1. クビと、廃棄モップ
六月三日、午前八時。
クランハウスの地下にある清掃控室には、窓がない。天井の蛍光灯がひとつ、じじ、と虫の声のように鳴り続ける。壁ぎわには洗剤の缶が並び、乾ききらない雑巾の湿った匂いが、十八年ぶん、床の奥まで染みこんでいる。
この匂いを、蓬田宗司は嫌いではない。誰もわざわざ来ない部屋の匂いであり、自分に何かを求めない場所の匂いだった。
「蓬田。今日で終わりだ」
運営部長の梶原が、書類を一枚だけ机へ滑らせる。視線は紙に落ちたまま、宗司とは合わない。
「……はい」
「うちの人員評価は、討伐数と素材の持ち帰り量で出る。おまえの欄は十八年ぶん空白だ」
「床には、書く欄がありませんので」
「そういうところだよ、おまえは」
梶原の指が、こつ、と机を二度叩く。静かな部屋では、爪の音ばかりがやけに固く響いた。宗司はその指を見る。この人の手はもう、荒れていない。
「清掃しかできないB級は、うちには要らない」
蓬田宗司は四十歳になる。この地下室へ十八年、同じ階段を下り続けている。清掃班は九人で始まり、四年前に二人になり、去年から宗司ひとりになった。空いた棚を拭き、余った長靴を片づけるのも、残った宗司の役目である。そして今日、とうとう誰もいなくなる。
技能のことは、十八年のあいだ一度も口にしていない。話したところで、報告書のどの欄にも収まらず、床の染みより簡単に、無かったことにされるだけだからだ。
不思議と、腹は立たない。怒り方を、誰にも見えない床を磨く途中で、たぶんどこかへ置いてきてしまった。
代わりに、胸のあたりへ鈍い重さが沈んでいく。悔しさというより、最後まで仕上げるつもりだった大きな仕事を、途中で取り上げられた感じに近い。
「梶原さん」
「なんだ」
「三階の東側、水拭きだけだと来週かびます。誰か回してもらえますか?」
「知らん」
梶原は書類の角をきっちりそろえる。宗司の言葉まで紙の外へ押しやるような手つきである。視線は、まだ合わない。
「排水の枡も、月に一度は上げないと詰まります」
「知らんと言った」
「……分かりました。引き継ぎ書は、机に置いてあります」
「要らん」
宗司は、それでも封筒を机の端へ置く。
「十八年ぶんの引き継ぎ書です」
「そんなものが要る仕事か」
「要ります。床は毎日汚れますので」
「要らんと言った」
梶原の眉が、ほんの少しだけ動く。それから、聞かなかったことにするように壁を顎で示す。
柄の割れたモップが一本、廃棄の札を貼られて壁に立っている。房はまばらに欠け、乾いた先が力なく床へ垂れていた。
「これ、退職金の代わりだ」
「……ありがとうございます」
宗司は札を丁寧に剥がし、房を指で分けて数える。数えるのは癖である。二十二のとき、班長の土門に「道具の残りを数えん奴は現場に入るな」と言われて以来、何を手にしても欠かさず数えている。
三十六本。新品なら五十本あるから、十四本すでに欠けている勘定になる。替えはない。廃棄品には、替えを用意するという考えそのものがない。
柄の割れ目に指を沿わせると、ささくれが手のひらの皮に引っかかる。十八年で厚くなった皮である。評価表には書かれない。それでも、この皮だけは誰にも取り上げられない。
「梶原さん。最後にひとつ」
「まだあるのか?」
「地下の水を止めるときは、東の弁から先に閉めてください。西から閉めると、管が鳴ります」
「……もう関係ないだろう、おまえには」
「はい。関係ありません」
言ってから、そのとおりだと胸の内でもうなずく。関係が無くなるというのは、心配する権利まで、いきなり手の中から抜け落ちることらしい。
◇
正午、〈第一坑〉の一層である。
初心者が最初に潜る坑で、天井は頭を押さえつけるように低く、むき出しの壁はいつも濡れている。灯りは十歩ごとの誘導灯だけ。その間には、自分の影が黒い水のように足元へ溜まる。空気は肌を刺すほど冷たく、鉄と水苔の匂いが舌の奥に残った。
宗司は携帯を平らな岩棚に立てかけ、配信の開始ボタンを押す。画面に赤い印が灯ると、誰もいないはずの坑が、急に人前の場所へ変わる。
視聴者、七人。
「はじめまして。清掃配信です。床を拭きます」
誰も何も言わない。宗司は乾いた喉を鳴らし、構わずモップを構える。握り慣れた柄の感触だけが、いつもどおりだった。
「私の技能は【完全清掃】といいます。条文が五つあって、頭はこうです。――第一条 清掃できるのは〈異物〉だけである。異物とは、その階層に本来無いものをいう。……つまり、ここの物は落ちません」
足元を、青白いスライムが水滴のように跳ねていく。
「たとえば、あれは拭けません」
宗司は一歩下がる。スライムが弾みながら、もう一歩寄る。宗司はそのぶん、もう一歩下がる。
一層のスライムは、一層のものである。どれほど邪魔でも、ここにいるのが正しい以上、異物ではない。
宗司は、雑魚を一匹も倒せない。
『は?』『逃げてて草』『どうせ台本でしょ』『清掃の人が逃げるな』
コメントが四つだけ画面を流れ、すぐにまた止まる。さっきより重くなった静けさが、坑の冷気に混じっていた。
「……そうですね。逃げています」
『なんで倒さないの?』
「倒せないんです。あれは一層のものですから」
コメントが、少しだけ増えている。
『じゃあ何ができるの?』
「床が拭けます。それだけです」
宗司はモップを持ち直した。
『それだけ?』
「それだけです。ですが、拭かないと誰かが転びます」
房の先が、濡れた岩を撫でていく。
『地味すぎる』
「地味です。十八年、地味でした」
『じゃあボスとかは?』
「落とせません。ボスも、その階層のものですから」
コメントの流れが、少しだけ速くなる。
『えー』
「ただ、その階層に居てはいけない物なら、話は別です」
『そんなの出るの?』
「出ないことになっています。二十年、一度も記録がないそうです」
誰も答えない。宗司は胸の奥で、そっと息を吐く。誰にも見られない仕事を十八年してきた。急に見られれば、たぶん手元が狂う。
「今日は、入口から三十歩ぶん拭きます。では」
モップを引く。濡れた岩の上を房が低い音を立てて滑り、泥と苔の薄い膜が、まっすぐな線になって消えていく。
『これ何が楽しいの?』
「楽しくはないです。ただ、拭かないと誰かが滑ります」
『滑るの?』
「滑ります。去年、うちの隊が三人やりました」
◇
午後一時。
悲鳴が、冷たい空気を切り裂いて通路の奥から走ってくる。
声を追って走ると、若い三人が壁際で身を寄せ合うように固まっていた。先頭の娘が両手を広げ、後ろの二人を背にかばっている。逃げたいはずの肩が、浅い息に合わせて小さく上下していた。
その向こうでは、鉄色の塊が通路を塞いでいる。
角が一本。天井すれすれの背丈で、角の先が岩をこするたび、白い粉がぱらぱらと落ちる。床はそいつの体重を受けて、みしりと苦しげに鳴った。息を吐くたび、熱く重い風がこちらまで押し寄せる。
「……〈鉄喰らい〉」
九層の主である。一層にいるはずがない。いていいはずもない。
「逃げてください」
「む、無理です、足が」
「では、動かないでください。そのまま、息だけしていてください」
娘の声は震えている。それでも、広げた腕は震えていない。声だけが先に折れて、体のほうが残っているように見えた。
そのとき、宗司は通路の先、三十歩ばかり向こうに人影を見つける。
ふたつ結びの少女が、壁ぎわに立って携帯を構えている。暗がりの中で、携帯の画面だけが白く光る。通路はそこから一直線で、鉄喰らいの背も、宗司の顔も、まっすぐ画角に入っているはずである。
逃げてはいない。腰は低く落ち、いつでも飛び出せる姿勢だ。携帯を握る手も、少しもぶれていない。
だが、少女から鉄喰らいまでは十歩ほどある。その十歩を詰めるより先に、あの角はもう一度振られる。
少女はカメラをこちらへ向けたまま、坑の奥まで届く声を張り上げる。
「きた!」
少女の声が低い坑の天井へぶつかり、鋭くはね返る。
宗司は、柄の割れ目が手のひらに食い込むほどモップを握り直す。カメラのことは、あとで考える。今は、目の前の仕事だけでいい。
鉄喰らいの足元だけ、埃の流れが周りと違う。九層の砂を踏んだ足が、ここへ入り込んだ向きに、灰色の埃を押し出している。
目が、勝手に見つけてしまう。十八年、床ばかり見てきた目である。磨くべき汚れも、ここにあってはならない物も、この目だけは見落とさない。
「床が汚れる」
そう言って、宗司は前へ出る。胸の底に沈んでいた鈍いものが、ようやく仕事の形に戻っていく。
「〈九層の主〉、清掃します」
ひと振り。
坑じゅうの湿りが、いっせいに同じ向きへ寄った。壁を伝っていた水も、床のくぼみに溜まっていた水も、天井から落ちかけていた雫までが、宗司の引いた一線へ吸い寄せられていく。
乾ききっていた房が、水を吸ってみるみる重くなる。手首に、その重さがずしりと乗る。
そして、房の描いた弧が、そのまま床から立ち上がった。
水拭きの跡が音もなく起き上がったような、薄い一枚。向こう側の岩肌が、濡れたガラスごしにゆらりと滲んで見える。
膜が、鉄喰らいを渡っていく。
渡られたところから、九層の主は〈汚れ〉になった。鉄色がすうと抜け、天井をこすっていた角の付け根が、大きな布に押されたようにたわむ。暴れもしない。爪も牙も間に合わない。落とされているのは痛みではなく、この階に居るという事実のほうだからである。
グ、グォォォォォ!!
剥がれたものが、断末魔の叫びを放ちながら渦を巻いて房の中へ吸い込まれていく。
ギュゥッ……。
濡れた雑巾を固く絞る音が、坑にひとつだけ、短く響いた。
落ちるのは〈異物であること〉だけで、素材は床に残る。
床に、角が一本。洗いたてのように濡れて、汚れひとつなく、まるで最初からそこに置かれていたように真っすぐ横たわっている。
宗司はモップへ目を落とす。房が一本、灰へ変わって床に落ちる。手の中の重さが、ほんの少しだけ軽くなった。
残り三十五本――――。
「なにそれ! いまの、なに!」
少女がこちらへ走ってくる。片手に携帯を掲げ、もう片手を大きく振り回している。誘導灯の下を抜けるたび、ふたつ結びの髪が跳ね、明るい茶に光る。
「清掃です」
宗司は房を握ったまま、返事の続きを探している。
「清掃じゃないでしょ! 水が壁から剥がれてボスをモップが吸い込んだよ!」
「拭くときは、ああなります」
「ならないってば!」
少女の声が、坑の壁を伝ってくる。
「なりますよ。廃棄品でも、水は吸いますので」
「ボスは水じゃないでしょ?!」
「じゃあ、見間違いってことで……」
「無理無理! ぜんぶ映ってる! 最初から!」
「……あの、それは」
「配信。あたしの。いま十一万人! くふふふ」
「十一万?」
「うん。さっき七万だったんだけど!」
少女は画面をこちらへ向けたまま、指先で何かを叩いている。
「あのぉ……顔は、映さないでいただけますか?」
「むり。おじさんの顔がいちばんウケてる。キャハッ」
「困りました」
「困っていいよ。困ってる顔がいちばん伸びるんだから。くふふふ」
少女は画面を見せてくる。数字がまだ増えていた。
「あの、これ、止める方法はありますか?」
「ないよ。生放送だもん」
「……止まらないんですね」
宗司の膝から、力が抜けそうになる。十八年、誰にも見せずに済ませてきた仕事である。それが今、顔も知らない人たちの目へ、むき出しのまま渡っていく。
「消してもらえませんか?」
「やーだ」
即答だった。少女はためらいも悪びれもせず、携帯を宗司の顔へ向ける。
「あたしミコ。S級よ? 十六歳。で、おじさん誰?」
「……清掃員です」
「元、でしょ」
「……元、清掃員です」
ミコが満面の笑みを見せる。けれど次の瞬間、その笑みをすっと引っ込め、真顔になって聞く。
「おじさん、今日の汚れは?」
「……ひとつです」
『切り抜き作った』『モップ買ってくる』『どこのモップ?』『明日も来るわ』
コメントが滝のように流れていく。宗司はその勢いに押されるように目をそらす。見られるというのは、こんなにも息のしづらいことだったのか。褒められているのに、逃げ場を探す自分がいる。
壁際の娘は、まだ立てずにいる。土で汚れた手で、膝の上の小さなノートに何かを書きつけていた。土のついた指のまま、書く手だけは止まらない。
「……なにを書いているんですか?」
「じゅ、十三時二分。九層の主。モップ。……あの、わたし、毎日ぜんぶ書いてるので」
「毎日、ですか?」
「はい。三十七日ぶん、あります。……役に立つとは思ってないんですけど」
「役に立ちます」
娘が弾かれたように顔を上げる。目のふちは赤い。何か言いかけて、その目だけが揺れていた。
「数えた人だけが、あとで言えます」
宗司は角を抱えて持ち上げ、娘の足元へそっと置く。ずしりとした重さが床から靴底へ響いた。持ち上げたぶんだけ、腰も鈍い痛みで返事をする。
「あなたたちが最初に見つけたものです。持って帰ってください」
「え、でも、倒したのは」
「持ち主は、先に来た人です。そう決まっています」
娘が首を振る。
「でも、蓬田さんが倒したのに」
「私は拭いただけです。倒してはいません」
「同じじゃないんですか?」
娘の声が、初めて震えなかった。
「違います。私は、あなたたちが逃げる時間を作れなかった」
「決まってるって、誰が決めたんですか?」
「昔、班長がそう言っていました。床に落ちている物は、先に見つけた人のものだと」
娘が何か言いかける。唇だけがかすかに動いたものの、声にはならない。
「明日もやろ。あたし、毎日撮るから。キャハッ!」
ミコが横からノリノリで突っ込んでくる。
「ええっ!? 断ってもいいですか?」
「だーめ! もう十一万人が待ってるもん」
ミコが指を折って何かを数えている。
「あのぉ……私は待たせた覚えがないんですが……」
「そういうところが伸びるんだよ、数字。くふふふ」
「はぁ……もう上がっていいですか?」




