似てしまった影
蒼は、三年前の事故から、変わらず一人で生きていた。
毎朝、同じ時間に起きて、同じルートで会社へ行き、同じ席でデスクワークをし、同じ時間に帰宅する。休日は、スーパーで買い物をして、アパートで静かに過ごす。
誰とも、深く関わらない。
それが、彼の、守るためのルールだった。
ある春の夕方、蒼は、いつもの小さなカフェに入った。
仕事帰りに、コーヒーを一本買って帰るだけの場所。
カウンターで注文を待っていると、隣に、一人の女性が立った。
「すみません、そこの砂糖取ってもらえますか?」
声が、柔らかくて、少し上ずったような、懐かしい響きだった。
蒼が顔を上げた瞬間、息が止まった。
彼女は、亡くなった恋人——凛に、よく似ていた。
髪の長さ、笑うときの目尻の皺、少し首を傾げる癖、声のトーンまで。
似すぎていた。
蒼は、無言で砂糖を渡した。
女性は、「ありがとうございます!」と、明るく笑って、名前を名乗った。
「私、詩乃って言います。このカフェ、初めてなんですけど、おすすめのコーヒーありますか?」
蒼は短く、「ブラックが、無難です」と答えて、自分のコーヒーを受け取り、すぐに店を出た。
心臓が、鳴り止まなかった。
似ている。
あまりにも、似ている。
でも、違う人だ。凛じゃない。
だから、関わるな。
いつか失うくらいなら、始めからいらない。
忘れるくらいなら、新しい人を、愛さない。
蒼は、その日から、カフェに行く時間をずらした。
でも、運命はそんな蒼の逃げを、許さなかった。
一週間後、会社の近くのコンビニで、また詩乃に遭遇した。
「わあ、また会いましたね!縁があるのかな?」
詩乃は、グイグイと話しかけてきた。
蒼は、「偶然です」と冷たく答えて、会計を済ませて出ようとした。
でも詩乃は、
「お一人ですか?よかったら、一緒にコーヒーでもどうです?私、この街まだ慣れてなくて、誰かと話したくて」
蒼は断った。
「すみません、予定が」
でも、詩乃はめげなかった。
「じゃあ連絡先だけ!また会えたら、お話ししましょう!」
名刺のようなものを渡され、蒼は受け取るしかなかった。
それから、詩乃の「グイグイ」は始まった。
会社の近くで待っていたり、偶然を装って声をかけてきたり、メッセージを送ってきたり。
「今日もお疲れ様です!」
「このお店、おすすめですよ」
「週末、何か予定ありますか?」
蒼はいつも短く返事をして、距離を保とうとした。
心は惹かれていた。
詩乃の笑顔が凛に似ているたび、胸が痛くて、温かくて、怖かった。
似ているから、好きになりそう。
でも、好きになったら、また失うかもしれない。
新しい人を愛したら、凛の記憶を上書きしてしまうかもしれない。
忘れたくない。失いたくない。
だから、関わらない。
でも、詩乃はそんな蒼の心の壁を、お構いなしに、明るく、グイグイと崩しに来た。
「蒼さん、なんかいつも遠慮してるみたいだけど、私のこと…嫌いですか?」
ある日、直接聞かれた。
蒼は初めて、少しだけ本音をこぼした。
「……人付き合いが、苦手で」
詩乃は笑って、
「じゃあ、私が慣れさせてあげます!」
蒼は、逃げ続けた。
でも、心のどこかで詩乃の明るさが灰色の世界に、小さな、でも確かな、色を加え始めていた。
似ているから怖い。
似ているから、惹かれる。
失う恐怖と忘れる恐怖の間で、蒼はまだ揺れていた。
詩乃のグイグイは止まらない。
蒼の壁は、少しずつ音を立てて崩れ始めていた。
この出会いが蒼の転換になるのか。
それとも、また逃げてしまうのか。
蒼の心はゆっくりと、動き始めていた。
詩乃の笑顔が、凛の影を優しく重ねながら、
新しい光を灯し始めていた。




