けていませんか?」
「はい。四年ぶん、一枚も」
八重樫が綴りを繰る手を止める。紙のこすれる音が消え、広間が急に広くなったように感じられる。
「四年ぶんの工程は、何回ですか?」
「二百八回です」
「二百八回、誰も坑木を拭いていないことになります」
塚越の喉が、飲みこめない言葉を無理に押し下げるように鳴る。
「押しただけだ。俺が拭くわけじゃない」
「押されたのはご自身のお名前です」
「上が回せって言うから回しただけだろ! 俺が四年ぶん拭けってのかよ!」
「拭けとは申しません。やっていない工程を『済』と書かれた、と申しております」
八重樫が表情を変えず、新しい紙を一枚、静かに抜き取る。
「一層担当としての現認の停止と、事情の聴取をいたします。綴りはこちらでお預かりします」
塚越が綴りへ手を伸ばし、触れる寸前で止める。行き場を失った指の先だけが、細かく震えている。
『二百八枚』『四年ぶんかよ』『清掃の外注うちで取るわ』『連絡先どこ?』
◇
午後二時、〈白鏡〉が一層清掃の受託契約を返上したと、分室の掲示に出た。
八日前に空いたのは現場の手で、今日空いたのは契約だ。拭く人間は、これで書類の上からも消える。
◇
午後六時。
宗司は工程表の控えを、もう一度ゆっくりとめくる。紙は坑の湿気を吸って波打ち、端が古い火傷のように茶色く焼けている。欄外には、細くて角ばった字の追記が、針で刻んだ傷のように残っていた。
――搬入路、雨季は先に乾かすこと。
自分の字だ。十八年前、班が九人いたころに書き足したものである。指でなぞると、急いでペンを走らせたときの力まで、指先によみがえった。
「蓬田さん。この字は」
「私です。十八年前の、私の字です」
喉の奥に、じわりと熱が集まる。怒りではない。気づくのが遅れた自分へ向く、鈍くて逃げ場のない痛みだ。この四年、毎朝ここから緑を掻き取ってきたのは自分である。届く高さだけ掻き取り、床の水を引かせ、何も起きていない顔で終わりにする。毎日そうしてきたのである。
床が乾けば、梁も乾く。梁が乾けば、落ちない。落ちなければ、誰も工程表を見ない。
見上げたことは、一度もなかった。手が届かないので、拭いてもいない。届かないと、誰かに伝えたことさえない。
「八重樫さん」
「はい」
「私が毎日拭いていたので、誰も困りません。困らないので、誰も直しません」
八重樫は書類の角をそろえかけ、途中で手を止める。わずかにずれた紙の端が、そのまま残る。
宗司は柱を見上げる。線から上に積もった四年ぶんは、いま初めて、誰の目にも見えている。
自分が届かなかった高さが、そこにある。届いていた高さも、同じ柱に刻まれている。どちらも、今日まで誰の目にも留まらないままだ。拭きつづけた跡と、拭けなかった跡。その境目が、そこにある。




