2. あれは我々の討伐です
六月四日、午前七時。
アパートの畳に座り、宗司は携帯の白い画面をじっと見つめていた。薄いカーテンを朝の光が透かし、窓の外から洗濯機の回る低い音が届く。よその部屋で今日も始まった、ふつうの朝の音だ。
ミコの配信についた数字は、眠っているあいだに七桁まで膨らんでいる。対して、宗司自身の清掃配信は七人のまま。昨日まで気にも留めなかった数字が、今日は妙に頼りなく見える。
『モップのおじさん』『名前まだ誰も知らない』『どうせ仕込みでしょ』『S級の子が撮ってるんだから台本だよ』
仕込み、と宗司は声に出してみる。狭い部屋に落ちたその言葉は、思ったより軽く、頼りなく響く。
そう決めつけられるほうが、宗司にとってもまだ楽だった。十八年、黙って床を拭いてきた男が急に強いより、誰かの書いた台本だと思うほうが、世の中の筋はきれいに通る。
家賃の引き落としは月末で、退職金は入らない。胸の奥がどれほどざわついても、だから今日も坑へ入る。数字が七桁になろうと、暮らしは待ってくれない。そこだけは、何ひとつ変わらない。
湯呑みの底では、茶渋が古い輪を作っている。親指で力を込めてこすってみても落ちず、ざらりとした感触だけが指先に残る。
◇
午前十時、ダンジョン管理局・第一坑分室。
蛍光灯の白さが紙の山を平たく照らし、紙と判と、乾いた朱肉の匂いがする。窓口の向こうには、髪をきっちりひっつめた女性が背筋を伸ばして座っていた。胸の名札に、八重樫千鶴とある。
「昨日の件で、確認いたします」
「はい」
「一層に九層の主が出た、というご申告ですが。制度上、それは起きません」
「出ました」
「起きないんです」
八重樫が判の柄を、こつ、と机で鳴らす。
「起きたものは、どう書けばよろしいですか?」
「書けません。様式がありませんので」
「困りましたね」
「困ります。ですので、作ります」
八重樫が引き出しから、白紙の用紙を一枚出した。
「作れるんですか?」
「作ります。作らないと、次に同じことが起きたとき、また受け付けられません」
「……ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはございません。仕事ですので」
八重樫は書類の束を机に軽く打ちつけ、指先でそろえる。白い紙の角だけが、気持ちいいほどぴたりと重なる。
「層をまたぐ移動は、二十年、一件も記録がございません。記録が無いということは、様式が無いということです。様式が無い出来事は、受け付けられません」
「……はあ」
「それから、蓬田さん。あなた、記録の上ではまだB級です」
「そうですね」
八重樫は判を持ち上げると、押すべき場所を探すように宙で止めた。朱肉の赤だけが、白い紙の上で所在なげに浮いている。
「B級の方がS級相当の魔物を落とすと、第十二条の三に触れます。触れますと、わたくしの残業が増えます」
「すみません」
「謝らなくて結構です。増えるものは増えますので」
八重樫の声は、最後まで波ひとつ立たない。怒ってもいなければ、面白がってもいなかった。ただ、判を持つ指だけが、まだ置き場を決められずにいる。
宗司は、自分の名前が書き込まれた欄を上から見下ろす。十八年のあいだ、書類の欄に自分の名が入ったのは、入社と退職のときだけだった。働き続けた時間は紙には残らず、始まりと終わりだけが記録として並んでいる。
まさか、こんな入り方をするとは思わなかった。手のひらは汗ばんでいるのに、指先だけがなぜか冷たい。
◇
そこへ、革靴の底を硬く鳴らして男が入ってくる。胸には〈白鏡〉の記章。さっきまで紙の音しかなかった分室の空気が、わずかに狭くなった。
「軸屋です。昨日の一層の件、あれは我々の討伐です」
「え」
「〈鉄喰らい〉の討伐報告を上げております。素材の角も、うちが回収します」
「……角は、初心者の子たちが持って帰りましたが」
「床にあった物は、拾った者のものでしょう。そして拾わせたのはうちだ」
軸屋は宗司を頭から靴先までなぞるように見る。値札を確かめるような、冷たく乾いた目つき。この目なら覚えがあった。十八年、廊下ですれ違うたび、そこにいない物を見るように向けられてきたものだ。
「あんた、清掃の人でしたよね。モップで九層の主が落ちるなら、うちの隊はいりません」
「一層の羽虫も落ちませんよ」
「は?」
軸屋の眉間に深いしわが寄る。八重樫も判を持ったまま、首は動かさず、顔だけをこちらへ向けた。
「羽虫は一層のものですから、落ちません。私が落とせるのは、そこに本来無い物だけです」
「口だけは達者だな」
「細かい仕事でしたので」
軸屋が鼻を鳴らして背を向ける。
「軸屋さん。ひとつだけ伺えますか?」
「なんだ」
「昨日、あの階に〈白鏡〉の方はいらっしゃいましたか?」
「いたら何だと言うんだ?」
言葉が口から出たあとで、宗司自身がいちばん驚いている。十八年、こういう一言は喉の手前で飲み込み、何もなかった顔をしてきたはずなのに。
今日は止まらなかった。その理由は、たぶん昨日から続いている。あの少女が撮ったものは、もう誰にも消せない。見えなかったことにされないのなら、自分まで黙って消える必要はない。
◇
午後一時、一層。
現場検証である。管理局から八重樫、〈白鏡〉から軸屋と隊員が二人。湿った冷気のなか、ばらばらの靴音だけが岩壁に返る。少し離れたところでは、ミコが携帯を構え、画面越しに全員を見張っている。
宗司は歩きながら、いつもの癖で床だけを見ていた。昨日、鉄喰らいが立っていた場所は、埃がいまも半円に薄い。重い物が乗れば、埃はその輪郭どおりに押し出され、時間がたってもしばらく戻らない。
床は正直だ。人と違って、口を閉ざしたままでも嘘はつかない。踏まれたことも、運び込まれたことも、薄い跡にして残している。
「ねえおじさん、あの人ずっと右手だけポケットに入れてるよ」
「……ミコさん、撮らないでください」
「やだ」
「昨日もそれを聞きました」
「何度聞いてもおんなじだよ。きゃははは」
軸屋が鋭く振り返り、間合いを詰める。そのまま宗司の胸を指で押した。骨に小さな痛みが走る。
「あんたの技能、名前は」
「【完全清掃】です」
「聞いたことがない。どうせ床を拭くだけだろう?」
「拭くだけです」
押された勢いに逆らわず、宗司は半歩だけ下がる。胸の痛みより先に、清掃員の目が動いていた。押してきた右手はポケットから出たばかりで、指の間には平たいものが挟まっている。
軸屋の指がひらく。そこだけが妙にゆっくり見えた。平たいものは指のあいだから抜け、するりと床へ落ちる。
札のような、薄い金属片だった。床に触れた瞬間、宗司の目には、それだけが周囲から浮き上がって見える。清掃を待つ汚れのように。
濡れ方が違う。この階層の水を吸っていない。床一面の湿り気になじまず、そこだけがよそから切り取って置かれたように見える。
「きた!」
ミコの弾んだ声が岩壁にぶつかり、坑の奥まで跳ねていく。
「おじさん、今日の汚れは?」
「……ひとつです」
宗司はモップを静かに持ち替える。使い込んだ柄の割れ目が、いつもの位置で手のひらに食い込む。その痛みが、浮つきかけた心を仕事の形へ戻してくれた。
「床が汚れる」
「待て、それは――」
「〈持ち込まれた札〉、清掃します」
房が、床すれすれを一直線に走る。
水気が一線へ寄る。今度は坑ひとつぶんではない。札のまわりの、手のひらほどの湿りだけが、すっと引かれていく。
弧の通り道に、指の幅ほどの膜が立った。
鉄喰らいのときの一枚とは、比べものにならない。細くて、短くて、瞬きのあいだしかもたない膜である。それでも、立ち上がる形は寸分たがわず同じである。
その膜が札を渡ると、表を覆っていた模様が、貼り紙を剥がすように面から浮き、そのまま房へ吸い込まれていく。
濡れた布を固く絞る音が、ギュゥッと小さくひとつ。
指の先ほどの金属の芯だけが、床に残る。坑の岩床には、細い傷ひとつ付いていない。
役目を終えた房が一本、さらりと灰になって落ちた。残るのは三十四本。
灰は少しも熱くない。指でつまめば、乾いた紙のようにあっけなく崩れる。けれど、減った一本は二度と戻らない。その軽さだけが、手の上では重い。
「……いまの、膜みたいなの」
「はい」
「あれ、昨日も出てた。編集じゃ作れないよ、あんなの」
「作れる方がすごいと思いますが」
「作れないものを出す方がすごいの。だから撮ってるの」
ミコが画面をこちらへ向けてくる。同じ場面が、もう何度も繰り返し流れている。
「……もう上がっていいですか?」
「まーだ! ここから面白いんだから。くふふふ」
「面白くなくていいんです。私は帰りたいので」
「知ってる。見てよ、この数字。どうよコレ?」
「見たくありません」
「はい、じゃあ見よっか」
ミコが携帯を高く掲げ、さっきの映像を巻き戻す。画面の白い光が、集まった顔を下から照らした。四分の一の速さになった映像で、軸屋の右手だけが逃げ場を失ったように大きく映る。
ポケットの暗がりから出てくる手。その指の間に、平たいものがはっきり挟まっている。見落とせるほど速かった動きが、今はひどくのろい。
その手のまま、宗司の胸を押している。指の間の札は、もう隠れようがない。
「握ってるあいだは拭けないんだよね、おじさん」
「……はい。人と、人が握っている物は落ちません」
「じゃあ落ちたってことは、指をひらいたってことじゃん。ポケットに札を入れて一層に来た人が、いるってことじゃん」
「軸屋さん。落とし物ですよ」
「し、知らん……」
軸屋の靴の先が、半歩だけ後ろへ下がった。
「知らない物を、ポケットに入れて坑へ入られたんですか?」
「うるさい」
『えっ』『持ち込んでたの?』『昨日のボスもそれか』『ふざけんな』『初心者の階だぞ』
コメントの流れる速さが、目に見えて変わる。疑いの言葉が押し流され、代わりに怒りが画面を埋めていく。
軸屋の顔から、血の気が波のように引いていった。その隣で八重樫は眉ひとつ動かさず、芯の前にしゃがむ。定規をぴたりと当て、角度を変えながら写真に収めていく。
「軸屋さん。昨日の討伐報告、取り下げますか?」
軸屋の喉が大きく上下する。誰も急かさない沈黙が、湿った坑の空気より重くのしかかる。
「……報告は、こちらの手違いでした。取り消させていただきます」
「では、その旨をこちらへ。判はご自分で押してください」
軸屋の手は、判を持ったまま二度すべった。さっき宗司を押した指が、今は紙の上で震えている。
八重樫は芯を紙の上へそっと載せ、端をつまんで光にかざす。削れた表面を追う目だけが、鋭く細くなった。
「……番号の彫ってあった跡があります。削られていますね」
「削ってあると、追えないんですか?」
「追えません。ですので、書式がありません」
「作られるんですか?」
「ふぅ……作ります。徹夜になります」
八重樫は芯を小さな封筒へ入れ、封に判を押す。乾いた音が、決定のように坑へ響く。これで芯は管理局の持ち物になり、誰かが無かったことにはできない。
八重樫が膝の埃を払いながら立ち上がる。宗司も、手の上の灰を見届けてからモップを肩に担いだ。
「それと、蓬田さん。次からは、わたくしが写すまで待ってください」
「はい。すみませんでした」
「謝らなくて結構です。ただ、あなたが落とすと、証拠が減ります」
八重樫が封筒の角をそろえる。
「気をつけます」
「気をつけていただかないと、わたくしの残業がまた増えますので」
「……はい」
「昨日と今日で、二度です。二度目からは、偶然と申しません」
その一言は大きな音も立てず、宗司の腹の底へ静かに落ちてきた。信じるとも、褒めるとも言われていない。それでも、長く積もった見えない埃の下から、自分の仕事を拾い上げてもらえた気がした。
偶然でないなら、誰かがやっている。誰かがやっているなら、明日も起きる。初心者たちの足もとに、また本来無い物が置かれるかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥に残っていた小さな安堵が、冷たいものへ変わる。
坑の階段を上がりながら、宗司は房を数え直す。三十四。肩にあるはずのモップが、来たときより重い。明日も、明後日も、この数から始まる。そして誰かが汚すたび、戻らない房を使うのは自分なのだ。




