酒の夜の告白
詩乃の「グイグイ」は全く止まる気配がなかった。
毎日のように会社の近くで待ち伏せしたり、メッセージを送ってきたり、「今日のランチ、一緒にどう?」と誘ってきたり。
蒼はいつもと同じように、穏やかだが冷たく、断り続けた。
「すみません、仕事が」
「今日は予定が」
「また今度」
でも、心の中では少しずつ揺れていた。
詩乃の笑顔が凛に似ているたび、胸が痛くて、温かくて、切なくて。
彼女の明るい声が、灰色の日常に小さな光を灯す。
一緒にいると、少しだけ息がしやすくなる。
でも、すぐに恐怖が襲ってくる。
この人を好きになったら、また失うかもしれない。
新しい絆を作ったら、凛の記憶を薄めてしまうかもしれない。
忘れたくない。
失いたくない。
愛したいのに、愛せない。
その板挟みに、蒼は夜毎一人で苦しんでいた。
酒を飲む量が増えた。
アパートに帰って、缶ビールを何本も空けて凛の写真を眺め、「ごめん」と呟く。
そんなある夜、蒼はバーで、深く飲んでいた。
カウンターに突っ伏すように座り、ウイスキーをストレートで煽る。
そこに、詩乃が現れた。
「蒼さん!こんなところで会うなんて、縁がありますね!」
いつもの明るい声。
蒼は酔いのせいか、いつものように逃げなかった。
詩乃は隣に座って、
「一緒に飲んでいいですか?」
と笑った。
蒼は無言で頷いた。
二人は、静かに飲み始めた。
詩乃は他愛ない話をした。
仕事のこと、最近見た映画のこと、好きな食べ物のこと。
蒼は、ほとんど相槌だけ。
でも、酒が進むにつれ、蒼の口が少しずつ開いていった。
「蒼さん、いつも遠慮してるみたいだけど、私、何か嫌なことしましたか?」
と、真剣な目で聞いたとき。
蒼はグラスを握りしめて、ぽつりとこぼした。
「……違う。君は、昔の大事な人に似てる。
三年前、事故で失った恋人に」
詩乃は黙って聞いていた。
蒼は酒の勢いで、初めてすべてを話した。
凛との出会い、幸せな日々、突然の事故、病院で握った冷たい手、それからの喪失の恐怖。
「誰かを愛したら、また失うかもしれない。
大切に思ったら、また引き裂かれるかもしれない。
そう思うと、怖くてたまらない…
だから、関われない。
君に近づいたら、また同じことが起こるかもしれない。
それに……新しい人を好きになったら、あいつの記憶を上書きしてしまう気がする。忘れたくない。
あいつのことを、胸から消したくない」
声が震えていた。
涙がグラスにぽたりと落ちた。
詩乃は静かに、蒼の手をそっと握った。
「蒼さん……そんなに苦しんでたんですね。ごめんなさい、グイグイ来すぎて。
でも、話してくれて、ありがとう」
詩乃は優しく、でもまっすぐに言った。
「私は、凛さんじゃない。でも、蒼さんが凛さんを愛していた気持ちは、ちゃんとわかる。
忘れるのが怖いのも、失うのが怖いのも全部、愛してた証だよ。
でもね、新しい人を愛しても過去は消えない。
凛さんのことは、ずっと蒼さんの胸の中にいる。それは変わらない。
私と話すことが、凛さんを裏切ることにはならないよ」
蒼は詩乃の手の温もりに震えた。
初めて誰かに、すべてを話せた。
詩乃は続けた。
「私は、蒼さんのペースでいいから傍にいたい。
友達としてでも、それ以上でも、蒼さんが決めてくれればいい。急がなくていい。
ただ、一人で苦しむのは、もうやめてほしい」
蒼は言葉を失った。
ただ、詩乃の手をぎゅっと握り返した。
その夜、二人は遅くまでバーにいた。
蒼は初めて、少しだけ心を開いた。
トラウマは、まだそこにある。
喪失の恐怖も、忘れることへの不安も。
でも、詩乃の温もりが灰色の世界に、確かな、小さな光を、灯した。
詩乃のグイグイは、これからも続く。
蒼は、まだ逃げそうになるかもしれない。
でももう、完全に閉ざすことはできなくなっていた。
詩乃の笑顔が、凛の影を優しく包みながら、新しい朝を少しずつ近づけていた。




