3. 毒は、三層のものです
六月六日、午前九時。
一層の奥に、浅い沼がある。深さは膝にも届かず、初心者たちが安心して薬草を摘む場所だった。眠ったような水面には、天井の誘導灯が切れぎれの白い線となって揺れている。
その縁に、若い探索者が三人、身を寄せるようにしゃがみこんでいる。手足は毒々しい紫に腫れ、触れなくても痛みが伝わってくる。
「動かないでください」
宗司が声をかけると、先頭の娘がこわばった顔を上げる。鉄喰らいの前で、腕を広げて仲間をかばっていた娘だ。
「あ……あの、蓬田さん、ですよね。芹沢楓です。探索者になって、四十日で」
「はい」
「毒って、こんなに痛いんですね。すみません、知らなくて、その」
言葉は細くほどけ、語尾だけが消えていく。腕は震えていない。宗司の見てきたかぎり、この娘は声だけが震える。
後ろの二人も、そろって腫れた腕を胸元へ抱えている。楓の組は三人で、全員が探索者になって四十日目らしい。
沼のほとりには場違いな折りたたみの机が出され、大小の瓶がきれいに並んでいる。
「毒消し、一本三万円だよ。命は安いかい?」
装備屋の富永だ。笑いもせず、値札を人差し指で軽く弾いてみせる。
「昨日まで五千円だったと思いますが」
「相場は動くんだ。F級のくせに、値切るのかい?」
「わたし、あの、お金が」
「なら腫れたまま帰りな。命は自分持ちだよ」
楓は唇をかみ、腫れた手でノートを開く。値札を見つめ、日付の下へ黙々と書き込んでいく。小さくまっすぐな字は、痛みが走るたび、ほんの少しだけ曲がった。
「ねえ、なにしてんの、それ?」
ミコが後ろから、楓の肩越しに覗きこむ。
「あ、あの、値段です。朝と、帰りの夕方と、二回」
「なんで二回?」
「入るときと、帰るときに、お店の前を通るので。……買えない値段でも、見ちゃうので」
『足元見すぎだろ』『これ商売か?』『初心者の階でそれやる?』
背後でミコが、流れていくコメントを次々と読み上げている。宗司は答えず、沼のほうへゆっくり膝を落とす。
◇
水そのものは濁っていない。底には一層の白い砂が広がり、誘導灯の光を淡く返している。だが、水面のすぐ下だけに、紫の筋が細い糸のように漂っていた。
沼のふちの草は、片側だけが茶色くしおれている。枯れているのは、水が流れ込んでくる側だ。
三層の毒沼と同じ色だ。二層より下へ降りたことは無い。それでも清掃班の工程表で、その色なら何十回も目にしてきた。紙の上でしか知らなかった紫が、いま一層の水の中を、生き物のように這っている。
足元の水面が、ぷつりと小さく膨れた。一層のスライムが、眠りから起きるように姿を見せる。
「あっ、スライム……」
「あれは落とせません。一層のものですから」
「こんなときも?」
「こんなときもです。この層のものは、何をどうやっても落ちません」
宗司が水を揺らさないよう一歩下がる。するとスライムは紫の筋を器用に避け、向こうへ滑っていった。
「これは、面倒ですね」
「なんで?」
「沼は一層のものです。砂も水も、ここに本来ある物なので落とせません。毒だけが三層のものです」
「じゃあ、毒だけ指定すればいいじゃん」
ミコが無造作に沼へ足を入れかける。宗司はすぐさま手を差し出し、行く手をふさいだ。
「言い方を外すと、何も落ちません。一度に一つだけです」
「外したらどうなんの?」
「房が減って、何も起きません。それだけです」
宗司は携帯を取り出し、登録の一番上へ電話をかける。呼び出し音が三度鳴り、やがてしゃがれた声が出た。
「おう、宗ちゃんか。腰はまだ痛いぞい」
「土門さん。廃棄品のモップって、房を継ぎ足せますか?」
「継げるならわしが継いどるわ。あれは締めが樹脂だからな。抜いたら二度と締まらん」
「……ですよね」
受話口の向こうで、古い椅子がきしむような音がする。
「減らすなよ。数えて、迷ったら振るな。それだけだ」
「わかりました」
土門は喉の奥で笑い、そのまま苦しそうに咳をする。宗司は短く礼を言って、携帯をそっとしまった。
どれが異物なのかは、誰にも教えてもらえない。それを自分の目で見分けるのは、昔から現場に立つ者の仕事だ。
土門の声は、記憶の中より細くなっていた。その細さが、宗司の胸の奥に小さく引っかかる。腰をやったのは五年前で、それきり坑には入っていない。それでも、あの人が最後に拭いた床を、宗司はいまも歩くことができる。
「ねえ。継ぎ足せないって、なに?」
「房は増えません。残り三十四本で終わりです」
「……増えないの?」
「はい」
「えぇぇぇ……」
ミコが、初めて言葉の置き場所を見失ったような顔をする。いつもなら迷いなく構えるはずの携帯が、手の中で少しずつ下がっていく。
◇
「芹沢さん。その手袋、外してください。お二人も、毒に浸かった物は全部、床へ置いてください」
「え、でも、毒が」
「握っているものは落とせません。手を離してください」
楓は痛みに息を詰めながら、こわばった指をひらく。毒に濡れた手袋が、ぽとりと水へ落ちた。後ろの二人も顔を見合わせ、籠と杖を放す。
「来た来たぁ!」
ミコが声を弾ませ、携帯を宗司へ向け直した。
「おじさん、今日の汚れは?」
「……ひとつです」
宗司は呼吸を整え――――。
「床が汚れる」
モップの先を水面へそっと置く。細い波紋が、息をひそめた沼へ静かに広がる。
「〈三層の毒〉、清掃します」
沼の水が、房の先へ向かってわずかに傾いた。
膜は、水面の下に立つ。水を割らず、波も立てず、水の中だけを通っていく薄い一枚である。
紫の筋が、膜に触れたところから、もつれた糸をほどくようにまっすぐになった。
まっすぐになった端から順に、房のほうへ静かに巻き取られていく。
絞る音は、水を隔てて、こもって聞こえた。
水は水のまま、砂は砂のまま、淡い光の底に残る。沼の面は、波ひとつ立てていない。
三人の腕に広がった紫は、すぐには消えない。だが、肘の上まで迫っていた線は、見えない壁にせき止められたように、ぴたりと止まる。
モップの房が一本、音もなく灰に変わる。
三十三本。
「水の中にも立つんだ、あれ」
「立ちます。水は割りませんので」
「……止まった、みたいです」
「毒は落としました。腫れは落とせません。人の体は異物ではないので」
「……じゃあ、痛いのは、まだ痛いままですか?」
楓の目のふちに、また水が溜まっていく。
「はい。薬は要ります。ですが、これ以上は増えません」
「ありがとうございます。増えないだけで、こんなに違うんですね」
「はい。増えないだけです」
三人が、そろって頭を下げようとする。
「あの、ありがとうございます。わたし、お金、いま」
「要りません。落としたのは私の都合です」
ミコが水面を覗きこむ。まだ膜の立った跡を探しているらしい。
「ねえ、割らないで毒だけ抜くとか、器用すぎない?」
「持ち込まれた物なら、こういうことは毎日ありましたので」
楓は言葉を飲みこむように下を向いている。細い肩が、こらえきれない何かを抱えて小さく震えていた。宗司はその震えを見ていられず、そっと目をそらし、モップの房をもう一度数える。
礼を言われるのは、たぶん十八年ぶりだ。その言葉が胸の奥に引っかかり、喉がうまく動いてくれない。
床を拭いても、誰も礼など言わない。汚れていない床は、はじめから汚れていなかったことになる。きれいであるほど、そこに清掃する者がいたことは消えていく。
けれどいま、腕を染めた紫は止まっている。自分が止めたという証が、目の前の人の体に、はっきりと見えていた。
その事実を心のどこへ置けばいいのか、宗司には分からない。ほかにできることが見つからず、房をもう一度、指先で確かめる。数は変わらないのに、胸の内だけが静かに揺れている。
◇
富永が逃げるように机をたたみ、帰ろうとしたとき、楓が痛む足に力をこめて立ち上がる。
「待ってください」
「なんだい」
「わたし、毎日ぜんぶ数えてるんです。潜った日と、沼の色と、売ってた薬の値段」
「だから?」
楓が息を吸う。胸の奥の震えを押さえこむような、深い息だ。人に向かって言うときの語尾が、初めて落ちない。
「わたしが数えました。四十日ぶん、全部です」
楓がノートを開く。びっしり並んだ小さな字へ、ミコが横から携帯を突っこんだ。
「あーれれぇ? 紫の日は七日。ぜんぶ三万円になってるじゃん」
「ちがいます。そこじゃないんです」
楓が、まだ痛みの残る震えた指で、日付の列をゆっくりなぞる。
「値札が三万円に変わったのは、毒が出た日の朝じゃありません。ぜんぶ、前の日の夕方です。七回とも」
「何言ってんだ! 色が変わってから上げたんだよ。商売だ」
「色も書いてます」
楓は視線をそらさず、隣の列を指先でなぞる。
「前の日の夕方は、七回とも、沼はまだ透きとおっていました。紫になるのは、いつも次の朝です」
沼のふちが、しん、と静まり返る。誰もが息を止めたような空気の中、水のかすかな音だけが、やけに大きく耳へ届いた。
「毒が出る前の日に、値段だけ先に上がってるんです。……なんで、わかるんですか?」
「し、知らんよ。勘だ」
富永が急いで逃げようとした時、澄んだ声が響いた。
「七回とも当たる勘は、勘と申しません」
八重樫の声が、いつのまにか楓の後ろから届く。
『は?』『知ってたってことじゃん』『通報でいいだろこれ』
『値札の推移、表にしてみた』『切り抜き作った』『あの子えらい』
富永の手から、たたみかけの机が滑り落ちた。床を打つ乾いた音が、沼のふちいっぱいに響く。
「富永さん。坑内での販売は許可制です。許可の停止と、事情の聴取をいたします」
「い、いや、ちょ、ちょっと待ってくれよ」
うろたえる富永。
八重樫は、いつ取り出したのか、すでに書式を一枚手にしている。
「机は、こちらでお預かりします。瓶の仕入れ先も伺いますので」
◇
八重樫が分室から応援を呼び、三人を慎重に運び出させる。腫れは、薬で明日には引くという。その言葉に、張りつめていた空気がようやくほどけた。
人の気配が遠のいたあと、宗司は静かに沼の縁へ膝をつく。
白い砂の中に、金属の欠片が半分だけ埋まっている。誘導灯を鈍く返す縁は、一昨日の札と同じ形をしていた。
「拭かないの?」
「これは、証拠なので。……この前、写してもらう前に落としてしまったので」
宗司は欠片に触れないまま、机を運ばせている八重樫を呼ぶ。
「八重樫さん。ここに、一昨日と同じ縁の欠片があります」
「動かさないでください。写します」
「あらら、おじさん、けっこう執念深いね」
「……もう上がっていいですか?」




