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4. モップは演出です

 六月七日、午前八時。


 配信の解説者に、鴇田(ときた)という男がいる。


 朝の配信枠で、ダンジョンの映像に線を引き、分かりやすく説明するのが仕事だ。今朝、その線の先に置かれたのは宗司だった。


「結論から言いますね。あれは演出です」


 鴇田は画面の中で、よく整えられた丁寧な笑みを浮かべる。


「モップで九層の主が落ちるわけがない。落としているのは隣にいるS級の子です。編集で音を抜けば、ああ見えます」


 『まあ普通に考えたらそうだよな』『検証してくれる人いない?』『そのほうが数字取れるしな』『解説さん今日も強い』


「そもそも、十八年床を拭いていた人に何ができますか。できないから十八年床を拭いていたんですよ」


 宗司は湯呑みをそっと置く。腹の底へ、冷たいものがゆっくり沈んでいく。


 こんな言われ方は初めてではない。だから、とうに慣れているはずだった。それなのに、飲み込んだ言葉が喉のあたりに小さな棘となって残り、うまく息を通してくれない。


 たぶん、言われることに慣れたのではない。傷ついても言い返さず、胸の奥へ押し込むことに慣れただけなのだ。


 湯呑みの縁を指でなぞる。硬くなった指の腹が、なめらかな陶器をこすり、かすかな乾いた音を立てた。この皮は、床を拭くうちに厚くなったものだ。それだけは、誰が何と言おうと揺らがない。


 卓上の携帯が震え、短く鳴る。ミコからだった。


「……ねぇ、聞いた?」


 押し殺したように低い声である。いつも軽やかに跳ねる語尾が、ひとつも付いていない。


「ミコさん」


「あの人、いま、おじさんの十八年を、できないからって言いました」


「事実ですから」


「事実じゃない」


 鋭く息を吸い込む音が、受話口の向こうから聞こえる。それは、あふれそうな怒りを押し戻す息に聞こえた。


「証明しよ。公開でやる。今日」


       ◇


 午後一時、一層。


 一層には、すでに人だかりができている。管理局から八重樫、野次馬が三十人ばかり。それだけでなく、鴇田本人まで来ていた。


 そこかしこで、掲げられた携帯が白い光を返し、無数の目のように宗司へ向いている。宗司はこういう場所を、十八年かけて避けてきた。いや、避けてきたというより、そもそも呼ばれたことが一度もない。


「では、公平にやりましょう」


 鴇田は布袋の口を開き、中身を順に床へ並べていく。石がふたつ、苔の付いた岩がふたつ、黒い塊、それに小さな瓶。ぜんぶで六つだ。


「検証用の持ち込み届は、受理済みです」


 八重樫が、誰にともなく、よく通る平らな声で告げる。


「この中に、一層の物でないものが混ざっています。層まで添えて、当ててください」


 宗司は背中に刺さる視線を意識しながらしゃがみ、床すれすれまで顔を近づける。膝の関節が、朝より遠慮なく乾いた音を立てた。


 六つとも、表面は乾いている。袋から出したばかりなのだから、当たり前だ。濡れ方からは、何ひとつ分からない。


「右の、黒い塊。三層です」


「ほう」


 宗司は黒い塊を裏返しもせず、指先でざらつく錆をそっと撫でる。


「三層は毒の沼があるので、鉄が錆びると青が出ます。この錆は青いです」


「……なるほど」


「それと、その瓶。瓶そのものも、中の砂も、ここの物ではありません。砂は五層です。粒が角ばっています。一層の砂は沼で転がるので、角が落ちますから」


「では、この石は」


「落ちません。一層の石です。割れ口が、そこの壁と同じ向きに入っています」


 張りつめた人垣の後ろから、たまらず声が飛ぶ。


「じゃあ、そこのスライムは?」


 野次馬のひとりが、試すように壁際を指している。


「落ちません。一層のスライムです。この層のものは、何をどうやっても落ちません」


「S級ボスは落ちるのに?」


「はい。あちらは、ここに居るはずのない物でしたので」


「じゃあ、九層まで行ったら何もできないってこと?」


「はい。九層では、私はただの人です」


 ミコが横から口を挟む。


「じゃあ、九層でおじさんが危なくなったら?」


「そのときは、逃げます」


「逃げるんだ」


「はい。逃げるのも仕事のうちです」


 ミコが唇を尖らせる。


「かっこわる」


「かっこよさは、書式にありませんので」


 人垣の輪が、波に押されたようにじわりと壁際から遠ざかる。


「たいした目ですね。何を見ておられるんですか?」


「見ているだけですよ。床は毎日おなじ顔をしています。違う顔になったら、誰かが触ったということです」


 宗司はしゃがんだまま、床を薄く覆う埃へ静かに目を落とす。


「……それと、その石は、いまそこの床から拾われましたね。石の下の埃だけ、まだ丸く抜けていますので」


 鴇田の指が、紙の端に触れたまま止まる。一瞬遅れて、何事もなかったように手元の紙を開いた。


 それを合図にしたように、携帯が一斉に鴇田の手元へ向く。


「……袋の中身は、三層の鉄がひとつ、五層の砂の瓶がひとつ。あとの四つは一層の石と岩です。層まで、全部合っています」


 誰かがこらえていた息を吐き、それをきっかけに、どよめきが坑の奥まで広がっていく。


「ミコさんもどうぞ。あなたはS級だ」


 ミコは同じ場所に勢いよくしゃがみ、並べられた物を睨むように見比べる。だが、しばらくしても答えは出ず、眉だけが困ったように寄っていく。


「……わかんない」


「わからない?」


「ぜんぜん。あたし強いだけだもん。見えるのはおじさんだけ」


「では、こうしましょう」


 鴇田は口元の笑みを崩さないまま、今度はモップを指す。


「ミコさんがそれを振ってください。あなたが落としているのなら、落ちるはずだ」


 ミコは宗司からモップを受け取ると、黒い塊に狙いを定め、風を切るほど思いきり振った。


 空気が揺れただけで、何も起きない。


 ミコは唇を結び、もう一度振る。それでも、黒い塊はぴくりとも動かない。


 人垣は、まだ口を閉ざしている。その目はまだ、手品の種がどこかにあるはずだと探している。誰も結論を出そうとはしない。


「振り方を教わっていないだけだと思いますよ」


 鴇田が穏やかに言い切ると、答えを与えられて安心したように、何人かがうなずく。


「……なんで?」


「私の技能ですので」


「ずるい」


「そうかもしれません」


 ミコは悔しさを飲み込むように唇を噛み、それでもモップだけは両手で宗司へ返す。その返し方だけが、やけに丁寧だった。


「……もう上がっていいですか?」


「だめ」


「まだ何かありますか?」


「あるよ。絶対ある。こういうときは、なんか出るんだから」


 『あれ』『S級が振っても落ちないの?』『じゃあ誰が』『解説さんどうすんの?』


       ◇


 そのときである。


 不意に、壁の裂け目が内側から押し広げられ、蜘蛛の巣のようなひびが走る。


 砕けた岩を押しのけ、のっそりと姿を現したのは、羽の生えた黒い獣――七層の主である。重なった野次馬の悲鳴が、坑の天井に鋭くはね返る。


 風の匂いが、一瞬で変わる。焦げた油に似た、鼻の奥へまとわりつく深い層の匂いだ。


 誰もが牙と羽を見つめるなか、宗司だけは獣の足元を見た。


 爪の下に、平たい札が挟まっている。見覚えのある、あの縁の形だ。


「きた!」


 ミコが弾かれたように飛び出そうとする。宗司はすぐに肘を差し出し、その行く手を止める。


「下がってください。あなたは強いので、前に出ると当たります」


「当たるって、なにが?」


「私のモップが」


 ミコが眉を寄せ、それでも半歩さがる。つられるように、野次馬の輪も同じだけ後ろへ動いた。


「おじさん、今日の汚れは?」


「……ふたつです」


「床が汚れる」


 宗司はモップを握り直す。まず、ひと振り目。


「〈七層の主〉、清掃します」


 坑じゅうの湿りが、いっせいに宗司の足元へ寄った。壁の水滴が線を引いて走り、野次馬の足元の水たまりまでが、すっと痩せていく。


 乾いた房がずしりと水を吸い、床から弧が立ち上がる。人の背丈より高い、薄い一枚。向こう側の裂け目が、濡れたガラスごしにゆがんで見える。


 膜が、羽の付け根から尾の先まで、一息に渡っていく。


 黒い獣は、輪郭の外側から順に色を失った。ひろげた羽が、大きな布に押されたようにたわみ、面から浮き上がる。


 爪も牙も、間に合わない。落とされているのは、この階に居るという事実のほうだからである。


 剥がれたものが、渦を巻いて房の中へ吸い込まれる。


 濡れた雑巾を固く絞る音が、ひとつ。


 羽が三枚、床にきれいに並んで残る。モップの房が一本、音もなく灰へ変わった。残りは三十二本。


 返す手のまま、ふた振り目。


「〈仕込みの札〉、清掃します」


 今度は、床の湿りが爪の下の一点へ集まる。


 指の幅しかない膜が立ち、札を横から抜けていった。形だけが、ひと振り目とそっくり同じである。


 模様だけが貼り紙のように浮いて、房へ吸い込まれる。


 二度目の絞る音は、一度目より短い。それだけで、人垣の息が止まった。


 芯が乾いた音を立てて床へ落ちる。モップの房がもう一本、灰へ変わった。残りは三十一本。


 人垣は、今度こそ黙っていなかった。編集も切り替えも入りようのない生放送で、二度も、目の前で落ちたのだ。驚きと歓声が一気に膨らみ、坑の空気を震わせる。


「二回とも見えた! 膜! 膜が出た!」


「二回目、短かったよね?」


「札は小さいので、膜も短くて済みます」


 ミコがカメラを宗司の手元へ寄せてくる。


「そこ、そんな冷静に解説するとこ?」


「解説は、鴇田さんのお仕事では」


「いま完全に殴りにいったよね?」


「……ミコさん、実況しないでください」


「するよ。いまのは全人類が見るべきだもん」


       ◇


「鴇田さん。演出だそうですが」


 八重樫が床の芯を拾い上げる。今度は、その番号が削られずに残っていた。


「備品票の番号がございます。照会いたしました。〈白鏡〉の資材です。坑への持ち込みは第八条の二に触れますので、様式を作ります」


 鴇田の唇が動く。だが今度は、どんな言葉も音にならない。


 『解説さん、線を引いて説明して』『今日は静かだね』『さっきの十八年の話もう一回言って』『言えないよなあ』


 熱の残るざわめきとともに、人が少しずつ引いていく。宗司はその背中を見送らず、手元のモップの房を数え直す。


 振った回数だけ、房は確かに減っている。誰にも見られないまま十八年、減らしてきたものが、今日は三十人の目の前で灰になった。


 見られるのは、今も怖い。胸の奥はまだ落ち着かず、逃げ道を探す癖も消えてはいない。それでも今日は、ここから逃げたいとは思わない。


 人波の向こうから、誰かが「あの人が言ったとおりだった」と口にするのが、坑の壁に反響して届く。たったその一言だけが、十八年ぶんの静けさを越え、胸の奥までまっすぐ入ってきた。


 不意に、肩へ大きな手が置かれる。その重みに促されて振り向くと、梶原が立っている。


「見たぞ。数字になった」


「……そうみたいです」


「戻ってこい、蓬田」


「……」


「言っておくが、三階の東側は、いまもかびてるぞ」


 その手は、思っていたよりずっと重い。けれど、不思議と振りほどきたい重さではない。


 宗司は、この手を知っている。若いころ、同じ手を同じ重さで肩に置き、枡の上げ方を教えてくれた人がいる。あのころと変わらない重さが、肩から胸の奥へゆっくり染みてくる。


 覚えていることは、口に出さない。ただ、肩の上の手を振りほどかずにいる。


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